パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

時々、変なことを考える

2022年03月19日 09時36分58秒 | あれこれ考えること

時々、変なことを考える
頭に浮かぶ考えは文章(言葉)の形をとっているが
(例えばこれを書く時浮かぶことなどは声の形をとっている)
その声質はどの音なのだろうか?などと
自分が話しているときの直に耳にする声とは違う
また録音された自分の声とも違う
結局は自分が作り出した内的な音なのだろう!と落ち着くが
これは自分の考えのときだけのことなのだろうか?

いつも思うのはフルトヴェングラーの指揮する第九の第三楽章は
確かに録音を聴いて、演奏されたその音以外の何者でもないが
実感としては自分の考えが浮かぶ時のような
自分で作り出した音(音楽)のような気がしてならない

そう言えば本を読んでいてノリノリになって、作者の意図が
文章を読むスピードより速く理解出来るような気がする時は
その理解する時の声とか概念はどういう声なのだろうか

本を読むときは作者の意図を理解するために集中を必要とするが
それは実は集中と言うよりチューニング合わせのような気がする
ラジオのダイヤルを回して目的の放送局に合わせるような
そんな行為がなされているような気がしたりする

とまあ、へんてこなことを思ったり、感じたり、考えたりすることが
適度にできているうちはボケずにいられるかもしれない
もっともこんなことを人に話すときは相手を選ばないと
おかしい人!と決めつけられてしまうかもしれない
(と言いつつ、ここでとりあげているが)

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知らないことは悪いことか?

2022年03月18日 11時20分25秒 | あれこれ考えること

世の中は簡単に白黒決められないことが多い
そうした案件に思考実験のようにそれぞれの立場を考えると
どっちつかずになり勝ちで一部の人からは(コウモリのように)
「お前はどちらの立場なのだ!」と批判を浴びそうになる

批判を覚悟しながらいろいろ考えてみる
現在新城市では小中学校の給食についてゴタゴタが起きている
一番の問題は共同調理場として予定した土地に県の土地も含まれていて
そのために実施計画のやり直しをしなければならなくなったことだが
ここで、別の問題も発生してきた
それは、そもそも共同調理場の方式(センター方式)は良いものか?
学校ごとで調理する方法(自校式)のほうがいいのではないか?
とする対立が今になって表に出ていることだ

市議会で予算が上程され、その一部は既に可決されたものもあるが
一部の議員からは大きな金額を要する事業であるにも関わらず
議員に要求されたのは「予算案の可決・否決」の議決だけで
センター方式と自校式の選択には少しも関わっていない点に疑問をもっている
また、多くの市民がセンター方式に決定したことを知らない現実と
その選択に関われない点を疑問視している

議員や市民は大事な問題に関与できるはずだ
とする根拠は新城市自治条例の以下の項目だ

第4条 まちづくりの基本原則は、次のとおりとします。

(1) 市民主役の原則 市民一人ひとりが主役となってまちづくりを進めます。
(2) 参加協働の原則 市民、議会及び行政は、積極的な参加と協働によりまち づくりを進めます。 
(3) 情報共有の原則 市民、議会及び行政は、互いに情報を共有し、まちづく りを進めます。 

これらの文章を正確に真面目に解釈すれば、大きな予算を要するような案件は
みんなで話しあったり情報の共有が図られるべきだとしている
(今回に当てはめると給食センターの問題は皆で考えるべきと)
条例の抽象的な文章は解釈という行為でいろんなものに当てはめるのだが
ここには解釈という個人間に差が出てくる可能性がある
(市の条例はそこまで書いていないとする解釈)
このようないろんな解釈による混乱を防ぐために、より具体的な文言で書かれているのが
多治見市の市政基本条例で、そこにはこう書かれている

(市民参加の推進)
第19条 市は、多くの市民の参加機会を保障するため、審議会の委員の公募、意見の公募などの多様 
な参加手法を用意しなければなりません。

2 市は、市民からの意見に対して、誠実に応答しなければなりません。
3 市は、次に掲げるときは、市民の参加を図らなければなりません。 
(1) 総合計画などの重要な計画を策定し、見直すとき。

