パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

明日の天気

2019年05月14日 08時50分30秒 | 徒然なるままに

どちらかといえば晴れ男だ
肝心なときは降られることがない
数年前ドイツ・オーストリアに行った時も傘は一度もささずに済んだ
もっとも、天気の大半は晴れと言っておけば確率的には大外れすることはないらしいが

でも、明日の天気が気になる
少しの雨でもその行事は行われるだろうけど、見てる方は雨の中はつまらない
所要時間は約一時間くらいらしいが、座席は予約していない(行くか行かないかも決めていないし)
行くのなら切符を買いにR東海ツアーズの豊橋支店まで行かなければ、、

天気予報を見るとどうやら雨は夜中のうちに止んで明日は曇りみたい
やっぱり行こうかな、、
連休中もそのつもりでおとなしくしていたのだから
葵祭、、、
見るだけなんだけど、、今年の今のタイミングは源氏物語も読んだし
必然のように思えてる

さて

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運もないチームの建て直しの方法は

2019年05月13日 09時24分15秒 | サッカー

Jリーグが開幕して現在は11試合終了
FC東京が負け無しのいいスタートを切り、昨日は期待の久保の得点で勢いに更に拍車がかかりそう
一方下位に沈んだまま調子に乗れないチームがある
サガン鳥栖、清水エスパルス、ガンバ大阪、ジュビロ磐田
開幕当初は競り合って引き分けとか僅差の勝負が多いが、ゲームが日常の一日となる頃は
チームの成績による勢いの差が際立つ

ガンバ・レッズ、神戸の試合を見たが、どツボにハマってさあ大変という状況
試合全体に得点の匂いがしない
推進力はないし、オートマティックな動きもない、肝心なところでのパスが雑
そして運もない

こういうときの立て直しをどうしたら良いのか、、が気になる
何をしてもうまくいかない、、やることなすこと裏目に出る、選手も自信を失いつつある
良いタイミングで休みがあれば良いのだが、調子の悪いチームは何故か最悪のタイミングで
調子の良いチームと当たる
泣きっ面に蜂というのが勝負の世界には多いが、この立て直しを時間をかけずに行わないと
後々のシーズン後半にはつらい思いをしなくてはならなくなる

サッカーはチームプレーというものの個人の力に頼る部分も多い
現実にチャンピオンズリーグに登場するようなチームは選手の年俸も高いし
違いを見せる、、という表現に代表される活躍を見せる

選手の年俸だけなら神戸がもっといい成績を収めて良いはずかもしれないが(VIPなどで)
選手の怪我とかちょっとした運のないことが続いて、彼らのパフォーマンスも十分に発揮できない様になっている
こういうときの対戦相手は、今なら恐れることはない、、大丈夫との気持ちが持てるようになり
むしろジャイアントキリングに臨む気持ちで試合に入る

勝つのは偶然もあるが、負けは必然と口にした勝負師がいた(野村さん?)
確かに下位に沈むチームは負ける必然のようなゲームをしている
しかし、そのきっかけは最初から全然だめな場合もあるが、どういうわけか不運が重なって
波に乗れず、ついには自分たちのパフォーマンスの低下を招いてしまう場合も少なくない

勝負の世界は、情けをかけたらあかん
非情に叩き潰す、、というメンタリティを持たないと、自分たちにしっぺ返しを食らうかもしれない
この精神を持ち続けるのは日本人には少し難しいかもしれないと思うが
勝負事というのはそういうものだ

ところでどん底のチームをどうやって立て直すか
気分転換が優先されるのか、それともチームコンセプトを再構築すべきなのか、、
これは外国人監督でも日本人監督でもとてもむずかしいことのように思われる
でも、その分どのようにするのだろう との興味が勝ち続けているチームの秘密以上に気になる

監督さんは勝負師、戦術家、育成家、モチベーターなどの特徴に分かれるようだ
下位のチームのあがきは、、ちょいと興味あるが、さてこの先抜け出すきっかけを自ら掴むのはどこだろうか

 

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作曲側と聴き取る側のメロディに対する変化(進化?)

