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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

よくわからないが、明らかに男とは違う女の音楽

2018年12月12日 18時02分10秒 | Weblog

何十年ぶりだろう、甘酸っぱい記憶のあるレコードを引っ張り出して聴いた
メモリー 小谷野とも子ファースト

あのときは、誰かを思いながら聴いていて、今でもその時のことを思い出す
伸びやかな湿り気のある声質でインパクトのある歌い方
最初の曲「孤独の旅」とか「雨」が好きだった
だが今聴くと少し恥ずかいというか、距離をおきたい気がしてくる
それはこの世界が「真夜中のラブレター」みたいにあまりにもその世界に入り込んで
客観性を欠いて少し恥ずかしいような気がしてしまったから

このアルバムの世界は、女だけしかわからない世界のようで、男はちょっとついていけないぞ、、
そんな気がした
だがそのうち、こんなふうに感じたのは今回が初めてではなかったことを思い出した
似たような印象を持ったのは、竹内まりやのアルバムを聴いた時もそうだ
中島みゆきのアルバムもそうだったかも知れない
外国人ではジャニス・イアンの「愛の回想録」を聴いたときもやはり似た印象を感じたような、、
(女の世界すぎる、、、ような)

こうした印象は歌詞のある歌だけで感じるものではなく器楽曲でも似たように感じることがある
マルタ・アルゲリッチの弾くバッハ・ショパンは、「女の直感」で遠慮なく突き進む
何故かそう感じてしまう

男と女の差、うまく言葉にできないが、確かに存在する感じ方とか好みとか捉え方、そして表現の違い
女の感じ方はよくわからないが、、男の自分からするとブルックナーの音楽が女性受けしないのはなんとなくわかる
それは男性原理でできているような曲だから
でも残念ながら根拠のあることではなく、ただそう感じる、、というだけで、説明しきれないのが情けない

ところで古谷野とも子さんは伊勢正三さんの奥さんだそうだ
びっくりしたのと、なんとなく納得するような気がした(またもや気がした、、、だけのことだが)



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嘘について

2018年09月19日 19時30分16秒 | Weblog

「嘘をついたことがない」
を嘘だと思うのは、人生経験を積んだ人間なら誰もが思うこと
いや経験をそんなに積まなくても、子どもでも自分を振り返ると
そんなことはありえないと思うだろう
そして「嘘をついたことがない人はいない」と考えるようになる

嘘を言わないことが前提となっている場面がある
男と女の間でいろいろありすぎて微妙なところだが
裁判の場とか国会だとか、地方都市の議会では正直であってもらわないと困る

最近、嘘、あるいは辻褄の合わないことを裁判の場で経験した
裁判の証人になるとまず宣言をする
「良心に従って、ほんとうのことを申します。
 知っていることをかくしたり、無いことを申したりなど
 決していたしません」
この文章を読み上げて署名捺印を行う

国会の証人喚問も似たような段取りで行われる
そして、この過程を経ることによってその後の発言はすべてほんとうのことを
話していると判断される

しかし、それでも嘘や本当のことを言わないのが人間
直近のある裁判では4人が証人台にたった
一人は原告側の証人、後の3人は被告側の証人だが
ここで誰かが嘘をついているか、意図的になにか隠していると思われる状況が発生した

まずは、原告側の証人(K)は、被告側の証人はふたり(HとY)とも懸念となっているある問題について
その分野の専門家である自分(原告側証人)に相談にきたと証言をした
(具体的な話しぶりを挙げながら)
それに対し、ふたり(HとY)は相談に行ったことはないと否定した
最終的には記憶の限りでは、、という逃げの手段があるかもしれないが
明らかに話の辻褄が合わない