(2) 重要な条例、規則などや要綱(政策、事業の基準を定めた文書をいいます。以下同じです。) 
を制定し、改正し、廃止するとき。 
(3) 事業を選択するとき。

(4) 事業を実施するとき。

(5) 政策評価を実施するとき。 
4 市民参加の推進に関して必要な事項は、別に条例で定めます。 

つまりは給食センターのような問題は、市民の参加を図らねければならない事になっている

ここまで書き込まないと市民参加が保証されないのかとは情けないという声もあるが
書き込むことで一定のステップがはっきりするなら書き込んだほうが良いように思えてしまう

ところで、現実は多くの市民がこの市のドタバタを知らないのだが
その知らないということは果たして悪いことなのだろうか?
(この問自体が一部の人には不評かも)

人の生活の関心事には優先順位があって、あるべき社会の体系よりは
まずは自分の身の回りの生活となる
でもそれだけでは心苦しいとこともあるので、そうしたことを考えて
判断してもらう人を自分たちの代理として(分業と専門家として)選ぶ
わかりやすく言えば、直接民主主義は現実的でないので間接民主主義に頼るというわけだ
(民主主義の本家ギリシアのポリスでも実は議員になるのは面倒と考えられていたようで
 資格のある人から抽選で議員は選ばれたとか)

誰かにお任せしていろいろ決めてもらうということは
現実的に有効な方法と思える
ところがこのお任せする人は信用できるか?
となると話がややこしくなるので、今の時点では横におくとして
とにかく制度として間接民主主義の方法はとりあえず、それほど悪いものではない
と考えられる

お任せする人は地方自治体では首長と議員と別々に選ばれる
首長はお金(税金)の使い方を提案できる
議員はその使い方の賛否ができる
以上のような前提があれば(それぞれが誠実に行っていれば)
一般市民は知らなくても、あるいは直接民主主義のような参加形式を取らなくても
社会は上手く回っていくものと考えることができる

新城市の予算とか将来を決めるようなことは基本的には首長の役割だが
最近知ったことだが、市の幹部による「市政経営会議」というものがあるらしく
大体はここで決められるらしい

それは新城市庁内会議設置規程に以下の様に書かれている

第3条 市政経営会議は、行財政運営の基本方針及び重要施策に関する市の意思決定のための協議を行う。
2 市政経営会議は、次条に規定する部長会議を通じて執行機関全体の事務を調整し、指揮・監督する。
3 市政経営会議は、市長の主宰のもとに副市長、教育長、総務部長及び企画部長をもって構成する。
4 市長は、必要があると認めるときは、事案関連部門の部長職職員その他必要な職員を出席させることができる。
5 市政経営会議は、毎月2回開催を例とする。 
6 市政経営会議に付議する事項は、次に掲げるとおりとする。
(1) 市の基本構想、基本計画及び実施計画に関する事項
(2) 予算編成方針など市の財政運営に関する事項
(3) 市の組織、人事、財政その他行政機能に重大な影響を与える事項
(4) 市議会に提出する議案のうち市政運営に重大な影響を与える事項
(5) 各部門相互間において意見を異にするものの調整に関する事項
(6) その他市長が必要があると認める事項 

つまりは実務的な方面からの手続きはこの様に行われるということで
少し考えてしまうのは、この庁内会議設置規程は自治基本条例と相反するところはないだろうか?
と思えてしまうことだ
(条例の制定は議決が必要だが、段取りについての規程には議決は必要ない?)
行政は自らの正当性を担保するために、段取りをきちんと踏んでいることを何よりも重視する
だがその段取りは使い勝手の良い一人よがりのものになっていないとする証はどこにあるのだろう

予算を上程できる権利を持つ人として市民は首長を選ぶ、首長は手続きにそって物事を決定していく
人が選挙によって首長を選ぶということは、彼に権限(予算とが事業の)を与えるばかりでなく、
ある程度任せているということだ

市民が細かなことをいちいち知らなくても、いい塩梅にお金を使ってみんなが普通の生活ができるように
市政を運営していてくれる(多くの人はそう思ってる?)
それを担保するのが、行政の言い分とすれば規則にそった手続きだ
その他にも意思決定の過程を明らかにすることがあるかもしれない

