パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「みんなと同じで安心!」は良いのだろうか?

2023年06月30日 08時59分37秒 | あれこれ考えること

「みんな」という概念が、解説本には丁寧に扱われていたハイデガーの「存在と時間」
つい現代社会を想定して読んでしまうが、連想したのは今の日本のこと

日本の社会は、神に対峙するより世間様にどう思われるかが判断の基準となる
そしてその世間様とは漠然とした多くの人の認識(思っていること)のことで
それを絶対視しているところが、日本の社会だ

食べ物とかスポーツ選手とか音楽などの感性による好き嫌いは
皆と同じである必要は無いのだが
日本では(偏見を恐れずに言い切ってしまうと)
多くの人が支持しているということが絶対的価値であるような気がする

ビールのスーパードライが旨いというのは個人の好みで違うと思うが
辛口イコール旨いとか、ベストセラー商品は旨いということが
まるで既成事実のように扱われている

そこには自分がうまいと感じているからではなくて
みんながそう言ってるから旨いと思わなければ自分の感覚に不安を覚えるかのようだ
(ちなみに自分はスーパードライは好みのビールではない
   多少高いが最近はスプリングバレーが旨いと感じている)

サッカーにおいても、どうしてそんなに敵味方と分けるのか不思議で仕方ないが
ヨーロッパの先のシーズンで活躍した三笘と久保について
日本での報道は三笘が圧倒的で主流は彼の方になる
この状況で見えてくるのは主流である三笘を賛美し、同等の活躍をしている久保を
けなす人が信じられないくらい多いということだ
(報道の少ない久保を支持すると、サッカーを知らない人と思われる不安があるのだろうか)

(また、メディアは大谷の活躍を異様に取り上げているが
 これに違和感を感じて口にする人はいるだろうか
 いたとして、その人はどのようなバッシングを受けれるだろうか)

人は自分が多くの中のひとりでいることで安心するようだ
そこで連想したのが、自民党が選挙でどうして勝ち続けるのかという点
自民党としては普段の活動とか政策が良いからと言いたいところだろうが
実は数多くの人に支持されているように見えるからなのではないか

実態として本当に多くの人に支持されているか分からない(投票率も低いので)が
とりあえずは限られた条件下では自民党は多数の支持を受けているように見える
自分の判断に自信が無いとか、責任は負いたくないと思う人は
多くの人(みんな)と同じ行動をすることで安心する

つまり実態は、現在多数を占めているから支持しているだけのような気もする

こうしたことはベストセラーの書籍やCDを購入したり
有名な飲食店を巡る行動にもつながる

自分は本やCDなどは内的な衝動から手にすることが多いが
多くの人は自分と同じばかりでななさそうで
みんなと同じことを異様に求めるようだ

みんなの中にいて責任を負わないで安心していられる社会
これはある程度の人がそうなるのは仕方ないとしても
いわゆる知識人と言われる人がそれに対してアンチの行動を起こさないと
ヤバいことになりそう、、と思ったりする

ということで、いつものまとまりのない話


コメント
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