もうひとりの証人について、原告側の証人(K)は
「彼(証人HR)はある時、自分に向かって、そんなことになれば〇〇ができないじゃないか」と大きな声を発した
「彼(証人HR)はそもそも問題となっている人物(M)を早くから知っていて、ある海外旅行(視察)には彼の奥さんが同行している
 また、市内のある酒場で問題となる人物(M)と盛り上がっていたところがあると知り合いの人物から聞いた」
と証言しているが、被告側の証人(HR)は
「そんあ〇〇ができないじゃないか、、と言う発言をしたことはない」
「問題となっている人物(M)とは面識がない。酒場で同席したこともない」

裁判ではこの問題が本質的な問題ではなかったせいか、証人の間の話が違うことに関しては
追求しなかったが、普通に考えると原告側の証人か被告側の証人が(嘘を言わないと宣言したのに)
嘘を言っていることになる

つまりは宣言したところで、嘘をつく人は嘘をつくということ
それが嘘なのか記憶違いなのか失念しているのか、、いろいろだろうが
都合の悪いことは発言しないでいわれるのが、人間の共通認識のようだ

嘘ではないかもしれないが、行政も時々微妙な発言をする
特に行政の話は素人にはわかりにくい
本当に幾多の法律に縛られて、素人の知らない情報を手にして、それを自分たちに都合よく
切り取って、もしかしたら人が勘違いするかもしれない、、というような発言をする

抽象的な話だが、何年か前にこんなことがあった
「大きな道路に面した駐車場が〇〇平米以上ある場合は、法的には右折して出ることが出来ません」
混むことが予想される道路に出るのに、〇〇平米以上のような多くの車が駐車できるところでは
右折を許可すると渋滞がおきて、かつ危険と想像されるからなのだろうと理解したが
この〇〇平米というのが、行政の法的な説明がとても意地が悪かった

その時、この駐車場に関して検討をすることになっていた市民側はこの〇〇平米というのは
純粋な駐車場の総面積だと思っていた
市民が提案した案では、この駐車場の面積では右折が出来ず、
使いづらいものになってしまいますよ、、、とのことばで市民案は批判された

ところが、その後出てきた行政の案というのが驚くことに
なんと市民案そっくりの駐車所をつかっていても、右折できるというものだった
その秘密というのは〇〇平米というのは駐車場全体の面積ではなくて、一台あたり2M×4.5M(だったかな)で
換算した車の全体の駐車スペースのことで、ほんの僅かだけ〇〇平米を下回るような駐車場を提案してきたのだ
(見た感じでは市民案と行政案の駐車場はほとんど違いがないのに)

これは文字で書かれていることは抽象的でイメージしにくいかもしれないが、
とにかく行政は嘘ではないかもしれないが、微妙に本当のことを伝えていない説明があったということ

作ってもらった料理が美味しくなくても「美味しかった」と言う嘘は気遣い
スポーツ選手が怪我をしても「痛くない」といって仲間を安心させようとするのも気遣い
このような嘘は、騙されている方も気持ちがいい
でも、上記のような事柄は、その意図するところの不純なところからあまり嬉しくないものだ
(これってカントが何か言ってたような気がするが、、)

最近は、(嘘も)言ったもん勝ち、、といった傾向が見られるようで
何かが荒んでいる気がしてならない
なんだかな~  

※裁判とはあの行政裁判のこと、市民案というのは新庁舎建設見直しのための実務協議で提出された案のこと







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常識という力

2018年08月02日 19時14分57秒 | Weblog

あるきっかけで弁護士という職業のひとと打ち合わせをすることが多くなっている
会話は実務的な話以外にも飛んで、各地方自治体の裁判の例だとか、珍しい出来事だとか
気になる国のことだとか、、これらが弁護士の視点とか知識の中で紹介されてなかなか興味深い

つい先日はある市議会の懲罰動議(委員会)の話が出た
これは新城市議会でも発生した出来事で、ある議員の発言が議員としてふさわしくない
(その理由もしっかり調べてみるとかなりアバウトな理由だったが)と懲罰委員会が開かれ
最終的には、該当議員は議場で議長からのお小言を聞かされ、陳謝の言葉を述べるということになった