ところが不信感や疑問を持った場合、この意思決定の過程を知ろうとすると、かなりの努力が要求される
公開された議事録から探す手間、その長い文章のなかから重要な部分を探す苦労
公開されていなかったら情報開示請求をしなければならないなど、かなり面倒なことになる
そんな面倒なことは一市民の出る幕ではないと思えてしまいそうで
本来ならば議員がそうしたチェックをするのが役割だ

となると議員を選ぶ行為自体が重要になるが、残念ながら市民の中にはそれ程の問題意識を感じる人はいない
市民の関心事・優先順位は社会の大きな問題ではなくて目の前の問題であるのはある程度仕方ない
いつかは自分の身に降り掛かってくることでも、実際にそうならないとわからないというのはよくあることだ

話は戻って、庶民がいろんなことを知らないということ
市の予算の使い方、赤字を出し続ける事業の継続などを知らないということ
それは由々しき問題と思われるが、反面自分らが住んでいる社会の制度上
必然的に生まれてしまうように思えることのような気もする

最近は、代表制による民主主義はデリケートすぎると思えて仕方ない

やはり、まとまらない話で終わってしまった




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最近、つくづく実感すること

2022年03月16日 18時39分04秒 | 徒然なるままに

怒るべき時に怒らないとアカン
自分だけが正しいと思いこむのはアカン
長期政権は絶対にアカン
そのためには対立する組織が必要
少し矛盾するが、多様な意見は必要だとしても、時には聞き入れないことも必要
威勢のいい言葉はどこか怪しい
偉い人ってのは肩書ではない
わかりやすいってのは気をつけないと危険

なんか最近実感すること!

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「できることは祈ることしかない」を想像すること

2022年03月15日 08時47分47秒 | あれこれ考えること

もはや自分にできることは祈ることしかない
といったような状況に追い込まれた人は
祈りが現実的に効果があるかどうかといった考え方はしない
(末期がんの治療の最後にできることといったら祈ることしかないように)

未来がどのようになるか全くわからない状態に追い込まれている人が
少しでも今を忘れるような明るく見える行動(歌うとか冗談を言い合うとか)
をするのはありそうなことだ
(従軍慰安婦の女性たちが歌を歌って楽しそうにしていたという話など)

その場に立ってみないと分からないことはあるもので
人はすべてを経験できる訳ではないのでこういう場合は想像するしかない

想像力とか共感力、、そういうものが人の社会には必要だと感じるこの頃
短期的かつ数字に現れる効果だけでなく、自然と心に染み入るような内的な経験を及ぼすもの
そうしたものこそが必要不可欠と思えて仕方ない

「涙とともにパンを食べたことのないものに人生の味はわからない」
ゲーテの「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」の中の詩にでてくる有名なフレーズ
だが、この意味が実感として理解できるようになるには時間を要するだろう

年齢を重ねると涙腺がゆるくなると言われるが、これも想像力の為せる技
人に真に必要なものは何か?
を考えるこの頃

相変わらずストレスが溜まりがちのようだ

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鳥の歌

2022年03月14日 09時50分14秒 | 徒然なるままに

やっと庭のトサミズキが咲き始めた

今年は寒かったから気持ちのんびりしてるみたい

これで4月20日の頃になると新緑が一気に眩しくなる
いつものように花が咲いて、いつものように緑の季節になって
そんな当たり前のことを実感できなくなっているウクライナ
相変わらず気が滅入る

今朝、地元の子供たちと小学校の校門まで歩いていく途中で鳥の声が聞こえた
子どもたちは気づかなかったようだが、自分はどこか救われたような気がした

メシアンが最高の音楽家と評価する鳥の声
チェリストのカザルスが演奏する「鳥の歌」では
鳥はピースピースと鳴く!と説明している

早く平和が来ますように!

