昨晩は、あれこれ言われながらも大掃除も済んで、炬燵に入ってのんびりモードとなりたかったのだが
相変わらず夜のテレビは面白くないものが全局オンパレード
そこで逃げ出して、(大掃除のおかげで)少しだけスッキリした部屋でレコードを聴くことにした
年も迫ってくると聴く音楽に神経質になる
年の始めに聴く音楽を慎重に選ぶのと同様に、大トリも縁起担ぎであれこれ考えてしまう
だが今年は何と言っても生誕250年のベートーヴェン
そこで、怖くて聴けないフルトヴェングラーの指揮する第九をメインに引っ張り出した
(怖くて聴けないのは、初めて聴いた時の感動や印象が薄れてしまわないかと思うため)
いきなり第九に行くのは聴く方のコンディションも整っていないので
コンサートのプログラムのように最初は協奏曲を聴くことにした

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲だ
フルトヴェングラーとメニーイン、ベルリン・フィルの組み合わせのこのレコード
よくわからないが好きだ
同じ曲の同じ指揮者、他の演奏家の組み合わせのレコードもあるがこの演奏が心地よい
曲自体がとても充実した作品のように聴こえてくる
(同様に感じるのにピアノ協奏曲5番の皇帝、フルトヴェングラーとフィッシャーの組み合わせがある)
第三楽章に2回ほど出てくる、転調して切ないフレーズところは昨晩寝床に入っても
頭の中で何度も繰り返された
いよいよ第九

もう少し録音状態の良いレコードもあったが、昨日は敢えてこの有名なジャケットのこれを選んだ
聴き終えた後は、やはり「すげー!」と声が出た
音楽を聴くという行為は、向こうからやってくる情報を味わうのではなくて
こちらも参加している行為のように思えてしまう
フルトヴェングラーの演奏は読書の時の感じに似ているのかもしれない
本を集中して読んでいる時は明らかにその世界を体験している
書き手の考えていること体験が、読み手自身の体験とまで感じられるような、、
怖くて聴けないこのレコードは、最初の印象が壊れてしまうのが怖いためだが
考えようによっては自分の変化も知ることができる
録音媒体として残っているものを時間が経って聴き直す
変わっているのは聴き手の時間経過だけだから、
聴いた時の感じ方の変化は自身の変化ということになる
(しかし、あの場面の音楽表現はこうだったという記憶は
どうしても拭い去ることはできず、ついつい比較ということになってしまう)
何か巨大なものを感じるとか、大きな体験をした、、という印象が残る
そしてこれが生で聴けたなら、どれだけ貴重な体験になっただろう、、とも思える
音楽記号としてのフェルマータは音を伸ばす印だが、その伸ばす時間は人によって違う
このバイロイトの演奏はこのフェルマータがいつまでも続くのではないか
合唱の息が続くのだろうか、、と不安になるほどの永遠の時間のよう
そして静寂
ピアニッシモで聴こえるか聴こえないくらいの音量でトルコ風の音楽が始まる
この効果の壮絶なこと
それはフルトヴェングラー個人のアイデアであったとしても
そう演奏するのが必然のように思えてしまう
やっぱり「すげーな!」と今回も感じられたのにはホッとしたが
第九を味わう人間は自分らの世代から現役の若い人たちに移っている
彼らはこのような全体的にドカンと何かが残る演奏よりは、
もっとスッキリした合奏能力とか楽器の分離の良い演奏を好むかもしれない
(それはそれで楽しみかたの一つだが)
ということで、大事なこのレコードはまだまだ同じように感じたり
刺激を受けることができるのが確認できたのでホッとした
さて今日の大晦日
相変わらず見るべきテレビはなさそうなので、本当の大トリに聴く音楽は
これにしようと決めている
やはりベートヴェンのミサ・ソレムニスからのアニュス・デイ
(クレンペラー指揮、ニュー・フィルハーモニー管弦楽団)
そして最後のピアノソナタ32番
(いろいろ持っているが多分バックハウスの演奏)