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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

怒り

2018年03月28日 09時37分32秒 | Weblog

昔のことを振り返り、それと比較して今を批判するのは、おっさんからおじいさんへ移行した証拠かもしれないが
ついついぼやきたくなることがある

「怒り」について
昔は自分はノンポリだったが世間は学生運動で大騒ぎしていた
大学時代だけでなく、高校2年のLTの時間に「高校生の政治活動について」が話題となって
クラスがやたら盛り上がって、次の別授業の時間にも引き続き討論させてくれと先生に依頼したこともあった
その当時、若かった僕らが何を感じていたかと言えば漠然とした「怒り」のような気がする
理不尽なことに対する若者特有の正義感、視野は狭くてもどこか直感的に良し悪しを判断する力
それらが若者をして突き動かしていた
そしてその怒りの対象は、大きなもの、、社会の組織に対する矛盾、経済優先で物事が進められ弱者が切り捨てられそうな
つまりそういった抽象的なものに対する怒りだったように思う

ところが、最近の若者の怒りを想像すると(この時点で既におっさん発想なのだが)
「切れる」という言葉に代表される、瞬間的な、そして対称が目の前にある、かつ弱い者に対してのものに
限られるような気がする
昔は、強いものに対して怒り、反発心を覚え、今は弱い者に対して感情的に怒りを発揮しストレス発散を図る

全部が全部そうではないだろうが、なんとなくの印象はこんなもの
昨日取り上げた若者の政治への圧倒的無関心と怒りの底の浅さは、どこか似たようなところがありそうな気がするが、、

ロゼッタストーンには「今の若者は、、、」との記述があるらしい
いつの時代も、そう言いたいのが人間の歴史ということなら、自分も変人ではないということかな、、

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圧倒的無関心

2018年03月27日 19時20分56秒 | Weblog

先日デモに名古屋まで出かけた(安倍内閣退陣デモ)
東京、新宿を考えたが交通費が2万円弱かかるので名古屋の方にした
名古屋駅西で16時から
集まった人は翌日の中日新聞によれば200名位とのこと

この日一番気になったことと言えば、このデモする人たちを素通りする人たちのこと
別に彼らを批判するのではなく、そういう人たちも現実に存在することを実感したわけだが
そこで前々から気になっていたことを近くで立っている若い人(20代)に聞いてみた
若い人たちに安倍さんの支持が多いと言われるけど、周りの人たちは実感として多そう?
すると、身の回りにはいない、、みたい、、でも、基本的に関心ないみたい

また別の人に聞いてみた
すると答は同じ答え
そうしたことに関心がないみたい、、

素通りする人たちは、この人達は何をしてるのだろう、、という眼差しを示す時がある
一方、デモしている人は「何故この人達は無関心でいられるのだろう」と考える
この両者の違いの感覚は新城市の市政についてつくづく感じる
片方はどれだけいつかは自分に関わってくると説得しても自分のことではないという感じだし
片方はこれだけ危機感に満ちてるのだから人びとは自ら立ち上がるべき、、、とすこしイラつく

若い人の無関心、、正直少し不安な気分を持たざるをえない
でも自分は若いときノンポリで政治なんぞはまったく関心がなかったから、偉そうに政治に関心をもつべきだ
などとは言える立場にはないが
でも、不安!

 

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日常化するということ(支配と従属)

2018年03月24日 18時42分21秒 | Weblog

少し前の和田政宗氏のみっともない質問に対する大田理財局長の答
(この質問は本当に酷い、、結局議事録から削除されることになったが当初本人は的を得た質問と自慢してた)
「私は、公務員として、お仕えした方に一生懸命お仕えするのが仕事なんで...。」
この部分に対して、お仕えするのは政治家ではなく国民だろう、、との声があがっている

確かに公務員は、国民全体の奉仕者、、との原則がある
しかし、仕事が日常化すると時間の経過につれて「奉仕すべきは直属のお方」
と思うようになるかもしれないことは想像がつく
現在読みかけの「権力と支配」マックス・ウェーバー著では、日常化とは
地位とか報酬といった現実的な側面が馬鹿にできないことを説いている
と言うかそれがあって組織は成り立つとしている