2019年05月12日 10時00分14秒 | 音楽

音楽は感情表現だと言われる
音は現れるとすぐに消えてしまい絵画・彫刻などの芸術とは違い
存在するのは個人の記憶の中にしかない
その記憶の中心になるのは音楽の三要素の中では多分メロディと思われる
情感たっぷりなメロディ、切ないメロディ、心地よいメロディ、人の想像力を喚起するメロディ
一般的に有名とされる曲はメロディに特徴がある

メロディを美しいとか良いメロディと感じるのは年齢によって変化する
速いテンポの曲に知られたものが多いベートーヴェンだがその緩徐楽章は
アダージョの作曲家とされるブルックナーに劣らずなかなか沈潜した、考えさせる
印象的なものがあり、若いうちは情に訴える感じものが好きだった

その中のひとつが弦楽四重奏曲一番の中の楽章で、一回聴いただけで記憶に残りそうな印象的なパートがある

Beethoven: String Quartet No. 1, BarylliQ (1953) ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第1番 バリリ四重奏団

 いい意味での効果的なフレーズ、多少感傷的な面に傾く傾向などベートーヴェンも若かったとも感じさせる

これが中期になると情に訴えると言うよりは、どこか考えさせるような音楽になっていく
楽譜の上での秩序とか成り立ち方の統一性を考えさせられるというのではなく
それを聴いた人の中に「考えさせる」という表現が適切な、何かを感じさせる
中期の弦楽四重奏曲のラズモフスキーの一番から第三楽章

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲 第7番 ヘ長調 「ラズモフスキー第1番」 Beethoven:〈Rasumovsky〉 No.1

この楽章などは運命とか田園とか合唱、悲愴、月光とかでイメージされるベートーヴェンとは少し異なる印象を感じるのではないか

美しいメロディというのは、どういうものだろうと考えさせられるのが
最後のピアノ・ソナタ32番の第二楽章だ
冒頭のアリエッタは美しいか、、といえば、どうも普通の美しいという表現では収まらない気がする
メロディ自身が歳を重ねることはないのだが、それでもこれは良いこと・辛いこと・悔しいこと・やりきれないことなど
いろいろ経験してきたうえでの回想のような印象を聴く人に与える
それは肯定的な赤塚不二夫の「それでいいのだ」との肯定的な世界観や少しばかりの諦めも感じさせるよう
この不思議な静けさに満ちた音楽が変奏曲という形式で最後の彼岸に向かって流れていく

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 Op 111 バックハウス Beethoven Piano Sonata No.32

この曲は大好きでバックハウス、アラウ、ゼルキン、リヒテル、ウゴルスキー、ポリーニ、ケンプ、グールドなどの
CD(レコード)をその日の気分によって取り出している
この曲は二楽章までしかないが、トーマス・マンの「ファウスト博士」の中で
「何故ベートーヴェンは二楽章までしか書かなかったのか」という音楽学者の講演がかなりのスペースを要して書かれている
残念ながらトーマス・マンの文体は相性が悪く、よくわからん、、というところだが
トーマス・マンも32番のソナタには惹きつけられる何かを感じていたのだろう

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几帳を見て思い出したこと

2019年05月10日 09時23分24秒 | 徒然なるままに

一月ほど前に訪れた宇治の「源氏物語ミュージアム」で目に入ったのが

几帳と説明には書いてある
実はこれで納得したことがあった

宇治十帖で薫が宇治の大君のところに忍び込んだときに、仏壇との境に立てかけたものが
文の中では御帳となっていたが、自分は勝手に衝立みたいなものだろうと想像していた
しかし御帳は天蓋付きの12本の柱に囲まれたベッドみたいなものとの説明がネットで調べると出てくる
そんなに大きなものを一人で立てかけることはできないので
自分の勝手な衝立みたいなものとの想像は違っていたのか、、と思い、どこかモヤモヤしたままでいた