パブロ・カザルス「鳥たちのうた」(1971年国連スピーチ&イントロ・ミックス)


演奏はこちら
Traditional Catalan Christmas song: El Cant dels Ocells, Casals & Horszowski (1961) 鳥の歌 カザルス

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映画で記憶に残っていること

2022年03月12日 09時03分17秒 | 徒然なるままに

少しサボって、あちらからのコピペ
(あちらとこちらは、どう使い分けているかわからなくなってきた)

1.「I decide who I am」
2.「何よりも自分を信じよ、そして(自分を)疑え」
3.「お父さんが負ける度に、社会にでたら正直者がバカを見るという現実に

立ち向かわないかんのかなとずっと思っていたのですけど、

正直者の気持ちはいつかみんなに届くんじゃないかっていうのを今日初めて感じました
」

この3つが今も心に残っている映画に出てきたセリフ(言葉)
1は「ボヘミアン・ラプソディ」でフレディ・マーキュリーが発した言葉
 翻訳文は忘れたが、英語のこのセリフは深い、、、と勝手に思ったりする

2は「新聞記者」(松坂桃李の出演してる方)で使われているが、主人公の父が娘に残した言葉
 これは常々そう有りたいと思っているので納得

3は「香川一区」(ドキュメンタリー映画)で、
いつも選挙で負けてばかりいるクソ真面目なお父さんが
やっとのことで勝てた時に、娘としてお礼の挨拶で出た言葉
「いつか届くんじゃないか!という実感はすごく貴重だと思う

あとセリフではないが印象に残っているタイトルが
「Er ist wieder da」(ドイツ語)
日本語では「帰ってきたヒトラー」だが「帰ってきた」
と訳すより「またそこにいる」と直訳するほうが怖い感じ

読書もそうだが、映画も変なところばかり覚えているようだ

 

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ステレオタイプの認識には注意が必要

2022年03月11日 09時28分18秒 | あれこれ考えること

人の性格は遺伝とか育ち方とか普段の生活で決まってくる
その中の普段の生活の中で大きな要素を占めるのが仕事
仕事は寝るのと同様なくらい長い時間を費やすので
知らず識らずそこでの経験が個人の判断とか選択に影響する

全く知らない人と話してみると、「もしかしたらこの人は公務員?」
と思うようなことがある
全体的な雰囲気がそう感じさせるのだが、これは案外当たっていて
「やはりそうか!」となることが多い

昨日の新城市議会では職員のスキルアップについての一般質問があった
職員のやる気に影響する人事の問題から、民間の感覚とは違う公務員独特の
習慣なり思考方法について、それを是正する方法を討論していた

一般的に公務員は「儲かる損する」とは違う世界に生きているし
個人の責任で企業の生死に関係していないので、責任感が曖昧で
しかも首にはならず、給与も安定しているのでサボりがちになる
というのが公務員に対するステレオタイプの認識だ

残念ながらこれは相当な確率で当たる気がする
(だからこそ公務員の雰囲気を感じ取ることができるのだが)
だがどんな世界も人の社会は正規分布で分けられると思う
問題ありとする人、普通の人、優秀な人
この割合は不思議なくらい同じような割合で現れるのではないか
(蟻の世界でも真面目な蟻、サボる蟻が存在するらしい)

だから正確には公務員を一括してイメージするのは少し乱暴で
その中には真面目な人もいればイメージ通りの人もいるにすぎない
その真面目な人も時と場合によっては自らを守るために好ましくない
判断をする可能性はあるし、しばしばそのような場面を見る

人は社会との関係の中で生きているのと同様に、自分との関係の中で生きている
その自分も時と場合によって良い人悪い人の間を彷徨う
(これは個人でも経験している)

ということで、公務員(職員)を見る目も安易なステレオタイプの怠惰な連中という見方ではなく
少なくとも人としての尊厳を認めた上で眺めるべきだと思う

人柄は表情に出るもので、昨日の市議会の幹部の中の二人は
本当に誠実そうな方々で、追求の手もつい緩みがちになりそうな雰囲気を醸し出していた

人の中に潜む善の部分と悪の部分、、その善の部分を引き出したい
と演説の中で説いたのが立憲民主党の小川淳也氏
これを聞いたただけで彼は壮絶な内的な葛藤を経験してきたのだと想像できる

