パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

宗次ホールでベートーヴェンのラスト・ソナタ(伊藤恵ピアノリサイタル)

2019年04月14日 10時34分23秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

コンサートやリサイタルを聴きに行く一番のきっかけはプログラム
そのうち演奏者も追加されるかもしれないが、今のところは
演奏される曲目に関心があるかないかでチケット購入を決めている

昨日宗次ホールにでかけた
プログラムは大好きなベートーヴェンの32番が入っている

演奏者は伊東恵さん

このベートーヴェンの32番のソナタは生で聴くのは(多分)通算三回目
その1つは同じ宗次ホールでイェルク・デームスで2年前に聴いた
だいぶお年を召していらしたし、ウィーン三羽烏のなかでもグルダほど有名ではないので
大好きな曲(32番のソナタ)が聴ければいいやとさほど期待していなかったのだが
これが期待以上の大当たりですごく良かった
何よりも驚いたのはイェルク・デームスの奏でるピアノの音色が今まで宗次ホールで聴いた
誰の音とも違って聞こえた
馥郁たる柔らかな品のいい音、、
前半の休憩時間にピアノがいつもと違っているのかと舞台の前まで確認に行ったほどだ

そして年齢を重ねた人の奏でる音楽は懐が大きく、なんとも言えない満たされた感じがしたものだった
この記憶は今でも残っているので、昨日の伊東恵さんの演奏もまず最初に気にしたのは音色だった

最初は同じように柔らかい音、、と思ったが直ぐに現代ピアノの強靭な打弦の音の印象に変わった
前半のプログラムのベートーヴェンの30番のソナタは、30.31.32とセットにされてCD販売されるが
いずれも中期のような劇的な音楽ではなく、どちらかと言えば回想を含めた幻想的と表現される音楽
冒頭も穏やかでイメージのベートーヴェンらしくないようなテーマ
そのままのイメージで演奏が進むかと思いきや、生の演奏の印象の凄さは良い意味で裏切られた
なんとこの曲が中期のような中身が凝縮したような、確かに熱情を作曲した人の曲だと感じさせるような
音楽の印象に変わった
そこには何か戦いがあるような、、まだ枯れていないベートヴェンの馬力とか1つの作品を統一感のあるものに
まとめきる力が依然としてあることを自己主張しているような音楽だった
32番と同様な静かな変奏曲の第三楽章でも枯れた感じではなく、まだ気力が息づいている感じ

この印象はメインの32番でも同様な印象で、第一楽章のフーガのところは過去の名人たちが
構造的な充実感を際立たせる多声部的な演奏というより、若い人が何かに挑んでいるような
肉感的な、筋肉量の多い、熱気に満ちた音楽だった
その印象はあの大好きな別世界を思い起こさせる第2楽章でも同じで
最後の高音部のトリルの部分も、また回帰するような鐘の音を連想させる音形(この部分が好きなんだが)も
年齢を重ねた人の振り返りのような音楽とはなっていなかった
と言ってもそれが不満というのではなく、これもあり、、というのが音楽であったり生の演奏なのだと思うことにした

伊東恵さんはこの宗次ホールでシューベルトの21番のソナタを聴いたことがあった
その時は今回以上のパフォーマンスだった
特に第2楽章の時が止まるかのような響きに惑溺するような箇所は、ロマン派の真骨頂のようで
その楽章が終わったあと、フッと緊張感から開放されたような瞬間は今でも覚えている
ベートヴェンの32番も同様なこの世とは思えない高みに向かっていく音楽だが
シューベルトほど響きに惑溺はしない、、もう少し理知的な構造的な秩序に対しての挑戦がある
構造的な取り組みと言ってもバッハほど理屈っぽくはなく、その中にも感情の変化も奇跡的なバランスで表現されている
現時点では伊藤恵さんはシューベルトの方が素直に共感できているのではないか、、とも想像した(勝手に思ったりした)

実は今回のリサイタルはプログラムだけでなく伊藤恵さんだから来てみようというのもあった
以前、彼女がNHKFMで渡辺徹とコンビを組んでクラシック啓蒙関連番組の出ていたことがあったが
おおらかな、優しい、ちょっと心配させるような天然系の雰囲気が言葉の端々から感じられて
無条件にこの人はいい人だ、、と思ったりしたものだった

この本当にいい人だな、、と感じさせることが昨日もあった
最後に聴衆に向けて挨拶があった(そんな事してくれなくても文句は言わないけど)
そこで彼女はこのベートーヴェンの32番のソナタを半年前から勉強していて、演奏会では3回目の披露となる
そして弾くたびにまだまだという思いが募ると、、バカ正直に口にした
言わなくてもいいことを言ってしまうところが、イメージしたとおりの人で思わず笑ってしまったが
そこで納得した事もあった
それは彼女の今回の演奏が回想的なイメージよりも戦いのような印象に終始したのは
実際にこの作品の真正面から取り組んでいるせいなのだ、、右も左も、前も後ろもわからない
とりあえず目の前にあることを乗り越えていくしかない、、、といったような
まるで若者の疾風怒濤のような経験をしているからに違いない、、、
そしてそれはきっと間違いないことだろう、、とも勝手に決めつけてしまった

彼女は死ぬまで演奏し続けるといった32番
もう少し時間を経過したら聴いてみたいものだ





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