公務員に限らず一般社会でも、契約上はイーブンだとしても雇用主と被雇用者、
発注主と請負方の精神的な力関係は、後者のほうが下手の気持ちを持ちやすい
こうした気持ちの持ち方をする日常とは自らの生活に基盤を確かなものにするもの、、
原則としてのイメージ上のあるべき姿より、今日明日のおまんまを確保する方にを重要視するのは
仕方ないというか、ある程度のレベルで当たり前のこと
しかし、その上で、原則の方を重要視するようになってもらわねば困るのが一般人の思い
ないものねだりということになるのだが政治家は選良
お役人は普通の常識的判断と弱者に対して共感する能力を当たり前にもっていて欲しい

世の中はどういう訳か悪い人物もいるが、つい期待してしまうような良い人物がいるのも事実
願わくば良い人物が評価され活躍できる社会が実現されれば良いのだが
(上が悪いと下までダメになるのは世の常、、今のこの国は、、、そして自分の住む市は、、、)

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権力と支配(官僚さんの行動原理は、、、)

2018年03月22日 18時09分40秒 | Weblog

最近気になることと言えば前理財局長の佐川さんとか現理財局長の太田さんのこと
証人喚問によって公文書改ざんの真実が明らかにされるとか
1年以上続く森友問題の進展がどうのということではない
それよりは官僚と言われる人々のメンタリティとか、判断の基準とか、お役人さんはどのように行動するのだろうかということ
それで、昔購入して途中で投げ出した本をもう一度挑戦してみようという気になった

「権力と支配」マックス・ウェーバーの著作だ
この手の本に慣れていないので、用語も当然とされる知識もない
それで前回はあっさり白旗をあげてしまったのだが、今回はイメージとして佐川さんとか太田さんの行動を
思い浮かべることができているので架空の話ではなく、とても現実感をもって読んでいられる

と言っても、難しい本で、正直なところよくわからないことが多い
それで、本質とは関係ないところで、素人の自分が今まで読んでいるとことまでで気になったところをあげると
官僚制的行政幹部をそなえた合法的支配の章の以下の文章

官僚制的行政は、知識による支配を意味する。これこそは、官僚制に特有な合理的根本特徴なのである。専門知識に由来する強大な権力的地位に止まらず、官僚制(または、それを利用する首長)は、職務上の知識、すなわち、職務上の交渉をつうじて獲得されるか、「文書に精通した」実務知識によって、その精力をいっそう増大させようとする傾向がある。「職務上の秘密」ーーーその専門知識に対する関係は、技術的知識にたいする商業経営上の秘密に、ほぼ匹敵するーーーと言う概念は、唯一とはいえないまでも、とにかく官僚制に特有な概念であるが、それは、このような勢力をえようとする努力に由来するのである。知識、つまり専門知識が実務知識の点で官僚制より勝っているのは、自己の利害に関する範囲内では、おおむね私的な利害関係を持つ人、したがって資本主義的企業者だけであるにすぎない。

官僚さんは専門知識によって、そして文書化する技術によって誰にでも没個性的に仕えるとされるのだが、上の文章に例外、、つまり彼ら官僚さんが苦手とするタイプのことが書かれている
これが中小企業の経営者として生命力逞しい籠池さんの姿に被る

この本で上の文章に続くのが
知識、つまり、専門知識や実務知識の点で、官僚よりもまさっているのは、自己の利害にかんする範囲内では、おおむね、私的な営利に利害関係を持つ人、したがって、資本主義的企業者だけであるに過ぎない。
かれこそは、官僚制的・合理的な知識の不可避性にたいして、実際上(すくなくとも相対的に)免疫性をもった唯一の機関なのである。
それ以外の人びとは、すべて、大量成員団体のなかでは、官僚制的な支配に従属することを余儀なくされるのであって、それはちょうど、財貨の大量生産において、没主観的な精密機械の支配に従属することを
余儀なくされるのと、まったくことなるとところはない。

実はこれが本当なのか、確かめたことがある
一月ほど前、市の職員の人と偶然話す機会があった(ある催しで)
その人に、ちょいと聞いてみた
「公務員の苦手なタイプってのは、責任は俺がとる、、といって物事を進めていってしまうタイプではないですか、、」
イメージ的には責任回避が優先される公務員の方々は、根拠がなくても自信たっぷりに責任は俺が、、という人には
無いものねだりもあって、そしてその推しの強さについ負けてしまうのでは無いのか、、と思ったのだ
正直な職員の方は、全面とは言えないもののそれを否定しなかった

森友学園ではテープに籠池さんの、権力に近い人の名を挙げることと推しの強い発言で
修羅場での実戦に慣れていないひ弱な感じの官僚さんの声が聞ける

現在の多くの国の支配のシステムが合理的とか法的とか、そういうものの上で成り立っているとしても
マックス・ウェーバーの考えで抜けているところは「人が悪意を持って、あるいは最初から支配することを目的として支配しようとしたら」
の想定がされていないのではないかということ
と言っても、まだ途中なのでこれから先、その手のことは書かれているかもしれない

