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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

カッチーニの アヴェ・マリア

2021年12月24日 20時27分43秒 | 音楽

今年はホールケーキが例年になく流行っているらしい
家族で分けて、大きいのはちびっこがとって
年の近い子どもたちはそれを争って喧嘩して
泣いたり笑ったり、、そんな風景がいろんなところでもられているのだろう

クリスチャンではないがこの時期、キリストの受難の音楽を聴いた
クレンペラーの「マタイ受難曲」だ(あえてリヒターではないのを選んだ)
だが流石にこの曲は重い
気楽に聴くような曲ではない
マタイは体調も気力も気分もその気になったときしか聴いてはいけない曲だろう
(途中で聴くのをやめた)

メサイアもクリスマス・オラトリオもどうも今の気分に合わない
もっと心に静かに染み入る曲を、、、
そこで、ずっと忘れていた静謐な曲を思い出した
カッチーニのアヴェ・マリアがそれだ

カッチーニの アヴェ・マリア

シューベルトでもなく、グノーでもなく、ブルックナーの作品でもないアヴェ・マリア
カッチーニは全然知らない人だが、この曲だけで山下達郎のクリスマス・イブみたいに
シーズンが来れば歌われるのだろうか?

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魔法の瞬間

2021年12月24日 09時34分07秒 | 音楽

人は何かを考える前に何かを感じる
なぜそう感じたのかを考えることによって、自分自身の感じ方が
世間に一般化できるかどうかが明らかになるかもしれない
もっとも感じ方は家庭環境や経済環境、あるいは本人の能力的なものに
左右されるかもしれないが

まるで魔法の瞬間!と思われることがある
そう感じるのは自分だけの個人的な印象に過ぎないのかも知れないが
それはあまりにもリアリティのあるもので、確かにそれは一つの体験だ

魔法の瞬間、、それはフルトヴェングラーの演奏だ
楽譜は同じものを使い、楽器たちは同じ音を出す
それなのに、聞き手にはまるで違った印象を与える演奏

今の時期ならベートーヴェンの第九
それは有名な合唱の楽章ではなくてその前の第三楽章に感じられる
最近はこの楽章が大好きになっている(時々この楽章の聴き比べをする)
それは32番のピアノ・ソナタの第2楽章に通ずるような内省的な音楽だ

この楽章の全体的な印象は、有名なバイロイト祝祭楽団の録音だけでなく
戦時中の録音でも似通っている

音楽は今の規準からすると遅い
だがその遅さは単に遅いとは違う
チェリビダッケの演奏するブルックナーも遅い
その遅い演奏は楽譜に書かれた音を全部丁寧に表現しようとしているため(?)だが
フルトヴェングラーのこの楽章の演奏はそれとは違う

その遅さは彼(フルトヴェングラー)の考えていること、感じていることの表現に
最適のテンポのように思えてしまう
賑やかな前の楽章が終わって、とても静かな音楽が始まる
それは表面的な平穏ではなく、内的に昇華された音楽で様々なことを経験した上で
それで良いのだ、、と感じさせ、ついそこで安住したくなりそうな世界だ

ゆっくりした音楽はまるで楽器群の音を聴いているというより
自分の頭の中でなっている音を聴いているような気さえする
そこでは時に指揮という行為なされていることを忘れてしまいそうになる
音楽は始まったら時の経過そのもので、時は流れて行くだけと同じ様に
演奏も勝手になされていく様に思えてしまう
(それは奏者の自発的な演奏と言えるかも知れない)
そして魔法の瞬間が訪れる
楽章の頂点となるかも知れない2回のファンファーレがそれで
最初のそれのトランペットの演奏のあとの寂寥感
そして2回目のファンファーレのあとの、中身の詰まった充実感のある和音
そしてそれは一瞬の奇跡に過ぎないかのように、また普段の生活に戻ってしまうよう

このような感覚は、他の指揮者の演奏では感じられない
音楽表現はいろいろあってフルトヴェングラーの演奏が唯一無二ではないかもしれない
だがこの効果、魔法の瞬間は、明らかに彼独自のものだ

魔法の瞬間は第九以外に、まだいろいろある
彼の守備範囲ではないがスメタナのモルダウの冒頭のフルートの掛け合い
この一つ一つの掛け合いが会話をしているように頭の中で音がすることやら
トリスタンとイゾルデの有名な愛の二重唱の場面での時の経過を忘れてしまいそうな
恍惚とした瞬間、そしてそのあとの戦いの後のトリスタンの致命傷を負ったときの
時は戻らない、、と感じさせる悲劇的な音色

