パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

判断基準としての理性と感情

2019年03月24日 08時50分34秒 | Weblog

日曜の朝らしくない変な思いつき

「理性は感情の奴隷である」との知る人ぞ知る少しばかり有名な言葉がある
スコットランドの哲学者デイヴィット・ヒュームの評判の良くない言葉だが
ある種の人々には当然の事のように思われていると思われる
(ある種の人々とは?)

ミステリー小説のブラウン神父でお馴染みの作家・批評家・詩人・随筆家のチェスタトンは狂人について、
「狂人のことを理性を失った人と言うのは誤解を招く。狂人とは理性を失った人ではない。
狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」
との言葉を残している

2つの一見関係ないような言葉だが、ある種の人々には同じことを表現していると感じる
それは「理性の限界」について述べていること
(「理性の限界」という高橋昌一郎の本があってとても面白い本だが、少し違うニュアンスの内容)
人が万物の霊長として君臨できているのは「理性」のおかげと考えられることが多く
それ故に人の判断は「理性的」であれとされる
ところが人には厄介な「感情」というものが備わっている
この感情が物事を判断する時に大きな力を発揮しだす
理性では(知恵の集積の結果として)こうすべき出る答えを感情が受け付けなくなってしまうことがある
ここで理性と感情が喧嘩をすると、、勝利をおさめるのは、、多くの場合感情の方

ただ感情は後で分かることだが良いことばかりでなく多くの間違いも起こす(間違いの判断もする)
その最たるものは犯罪とか、より社会的な規模ではポピュリズムが挙げられる
勢いとかその時の雰囲気に感情が飲み込まれてしまった失敗は、人は嫌というほど経験している
それ故により失敗の少ない理性を感情に先立って優先させようとするのは無理からぬ成り行き
しかしここで問題は、人間はなかなかそうあるべき姿に簡単に従えないという現実
それは良いと悪いというのではなく、人にはそういう傾向があるということ

一人ひとり全く違う感情(意識)というのもが人に備わっている理由は何故か
と考えると、その方が生物学的に生き延びる可能性が高いからとも考えられる(個人的には思う)
みんなが同じ方向を持つより、生物が突然変異を起こしてある種の環境変化に対応して
生き延びる可能性を確保していくのと同様に、人の呆れるほどの多くの感情はそれがある方が
生き延びる可能性が高いから、、、と思われるのだ
それは間違いを起こしたとしてもその方が生き伸びる可能性が高いと(誰かが?)判断しているような、、

残念ながら人は抽象化された理想・あるべき姿を求めて生きられるのではない
むしろそうしたことを面倒と思うほうが多い
でも何故かそういうボーッと生きてるような人たち(自分も含めて)が
感情に沿ってなにか変だとか、これが良さそうと判断することは
理性の厳格な定義付けから導かれるものよりはしっくり来ることがあるし
長い間ではその力が社会をつくってきたように思われる
そこには深い洞察力をもった粘り強い感情と理性の関係について考え抜いた人の存在があると思われるが
要は、感情を無視して適切な判断はできないだろうな、、ということ

最近、裁判とかある種の議論に参加する機会があり、因果関係の整合性とか論点整理の単純化で
どこ感情が置いてけぼりにされてるような気がしたので、少しばかりグダグダと愚痴ってみた
相わからずまとまらない話、、

コメント
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