この本は、合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配という三分類でこと細かに考察されているが
現在自分の関心は合法的支配のところ(現在の日本のシステム)
支配という言葉の定義から本はスタートしているが、支配される方の前提も組織全体の合理性とか社会全体の合目的性が
前提になっているように思える
だから必ずしも現在の日本の状態のような、社会全体の利益とは思えないようなことが続く状態は想定していない
マックス・ウェーバーの想定外のことが日本で起きているのか、それとも彼が人をあまりにも抽象化しすぎた存在として
扱っているのかはわからない(専門家はついこういう傾向になり勝ち?)
何れにせよ、前よりは興味を持って読んでいられるこの本
今度は最後まで読めそうな(最後のページまでめくれそうな)気がしている
読み終えた時、果たしてどんな感想を持つだろうか
この時点でのこの投稿が恥ずかしい、、ということになるかもしれないが、その時は、その時、、
ま、いいか!としよう


 

 

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遠慮について

2017年12月01日 08時47分01秒 | Weblog

以前、知り合いのタイヤショップが周年セールを行った
近所にチラシを折込み、たこ焼き食べ放題、コーラ飲み放題のイベントを企画した
購入した人が対象ではなく、誰でもこの恩恵に預かる事ができたのだが
そこで見かけたあまり嬉しくないことが今も記憶に残っている 

ある若い男たちが2.3人やってきた
彼らはすぐさま「飲み放題だ」と言って、コーラの瓶の蓋をどんどん開けた
それが1人1本ではなく、何本も、、飲まなきゃ損だ、、という勢いで
当然、たこ焼きの方へも手を伸ばしたが、そこでも信じられないくらい遠慮ということもなしに、、
彼らは何も買わなかった
店のスタッフが困った表情を浮かべたが、その表情の意味は無視され
お腹を満たした彼らは嵐のように去っていった 

確かにチラシには「飲み放題」と書いてある
購入した人に限るとも書いてない
だから彼らが行っていることは、法的には何も悪いことはしていない
でも、だからといってそれで良いのだろうか、、

飲み放題・食べ放題と書いてある
しかしそこには、自分だけが得するような自分勝手なことはしないだろう
という前提とか社会常識があったはずで、その常識を基にショップはイベントを企画している 
この緩やかな常識が通用しなかったのはこの連中だけのことか
それとも現代という時代の傾向なのかを考えると
もしかしたら後者かもしれないと 思い至ると少し淋しい気がしたのだった

そんな記憶がある中で、最近読んだ心理学の本の中にこんな(実験の)話が載っていた
ある女性がオフィスに手作りのクッキーを100個を持参した
オフィスには100人のスタッフがいて、その人たちに「タダで(好きなだけ)食べても良い」と伝えたところ
スタッフは平均して1人ひとつだけ手に取ったのだそうだ
知らず知らずのうちに残りの人の分を思い浮かべて調整し、社会規範として円滑に回るようにしたと想像される
と結論付けられていた
またあるところで同じような実験をして、今度は
「ひとつ5セント(?とにかく安い価格で)好きなだけ、、」の条件が付されていた
するとその結果は先程のものとはまったく違ったものとなった
1人で何個も手にする人が多くて、みんなに渡るという気遣いをすることはまったくなかった
お金を払わない払うということで、他の人のことを考えたり考えなかったりしてしまうということだ
これらの答えはとても容易に想像できることで、その場にいたならばきっと自分もそうしてしまう

ここで最初の「飲み放題」の話に戻る
タダで手に入るクッキーの場合、「残りの人のことを考える」ほうが人間社会の知恵として
うまく行きそうだと、誰かに教えられたわけでもなく感じる
このなんとなく良さそうだ、、という感覚が徐々に社会常識化されるのだろうが
コーラを遠慮なしに飲んで去っていった人たちには
誰にもあると思われる残りの人のことを思いやる気持ちが感じられない
そこにあるのは「書かれたとおりのことをしている」という一種開き直り

「法に違反していないが、人道的には、倫理的には問題あり」
そのような事柄が、現代のこの国ではまかりとっている
(多分庶民のストレスの原因はここに集約される)
この国は法治国家というものの、成分化された法のみで世の中が回っていくのだとしたら
それは人にとって住みやすい社会なのだろうか
何かが違っている、、と言う直感は、(多分)正しくてそれこそがサピエンスとして
生き延びた理由となっているような気がするが、、