ところが御帳が几帳ならば一人で動かすことのできる
問題はこの家具を微妙な場所に置いたのが薫なのか大君なのかという点
この行為の主体が誰かで物語のニュアンスは随分違う
現代訳の数冊は几帳を立てかけたのは大君で、薫が立てかけたとするのも同じくらいある
(主語が除かれた文章なので)
大君が立てかけたとすると、その覚悟を感じず結局は何もしなかった薫の行動は
現代の女性の読者たちには評価が低い
実際のところ女ならずとも、その気持ち、わからなくないな、、、

紫式部はどちらをイメージして書いたのかは知らないが
立てかけたのは大君とするほうが物語の深みがあって面白い

さて何を言ってることやら

 

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放送する必然性・価値はあったのか?(特に号泣シーン)

2019年05月09日 08時29分23秒 | あれこれ考えること

何年か前、ある国では新聞に掲載されるニュースの半分以上は
明るい話題にすべしとの法律が決まったとあった
それは政権批判を防ぐためと言うより、そのほうが単純に気持ち良いから
なのだろうと勝手に想像した

ところで日本の報道はどうだろう
特にテレビのそれはどこか肝心なところで間違っていやしないか
と思わざるを得ないことが続く
昨日、大津の園児死亡事故のニュースつながりで、保育園の園長の記者会見が
行われ園長先生の号泣する映像が、呆れることにどの民放局でも流された

地元では月曜と木曜日の朝はあいさつ推進運動の日で、自身のウォーキングを兼ねて近所の小学生と
校門まで歩いていくことになっているが、下の名前まで覚えたこの子達の一人でも
あのような悲惨な事になったらと想像すると、当事者たちの気持ちは如何ばかりかと思う

そこであの記者会見のニュースになるのだが、あの記者会見とか園長の号泣する姿は
ニュースとして流すべきものなのだろうか
記者会見は見てる方も辛いので直ぐにチャンネルを換えたが、チラッと見たところでも
園長に聞いても仕方ないような質問をしていて、そもそもこの記者会見の必要性は何だったのか
とも思わせるものだった

映像の「絵」としての園長の号泣する姿は、印象的なのは間違いない
しかし、それを使うかどうかは選択する人の人間性に関係する
あの「絵」を流す必然性はあったのか、、流してよかったのか、、
そもそもその記者会見を放送する意味があったのか、、
この部分が自分にはどうしてもスッキリと理解できない
そこにあるのは「刺激的な劇的な絵が欲しいだけ」というような
品のない人間性が感じられるだけだ
そして残念なことに放送は一局だけにとどまらず他の放送局も同じことをしている

同じことをしているという傾向は最近特に目立つ
独自の取材によるニュースと言うよりはメディアリンチの言葉に代表されるバッシングは
STAP細胞騒動、日馬富士騒動、豊田真由子騒動、日大悪質タックル騒動、、、などで
くどいほど見られたが、放送局は違っていても表に出る意見はほとんど同じで
寄ってたかって叩くだけで、複数の放送局の存在価値は一体何だろうか、、と思うのだが
放送局の現場の人達は他者と違うことを放送することへの恐怖に怯えているのか、、とさえ思う

ただ救いが無いわけではない
ツイッターには園長の号泣するニュースを流した放送局に対する批判が少なからず存在する
やはり同じように感じている人はいるのだ、、と思い少し安心する
しかし、現実の問題としてツイッターを使用している人たちは、どちらかといえば意識高い系で
ツイッターなどは使ったことも無いどころか全く知らないという人たちは
暴力的に流されるおかしな情報の渦に巻き込まれるだけだ

