パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

モーツァルトを感じるということ

2015年01月22日 20時08分00秒 | 音楽

吉田秀和氏の「モーツァルトを求めて」と言う著作の中に
ディヴェルティメント3曲と言う章がある
イ・ムジチ弦楽合奏団の演奏会に出かけて
K136のディヴェルティメントニ長調を聴いた時の事が書かれている

それが自分が経験したのとすごく似ていて
しかもあまりにも適切な表現でなされているので
少し驚いてしまった

抜粋

それが始まった時、私は急にめまいがするような感動を覚えた。
それはまるで明るい、と言うより透明な光の風景の中に突然出た時に
感じるめまいに似たようなものだった。
それまでのヴィヴァルディたちの音楽が暗かったというのではない。
だが、モーツァルトの音楽は、その夜きいていた音楽とまるで違う性質の
光を放射するのだった。その上に、音楽の進む、その速さ、それにともなって起こる
微小だが、しかし、歴然たる変転の継起の速さ。そういうものは彼があんななに
嘆賞し、食欲にそこから数えきれないほどたくさんのものを摂取したイタリアの
大家たちの音楽とはまるで類を異にしたものになっている。
イタリアのバロック末期から前古典期の作曲家の音楽には、もっとリズミックな
音形の反復とか、簡単な模続進行とかを基調にした楽想がそのまま続くよう
書かれているのが普通である。それがモーツァルトになると、同じような
手法はふんだんに見られるのもかかわらず、まるで前途を予測させないような
変化があり、いつ不意打ちされるかわからないある戦慄の影によって、脅かされる。
そのくせ音楽は、少しも不安定な印象を与えないのだ。不思議なことに
それは全体としてそういう聴後感を与えるだけにとどまらない。
不安や陰りの起こったその後も、間もなく、それは光によって解消する。、、、、、、

                   

自分がこのK136のディヴェルティメントを生で聴いたには
イタリア弦楽四重奏団で、その日のメインはベートーヴェンの作品132イ短調だったが
何よりも感動したというか驚きを感じたのがこの曲で、たぶんそれは
上に書かれている吉田氏の印象と全く同じだっと思われる

多分、自分に限らすモーツァルトの音楽を好きだとか愛おしく思う人は
この感覚を経験しているに違いない
そしてそんな気持にさせる力を「天才」「完璧」と言う表現を使ってしまう以外に
思いつけないのだ

しかし、その感覚を得るには子供の心を持つか
時間をかけて身に付けるしか無いのかもしれない

こうした感覚は実生活を生きていく上ではさほど重要な事では無いかもしれないが
一度でもこの感覚を知ってしまうと心の栄養としての存在以上に
生きていく上で必要不可欠なものとなってしまう

ショパンだったか誰かが「死とはモーツァルトを聞けなくなること」
と口にしたが、本当に実感としてそう思ってしまう




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