パンセ(みたいなものを目指して)

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中日新聞社説「ピケティ、その後」から思いつくこと

2015年10月18日 08時57分12秒 | あれこれ考えること

先日フト思い出したようにピケティの事を取り上げたが
今日の中日新聞の社説にも「ピケティ、その後」と題された社説が載っていた
 

数日前、MARUZENに寄った時ピケティの「20世紀の資本」の売れ行きを聞いたが
最近はそれほどでもないとのことだった

またもや、日本人の熱しやすく覚めやすい国民性を表していると
少しばかりガッカリしたが
実際のところこのブームの時機のこの本の取り上げ方(メディアも書籍の業界)も
日本はちょっと世界とは違っていたのではないかと思ってしまう

日本はあの厚い読み終わるには時間を要する本よりは
その要点を解説した本、キーポイントを要約した本が
より多く売れて、日常の会話でもその要点に沿って
会話がなされたのではないか

つまり、 経済的不平等が増してゆく基本的なr>gという不等式に
ついて、それを認めるか(日本において)認めないかの
十分な考察もしないで、なんだか最新の知識を要領よく
手にした気分になることがトレンディだったり価値あることの様に
思われていなかったか、、

あの本で否定されたトリクルダウン説は依然として
安倍さんの経済政策には恥ずかしげもなく
またもや取り上げられている

仮にピケティの言うよなことが日本では当てはまらない
としたら、そのことについてもっと学問的にも検討されるべき
だったのではないか 

自分がピケティの「21世紀の資本」で一番印象に残っている事は
その説の妥当性や、持論を証明するための大いなる苦労ではなく
何故ピケティがこの本を書いたのか!という点

有名になりたいといった野心がなかったとは思わないが
それよりは人として格差(不平等)に対する怒りとか
それから導かれる効率の悪さを世の中に知らしめたかった
のではないか、と感じさせるような著述がところどころ見られたこと 

日本人は物事を突き詰めて考えることが苦手で
ある段階で、「真実は単純である」と言う考え方に
なびきやすい

ベートーヴェンの5番のシンフォニーもあの運命の動機で
統一されて簡単に言ってしまえば「美は単純である」と
理解されそうだが、空前絶後の伝説的指揮者 フルトヴェングラーに
すれば、5番のシンフォニーはなんという難しい構成的な調和で
成り立っているかということで、それは簡単に「単純」の一言では
言い尽くせないものとなっている
フルトヴェングラー自身が「単純」と言う言葉を使うときは
素人が感じる「単純」とはその次元が全然異なる

日本は八百万の神がいたるところにいて
おおらかに何でも受容してしなうところは一神教の偏狭さよりは
日本の自然に囲まれていると納得できるが
それでも、クリスマスのあとは神社に初詣、お盆はお寺さんとお墓にお参り
結婚式は教会がホテルまで出張し、亡くなるときは仏教でなされるといった
姿を見ると、おおらかというよりは節操が無い
もしくは商業主義に乗っているだけと感じない訳にはいかない

しかし、全部が全部日本人は根本を突き詰めて考えていない訳では
なさそうと思わせることがある
明るいニュースのノーベル賞のこと
素粒子論の最前線はそれこそ突き詰めて、あらゆる可能性を考えては
捨て去ったりしているに違いない
この分野の人たちは世界標準で突き詰めることができている
しかし、こと表面に出てくる生活や生き方、経済については
突き詰めることは面倒臭がって避けている

今読んでいる「意識は傍観者である」とか「働かない蟻に意義がある」
を鑑みると、組織全体がレベルが高くなることはどうも無理そうな
気がしないではないが、それでも、現在のような
なんとなく軽薄な捉え方だけで終止する世界には少しばかり不安を覚えてしまう

年齢を重ねると、いろいろ文句を言いたくなったり
いらぬ不安を覚えてしまうということかもしれないが、、 

 

 

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