パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

昔も今も、静かにできないのは何故か

2019年05月29日 08時40分14秒 | あれこれ考えること

今でも覚えている小学生時代のことがある
月に一度、ある学年より上の学級委員が集まって会議が行われた
一番上の学年になってその会議の議長の役割をしたときのこと
確か「今月の標語」みたいなものを決める時だったか、それに似たようなテーマの時
会議の部屋がざわついた
メンバー同士が勝手におしゃべりをしているのだと思い込んで
議長の権限で「静かにしてください」と声をかけた

それで静になると思いきや、この少しばかりイラツイた命令(?)は
ほとんど効果がなく、その後何度も繰り返さなければならなくなった
「何故、暫くの間静かにしていることができないのだろう?簡単なことなのに」
覚えているのはこのように感じたことで、いつまで経っても不思議だとの思いは消えなかった

この言っても聞いてくれないとか、静かにしたとしても一瞬だけですぐに自分たちの
したいことを優先してしまう事態を、今になって再び経験することになった
少し前からお手伝いしている外国出身の小学生の勉強の手伝いは、この現象との戦いのようだ
一時間の勉強タイムに集中できない子がいる
宿題やドリルなどをするのを見ているが、途中で横や前にいる仲間に話しかける
漢字を一行書くだけとか計算を数個するだけで、もう気が散らばってしまう

ここで困るのはこの子達のこうした行動が、少し異常なことなのか
それとも割合あることなのかわからないこと
常識的には集中できないことを叱るのが普通なのだが、そこでつい思い出したのが
冒頭の小学時代の記憶
彼らは何故、静かに集中できなかったんだろう、、、
そもそもそれはそもそも無理なことなのか、
それとも厳しくすれば効果があるものだろうか、、、

月木の朝のあいさつ推進運動で小学校の校門まで近所の子らの付き添いの間
5年生の我が家にかくれんぼの遊びに来た子に、現在の学校の授業の様子を聞いてみた
すると最近はなくなったが授業中隣の席のことおしゃべりをしてる子がいる
とか男の子は少し騒がしいとか、、、でも授業ができないほどではないとのこと
「なんでそんなこと聞くの?」
確かに彼女らにとっては変な質問に思えただろう

やはり相対的には集中できない状態は少しばかり普通ではなさそうな印象
では何故集中できないか
大人からすれば、自分のためにしてるんだよ、というところだが
勉強の内容もよく理解できていないとすると、、わけのわからないことを延々と
しなければならないのは、辛いだろうな、、ということは想像できる

単なる子どものわがままなのか、それとも画一的に強制されることへのささやかな反発なのか
こういうときは優しく言葉でわかるように伝えるのか
それとも大声で叱って半ば強制的でもやらせるべきなのか、、
正直、その答えはわからない

あの場所に来ているボランティの人たちは、一様に子どもたちが普通に生活できるような
知識・知恵を日本人の子どもたちと同様に持ってほしいと願っている
その人たちとの会話に出てくるのは現在の学校の授業のこと、教育にかける予算のこと、
そして親を含めた社会のこと
子どもたちのような弱い立場に社会の歪のしわ寄せが来る(気づかなかいうちに)

社会を知るということは、良くしようとすることは、こうした現場をよく知ることから始まる
と改めて認識する毎日

前回試しに、怒らない自分が大きな声で怒るというシーンを演じてみた
たまには必要かな  怒らない人が怒るほうが怖いと言われるし
(子どもたちが「教えて」とか「見て」と言ってくるのには弱いけど)





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