行政の無謬性信仰は困ったものだ
行政に限らず司法において、袴田事件における検事総長のみっともない言い訳は
自分たちは間違っていない、、とほのめかしている
この無謬性信仰はのちのち困ったことが起きる
例えば自分たちがちょいと理解できない例をあげると
新東名高速道路経由の新城・名古屋高速バス事業がある
この事業は最初補助金事業だった
補助金を得るためには、その事業の市場性、独自性、将来性、経済性、
雇用拡大可能性などを申請書類に書き込む
経済性とか目標数字はKPIという形で明らかに記される
ただここで困るのは、申請書に現実的に達成可能な数字を書いてしまうと
それはあまりにも小さな数字過ぎて、補助金を与える方は二の足を踏んでしまう
だから、こう言うときは古い言葉で「鉛筆なめなめ」で大きめの数字を書いてしまう
そして、与える側はその数字を無邪気に信用してしまう
こうなると、現実世界では目標とか実現可能性がない数字が歩き出してしまう
ところが、この数字が達成されなくても、補助金を出した側は
自分たちが補助金を出すという間違った判断を下した
と自ら認めるのは、耐えられないことなので、この事業については
だんまりを決め込んでしまう
補助金が通ったら、通した方の責任もあるのでそこ追求されたくないということだ
と言っても、上記はたくましい想像のなせる技だが、それでも
当たらずとも遠からず、といったところなのではないだろうか
こうした自分たちの判断は間違っていないという姿勢でやり切ること
それが地方自治体も、国も異様に多いのではないだろうか
ということで、今日はこれからちょいと重要な出来事で名古屋に
行かなければならないので、時間に余裕がなくて
言いっぱなしに終始してしまうが、ちょいうと気になったのは
こうしたことということ