それで、我市でも同じようなことがあったと、何気なく伝えたところ
なんとあっさりと、懲罰動議とか委員会なんてものは、意図的に誰かに意地悪するようなことで
そんなのはよくあること、、、と言われてしまった
法に則って粛々ではなく、もっと人間的な好き嫌いに左右されることが多いらしいことを知って
驚いたというより、やっぱり、、と自覚したのは少々情けないが、、人間たちの行うこと
しょうがないな、、とも感じてしまう(最近この善悪の判断が甘すぎる傾向が自分にあるような気がしてきたが)

弁護士は若い人物と事務所を経営しているやり手と評判の二人
尋問の役割分担の話をしていた時、若い弁護士に向かって
「君はその分野の知識は十分に持っているか?そうでないならその様子は相手に読み取られてしまうし
相手が専門的なことを何やら言われたらごまかされてしまうぞ」
と同僚にいう言葉としてはきつい言い方をした

その瞬間話を聞いてるだけの自分の頭に浮かんだのは、市議会における一般質問の状況だ
議員さんは行政にいろいろ質問をする
一応調べてその場所に向かうが、相手の行政は一年中その仕事に取り組んでいる専門家
議員さんの知らない法律や情報を、長い前置きと同時に答える
そうなると議員さんは一気に不安になる、自分だけが知らないのか、、と
おまけに最近は反問権などというものが存在する、それが質問の真意を尋ねる使い方なら良いが
ちょいと意地悪な無知を晒してやろうとする意図がある場合には
議員さんは少しばかり困る状況になることは想像できる、、
だから、困ったものだな、、と、このことを思いながら聞いていたが
次に続く弁護士さんの次の発言は、、なかなかもものだった

「そういうときは、常識という(庶民の)強力なバックが控えていると自覚して、無知を恥じること無く対応すべきだ
 常識的に何かに違和感を感じるということは、世間の支持を受けているとも、、、」
(正確には覚えていないがこんなニュアンスのことを言った記憶)

そうだ、法の静的な解釈とか理解ではなく、生きた人間の自然発生的に感じるなにかおかしいと感じる常識的な感情
それをベースにこと当たるということ、それが現実に生きている生活者の生活に寄り添うことになりそうだ
市議会も裁判(裁判はちょいと違うかもしれない)

この常識的なこと、感情を実はずっと官僚とか職員の方にももってほしいと思っていた
厳密に常識とはなにかとか、庶民の意志とか一般意志とは何かなどと、ことを細かく突き詰めていくと
また観念の迷路に陥ってしまいそう
あまりアバウトすぎるのも困りものだが、ある程度の普段使われる常識という言葉の中で
物事が進められていったならば、、、もう少し世の中は過ごしやすいと思ったりする

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根拠のない熱狂への不安とメデイア

2018年06月19日 15時06分42秒 | Weblog

ワールドカップ、強豪国が苦労している初戦
ドイツが負け、アルゼンチン・ブラジルが引き分け
アジア勢がやっとのことでイランに勝ったのは正直ホッとする

そう言えば前大会で優勝したチームの初戦は案外負けているかもしれない
アルゼンチンが優勝した、あのマラドーナの5人抜きのあった大会の次のイタリア大会では
アルゼンチンは初戦のカメルーンに0-1で負けている

南アフリカ大会で優勝したスペインはブラジル大会ではオランダに負けてたし
ブラジル大会優勝のドイツがメキシコに0-1で負けた
別に法則性はないのだろうが、偶然が重なるとなにか意味があるのかとも思いたくなる

本来ならばこのようなワールドカップのことで頭がいっぱいという状態ならば
幸せなんだが、どうも気になって仕方ないことが頭から離れない
それは最近のメディアのこと
相変わらずスキャンダルを追いかけ、低俗なのぞき見趣味を満足させているような報道のことではなくもう少し真面目なこと
本来はもっと批判的に取り上げたり、時間やスペースを費やすべきものが、それがされていないのではないかという不安
もっと右左の連中からは各メディアは偏向しているとの指摘があるが