相変わらずまとまらない話、、、




 

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常識とは、、、

2017年11月20日 08時32分22秒 | Weblog

最近は新城から豊橋に出かける時は県道81号線を使うことが多い
新城の富岡から和田辻、石巻に至る信号が少ない道で、燃費が伸びるしストレスもたまらない
この時期になると、豊橋よりの地区では道の両側に無人の柿の販売所が設置される
少し見てくれが悪い柿が5〜6個入って一袋200円
家で食べるだけなら見てくれは関係ないからお買い得で、時々利用している
でも、時々フト思ったりする
無人だからお金を払わずに商品だけ持って行ってしまう人はいないだろうか、、と
柿が置かれた台の近くには商品代金を入れる箱、あるいは竹筒が置いてあるだけ
柿を拝借するだけでなくこの集金箱を持って帰る不届き者はいないのか、、
だが、何年もこうして続いているところを見ると、いたとしてもそれほど問題となっていないのかもしれない
この様に無防備に人間を信頼してる姿を見せられると人は悪いことはしにくいのかもしれない

今年読んだ認知心理学の本に、困った状況にある人物が周りの人に手助けを依頼する時
単に助けてほしいと依頼した場合と、お金を払うから手助けしてほしいと依頼した場合の
手伝ってくれた人の数を調べる実験の報告が書かれていた
それによると、圧倒的にお金はもらわないで、タダで人助けをするほうが多かったのだそうだ
人はお金に支配されるところがあるというものの、人はお金だけじゃないってところもあるのだろう
このメンタリティが(違ってるかもしれないが)無人の販売所における料金の支払いとなってるのでは
と勝手に想像した

このお金の支払について、非常に興味深い情報がネット上の投稿にあった
ある人物がスーパーで買物をして、その商品(お菓子だったかジュース)を
レジを通す前にお腹に入れてしまったが、それはどうなのか、、という問だ
レジを通す前に処分しても結局は支払うので問題は無いとする考え方と
どう見てもダメでしょうという考え方があって、この後者の考え方をする人(多分日本人の多く)が
新聞の投書欄にその旨の投稿したのだが、日本人は無条件にそう思うかもしれないが
果たして世界的にはどうなのか、、と世界に住む日本人に各国の実情を質問したら
たくさんの答えが返ってきて、それがとても意外だったのだ
それによると、レジを通す前に食べてしまったり飲んでしまったりすることは結構見られるということだ
アメリカでもフランスでもイタリアでもシンガポールでも、そんなことは当たり前の様に見られるらしい
自分はその行為が美しくない、、という理由であまり賛成できないが
これだけ、そのような行為は問題なしとしている国(人)が多いとなると
日本人だけのモラル感で常識を判断するのは、少しばかりまずいのかもしれない

日本の常識は世界の非常識
とまではいかないとしても、世の中にはいろんな考え方があるものだ

ところで、自分が驚いた外国での経験のひとつはウィーンの地下鉄駅でのこと
ある若い女性が歩きながらバナナの皮を剥き、何の恥ずかしそうな様子もなく
ムシャムシャと食べ始めたのだ
「おいおい、ここでそれをするか、みっともない、、」
でも周辺にいた人たちは何事も無いかのようにやり過ごしている(無関心?)
おせっかいな自分が次に浮かんだのは「バナナの皮はどうやって処分するのだろう、、」
ゴミ箱は近くにあるのだろうか、、家まで皮をもって帰るのだろうか、、
それが気になりだすといつまでも頭から離れない、、どうするのかな、、、
人の記憶というのは不思議なもので、こんな他愛もないことがしっかり頭に残っている
あんなことも彼の地では当たり前(常識)のことだったんだろうか、、


 

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妄想すること

2017年10月14日 10時04分10秒 | Weblog

仮定と逞しい妄想(?)の話

あるイベントが有った
テレビ中継されていても、画像の切り取り方や集音の関係で
現場がそのまま再現されるわけではない
野次とか熱気とか緊張感、、そうしたものは画面では伝わらない

いちおう野次は飛ばないきまりになっていて、粛々と進んでいるように見えたが
現場でよく見ると制限された時間内に話す人が時間切れになった時の(慌てる、慌てない)表情や
それを静止する人のつい出てしまう口調
また人が話している時に(自分のことが言われている時に)会話を遮るように口を挟む様は
かなり生々しいもので画像の印象(普段の印象)とは異なる 

