パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

難しくて面倒くさい問題

2019年03月28日 08時57分03秒 | あれこれ考えること

今国会、野党が追求した統計問題は「難しすぎた」との評価があるようだ
地方に戻って支援者の声を聞いても統計問題はちんぷんかんぷんの理解で
それ故に関心がない状況が現実と実感しているようだ

これは統計そのものの技術的な理解が、なれていない人には直ぐにストンと
わかるわけではないことと、数字的な意味が現在・将来にどのように影響するかを
直感的に想像することができないためと思われる

このように専門家や少しばかり想像力のはたらく人にとっては重要な問題
と思われることが、一般には「わからなくて面倒なこと」とされることが少なくない
この傾向は市でも時々見られる
ある事柄を考え判断するのついては、その前提となるかなりの情報と知識が必要となる
その知識を一般の人が得るのは(そもそも知識・情報を得ようとするかどうかが不明だが)
正直なところある程度の自発的な努力が必要となる
これが当事者の場合は必要に迫られてリアルに感じられることかもしれないが
当事者以外の人間にとっては「想像する世界」の出来事で、自分がそれほど真剣にならなくても
誰かに任せておけば上手く回っていくと思い込んでいる節がある

その誰かが首長であったり議員さんであったりするわけだが、一般人は彼らを自分たちを代表して
というよりは、面倒くさい細かなことをちゃんと理解して正しい判断をしてくれる存在として見ている

ところがその人達の判断が本当に正しいのだろうか、、、と思えるようなことが起きると
今度は一般人は自分の実生活で得たものから、単純化した白黒の問題として置き換えて
自分たちの意見が正当(常識的)で、選ばれた人たちの判断は間違っていると言いかねない
この状態がオルテガの「大衆の反逆」となるわけだが、現実にはそこまでいかないくて
一般人の感覚と違うからと言って批判することと少なくないと思われるし
それはそれで、ある範囲内で必要なこととも思われる(個人的には)

そこで問題は、話が面倒になってきた時その問題を理解するのに多くの人は
問題点の詳細なことを知りたいと思うか?ということで、冒頭の「難しすぎる問題」は
もう少しわかりやすい単純化された概念に置き換えられることが多くなるのではないか
つまり「誰かが悪い」というシンプルな言葉で代表される概念へ
(安倍さんの何が悪いか、、ではなく、安倍辞めろ  というように)

ところが今度は「誰かが悪い」というのは、穏やかな人々にはそう簡単に受け入れられる考え方ではなくて
ナチスドイツ時代でも、その当時ヒトラーが悪いということは自国(ドイツ)を自ら批判するかのようで
善良な方々も積極的に行動できなかったと言われる

過激な言葉に対して距離を起きたい感情と(若い人は政治的に批判的な言葉・態度は好きでないという調査結果もあるようだ)
難しいことはわからないし面倒で、まだ自分の問題ではないと感じること
仮に難しい問題だとしたら、自分たちが努力しないでもわかるように単純化してわかりやすくして欲しい
といった普通の人がつい犯してしまいそうな行動・考えかたが、最近のあまり好ましくない状況を作り上げる
要因になっていると思えて仕方ない

要は、面倒なことは結局のところ自分に返ってくる問題となるので
自分でできる範囲で賢くならないと、最終的には望ましい結果をもたらさないという実感を
最近つくづく感じる、、ということ
しかし、面倒で無関心でいる人の気持ちもわからないではないから、困ったものだが

 





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