さて、小難しいことは横において、何となくうまくいく!
という社会ができればいいと、空想家は思ってしまう




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少数者の支配と民主主義

2022年03月10日 09時49分40秒 | あれこれ考えること

一人の狂ったリーダーのために世界が混乱している
毎日ニュースを見るだけで落ち込んでしまう

民衆の声を反映する民主主義といいながら
結果的には少数者の支配による政治がどの国も行われているようだ
(プーチンも選挙で選ばれた)

民主主義は民衆の声を反映させないシステムという考え方があるようだ
そもそも民衆はポピュリズムに影響されやすく
一時的な、そして感情的な狭い視野で判断し勝ちで
決して正しい判断をなし得ない存在と見ていて
それゆえに、民衆の声をダイレクトに反映するのは危険だとし
どこかでフィルター(ブレーキ)を掛けることが必要とされる

そのフィルターをかけるのが選挙による代表性というシステムで
時間とか専門知識とか広い視野を必要とする政治的な判断は
選ばれた政治家にフィルター機能を果たしてもらい
そうすることで効率的だったり適切な方向に向かうと考えられている

民衆の声を反映しないというのは、選挙において、民衆の声Aと民衆の声Bが争うことによって
負けた方の声は反映されなくなり、それが結果的に一部の民衆の声は反映しても
(選挙の上の)少数の意見は反映されないことになるという意味で
民主主義のあるべき姿、負けた方の意見も如何に活かしていくか!の理想はあるとしても
現実は多数決イコール民主主義の思い込みが世の中には多く
数で押し切られることが多い

すると当たり前の事実として選挙に勝つことが政治的な決断をすることになる
選挙に勝つには利益団体はその存在を守るために自分に有利な方にお金も人力も提供する
そしてそれが結果的に利益を共通とする少数者の支配につながる

面倒くさい話だが、現実の社会を見ればそれはこの国でもそうなっている
いったい選ばれた人が正しい判断をしうるとする根拠はなんだろう
それは多数の支持を得て選挙に勝ったという事実だけなのだろうか

どうも人様の作る考えやシステムはどこか不完全だ
想像した通りとか理想通りには進まない
それは利己的に行動する生き物として癖のよるもののように思えてしまう

理想を言えば選挙に勝った人は人格高潔、お金にもきれいで、広い視野を持ち
専門知識も備え、共感する能力に長けている人となればいいのだが
そういう人は中にはいるが、現実社会はどうなんだろう

だが現実は現実、こうしたことを踏まえて人はどうしていけばいいのだろか
必要なのは全人格的な教育なのだろうか?
でもこれは時間がかかりそうだし、これに反応しそうな人は少数者のような気がしないでもない

なんだかなぁ~
世の中は理性で徐々に発展していくと思っていたのが、全然そうではなくて
情けないくらいの状況になりうつつあって落ち込みそう

例のごとくまとまらない話

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他人の知らないことを知ってる誇らしい気持ち

2022年03月09日 17時01分59秒 | 子どもたちのこと

気の滅入る話が続くが、今日は無理にでも別の話題を!

他人の知らないことを自分だけが知っているというのは、どこか誇らしい
ジャーナリストの世界がそれだが、それほど大げさなことではなくても
子どもの世界でも、ちょっと物知りは内心優越感があると思う

他人の知らないことを知っている喜び
それが結果的に勉強のきっかけになるかもしれないと思い
毎週水曜日のブラジルにいる子ども(お姉ちゃん13歳)との日本語の勉強の間に
面白そうなネタを探して話をしている

今日は「京都弁」を紹介した
彼ら(お姉ちゃんと弟)が日本で暮らしていたのは東三河で
耳にした言葉は「じゃんだらりん」の三河弁
「聞いたことがある」と彼女は言う

「日本には方言があってね、京都はこう言うんだよ」
「おこしやす」「おおきに」「かんにんしとくれやす」「よろしおすな」
「おきばりやす」「ごきげんいかがどすか」
ネットに載ってる言葉を紹介する
「むずかしい、、」
でも何となくおっとりした感覚は持ったようだ
「面白い!」(画面の顔が輝く)
「これを使える様になると良いね。女の子らしくて。
 でも、使ったらびっくりするだろうね」