一度知ってしまったら離れられない世界
それがフルトヴェングラーの演奏の世界だ

だが世の中は変化していて、人の感じ方も重いものよりは
消化の良いもを良しとするものに移りつつある
フルトヴェングラーが忘れられていくことと
分厚い古典の書籍が読まれなくなりつつあるのは、どこか似ているような気がする

これらは時代だけでなく住んでいる場所により違いもあるかもしれない
田舎にいると、情報の奔流する都会の世界とは全く違う
田舎にいればこそ、余計な情報に振り回されずに、のんきに構えられているのかもしれない
きっと田舎の人間はいたずらに都会を追っかけずに、田舎でしか得られない時間経過
自然の移り変わり、それから得られる気持ちの変化を自信をもって受け入れるほうが良いと思う
田舎の人間は遅れているのではなく、そもそも感じ方が違う、、ただそれだけのこと

それにしても、最近はそれでも古典となっているもの(重たい印象を与えるもの)には
(都会人も)触れるほうが良いと思うようになっている







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ビートルズの「レット・イット・ビー」と、モーツァルト「クラリネット5重奏曲」

2021年12月05日 10時25分44秒 | 音楽

ビートルズの新しいドキュメント「ゲット・バック」は映画館で上演される
と思っていたら、どうもそうではないらしく、今どきのネット配信がメインで
それ以上の方法はないようだ(?)

同じ光景を撮影していても編集でだいぶイメージが違うことは想像がつく
確かに以前のドキュメンタリー「レット・イット・ビー」は映画全体に
寒々とした雰囲気が漂っていて、解散するのは仕方ないだろうな、、
と感じさせるものだった

だが見ていない新しいドキュメンタリーは上手くいっていない雰囲気の中でも
瞬間瞬間は、あの年齢の若者らしい悪ふざけや冗談が見られるようで
音楽界の最高の位置にいたとしても彼らは感情をコントロールできない
十分に若い(若すぎる)男たちだったと感じる

アルバム「レット・イット・ビー」を初めて聞いた時の印象はまだ覚えている
何かすごく透明な、一種の悟りきったような気持ちが伝わってきた
それはモーツァルトの晩年の作品クラリネット五重奏曲、あるいは魔笛、
そして27番のピアノ協奏曲の無駄のない澄んだ世界のような気がしたのだった

それはなにか終わりを自覚した人(たち)が、澄んだ心境で作品作りに
取り組んでいたような、所謂「白鳥の歌」のような気さえした

同じ時期の同じ場所に大変な才能の人間が生まれ、
その人間たちが一緒になって何かを作り出した、、ということは
ありそうなことでも、いざ彼らビートルズの作品の純度を省みると、
それは神様が気まぐれに起こした一種の奇跡のような気さえする

澄んだ心境を経験して生き延びているポールとリンゴは
それはそれなりに大変だと思う
(彼らは過去の自分といつも戦わなければならないから)

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交響曲第2番

2021年12月04日 18時47分50秒 | 音楽

ヴァーグナーはそれほど気にいらなかったらしいが
彼が比べた上で好んだ第3番よりは、自分は第2番の方が好きだ
ブルックナーの交響曲第2番ハ短調は特に前半の2つの楽章をよく聴く

壮大な曲というより、自然の中にいるような心地よい気持ちにさせる曲で
特に第2楽章は何故か雨のザンクトフローリアンあたりの風景が頭に浮かぶ

交響曲第2番は、結構名曲が多い
シベリウス、ブラームス、マーラー
この中では最近はマーラーはパスしたい気分になることが多いが
シベリウスもブラームスも聴くといつもそれなりの感動を覚える
だが好きなものは好きというだけで、感動の総量はあまり関係ないように思えてしまい
ブルックナーの作品は愛しくてたまらない

田舎のおっさんの風貌のブルックナー(マーラーやブラームスの美貌と比べると悲惨な印象)
ウィーンのヴェルデベーレ宮殿の一角にはブルックナーの最後の家がある
ヴェルデベーレ宮殿はクリムトの絵を見に来る人は多いが
ブルックナーの家を見に来る人はよほど物好きでないと来ない
(自分が行った時も写真に撮る人はいなかった)

可愛そうなブルックナー
マーラーはいつか自分の時代が来る、、と言ったそうだが
個人的にはブルックナーの時代こそが本当に来てほしいと思う
ところで2番の第2楽章はこんな曲

Bruckner ~ Second Symphony - II (Andante)


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現代音楽は楽しめるか?