報道の自由度が我が国は低下しているが、自由度だけでなくその質の低下も
目も当てられない状態になっているのではないかと思えてくる

なんか思い出すたびに怒りがこみ上げてくる
と同時に、これでこの国は大丈夫かと不安になる


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バルセロナらしい

2019年05月08日 09時00分47秒 | サッカー

チャンピオンズリーグ準決勝、ホームのカンプ・ノウでは3-0でリバプールに勝利し
常識的には勝ち残るだろうと思われたバルセロナだが
らしいといえばらしい結果で、0-4でひっくり返されて決勝には行けず

らしいというのは、時々こういう傾向がこのチームにはあるからで
昔、ACミランとの戦いにも同様なことがあったように記憶している
レアル・マドリーとかユベントスならもう少し現実的な試合をしてただろう
(その前の試合でも案外攻め込まれていて、たまたま失点していないだけみたいなところが見られた)

このチームは勝ち残り形式は案外強くないかもしれない
リーグ戦のような長期間の総合的な強さを見る場合には力を発揮するが一発勝負は意外と脆い
そこで思い出すのが、ワールドカップのブラジル
ブラジルも一発勝負には弱い
(反対にしぶといのがドイツ 今回は違ったが)

ヨハン・クライフがバルセロナのスタイルを確立したと言われる
3点取られたら4点取れば良い
0-1の試合より、3-4の試合のほうが見てる方も面白いだろうと
攻撃的な姿勢を全面に押し出したスタイルは、やんわりしたとらえどころのないが
硬質なプレーにはひ弱なところも見せるようだ
でも、やっぱり好きなんだなこのスタイル
自分がコーチした小学生・中学生のチームも守りはイマイチ
点は取れるテームだった
(同じメンバーでもコーチがかわるとチームのプレースタイルがかわるのだった)

でもこれで決勝は面白くなるかも
アヤックスが勝ち残るかそれともトッテナムが同様に逆転で勝ち上がるか
個人的にはアヤックスの若々しいプレーが面白そう

リバプールは決勝進出だがクロップさんの決勝戦の相性はシメオネさん同様に
何故かあまり良くないみたい
香川を見出した監督さんとしてビッグイヤーの勲章をあげたいけれど
サッカーの神様は気まぐれだから、、どんな結果を準備してることやら

 

 

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長い連休でも社会が成り立っているドイツ(何故なんだろう)

2019年05月07日 08時25分42秒 | あれこれ考えること

長い連休が終わった
今年のラ・フォル・ジュルネはプログラムに好みのものがなかったのでパス
どこかに行かなくてはならないという年齢でもないし、その脅迫感もない
それどころか出かけた先の混雑を思うと、外出の意欲は全く起きない
結局、菖蒲湯に入って柏餅を食べて、家に飾った五月人形をバックに
ちびっこの写真を撮って、、、あとはダラダラと過ごした

この連休に知り合いがドイツ旅行にでかけた
その様子がFBに投稿されていたが、ライン下り、ハイデルベルク、ローテンブルク、ノイシュヴァンシュタイン城
ミュンヘンのビールなど定番のコーズを楽しんだようだ
現役の仕事人は少々料金がのしてもこの時期に行くしか無いのかもしれない

連休の最終日、TV番組では10連休をどう思うかと街角インタビューを行っていた
その中では「長すぎて疲れた」「連休の長さは5日位で良い」の答えが多かった
みんながみんな連休をエンジョイできたわけではないし、その社会的背景も考慮するところは
多分にあるが、それでもこの比較的長い連休について少し思うことがあった

ドイツはウアラウプという長い休みがある
誰かが休むと別の人が困るなどという日本的な心配ごとは全く無いようで
担当の人間がいないと知ると、「ウアラウプだから仕方ない、お互い様」
と考えるようにしているらしい
またドイツ人はウアラウプの過ごし方を前もってあれこれ考えることが楽しみなようだ