これらは、会話の内容とは別に興味深い
もともと決められた会話のテーマはよく考えられて、それほど破綻はない
でも突発的なことは、少し人間性が出てくる
そのイベントの冒頭に「自分の長所と欠点は?」
の問いに答えることになった3人がいた

その中で、1人だけ首を傾げる答えを出した人がいた 
自分を動物になぞらえて「アライグマ」と「ゾウ」を挙げて
長所はアライグマ  その心は「かわいい」
短所はゾウ  『仕事を一生懸命やりすぎる」
これで、その場にいた人はすんなり理解できたか、、とい言えばかなり怪しい

ちなみに他の二人は
欠点は「他人を攻めるときには逃げ場がないほど攻め過ぎる」
長所は「その裏返しで、一本筋が通っている}
なるほど、これは彼を知ってる人は納得するし、知らない人でもその後の会話で納得したことだろう
もう一人は「おばあちゃんっ子だったので、優しいところが長所、優しすぎるところが短所」
これも何となく分かる、一歩間違えると優柔不断みたいとか気の弱そうなな印象とか
これもその後の会話で納得したに違いない

もう一人の「かわいい」と「仕事の一生懸命しすぎる」は
実は彼を知ってる人に聞いても首を傾げる答だったらしい
もっとも、このよくわからない答えは、実は彼の特徴を表しているかもしれない
長々とよどみなく話すが、結局何を言ってるかわからないその話しぶりは
自分で「かわいい」と言ってしまうメンタリティーそのもので
他人の理解を前提とする話し方ではなく、自分の言いたいことを言ってるに過ぎない
「一所懸命仕事をしすぎる」
その立場の人はそうでなくては困るが、これは敢えて言うまでのことはない
ところが「しすぎる」という言葉は、いろいろ思い当たるフシは多い
やり過ぎ、、と、やらせておいて静観する、、このやり過ぎ感 
それは「仕事」の一言を除けば納得できる

最終的には、「判断を間違えない人を選ぶ 」ことが要求される今月の大きな出来事ふたつ
最後の判断を間違えない  ためには総合的な人間力、全人格的な要素が必要となる
この「全人格的な要素」の欠如を覚える人たちが権力の座にいる(就く)不安

そう思うのが偏見で思い込みであれば良いのだが、、どうしても不安のほうが大きくて
いつもの(市外の人には)わかりにくい話(市内の人でストレスが溜まるほどわかりにくい?)

ところで、自分の長所  う~~ん、(自分じゃ優しい人間と思っているが、、、)
        短所  わからないことをいい過ぎる 

あまり人のことは言えないか、、、

 

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選択の難しさ(今という現実と想像の中の将来)

2017年09月09日 08時44分27秒 | Weblog

今井絵理子氏はともかく、山尾しおり氏は不倫を連想させる
週刊誌の絶好のネタの標的になって政治生命も危ういことになっている
山尾氏の肩を持つわけではないが、少しもったいない
政治家が不倫騒動で政治能力とは関係なく世間的に資格を失うようになることは
この手の事柄が歴史的にもよく見かける出来事だけに少し考えてしまう
これがフランスなら、政治能力と個人生活は違う、、といった扱いで
大した問題になっていないとか(本当のところは知らないが)

損得を考えた時、今井氏も山尾氏も「今の楽しい時間」と「将来どのような事態を招くか」
の適切な判断ができなかったといえるが、実際のところコントロールしきれない感情の存在が
人というものの一面で、そうした感情を味わったことがなく、常に冷静な判断で白黒つけるようなのは
一見正しそうだが、弱い人に対する洞察力や優しい眼差し(どうしようもない存在としての)を
軽視してしまいそうで、自分のような横着者には何処か住みにくそうな世界を連想させる
でも世間的には、あかん、、以外の答えは、公には発しにくい雰囲気

今読みつつある「選択の科学」
 

この本のなかにとても興味深いエピソードがあった
「選択を左右するもの」の章に小さな子どもに対して行った「マシュマロテスト」がある
マシュマロ・テストとは、目の前の美味しそうなお菓子が並ぶなかで一番好きなお菓子マシュマロを選んだ
子どもに対して行われた、少し意地悪な心理学的なテスト
ある部屋にいる子どもは大好きなマシュマロを一つ手にしている
意地悪な試験管は「おじさんは別の部屋で大事な仕事がある。このマシュマロは君のものだけど
まだ食べちゃダメだよ。もしおじさんが戻ってくるまで待てたらご褒美にもう一つあげる。
でもどうしても食べたくなってしまったら、ベルを鳴らしなさい。直ぐ戻ってくるからね。
でもそうしたらマシュマロは一個しか食べられないよ。わかったかな、約束だよ」

