パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

黙って我慢は良いことか?

2022年03月07日 15時18分08秒 | あれこれ考えること

ロシアのウクライナ侵攻に対するデモが日本でも行われている
日本国内でのデモが現実的に有効か、クソにも役立たない!
という口の悪い人がもいたが、概ねこのデモは肯定的に受け入れられている

だが同じデモでも、オリンピック反対とか原発反対といったテーマの場合
同じように肯定的な受け入れ方をするだろうか

思い込みかもしれないが、デモに対する日本人の感じ方は
先のNHKの虚偽の字幕がそれとなく暗示させるような
「デモはあまり好ましいものではない」という大きなくくりの中にないだろうか

デモは社会運動だが、そもそも社会運動という言葉は支配権力に抵抗する民衆運動
労働運動のことを意味していた
それがいつからか、社会運動に抵抗という概念を失い社会参加という程度の
意味合いしか持たなくなった
そして、現在では堂々と抵抗の言葉を吐くことは勇気のいることになっている
以上の解説は「マルクスを再読する」の中に書かれていたものだが、自分の実感に近い

なんとなく空気に染まり皆でやることは問題ないが
少ない人数で行う行動(何事も最初は少人数からスタートする)は
いくら正当な行動であっても面倒な行為(面倒くさい連中の行為)と思ってしまうこと
この雰囲気的なものがとても怖い

現在のプーチンはおそらく独裁、あるいは全体主義に近い気がする
(全体主義の定義から外れるかもしれないが)
今どうなっているのか?
と同時に
何故そんな状態になってしまったのか?
という問はとても気になるところだ

だがそこには「住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していること」で
それを可能にしていると解説した人がいる
ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」(3)がそれで
以前にも紹介したことがあるがこのように書かれている

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。
その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。
ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。
全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。

周りくどい表現だが我慢して読み解くと、現在でも、いや今こそ役立つメッセージだ思う
人が過去の出来事から何かを学び、今に活かすのが知恵とするなら、ここからは
「人は声を出せる時に出しておかないと酷い状況を招いてしまう」
という歴史的教訓の認識を持つべきだと思う

デモをしないのはある程度覚悟がいるので仕方ないとしても
自分の考えを口にしない、自分の考えさえ他人の考えの借り物
それ以前に無関心の状態というのは、、、想像力の欠如
そして、それは人間性の喪失に繋がりそうでとても深刻な問題と思える

現在の不安はプーチンだけでなく、口から出るものだけは勇ましいこの国の
発信力のある人々にも覚えてしまう
だからこそ今のうちに「NO!」と声をあげようと思う

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地元にもサイバー攻撃が

2022年03月05日 09時10分28秒 | 徒然なるままに

世界ではロシアのウクライナ侵攻以後、互いの陣営とかアノニマスによる
サイバー攻撃が話題となっているが、サイバー攻撃が身近なところであった

自分が利用している地元東三河のブログサービス「どすごいブログ」がその標的になった
二三日前、ログインしようとしても画面が少しも動かない
システムのトラブルか、、そのうち直るだろう!
と思っていたが一向にその状態からは変化はない
流石に変だなと思っていると、あるSNSで「どすごいブログ」がサイバー攻撃
を受けたとの投稿があった

何でこんなところにも?
そんなに大きくもないところに悪さをして、何が気持ちいいのだろう
お金を要求するようなことがあったのかどうかは知らない
だが、「世の中には理解できない行動をする人が存在する」
ことを改めて実感することになった

変な喩えだが、生き物が生き延びるためにはいろんな可能性を残しておくのは
現実的な方法らしい
ウイルスのコピーミスによる変異も、その一つのようで、これはどうやっても
ストップできないようだ
人の中にある「悪意」の存在も似たようなものかもしれなくて
理性による善悪の判断以上のもっと別の力が働いているような気さえする

そう考えると無力感を覚えないではないが
それでも「ダメなものはダメ」と断言していかないと
そして自らの生活を守るための決まりやら行動をしないと
世の中は混乱の世界が存在することになってしまう