ドイツ人みんながみんなウアラウプを満喫できているわけではないし
職を外国人移住者に奪われつつあるようなところもあるようだが
それでも、連続して2週間ほど休むウアラウプが当たり前のように社会に存在し
それで仕事が回っていき、経済も労働生産率も高いままでいることは
日本人は「何故それが可能なのか?」とよく考えたほうが良いのかもしれない

日本で当たり前に思われている「一生仕事」というのはある分野の人にとってはそのとおりだが
そうでない人たちには、苦役でしかない
労働・仕事・活動と区分して人は何を目指すべきか、、との考察をしたのがハンナ・アーレント
これは読んでいないので理解が違っているかもしれないが、何となく言わんとすることはわかる気がする
労働を、それはある種与えられたもの、指示されたものをこなすことにより時間を費やす
そうして時間を潰すことは、自分自身で自分の時間を追求するよりは精神的に楽なのではないか

何かを自分で考えるより、上から命令されて、言われた以上のことを行う
これが日本人の安心できる暮らし方・メンタリティなのかもしれないと思う
水戸黄門で印籠を見せると無条件に「はは~」と跪いて、善悪の判断を自己放棄して水戸黄門さんに委ねてしまう
勧善懲悪でこれは良いのだが、それでも権威に対して無条件に従って、それで良しとするところは
なんだかな、、、とへそ曲がりは思ったりする

きっと自分で考えて自分の責任で何かを行う、、というのは思いの外難しいのだろう
だからこそ連休中のスポットはみんなが行くところに行って安心する
(自分で考えているようで実はコントロールされているのかも)

ということで、どこにも行かなかった出不精な人間のヒガミ
ところで、連休中は出かけなかったが、当日(15日)の天気予報を見て計画中の場所が一箇所ある
この行事を見て、年初からのマイブームは一段落のつもりだが、、、



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今のタイミングで読み返す「ツクヨミ 秘された神」

2019年05月03日 09時12分19秒 | 

再読中なのが「ツクヨミ 秘された神」戸谷学

ツクヨミとは古事記では三貴子のひとつで天照大神と素戔嗚尊との間に挟まれて生まれた神
しかし何故か神社等での扱いは極めて少ない
この疑問からスタートするが大胆な仮説と参考資料の紹介が興味深い
(再読なので読み進めるスピードが速い)

5月1日には剣璽等承継の儀が行われて剣と勾玉は新天皇が引き継いだが
ならばそこで扱われなかった鏡はどうなったのか、、、との疑問が起こるが
この本によると賢所の戯というのがあって、そこで済ますことになっているらしい
(確かに賢所の儀というものが今回も行われたようだ)
そしてその鏡には他にも驚くべき秘密が、、、(形代としての鏡の数や重さ等)

戸谷学氏の著作は他にも「三種の神器」「ヒルコ」「ニギハヤヒ」があって
とんでもなく難解というわけではなく、いい意味でSF的(伝奇的)で読みやすい
(高橋克彦氏が伝奇小説のネタにしそう)

確かに言われてみればそうなのだが、草薙の剣は伝説ではヤマタノオロチの体内から
取り出した剣で、本来ならば重要視されるのはヤマタノオロチを成敗した十束の剣となるべき
それが敗者の方である天叢雲剣のほうが大事にされているのは何故か
とか、天照大神が鏡、素戔嗚尊が剣と関連付けられるならば、勾玉はツクヨミと
深く関係しているのではないか  とか大真面目に説いている
(そして勾玉の形状は、、、)

これらの本は何年か前に古事記がマイブームになったとき読んだが
再読していたら、京都ばかりではなく奈良にも行ってみたくなった
特に石上神宮 物部氏と深く関係している神社で、そのようなこととか
古事記を少しでもかじっているととても興味深い

連休中のお気楽な話、、、





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ガラス玉演戯名人の退位と4月30日

2019年05月01日 08時54分18秒 | 

平成から令和にかわる瞬間の渋谷スクランブル交差点とか大阪道頓堀での大騒ぎは
テレビ中継がなかったら果たしてあそこまでのものになったか、、
これは結局はメディアに振り回されかねない現代的な現象でこれからも続くと思われる
(それが良いことか、そうでないことか、、、)