このように心配なのは、以前読んだ「太平洋戦争と新聞」の中で紹介された新聞の見出しが
大衆迎合的であり、戦争への道を突き進めてしまったのはメデイアと大衆ではないかと思えるからだ

例えばリットン報告書に対する新聞各社の見出しは
東京朝日 「錯覚・曲弁・認識不足---発表された調査団報告書」
大阪朝日 「認識不足と矛盾のみ」
東京日日・大阪毎日 「夢を説く報告書−−誇大妄想も甚し」
読売 「よしのズイから天井覗き」
報知 「非礼ふ匿(ひれいふとく)たる調査報告」
時事新報 「報告性は過去の記録のみ」
このほか「現実無視」などなど

こんなのを見ると、現在問題となっているどこかの国の報道のことを批判したり笑えなくなってしまう
日本だって以前そうだったと、、
そして問題は大衆はこの様な勇ましい記事のトーンを望み、現実に新聞の売上にもそれが寄与したということ

この本には松岡洋右が国際連盟を脱退して日本に帰ってきたときのことが書かれている

帰国すると避難されると思っていた松岡は、国内では大歓迎を受けて面食らった。
「口で非常時といいながら、私をこんなに歓迎するとは、皆の頭がどうかしていやしないか」と帰国した夜郷里の歓迎会の席上、もらした。

連盟脱退の翌日のジュネーブの「ジュルナル・ド・ジュネーブ」の記事は
「日本はこの14年間、連盟の常任理事国として大きな役割を果たしてきた。二人の事務次長・新渡戸稲造氏と杉村陽太郎氏は
多くの人々の支持と尊敬を得ていた。しかし、日本はいま立ち去ろうとしている。、、、日本は世界に孤立し、いったいどのような
見通しを未来に持っているのか。前世紀ならいざしらず、もはや国際社会に孤立して生きることはできない。日本はこのことに気づいていない」

おそらく客観的な世界の見方が後者の記事
どこか浮かれたような、わけのわからないものにつつまれている、、のが前者の日本
そして、日本のこのわけのわからない空気は、いつの間にか反対意見を述べることができない
大きな流れになり、悲劇をもたらすことになった

ネトウヨさんたちの安倍さん礼賛の客観性のない投稿や、右の人たちのおかしな報道(月間HANADA等)は
どうしても、これらを連想させる
そして大衆が感情的な熱狂にいつか巻き込まれてしまうのではないか、、
という不安を小心者は消し去ることができなくて、ちょいとばかりストレスになっている
こんな時、人は、一体何をすれば、、、、、、何をすべきか、、、

 

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旅から感じとるもの(活かすべきものと絶望感)

2018年06月12日 08時32分09秒 | Weblog

偶然に良い言葉と出会った
「Youは何しに日本へ」という番組のなかで、出演者のアメリカ人が自分のプロフィール写真の背景に写った言葉が
ある機会で知り合った女性のプロフィール写真の背景にも全く同じ言葉が写っていたので、何かしら運命的なものを
感じたということだが、その言葉がなかなか気が利いている

それは
The world is a book, and those who do not travel, read only one page.
(世界は一冊の本だ。旅をしない人々は本を一ページしか読んでいないのと一緒だ。)
調べてみると、アウグスティヌスの有名な言葉らしい

旅をするということは、書物では感じることの出来ない匂いとか生活感とかその場所の秩序とか
人々の共通の価値観とか、、、そうしたものを一気に全体的に実感として感じることができる

自分の住んでいるところを離れて遠くに出かけると、人はその違いに驚きを覚える
物見遊山としてでかけたとしても、そしてそれが外国であった場合には特に新鮮な驚きとなる
そして知らず知らず、自分の住んでいるところとの比較を行ってしまう
それが単純に比較であるうちは良いのだが、知らず知らず「良し悪し・上下」の評価を行うまでとなる