おそらくどんな人の中には「良い部分、悪い部分」が同居する
それが人という生き物だが、できればいつも「良い部分」が心の葛藤の中で
勝利を収めるように自分を訓練していかないとマズイと思う

もっとも、善悪を決めるのは誰なのか?
自分の判断がいつも正しいのか?
といった根本的な問題が出てくるかもしれないが
大枠は自然法的な常識に委ねるしかない

今回のプーチンの行動は、人の中に潜む怖さを感じた次第
サイバー攻撃から話は逸れてしまったが、、

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「徴候的読解」という言葉を知った

2022年03月04日 09時47分13秒 | あれこれ考えること

いつも本質とは離れたところが記憶に残る読書
昨日取りあげた「マルクスを再読する」の中でも印象に残る部分があった
その部分の抜粋は

徴候的読解  「マルクスを再読する」48ページ

私たちは、ある著作を読むときに、その著作が書かれた時代の言葉を丹念に探りながら、著者の言おうとしていることを理解しようとします。これは普通の理解の仕方です。しかし、著者は、自分の言いたいことを全て文章で表現しえているわけではありません。

自分が本当に言いたいことをなんとか理解してほしいと、それを行間に込めているのです。けれど読者の能力が低いと、それが理解できないのです。しかし、賢い読者は、この徴候的に示されている著者の意図を察して、本当に言いたいことを理解するのです。これが徴候的読解です。ただしこれは徴候的読解の初歩的段階で、ここまでなら、ある程度の頭脳を持った人間ならできるわけです。

徴候的読解の最も高い段階では、著者が文章にも書いていないし、行間にも込めていないことを、読者が読み取ると言う行為が成り立ちえるわけです。文章にも書いていないし、行間にも込めていないことを、読者が著者に代わって著者自身の本当の意図として理解してしまう、と言うことです。

これを文章ではなくて楽譜に置き換えると興味深い
クラシック音楽は再現芸術で、奏者は皆同じ楽譜を見て自己独自の表現を試みる
その時の心情は、自分は奏者ではないので想像するだけだが
書かれたものを完璧に演奏したいと考える人
自分はこう表現したい!と言う方向に向かう人
一体作曲家は何を表現しようとしていたのか!
の方面に向かう人がいるように思われる

最後の方向性の音楽家は自筆の楽譜を見ると、その時作曲家が何を考えていたか
が見えるような気がするらしい
(それは思い込みに過ぎなくても何故か説得力を持つこと多い)

最近はレコードもCDも違う演奏家のものが多くなっている
聴き比べることで、確かにいろんな表現があるものだとは思う
だが、表現の違いが曲の本質に深く関係しているか?というと
演奏者の個性が強すぎると、それは曲を聴いているというよりは
演奏家を聴いている気になる

それはそれで、そういう楽しみ方もあるのだろうが
聴いていて作曲家は何を考えていたのか、何を感じていたのか、何を言いたかったのか
を考えさせる演奏が個人的には好きだ

フルトヴェングラーの指揮はテンポの揺れなどが個性的すぎて、
表現方法ばかりが話題にあがるが、
聴いていて彼の演奏が一番作品の奥の部分に触れているような気がする
吉田秀和氏によれば、「どう表現するかではなく、何を表現するか」
を追い求めた人物という表現がある
それは彼が言ってからではなくて、自分でもそう思う

ところで、指揮者のゲルギエフがロシアのウクライナ侵攻のために
演奏会の機会を失っている
彼の責任ではないが、ロシア人の演奏を聴きたくない、、
という一般人の気持ちもわからないではない

これを思うと、先程のフルトヴェングラーが第二次大戦中にドイツにとどまって
ドイツ国民のために指揮活動(演奏活動)を続けた事実は、
芸術と政治は違うというものの、一般人にはいろんな評価があるだろうなと思われる