2021年08月17日 09時38分00秒 | 音楽

もう既に100年ほど前で現代ではないのに、今でも「現代音楽」と呼ばれているのが
シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンの音楽だ
そのジャンル分けは実態を現していないクラシック界の笑い話として
先日あるSNSで取り上げられた

バロックから古典派、それからロマン派への流れは苦労しなくても
なんとなくわかるし、それぞれの音楽に共感を覚えたり感情移入もできる

ところが現代音楽と言われるこの三人の音楽は難解だ
音楽は理解するものではなく感じるものだとしても、なんじゃこれ?
といった気持ちになるのは否定できない

ところがある面では、いつまでもバロックとか古典派とかロマン派の音楽を
ありがたがっているのは、いつまでも定番の歌舞伎のみを楽しんでいるようなもので
少しばかりリアルな時代の空気とは違った浮世離れしているのかもしれない
(ラトルは従来の定番のプログラムばかりじゃいけないと訴えた)

難解な現代音楽だが、美しいとかこれは良い!と感じたことがあった
それはサイモン・ラトル指揮の演奏会のアンコールのときのことで
たった20秒くらいの音楽が演奏されたのだが
これが、緊張感と静けさと音色と、、そういったものが合わさって、
潤沢な音で何かを表現しようとする今までの音楽とは違っていて、とても良かった
そして同時に感じたのは、この静謐な音楽を良いと感じるのは、
きっと現代の人しかいないだろうなということだった
(アンコール曲はヴェーベルンの曲だった)

今の人間なら、なんとなく時代の雰囲気としての現代音楽を感じることができる
(すでに現代ではないが)
だがこの音楽をバロック時代の人が聴いたなら、果たしてどう感じるか、、と想像してみると
頭の中には???の印が浮かんだに違いない

つまりは人は知らずしらずに刺激を受けている社会の雰囲気、複雑な人間関係から生まれる気分に
個人の感受性は左右され、それを刺激する表現に共感を覚えたりするのだ

しかし残念なことに、(実は残念と思っていないが)現代の音楽、特に商業的な分野の音楽は
その表現者と同世代の人には生々しく感じられるとしても、年金生活者のおっさんには何も感じない
いくつかの音楽はみんな同じように聞こえたりする

先日、知人と音楽の話をしていた時、バッハの鍵盤楽器の音楽はみんな同じに聞こえる、、
と笑いながら奥さんの言い分を伝えてくれたが、実はその気持もわからないではない
バッハの時代のような多作を要求された職人としての音楽家は、多作が可能な技術を身につける
そしてその技術故にパターン化した音楽をつくることになる
パターン化した音楽は慣れると、その違いを感じ取ることができるようになるし
その時代の雰囲気をどっぷりと味わうこともできるようになる
ところが慣れていない人は聞き分けができない

今の若い人の音楽を聞き分けができないと嘆く自分は、
バッハの音楽はみんな同じに聞こえるといった言い分に近いのかもしれない

ただ気分として、現代音楽のそれは、そういう美もあるのかとか
ベルクのヴォツェックの気味悪さとか、音が効果音として機能するような音楽は
あえて聴こうとは思わないが、それでも聴けば今の人間しか感じられないだろう
何かを感じることはできる

でも今の商業的な音楽は、、、、、
ということで、若者に嫌われるパターンの一つ、説教がつい出てきそうになってしまった

ということで、今から若者に追いつくのはしんどいので、若者が知らない別の世界
古い今まで親しんだ音楽を更に極めよう(?)と開き直って考えたりする

まとまらない話、、、



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ブルックナーの交響曲 第2番

2021年08月14日 15時11分23秒 | 音楽

長らくウィーン・フィルのコンサートマスターを務めたライナー・キュッヘルさんは
「音楽を理解することは難しいが、感じることはできる」とあるインタビューで答えた
確かに具体的な内容を伝えることのできない音楽は、感じるという人の感覚に頼って
その存在意義を保っている

