パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「どうする家康」を見ながら思うこと

2023年02月13日 11時01分21秒 | あれこれ考えること

テレビドラマは出演者の配役でストーリーの核が決まる
ミステリーなどに人気の俳優さんが登場する場合は
少しだけ登場して事件に無関係などということはありえない

今年、映画で見た「イチケイのカラス」でも最初に吉田羊が出ていたが
旬の女優さんをストーリーに無関係な役で使うことは、やはりなかった
(それ故に不自然な気もしてしまうが)

昔、妹がテレビの刑事物を見ていた時、犯人らしき人物が
番組終了の時間を余して逮捕される場面を見て
「この人犯人じゃない、、まだ時間があるもん」と指摘した
確かにその通りだった
同様に有名でない役者が重要な役をすることが無いことも指摘していた

アメリカではオリンピックだったか忘れたが、スポーツ中継を
録画で行った時、いちばん大事な結果は番組の残り時間の量で
想像がついたために(時間が少ない場合は番狂わせはない)
視聴率が上がらなかったことがあったそうだ
だからスポーツ中継はナマに限るとされたようだ

前置きが長くなってしまったが、「どうする家康」では
新城市に縁のある亀姫のお母さん役の瀬名姫に
有村架純さんを起用している
この時点でドラマの一つの山を瀬名姫の悲劇(徳川家の悲劇)に
焦点を当てているのがわかる
この悲劇は「おんな城主 直虎」でも扱われたが
「人の死」という事実は見ている方の気分にも影響を与える
このドラマも先のことを思うと気が重い

最近の自分は007等のフィクションでも敵方が簡単に
銃撃で倒れてしまうことに違和感があって楽しめなくなっている
つい彼らにも家族があるだろうに、、と考えてしまうからだ

昨日の「どうする家康」にも戦闘シーンがあって無名の戦士たちは
無名のまま戦死する役割だった
物語は「勝つと負ける」だけに焦点が合わされ、
勝つためにはどうするか?が重要なポイントとなっている
それは戦略とか戦術とか駆け引きとかと言われる分野の戦いで
亡くなる人の数は単なる数字としてしか認識されていないようだ
(昨日は弓に射抜かれて絶命する人々の姿を見るのが嫌だった)

ロシアのウクライナ侵攻に対して、テレビでは軍事専門家たちが
戦略的な方法を高揚感を持って(?)こうなるだろうとか、こうすべきだ!
と解説してるようについ思えてしまうが、それが的確な指摘であったとしても
人の死や家族の苦痛を顧みない「専門バカ」のように思えて仕方ない

人の死が単なる数としか扱われないことは
その世界(戦い)が長くなればなるほど日常化される
つまりは「慣れ」とかそれに伴う「無感覚」というのは怖いものだと思う
自分はプレイしたことはないが、ゲームでは敵を武器でやっつける
のがやたらと多いようだ
このゲームの影響というのはどのくらいあるのか不安を覚えてしまう

同居人はニュースでウクライナの惨状を見るにつけ
「嫌だなあ!」と口にする
昔、いつ終わるかわからない絶望的な時間を過ごした記憶が蘇るからだ
(同居人にとっては終わりのあるドラマどころではなかった)

大河ドラマの視聴率は戦国時代を扱うと高くなるらしいが
それは自分のことではないと分かっていて実害が無いから
評論家風に眺めることができるからだと思う

人は戦うことが避けられない生き物とするならば
戦いはサッカーとか野球とかラグビーとか
負けても次があるという形式のものに限定してほしい




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