少し待てば(いつまではわからない)マシュマロは2つ食べられる
そのほうが得だという気持ちと、いつまでかわからない不安と食べたいという気持ちで
パニックになった子どものとる行動は、、、

4歳児の試練と苦行はそれほど長くは続かず、子どもたちは平均すると3分しか待たずにベルを鳴らした
だがこの数分間、少年少女たちは自分が今すぐ欲しいものと、全体としてみれば自分のためになると
わかっていることの間で、激しい葛藤と戦わなければならなかった。4歳児の葛藤は、大人の目には
苦しみというより微笑ましいものに映るかもしれないが、誘惑と闘うことがどれだけストレスの溜まることか
誰でも知っている」

これは子どものお話だが、つづいて次のような問が大人に対して行われる
「今から1ヶ月後に100ドルもらうのと、2ヶ月後に120ドルもらうのとでは、どちらを選びますか?」
「今100ドルもらうのと、120ドルをもらうのとでは、どちらを選びますか?」
このテストを行うと最初の問ではほとんどの人が20ドル余分にもらう方を選んだが
二番目の問では1ヶ月待つよりも、少ない金額を今もらう方を選んだ人がほとんどだった
となったとのこと(なんとなく分かる)
結局のところ、大人も子どもも今楽しいことへの誘惑にはかなり弱い(不倫もそんなところ) 

この本では選択にたいする「自動システム」と「熟慮システム」の概念が紹介される
自動システムは、すばやく、たやすく無意識のうちに作用する。そして感覚情報を分析し
迅速に反応して感情や行動を始動させる常時作動している「隠れた」プログラム
一方「熟慮システム」は未加工の感覚情報ではなく、論理や理性である
熟慮的な思考のおかげで、極めて複雑な選択に対処できることになるが
この処理は自動システムよりは遅く、骨が折れるために、それなりの意欲と努力が必要とされる
この自動システムと熟慮システムの選択が同じ場合は問題はないが、ほとんどの場合それは異なるため問題となる

一見正しい判断をしそうな熟慮システムも、それゆえに間違いを起こす可能性もあるのだそうだ
政治的な専門家の判断が、何も知らない素人の判断と比較して、その的中率はうわまることはないという結果が
でたことがあったそうだ
専門家は専門家ゆえに多くの情報を集める、しかしそこに自分がこうだと思う傾向の情報を集めて
しまい、それでもって自分を納得させてしまうというのだ
(なるほど、インターネットの世界ではいろんな意見を収集できるというが、結局自分とあう
 情報を手にしやすいから、ここのところは理解できる)

少しばかり軽薄で批判の多そうな「自動システム」だが無意識の選択は実はなかなか捨てがたい面もある
経験により「嘘を言っている」と感じ取る能力は、必ずしも「理性の力」のおかげではないし
付き合うことになったカップルのきっかけは「無意識」の好感で、それはどういうわけかあまり
間違いがない  との報告もある

結局のところ選択というのは難しい
熟慮システムに従うべきだが、どうしても我慢できない衝動が存在しうる人という存在
将来よりもついつい今を選んでしまう人の気持ち
秋に行われる新城市の選挙
「熟慮システム」に従って投票する人が多いか、
それとも直感的な「自動システム」に従って投票する人が多いか、、、
(熟慮システムと言っても、結局は自分の意見を正当化するような熟慮がされがちな気がするが)
 

おまけ
無意識という点では、フロイトやユングのややこしいお話よりは数年前読んだ
「意識は傍観者である」(デイヴィット・イーグルマン)が本当に面白かった
人は自分で思っているほど理性的ではないことがよく分かるし、無意識の凄さも知ることとなった
実はショーペンハウエルも「意志と表象としての世界」でこの手のことは何やらごちゃごちゃ言ってるし
メルロ=ポンティも身体を通しての(判断に至る)認識論には詳細な考察をしてる(と思う しっかり読んでないからわからないが)
それから仏教の認識論も「空即是色」だし
そう思うと、人間社会ってのは案外アバウトなところで成り立っているんだと実感する

それにしても適切な選択  やっぱり難しい
必要なのは選んでしまった者の、開き直った「覚悟」かなと思ったりする 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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人を選ぶということ