その感じるという行為は、それを言語化しようとすると、とてつもなく難しい
感傷的なメロディーに酔うなんてのは、わかりやすいパターンだが
バッハの音楽と対峙した時の精密な構造物のような感覚とか
ベートーヴェンの32番のピアノソナタの第2楽章の音楽は
全てを経験した上での澄んだ境地のような音楽は、
単なる感じるという行為以上の聞き手の能力を要求される

つまりは、経験によって聴き方は変わってくるということだが
感じ方は、今まで聴いてきた演奏との比較によって際立つことがある
キュッヘルさんは演奏家に重点が置かれすぎるのは良くないことで
あくまでも作品のもっている何かを追求すべしとしている

ところが、再現芸術である音楽は同じ楽譜でも時代背景や、演奏者の感覚、切り取り方によって
そのニュアンスや、訴えるものまでも変わってくる

そんなことを思いながら聴いたのが、購入したまましばらくほったらかしにしていたこれだ


大好きなブルックナーの2番と8番のセットで、オーケストラはゲヴァントハウス管弦楽団
この指揮者アンドリス・ネルソンスという方は知らない人だ
だがゲヴァントハウス管弦楽団がどんな音を出すのか気になった
(それはウィーンフィル、ベルリン・フィル、シカゴ管弦楽団独自の音の比較となる)

この比較をするのにはよく聴き込んでいる音楽が良いということで、
まずは2番のアダージョの楽章から聴き始めた
この楽章は本当に好きで、瞑想的な沈潜する8番のアダージョについで好きかもしれない
この音楽で感じることは、オーストリアののどかな風景だ
ブルックナーの生まれ育った田舎の平原のような風景で
それはブルックナーがオルガニストを務めた聖フローリアン修道院に行くまでのバスから眺めた風景だ
そしてイメージするのは、他にもは雨に濡れたバス停をイメージがある
このイメージピッタリの演奏がアイヒホルン指揮のリンツブルックナー管弦楽団の演奏で
巷ではさっぱり評判は聞かないが、個人的には大好きな演奏だ
何よりもアイヒホルンがブルックナーを好きで仕方ない、、という気持ちが感じられる

さて今回のゲヴァントハウス管弦楽団の演奏は、第一感、地味な音色だなと言う点
ベルリン・フィルのような底力のある音ではなく、ウィーンフィルのような色彩的な音でもない
ただ指揮者の要求するフレーズとか金管楽器の地味なパートの部分もよく聞こえる演奏で
こういうのは最近の傾向かもしれない、、と思ったりした

これを聴いたあと、直ぐにアイヒホルンのCDを取り出して同じ楽章を聴いた
ああ、やっぱりこの音、この空域感
感じたのはそのことで、そこは安心感と懐かしさを覚えるものだった

と言っても、今度のCDが不発だったというわけではなく、
いろんな表現の仕方があると再認識したのは事実で、2番、8番の組み合わせをするあたりは
自分の好みと近い気もするし、失望とまではいかなかったので、
この組み合わせもう少し付き合ってみるか、、という気分
(だがもう少し涼しくなってからだな)

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女性の演奏するヴィターリのシャコンヌ

2021年07月11日 09時29分20秒 | 音楽

今になってわかることがある
それは難しい概念的なことではなくて、もっと世俗的なことだ
子供の頃、大人たちはどうして歌手やタレントの名前、
流行っている音楽を覚えられないのだろうと不思議に思ったものだ

ところが還暦を過ぎた今になると、まさに子供の頃バカにした状況そのものだ
男も女も大勢のグループの名前は覚えられないし(覚える気もないし)
それぞれの見分けもつかないし、音楽も全て似たように思えて仕方ない
そしてそれにシンパシーを感じている若者の気持ちがわからない

話題の店に行くことも、そこで写真を取ることも、急いでトレンドのアイテムを
手に入れることも、流行りのスイーツを食べることも関心がない
それは生命力の低下かもしれないが、あえてそれに逆らう気もない

ただ、歳を重ねてわかることもある(勘違いかもしれないが)
最近、特に思うことの一つが、ヴァイオリンの名曲ヴィターリのシャコンヌは
女性演奏家の方が、男性のそれに比べて曲に対する共感の度合いが大きくて
心動かされることが多い、、ということだ