明治から昭和にかけてヨーロッパにでかけた人たちは、先進国の文化・インフラ・生き方に大きな衝撃を受けた
そこには学ぶべきもの、直ぐに真似る価値があることが幾つも存在する、
これらに比べると我が国は、、、、と自国の遅れている部分を否応なしに自覚せざるを得なかった
(自分がまだ若い疾風怒濤の時代、そして日本が経済的に沈むゆくヨーロッパよりも優位にあった時
 後先考えずに放浪の旅へでかけたが、その時感じたのは、日本が経済的に第二の国だと言われているが
 街中に電柱は立っているは、水洗トイレはないは、バカンスの休暇をしっかり取れないは、、で
 実は全然これらの国に追いついていない、、どころか、完全に遅れているし、果たしていつか本当に追いつけるのだろうか
 との思いをもった)

外国との比較が肯定的に今後自分たちのなすべき指針となればそれは問題がない
ところが、西欧の文化とかシステムに圧倒されて自国に自信を失ってしまう様な性格の人は
次はどの様な行動を取るか、、、といえば、多分無理矢理にでも自国の優れているところを探す
そしてそれを見つけて安心感に浸りたいと想うようになる
この国は歴史がある、、独自の文化がある、、家族を中心とした精神的なつながりを大事とした生き方がある
そしてはこれらは世界に誇るべきもの、、と声を大きくあげたくなる

このあたりの感覚は、実は昨年読んだ「天皇機関説事件」の中にもそれとなく触れられていたが
現代の日本の中に馬鹿にできない存在となりつつある「ネトウヨ」なる存在は、この様なメンタリティの
人々ではないのか、、、と思ってしまう

話は飛んでハンナ・アーレントの「全体主義の起源」(2)では、自国からあぶれたちょいとばかりならず者が
未開地(アフリカ)にでかけた時の反応が紹介されている
彼らは肌の色がぜんぜん違う人に直面し不安を覚える
彼らは自分たちと同じ様な考え方を持つ人なのか、果たして言葉や感情が通じるのか、、
そうすると残念なことに彼らは色の黒い人々を勝手に「遅れた人々・下等な人々」と決めつけ
自分たちは彼らをコントロール(支配)できる立場にあると考えるようになる

つまりは自分の頭で理解できないことは、無理やり現在の自分の頭で理解できる概念に当てはめようとする
そこには「彼らの中には彼らなりの秩序や理屈、文化があるかもしれない」といった考え方は全く存在しない

現在すぐに「反日」という言葉を用いて、何かと区別したがり
自国のまずいところは見ないようにして、反対にここがすごい、、と安心したがる人びと
彼らは本当に「一冊の本」を読んでいるのだろうか(世界を把握しているのだろうか)

比較した上で、どの様な地域にも独自の秩序だった生き方があり、幸福という視点からは
なんら区別できるものではない(確かに経済的な格差があり、その影響は無視できないが)ことを
受け入れるだけの余裕がないように思えて仕方ない

人には人の、その国にはその国の良さや秩序があるということ
旅を重ねると「世界はみんな同じだ、人はみんな優しくて、家族が大事で、子どもが好きで、、」
との結論を抱く人が多い
長く生きて得た結果が「自分たちは凄い!」と言うより「みんな同じだ!」と思えるほうが幸せだと思うけどな

ということで、相変わらずまとまりのないグダグダ話、、

 

 

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目力(天才と実務家の)

2018年05月10日 10時10分45秒 | Weblog

何年か前ピカソ展に出かけて、不意に感じたことがあった
それはピカソがきわめて若い頃描いた自分の肖像画を見たときのことで
何よりも鮮烈に覚えているのは、その目の力だ

子どもでもなく大人でもない
なにか何か遠くのものを見ているような、この世ではない何かを見ているような目
まさに天才の雰囲気を感じさせるものだったが、不意に感じたのはこのことではなくて
「モーツァルトの目に似ている」と連想したことだ

モーツァルトの有名な肖像画も、よく見るとその瞳はどこか遠くのものを見ている気にさせられる
大きな瞳、その瞳の奥の脳にははどんな感情やら思考が収められているか、、
そんなふうについつい感じてしまう