2017年08月02日 08時24分25秒 | Weblog

表立って発言する時、人はツッコミを入れられないように客観的なように見える発言をする
客観的イコール理性的な意味合いが強くて、特に政治的なことについては
被選挙人は理性で選ぶのが正しく、一時の感情に流されるのはよくないとされる
例えば、ナチスの台頭やポピュリズムは理性が感情に負けてしまったとされる

先月の東京都議会議員選挙も理性よりは感情の行き場所(怒りの発露)が
大きな影響力をもっていて、本来検討されるべき政策はそっちのけで
投票が行われてしまったと嘆く人達がいる

しかし人が人を選ぶという行為が、理性の分野だけに任せて
でできるものだろうか(現実に) 

人が人を選ぶということは難しい
ところが、この難しいことを人は難なく行っていることがある
それは配偶者を選ぶということ
それこそ当人たちの未来・一生を左右することなので冷静に理性的に考える
ことが必要なのだが、あとでいろいろ頭を冷やして考えることはあっても
そのきっかけとなると、、冷静だったかどうかは一気に怪しくなる

多くの人は言葉に出来ない「なんとなく」の感情を出会いのときに感じ取る
なんとなく好き、なんとなく嫌、
その後になんとなく好きな理由や嫌いな理由を言葉で探す
だがその探す方向性は既に自分のなかに浮かんだ感情をあえて理由付けしているに過ぎない

よく言われるように、客観的に現状を把握し未来を想像したら家族になるなどという決断は
不安のほうが大きくて出来ないかもしれない
エイヤッと勢いですすんでしまって、あとはなんとかなるという直感
それを信じて(信じ込もうとして、あるいはそれすらも考えず)決断をする
その結果、冷静でない判断が失敗しているかと言えば、
どういうわけか割合うまくいっていることが多い
それは各人の忍耐や努力があったとしても、最初の直感は馬鹿にできないのは事実だ 

人が人を選ぶという行為は社会では選挙がある
首長を選ぶ、議員さんを選ぶ
そして表立って反論できない話として、その選択の規準は政策・マニュフェストであるべき(理性的であるべき)とされる
ところが、ここでいきなり現実の話になると、多くの人は被選挙人の名前は知っているが
そのひとがどんな人かは知らないという事実にぶち当たる
先日あるところで、「この地区では◯◯さんが議員さんに出てるけど、実はこの人のこと
よく知らないじゃんねえ、ここから少し離れているし、、」
「よくわからないから、地元だからというのと、自分の知ってる人が勧めるから、、で決めちゃってるかな」
との声を聞いた
本来、市の代表として一地域の要求を果たすのではなく、大きな視野を持って市全体の利益を考えて
といった表向きの言葉は、いきなり非現実的なものとなる

それで良いとするのではないが、現実はこんなものだ
地域の人が、首長・議員さんに望むもの、それは残念ながら市全体の利益ではないことがある
とりあえず、自分たちの住む地区や組織の利益、それが実現されない首長や市議は力のない人物として評価される
市民の間に、自分たちの利益だけを求めてはいけない、、という共通認識があれば良いのだが
それが現時点ではなかなか難しそうだ(将来はたして持つことができるようになるか?)

人が人を選ぶ
その選定の過程で「なんとなく」感じる何か、、は案外ばかにならない
(だからこそ候補者のポスターは万人受けするようにきれい撮ってあるのだろうが)
人が愚かにも理性でなくて感情で選んでしまったものは、間違いが多いか、どうか、、
思いの外間違いが少ないとすれば、それはなぜか、、
(そんなのはあれこれ考えても無駄な答えのない問かな、、) 

このなんとなく、、、に関する分野は、
心理学の「意識は傍観者である」という本にそれとなく書かれていたし
仏教(哲学)の認識論にも出てきそうなところ

それにしても、この「なんとなく」というと言うのは、
一体なんだろう、、

相変わらず、毒にも薬にもならないまとまらない独り言(何が言いたんだか、、)

 

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イメージと違う「葉隠」

2017年06月21日 08時59分38秒 | Weblog

ある書物に以下のような著述がある(現代語訳)

人に意見して、その欠点を改めさせるということは大切なことで、大慈悲心のあらわれであり、ご奉公の第一である。しかし意見の仕方はたいへんむつかしい。他人の善悪を見いだすことはやさしい。それを批判するのもたやすい。たいていの人は人の嫌がる言いにくいことをいうのが親切だと思い、それを受け入れなければ仕方がないという。それは何の益にもならないし、人に恥をかかせ悪口をいうのと同じであり、自分のうさばらしに言うにすぎない。