シャコンヌといえばバッハのそれが有名で、普通こちらのほうが一般的だ
冒頭の低音の動きを基本にいくつかの変奏が展開されて、その技法精神的な充実度は
奇跡に近く、バッハの曲の中では好きな曲のベストスリーに入る
一方ヴィターリのシャコンヌは同じく低音の動きを基本に変奏が展開されるが
それは技巧的というよりはエモーショナルで聴き手にも感情移入を要求するような音楽だ
ヴィターリはバロック時代の作曲家らしいが、この曲はもっと後の時代の人の作らしい
というのが通説になっているらしい
確かにこの曲の内面の表現意欲はロマン派的な要素があるように思える

女と男の演奏の違い
単に思い込んでいるにすぎないかもしれないが、この曲に向かう時、女性演奏家のそれは
この曲を演奏することによって、ある意識を現在進行系で感じ取って、
今まさにそれを経験しているかの様に思われる
一方、男の演奏家のそれは、一曲の起承転結を理解した上で客観的に技巧的に
そして過度にエモーショナルになりすぎないように演奏する

ということで、これらは思い込みなのだろうが、好き嫌いで言えば
自分は女性演奏家の弾く演奏のほうがいつも心動かされる

Youtubeは情報の宝庫で、ヴィターリのシャコンヌの聴き比べのチャンネル(?)があった
これがなかなか面白くて、冒頭のヴァイオリンの音だけで自分は好きだとか
イマイチだな、、と感じることができる
人によって違うということは当たり前の洋で何かとても不思議だ

最近見つけた若い女性の演奏するヴィターリのシャコンヌの動画
圧倒的な世界観の名曲!【ヴィターリ / シャコンヌト短調(Vitali: Chaconne in G minor)】

男性(スーク)の演奏するヴィターリのシャコンヌは
Vitali: Chaconne. Josef Suk

ところで、これを生で聴いたのは宗次ホールでキム・ダミの演奏で、これは良かった

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マーラーとブルックナーの音楽(アダージョ)

2021年05月02日 09時37分26秒 | 音楽

連休中は真面目な話題より、そんなのもありかといった話題を!

マーラーとブルックナーの音楽の比較第二弾
彼らが死を意識しだして作曲した音楽で、比較するのは以下の2つ
マーラーは完成した最後の交響曲となった9番の第4楽章
ブルックナーの方は未完成で終わった9番の交響曲の第3楽章

冒頭の出だしはなんとなく似てると感じるが、直ぐに彼ら独自の世界を体験することになる
これらを聞くと彼らの達した世界観とか考え続けたことが如何に違うかを感じざるを得ない

マーラーのそれは人間が必死に生きた感情を含めた長編小説の最後(総決算)のようで
ブルックナーのは感情というよりは、もう少し抽象的な世界で、神とか自然とか音自体の交響といった感じ

根拠のない確信だが、ブルックナーはガス灯のもとで作曲し、マーラーは蛍光灯の下で作曲したに違いない
といった思い込みがずっと続いている

で、好きなのはブルックナーの方
彼はアンケートによると嫌いな作曲家のトップの名誉を何年も受けている
その気持はわからないでもないが、もう少し我慢して音に身を委ねるとハマってしまうに違いない
と思ったりする

マーラー 交響曲第9番ニ長調 第4楽章 カラヤン

Bruckner: Symphony No.9 In D Minor - 3. Adagio(Langsam, feierlich)

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マーラーとブルックナーの音楽(感情的か否か)

2021年04月29日 08時36分11秒 | 音楽

休日らしくのんびりした話題

美しい音楽のことを考えてみた
その例としてマーラーとブルックナーの静かな音楽を取り出してみる
(ブルックナーの方は静かばかりとは言えないが)

まずはマーラーの方から、有名な交響曲5番のアダージェット
映画「ベニスに死す」にも使われた弦を主体とした耽美的な音楽
これを心動かされずに聴ける人はそれほど多くないと思われる

マーラー アダージェット 交響曲 第5番から

マーラーよりは少し前の作曲家にブルックナーがいる
男前のマーラーに比べると田舎のおっさんといった感じの垢抜けない男だ
彼の作品の中からは7番の交響曲から第2楽章のアダージョ

Bruckner - Symphony No. 7 in E major - 2 Adagio - Celibidache

この音楽も美しいと思う(自分は)
だがその感じ方はかなり違う
マーラーの音楽は失った青春時代の思い出とか、かきむしられる感情の疼きみたいなものが全面に出てくるが
ブルックナーの音楽は、その響きに沈潜した思索とか法悦といったのもを、体全体で感じ取るものとして存在する