この何処か遠くを見ているような瞳の持ち主をもう一人知っている
それはフルトヴェングラーだ(カラヤンの前のベルリン・フィルの指揮者)
彼の若い時の、ジョンレノンに似た風貌の写真は、その瞳は夢見がちの
やはりこの世ではない何かを見つめているかのよう(探しているかのよう)

そんなふうに感じるのは全く個人的なことだが、そのように感じられる自分が
実は少し気に入っている
(思い込みが激しいタイプってことかもしれないが)

ところでこの目の力ということでは、確認したいのが京都太秦の広隆寺に収められているある像
広隆寺と言えば国宝の弥勒菩薩半跏像が有名で、それはとても美しくてその神秘的な微笑みは
眺めている時を忘れてしまいそうな気にさせるが、確認したい像はこの像ではなくて「秦河勝」の像

秦河勝は「秦氏」の親分というか代表的人物
渡来の秦氏の基礎を作り上げた人物(多分)
秦氏一族を異国のこの国でなんとかしようとするような気迫とか迫力がこの像から感じられた

もう一度見たならば同じように感じるか、、とちょっと確かめたい感じ
でも、二度目はそんなに感動しないかもしれない、、
ゴッホのひまわりも、フルトヴェングラーのお墓の前でのことも、がっかりすることのほうが多かったから
だが今度の京都いくときは、広隆寺へは脚を伸ばそう
そして、蚕の社の三柱鳥居ももう一度見てみよう、、

毒にも薬にもならない話、、

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三者三様の変奏曲(モーツァルト・バッハ・ベートーヴェン)

2018年05月08日 17時13分47秒 | Weblog

先日のラ・フォル・ジュルネで楽しいピアノ曲を聴いた
誰でも聞いたことのありそうな曲でタイトルは「きらきら星変奏曲」、モーツァルトの作品だ
変奏曲というのだから冒頭のテーマがいろいろ変奏される
それらを耳で追い、次はこうくるかな、、と想像しながら聴くと興味は倍増する
Youtubeの動画を探すとこれが見つかった

モーツァルト「きらきら星変奏曲」(フィリップ・アントルモン)

モーツァルトの変奏はとても自然で、それでいて多彩で、聴きやすくて楽しいが
ラ・フォル・ジュルネでこの曲を聴いていた時、何故かバッハの変奏曲を思い出した
バッハの変奏は真面目いっぽんだな、、と
その時思いついたバッハの変奏曲が「パッサカリアハ短調」
変奏曲ではゴールドベルク変奏曲よりも好きで、例のシャコンヌと争うほどだ

バッハ:パッサカリア ハ短調 BWV582

最初の低音の音形が何度も繰り返され、その上で様々な変奏が展開される
こうして動画で聴いていても真面目な曲だな、、と感じる
中身がぎっしり詰まっていて、襟を正して聴かねば  とさえ思う

そしたら今度はベートーヴェンの変奏曲はどうかなとついつい連想してしまった
そこで引っ張り出したのが 32番のピアノソナタの第二楽章
Youra Guller plays the 2nd Movement of Beethoven's Piano Sonata #32, Op. 111

動画はユーラ・ギュラーの演奏
とても神秘的な幻想的な音楽、冒頭からどこか別世界の雰囲気を感じさせる
ただ変奏と言うものの、最初のメロディはちょっとばかり何処かに行ってるような気がする(素人には)
モーツアルトの変奏とは明らかに違う
とても技術的だがバッハの技術とも違う
ということで、作曲家の個性とか特質を改めて感じる次第

ちなみに、実演ではバッハのパッサカリアだけ生で聴いたことがない
空間に響き渡るオルガンの音は録音ではカバーしきれそうにないから
機会があったら生で聴いてみたいものだ
というわけで、毒に薬にもならない話、、

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人の醸し出す空気(オーラ)

2018年04月19日 08時37分49秒 | Weblog

そこはまず第一に真面目さ・厳粛さが求められる場所
帽子・外套の着用は許されず、ただ座って聞いているだけの
我々にとってもどこか緊張感を要求されるところ
ましてその人物が部屋に入ってくるだけで、その場の雰囲気は一気に
ひんやりとした張り詰めた空気が漂う