天皇が退位の言葉を報告するその日
ガラス玉演戯名人がその職を辞退する部分を読んだ

ヘルマン・ヘッセがノーベル賞を受賞するきっかけとなった小説「ガラス玉演戯」は
地の部分がとても多い文章で読むのに集中力と多分経験を要する小説
舞台となるのは空想的な、ひところの複雑系の集団とか組織を思わせるもので、音楽・哲学・文学・科学等の
真面目で優秀な人達の集団に所属ししたクネヒトが、その最高位を得るまでと、退位を決めて
きちんとした手続きに従って去っていく物語

この大作はクネヒト作の詩と奇妙な3つの履歴書で終わる
かなりの集中力を要するので気合を入れて読んだ昨日の部分が、たまたま天皇の退位とかぶる部分で
いろいろとそちらの方面の想像もしながら読み進めた

最高位を得て、なおかつ信頼を得ていたクネヒトが何故その職を投げ出すことになったのか
それはクネヒトの感情面を大切にする(結局はヘッセの傾向なのだが)覚悟から生まれる

不幸があったためにそれを避けるために作られた理想郷のようなガラス玉演戯の集団
選ばれた人が真面目にその得意とする分野で真剣に取り組み、そこでは普通の人が達することの
できない高みの知識・知恵を得ることができる
しかし、それは単なる象牙の塔に過ぎないのではないか、、
実際に生活する人々は家族を持ち、野心も競争も妬みもあり食べるための仕事にもつかねばならない
そういう世間の人々の暮らしを考えることなく純粋培養されたような世界で
たとえその世界は高度な秩序をもち、説明すれば納得せざるを得ないとしても
それでも、この美しい集団は時間を経るに従い思考・行動のパターン化によりその活力を失っていく
クネヒトはこれを感じた、そして感情の命ずるところは外の世界に出よ!というところだった

小説はクネヒトの退職を願う書類の章から後の章は、ヘッセの真面目なそして深くて優しさに満ちた考察が
いたるところで感じられて、この部分こそがノーベル賞に値するとされたんだろうと想像される
そして昨日退位された方も、自分が開放されるだけではなくこのように外に出る、、
という選択をされたのでは、とつい連想してしまった

ヘッセは外に出る、、安住の世界から出る  というテーマを何度かに渡って繰り返している
「知と愛」のゴルトムントは、ナルチスからここにいるべき人間じゃないと助言され
修道院から外の世界にでる
「シッダールタ」でも主人公のシッダールタは、友が従ったゴータマ・シッダールタにはついていかず
ほとんど道を外れた世界に飛び込んだ
ドストエフスキーでは「カラマーゾフの兄弟」の三男のアリョーシャは外の世界に出るべし
とゾシマ長老から暗示のような言葉をかけられる

人は社会的動物で世間と関わり合いなく生きることは難しく、そこでは抽象化された理想世界とは大きく異なる
その世界に実際に暮らしてみる、、そして感じてみる
そのことはとても大切なことで、現在の官僚さんや政治屋さんにも感じてほしいと、つい思ってしまった
(官僚さんや政治屋さんがヘッセを読んで、身につけていれば少しは今とは違うことになっていそうな気が)

ところで、クネヒト作の詩
以前は「シャボン玉」が好きだったが
昨日は「異教徒反駁哲学大全」を読んだ後に  という奇妙なタイトルの詩の中の以下の部分が心に引っかかった

我々の中で最も自分を信ぜず
最も多く尋ねたり疑ったりするものこそ
おそらく時代に影響を与え
青年を教化する範となるだろう
自分自身を疑って悩むものが、おそらく
いつか果報者としてうらまやれるようになるだろう


改めてヘッセはすごいと実感

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