自分も彼の選択が良かったのかどうかは、今でも揺れ動いてわからない
だが、彼の戦時中の演奏の録音からは凄まじいまでの悲痛な音を
感じることができるものもある
その一つは「コリオラン序曲」で冒頭はあまりにも聴いてる方が辛くなる音だ

何時でも苦しむのは弱い立場の人たち
やはり話は逸れてしまったが、今の世界情勢ではそれに気持ちが振り回されているのは仕方ない


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「マルクスを再読する」を再読した

2022年03月03日 10時01分06秒 | 

どうしても気が滅入る
「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)とかヘーゲルが思ったようには
世界は理想のもとに完結する(予定調和のような)ものに行き着かない
まるで何処かに隠れていた暗い情念のようなもの
それこそが力を持つ様に思えてしまう

このウクライナの事件を思うとやりきれないので無理やり他のことを考えようとする
(あのロシアの女性ユーチューバーは眠れられないようだ)

本棚にあった「マルクスを再読する」を再読した

いつものことだが、ページの端が折ってあって読んだ形跡はあるのだが
悲しいくらい覚えていない
だが今回は、ものすごくリアリティをもって読み終えられた

そもそもマルクスに興味を覚えたのは「何故そんなに嫌われるのだろう?」
と思ったからで、それは怖いもの見たさみたいな感情だ
だが流石に「資本論」にはお手上げで読めていない
彼の操る概念や用語は慣れていないのですぐにはわからない
とは言うものの、その後いろんな本(シュンペータの本)やら
動画を見て(テンミニッツTV)大枠は頭に入ってきた

すると、マルクスの考えたことに対する自分のイメージはだいぶ修正された
それ力づくで何かを変えようとするのではなく、歴史の必然として
社会はかわることを考えて(期待して)いたようだ
原始共産制、古代奴隷制、封建制、資本主義、それから社会主義にいたる流れは
人が理性のみで生きているのならばあり得る話かもしれない
だが、今回の事件のように残念ながら人の中にはどす黒い情念があり
わかりやすく言えば世の中には悪人もいるという現実は
(なぜ悪人が世の中に存在するか?は横において)
人の世を単純化して語るのは間違いだと思えてしまう

マルクスの考えで、なるほどと思ったのは、実は彼のオリジナルな考えではないようだが
商品についても考え方で、交換可能な商品には労働というものが反映されていて
その労働が搾取されている、、、とする考え方だ
それをすべて認めるわけではないが、そういう考え方もあるのと刺激を受けた

この本はすでにいくらかのマルクスの著作を読んだ人向けで
ほとんど読んでいない自分は読み飛ばしただけだが
現時点でマルクスを再読する意味を伝えている
ベルリンの壁が崩壊した時点である程度の結論は出ているが
それでも理性と洞察力、そして人を思いやる人としてのマルクスの言い分は
むしろ今の世界にこそ必要なのではないか、、という気持ちにはさせられる

読み終わったばかりは興奮で頭が整理されていないことが多い
この本の内容が自分に定着するにはもう少し時間がかかりそうだ
だが今は読んで良かったと実感している
人に説明できるくらいなのが一番いいのだが、、自分の力量では無理か、、、

 

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男女の投稿の差は偶然か、必然か

2022年03月02日 09時55分04秒 | あれこれ考えること

単に自分が知らないだけなのだろうか
日本にいるロシア人の今回の戦争に関する悲痛な動画は
圧倒的に女性が多い(男性のは一つ見つけたが)

これはたまたまそうなっているのか、あるいは必然なのか
気になるところだ

ここからは想像の世界になるが、平和に対する思いとか
戦争への嫌悪感は女性の方が男性よりずっと強いのではないか
それは子どもを生むという生物学的な特性から
生命を守ることが何よりも優先されるのかもしれない
また考えればいくらでも出てくる「戦いは仕方ない」とする理屈よりも
直感的にノーと答えを出し勝ちなのではないか

女性は無条件に争いを好まず、男性はいろいろ理屈をつけて
物事をややこしくする
そうだとしたら物事の(政治的な)判断は男性だけで行うのは
片手落ちになるのではないか
物事はとりあえず多数決で決めることが多い
その多数決に男女比が偏っていたら、それは集団としての意志の反映になるのだろうか