ところが今は人事異動の季節
前回と同じような張り詰めた空気を覚悟していったが
驚くことに後任の新しい人物が入ってくるやいなや空気は
どこかほんわかとした柔らかなものになった

そしてその印象は時間が経って、実際の会話のやり取りにおいても
ますますその印象を強めるばかりで、少しばかり例外的な傍聴席から弁護人へのアドバイスにも
声だてて制止することもなく(それが適切かどうかはわからないが)
しょうがないなあ、、みたいな雰囲気で、いい意味で見逃していた

その場所とは裁判所でその人物は裁判長
1年以上続いている裁判の何回目かの傍聴での出来事
一見理性的で客観的で、専門家なら誰でも同じ様な答えが出そうな裁判システムだが
実際には裁判官の人間性におおいに左右されそうなことが、最近はなんとなくわかってきている

ただ新しい裁判長は、それを人徳と言うのかわからないが、最初から好感を持てる雰囲気、表情を持っていた
正直なところ前の裁判長なら不利な判決が出たら文句を言ってしまいそうな気持ちになっただろうが
今回の人なら「そういう解釈もあるのかな」と少しばかり許せるかもしれない、、みたいな気分になれている

この印象は自分だけでなく一緒に傍聴した数人も同じ印象をもったので
法廷から出るやいなや、今度の裁判長はめちゃ明るい、、との声が出た

引き継ぎの確認をして、論点の整理をして、当たり前のように進むが、ここでも人間の行うことの方向性の違いが少し見られた
前回までの裁判長は重要視していなかったような証拠が、注目すべきものとして扱われるような雰囲気だ
裁判のことはどのあたりまで表に出して良いのかわからないので正確なことはかけないが
要は人の表情とかオーラが醸し出す雰囲気は周りの人に与える印象がだいぶ違うということ

そのことを思うと昨晩、新城市の地元で行われた議会報告会で
怒号が飛び交い誰も聞いていないと思われる状況下で、一方的に自分たちの用意した書類を読んで
強引にその催しを進めようとした人物の表情やオーラは、、、、まったくいただけないものだった

ここで取り上げている裁判とは ⇒新聞各社の裁判の記事

怒号が飛び交うことになっているのは⇒新聞報道のその後

ホント、人間性ってのは表情やオーラに出るものだと強く実感した
(一番困るのは本人は他人からどのような印象で見られているかわからないこと)

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我慢強さとか忍耐力について

2018年04月10日 20時00分55秒 | Weblog

「事実は小説より奇なりです」
と言ったのは、異様に長い間拘留されている籠池さん
この言葉通りのことが、3月の朝日新聞のスクープ以来一気に動き始めている

加計学園の「首相案件文書」政府は今度はなんと言って言い訳をするか、、
ひねくれ者には少し興味があるが、流石に最近の情報の出方勢いは、
もう歯止めが効かないところまで来ているのかもしれない、、と田舎もんは思う

裁量労働制のいい加減なデータ、森友学園の公文書改ざん、イラク日報問題、
前川さんの講演に対する文科省の異様な問い合わせ、普通に考えると
もういい加減にしてくれ、、と言いたいところ
 
でも(自分にとっては不思議なのだが)国民の圧倒的な怒りにはなっていない
そこで少し忍耐力とか我慢強いということを考えてみた
これだけのことをされて国民は、それでもなお「なにもしないでいる」のは
国民が政治的なことに無関心であるのもあるが、悪い意味での「我慢強い」とか「忍耐強い」から 
ではないのか、、と考えてしまう

「善人の沈黙」が結果的には悲劇であるのと同様に、誤った忍耐力とか我慢する力は人々のためにはならない
我慢とか忍耐力というのは、この様な問題に対して問題提起をして、人々に訴え続けること
それが直ぐには響かなくても、それでも尚、続けること、、それこそが真の忍耐力とか我慢する力ではないのか