マーラーとブルックナーは一時期ブームになった
例にもれず、自分も違う指揮者、違うオーケストラのCDやレコードを購入し聴き比べた

だが、今は不思議なのだがマーラーの音楽はあまり聴かなくなってしまった
ブルックナーの方は相変わらず取り出して耳を済ませている
そこで、いったいそれは何故か、何が違うのか?と独断と偏見で考えてみた

すぐさま思いついたのは、マーラーの音楽は感情的すぎるという点だ
感情の起伏が激しく、若い時は「それいけ!」と共感した部分も今は「ちょっと大げさだな!」
といった印象ばかりが強く、ついていけない気持ちを感じてしまう
ブルックナーは繰り返しが多く、しどろもどろ的な要領を得ない音楽だが
深い思索の現れのような、自然界のなかの音のようなフレーズが精神の中まで染み込んでくる
そしてそれは、楽譜を見ると主題から導き出されたものであることが多く
その緻密な作曲技法に驚いたりする
そして、マーラーの音楽と違って感情的ではない

感情的と言う要素がキーポイントになっているのかもしれない
そういえばめっきり聴かなくなった音楽にチャイコフスキーがある
彼の音楽も自分には感情的すぎて、途中で気恥ずかしくなってしまう

だからと言って感情のない音楽を聞き続けるのは、それはそれでしんどい
バッハの音楽は緻密な数学的な作りで聴いていて落ち着くが
それでもずっと聴き続けるのは忍耐を要する

とまあ、好き勝手なことを言ってるが、とにかく最近は感情的すぎると思われるものは
パスする傾向にあるということ
でも不思議なのはモーツァルトだ
23番のピアノ協奏曲の第二楽章やK364のヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲の第二楽章は
情緒面々といった感じだが、感情的ではない
それはただただ美しい瞬間で過ぎゆくもの、、としての存在だ

モーツァルト、ブルックナー、そしてベートーヴェン
最近はこの三人をローテーションで聴いている
それにしてもブルックナーは彼もまた不思議な作曲家だ

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何かが違うフルトヴェングラーの演奏

2021年03月21日 08時42分32秒 | 音楽

やっぱり不思議だな!といつも思う
それは相性の一言で片付けられるものだろうか
そして感じ方には個人差があって、安易に一般化などできない
と言った一見正しそうな考え方に集約されるのだろうか

ハイデルベルクの墓参りまでいったフルトヴェングラーの演奏の印象のことだ
この人の演奏の時間の経過が、他の人のそれとは全く違うように感じられる
時間の経過だけでなく、音から感情に影響し、それがさらにもっと深いところまで達して
一つの実体験のように思われる演奏
これが不思議で仕方ない、例えばトリスタンとイゾルデの2幕 有名な二重奏のところ

Flagstad/ Suthaus, Wagner: Tristan und Isolde, Love Duet

これなどは、濃厚な時間経過そのものだ
徐々に音量をあげていく、そしてテンポを落とす、そうした物理的な作業がなんでそんなにも
印象として違ってくるのかが不思議で仕方ない

もう少しポピュラーな曲の例ではスメタナのモルダウがある
フルトヴェングラーのタイプの曲ではないが、ここでも冒頭のフルートの掛け合いが
単に心地よい音としてではなく、二人の奏者が会話をしているように感じてしまう
そしてそれは感覚の世界ではなく、もう少し深いとこまで響く

Smetana: Vltava (The Moldau) Furtwängler & VPO (1951)
スメタナ ヴルタヴァ(モルダウ) フルトヴェングラー

そしてあの有名なメロディが奏される時の憧れに満ちた思い

こうした感じ方は、フルトヴェングラー信者の戯言に過ぎないのだろうか
しかし、たしかにそう感じるのだ
そしてそれは唯一無二だ

ただこれは時代背景とか背景知識の違いによって感じ方も変わってくるかもしれない
現代の人には、トリスタンはクライバーの演奏とかティーレマンのほうが
しっくり来るのかもしれない(自分には物足りなく感じても)

どうも新しいものを受け入れるのが難しくなってきているようだが
その代わりフルトヴェングラーの味わいを異様なほど感じられるのなら
その世界に沈潜する時間の過ごし方も悪くないだろう


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