人に意見をするには、人が受け入れるか受け入れないか、その気質をよく見極めねばならない。親しくなって、こちらの言葉を信頼するようにするような状態にしてから、趣味などの話で心をひいて、言い方にもいろいろ工夫し、時期を選び、あるときは手紙で、あるときはしばしば別れるような折だとか、自分の欠点や失敗談を聞かせて、意見を言わないでそれとなく思い当たるようにするのがよい。また相手の長所をほめて、気分を引き立てるように工夫して、のどが渇いたとき水を飲むように受け入れさせて欠点をなおすのが意見というものだ。このように意見ははなはだむつかしく、しにくいものである。欠点は長い年月、しみついているのだからなかなか直せるものではない。自分にも覚えがある。

しかし、同輩同僚、たがいに親しくなって、欠点をただしあい、1つの心になって殿のお役に立つようになることこそ、家来としてのつとめであるし、大慈悲というものだ。いたずらに辱めて、どうして欠点をなおしてやることができようか。

ここまで、、
ご奉公とか、殿とか家来の言葉が出てくるからむかしの話のことは想像がつく
しかし、内容はまるで現実的な処世術のようで、ビジネス社会でも使えそうな内容だ

さてこの書物とは何か、、
答えは「葉隠」
この部分は有名な「武士道とは死ぬことと見つけたり」の 記述があるところの
少し後ろに書いてある(もっとも、自分はまだ初めの方しか見ていないが)

「葉隠」はイメージ的には勇ましい内容で、戦前のお国のためにとか、死を美化するような内容と
勝手に思っていたのだが、どうも違うようだ
もっと現実的な、あくびの止め方や、褒め方なども書いてある

むかし購入したこの「葉隠」
わざわざ今になって引っ張り出して読もうとしたのは、ずっと気になっている公務員の方々の
仕事ぶりというものが頭にあるからだ
武士の時代のように身分制度が確立していて、お上大事というときでも
現実的な対処の仕方があるのだから、いくら制度が変わっているとは言え
人としての共感できる部分は多いはずで、下の人たちはどう考えるべきかも
参考になりと思ったからだ
(現在何の命令系統にも属していない自分が知ったとことでどんな意味があるかは
 はなはだ疑問で、単なる知りたいという欲求だけかもしれない) 

ところで、「葉隠」と同時に思い出した本がある
これもむかし購入した本で、購入後一気に読んだ
そして、とても恐ろしい本だという印象をもった
その本とは「韓非子」


管理の仕方等が、恐ろしく現実的にリアリティをもって著述されている
西欧の支配の考え方が理屈、法によって組み立てられているとするなら
中国のそれは痛いほどの経験に基づくものといえる
ここには、現在の政権が行っている(と思われる)様々な手段が暗示されている
そしてそれらは西欧の思考の仕方からすればハンナ・アーレントが言う
「全体主義」の方向に進む傾向が見えるかもしれない

歴史を学ぶことは、歴史の経緯を知るだけでなく
人が過去にどんなことを考えてきたか、ということも含めて
学ばなければならないのではないか

「葉隠」は、その内容とは異なるイメージで広く紹介された
そしてその結果導かれたのもは、、、
「韓非子」は恐ろしいまでの冷徹な支配の仕方を明らかにしているという事実
(その内容は下には秘密にしておきたい、、と皇帝は考えたらしい)

直接的に役立つかどうかは分からないが、正しい判断を
いや判断を間違えないためには、いろんなことを知っておいたほうが良い
(多分、それを広い意味で教養と言うのだろう)

上の立場の人間だけでなく、個々の人間が個々の考えと判断力を持つ
そして言葉にする そのような癖をつけること 
それが試行錯誤を繰り返す人間の知恵と思うが
果たして現在それが実現されているか、、、
考えることは無駄、思考停止で、ただ命令に従うだけを求められているような、、
それが垣間見られる現在の(政治的)状況

イメージではない現場の知恵としての「葉隠」
人を支配するために上はどう考えるかという「韓非子」
それから、ちょっと頭に入れておくと、きっと役に立つと思う
(ある種の人には、個人個人があまり賢くなってほしくない、、と思っているかも)

しかし、イメージ操作というのには、気をつけなければ、、

またもや話があちこち飛んでまとまらなかった
まるでブルックナーのまとまりのない交響曲のようだ
それだから、自分はブルックナーに共感を覚えるのだろうか、、 





 

 

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