他人の知らないことを知る
以前はスフィンクスが発したというなぞなぞ
「朝は4本足、昼は2本足。夜は3本足、これなんだ?」
を教えてあげた(答えは人間)

日本語の勉強だけでなく、変なことを覚えられるから毎週水曜日は
(向こうは火曜日)飽きずに続けられているかもしれない(と勝手に思う)
こちらも表情等に反応があると嬉しくなる

結局のところ人は何に興味を持って、何に夢中になるかわからない
夢中になれるものを探す手伝いをできれば、それで良いのではないか
(日本語でなくても)
今はそんなふうにも思う

ということで、気の滅入る日が続く中、
ほっこりする時間が今朝はあったということ

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情報の差が考え方の違いにつながる(怖いプロパガンダ)

2022年03月08日 09時49分02秒 | あれこれ考えること

日本にいるロシア人が平和のために、そして謝罪のために日本語でSNSの投稿を続けている
目にするのが女性が多いのは不思議だが、遠い国でそれが効果があるのかわからない中
そうせざるを得ない気持ちはよく分かる

その人たちはそれにとどまらず、日本で得ている情報を親や親戚に伝えようとする
それは彼らがロシアに帰れば逮捕される内容だ
逮捕されるかもしれない、国に戻れないかもしれない、、
と覚悟を決めて行動することは、危険でない日本にいるからできることかもしれないが
日本にいる意味をそうして果たそうとしていることに頭が下がる

二人のロシア人が、親族に伝えた時の返事に驚く
そのうちの一人が
「ちゃんと頭の付いている子だと思っていたのに、お前のことはがっかりしたわ。
 お前が謝らなければいけない日が必ず来るよ」

お前も西側に洗脳されたのかよ!」

そしてもう一人が
「おかんとおばあちゃんと電話したけど、ロシアのプロパガンダにめっちゃ洗脳されててワロタ」

ロシア国内の世論は世代間に差があるとされている
テレビしか見ない年配者、ソ連時代を知っている世代と、自由な雰囲気を知ってしまって
海外からの様々な情報を知りうる若者世代とは価値観の相違が生まれているらしい

情報取得の差が考え方の差になるのだが、単純に知らないことは恐ろしい!と思う
これは実は日本でも同じようなことで、ロシア国内の問題であると同時に
日本の問題でもあるような気がする
(かつて我が国も大本営発表のみが情報であった時、騙されていただけだった)

他所のことは客観的に見えるかもしれないが、それが当事者に当たる場合
今の日本はロシアと似た環境にないだろうか

お年寄りは情報収集はテレビとなる
(彼らはデジタル機器を使いこなせないし、キーボードにも慣れていない)
そのテレビも視聴率を確保するのは年寄りそうでありながら、民放は
お年寄りのテレビ視聴を自ら放棄するような番組を作り続けている
すると頼りになるのがNHKとなるのだが、そのNHKも最近はどうもきな臭い雰囲気が漂う

情報取得はプッシュ型とプル型がある
プッシュ型は向こうから勝手にやってくる情報
プル型はこちらから探し求めて得る情報だが
プッシュ型ではその情報の大量拡散(あるいは頻度)によって人の考えが方向づけられる
一方、プル型も人はどうしても自分の好ましい情報だけを集めようとする

メディア・リテラシーを学ぶことがなされていない現在
情報の分断による考えの違いが大きく生まれる
そしてそれは小さなスケールの地方自治体でも同様な事が起きている

プル型による独自の情報収集で市の問題点を考えざるを得ない人と
市からの広報や、市からの報告を伝えるだけのメディアに接し
無条件にそれらを信ずる人とは大きな差が生まれてしまう
(そこまで問題視しなくてもいいのでは、、とする緩やかな対応も含めて)

例えばプル型の同じ情報を手にしたからと言って、同じ考えを持つとは限らないのは事実だが
知っていてそう考えるのと、知らないがそう考えるのとは大きな違いがある
(だからこそ、これらを判断しうる人間性が重要になってくるのだが)

現在はプロパガンダが技術的に整理され効率的な方法で行われているらしい
この本に書かれているのは極論かもしれないが、少しばかり心配な社会状況が日本にも(市にも)









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