何かをしないことを継続することは簡単だが、何かをすることを継続することは難しい
たとえば禁酒禁煙の継続と、毎日10分の何かの勉強は、どちらが難しいと言えば圧倒的に後者
と言いつつも、怠け癖が板についてる身としては、偉そうに言えないが、それでも
やはり思うことは、悪い忍耐強さは良くないということ、、、
きっと、人は適度に怒って良いのだろう(キレるというのはいただけないが) 

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より上位の概念(法には触れていない、に対する)

2018年04月02日 08時11分03秒 | Weblog

それを自民党の議員の口から聞くとは思っていなかった
あるテレビ番組に出演した自民党議員が佐川さんの証人喚問について語った
「法的に問題がないと言っても、、刑事訴追の恐れがあると言って、、、応えないのは法より上位の、、」
正確な発言は忘れてしまったが、こんな流れの話で、そこから続くのは(自分の頭では)憲法しか思いつかず
話は憲法と続くかな、それなら解釈がいろいろありそうで面倒な議論になりそう、、
と予想したが、続く言葉は全然違っていた
続いたのは「より上位の、公平とか正義とか、倫理とか、、そういったものに照らし合わせて、、」
これも正確には覚えていないが、とにかく「法よりも上位の概念」として、一般常識的な要素とか善悪とか
人間性の問題を指摘したのだ

その話を聞いて永いことモヤモヤしてきた気持ちが吹っ切れた
「法に触れていない、、」の一言で片付けられることの多い国やわが町新城市の不祥事
全ては「法に触れていない」が免罪符の様になっていてそれ以上の追求はできなくなっていた
しかし、ぼんやりとしていて解釈も多々ありそうだが、それでいて多くの人が感情的に納得できそうな
「法より上位」な概念としてこうしたモノが存在することを確認したことは(自分にとって)大きい

話は飛ぶが昨年読んだ本の中に「サピエンス全史」がある
面白かった記憶はあるが大半は例の如く忘れているが、一つだけ記憶に残っていることがある
それは、生物は子孫を残すのが最優先事項となっていて、たいがいの生き物はそれで行動を
理解することができる、、つまり生殖をいかに(効率的に)行うかが、、問題
しかし、人類は奇妙な宗教と言うもの(?)を考えだし、そこでは未婚の男や女が聖職者として
活動し子孫を残すことはしない一生を送る
これは生物の生き方としては、どこか矛盾している、、
しかし、人類のトータルで考えると、この行為は全体としては生物としての人間の生き延びる方法を確保している、、
自分の理解の範囲ではこんな内容の話

このトータルで考える「あるべき世界」とか「想像上の世界」がホモ・サピエンスとして
とりあえずこの地球上を仕切っている大きな要因となっていると続いた
(だからこそ抽象的概念を扱う脳の発達が他と比べて格段と進んでいる)

人の世界は、一見精緻な法でコントロールされているかのような印象をもつが
そこには大前提として「法以前の」みんなが納得するものがある
例えばタクシーの運転手は乗客が犯罪をおこすなどとは考えず、乗客も運転手が悪意をもって何かするとは思わない
という前提で成り立っている
床屋さんでもあんなに怖いカミソリを悪用しないとの信頼関係でお任せしている
これと同じで、大半のひとは政治家に対して法より上位の、こうした常識的なものをもっているものと
当たり前に考えている
ところが最近は「法には触れていない、、」の一言が絶対的な力をもっているかのよう

何かを追求されたとき「法には触れていない」で言い訳するのは
「それを言っちゃあお終い」としたいところ
人はそれなりの人間性、正義感、倫理観を持っているとの前提で自分の仕事を分業として他の人間に委ねる
それらを裏切るということは、実は「法に触れていない」以上の問題なのだろう

ということで、全人格的な要素を否定されるような方々
国の政治家、わが町のある議員さん、はっきり言って「失格」
国民・市民の大前提となる信頼を裏切っているのだから、、

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