政治とか企業の中にもジェンダー平等を求められているが
これはスローガンというより、そうしたほうがまともな社会ができるということではないか
(もっともその場を長らく与えられていなかった女性もそれなりの勉強とか努力が必要だが)

この男女の差を強く意識したできごとがあった
例のCLPの動画で行われた「わきまえない女たち」と題する対談がそれで
この番組は森元総理の女性蔑視とも思えるような発言をきっかけに
女性の識者が女性の現在の立場とか、その解決方法とか、
それにとどまらず社会としてどうあるべきかが真剣に討論されていて
男の身でもすごく参考になった
それは女性の問題だけではないと実感した

女性がここまで深く討論をしていて、顔も出して覚悟を決めて発言しているのだから
男性も同じ様にすればいいのに、、と思ったのは当然のことで、最初はその計画もあった

ところがそれは中止になった
そこで感じたのは「やっぱり!」という思いだった
男性はいろんな立場があって迂闊に言葉を発せない、、
そんな空気を想像してしまった

それは今回の日本にいるロシア人の思いを吐露する動画の
男女の投稿数の違いに現れているのではないか
と想像するのは妄想だろうか

多数決をとりあえず的確な意見の反映とするならば
その賛否の権利を有するものの男女比は同じでないとマズイのではないか
もっとも男女比が満たされても党利党略でそれが上手く機能しないかもしれないが
それは別の問題で、とりあえずは出来るところからするしかない
選挙権をもつ一般人もそのような意識を持って選挙権を行使するのも
現時点では現実的な方法かもしれない

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「人にはどれだけの土地がいるか」

2022年03月01日 11時45分48秒 | あれこれ考えること

小説や民話なんぞはクソ役に立たない!と言いそうな人がいる
(ロシアのウクライナ侵攻に対して日本国内デモに関してクソ役に立たない
 とつぶやいた元政治家、現在はやたらと特定のテレビ局に登場する
 立ち位置の不確かな人物がいる) 

彼は目の前の対処療法に適さないものは無意味だとする考えのようだ
ところが漢方医薬のようにじんわりと効いてくるモノもある
それは知ることによって、危ないものにはブレーキをかけるという機能を果たすもので
一般的にはリベラルアーツと言われる(あるいは教養)

気の滅入るロシアのウクライナ侵攻
画面に登場するプーチンの表情に恐怖を覚える
なにかに取り憑かれているような、、人との会話が成立しないと思わせるものだ

対話で大概のことは解決できるはずと思いたいが、
現実には一定数の変な人が存在してしまうのも社会というものかもしれない
(泥棒も詐欺師もどうしても無くならない)
だが習慣とかしつけとか、人間の作話機能による物語を知ることによって
フト自己を省みることができれば、ブレーキをかけることができるかもしれない

彼にはいろんな理屈はあるだろうが、今プーチン(あるいはイケイケドンドンの人)
に読ませたいのはロシアの文豪トルストイの民話「人にはどれだけの土地がいるか」だ
欲が人間の進歩を生み出すものとしても、再現のない欲は悲惨な結末を迎えることになる
それをやんわりと伝える物語だ

何かを知っていくことは共感の幅も大きくなる(歳を重ねると涙もろくなるのはそのせいだ)
そして感情は些細なことに驚きや喜び悲しみを覚えるようになる
知識は全世界に一般化できないかもしれないが感情は一般化できるかもしれない

何かに共感する、、その癖をつけるようにすること
それが時間がかかっても目指すべきものと思われる
子どもが生まれると「心の優しい子に育って欲しい」と多くの大人は口にする
だがこの願いはいつか忘れられてしまう(優先順位は変わってしまう)
でも本当は何時までもこれが一番大事なのではないか!とつくづく思う

例のごとく話は逸れたがこの民話のウキペディアの解説はこちら
「人にはどれだけの土地がいるか」


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