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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

印象に残る総量が違うフルトヴェングラーの音楽

2020年10月10日 09時38分24秒 | 音楽

やはり「すげーな!」と声が出た
どう表現したら良いのかわからないが、とにかく「すげーな」という感覚だけは強烈に残る
フルトヴェングラー指揮、ウィーンフィルの「エロイカ」1944年録音を昨晩聴いた

記憶に残っているはずなのに、そしてわかっているはずなのに、またまた圧倒されてしまった
でも以前と感じるところは少し違う
前は熱気の凄まじさに驚いたが、昨日はなぜこんな音が出るのだろう?
と不思議に思えた(例えば弦楽器主体のフォルテの音色)

指揮者は自分で音を出すわけではないのに、なぜ音が違うのだろう
気合が入った音と感じられるのは何故なんだろう

クラシック音楽をよく聴く人は、このようなことがあるのは理解している
だから多くの聴き比べをして楽しむのだろうが
何故音色が違うのかは、どうもスッキリと納得できる解説を聞いたことがない

量子力学は確率で表される
何故それが使われるかは、使うと結果とうまく繋がって便利だからで
演繹法による必然的な道具ではないらしい
これと同じで、何故音の印象が違うかはわからないが、音が違うという事実を
認めて話を進めたほうが生産的になっているので、既成事実として使われる

でも好みは時代背景で、そして聞き手の育った時代とか環境によって変わってくる
フルトヴェングラーを知らないで、その後のカラヤンがスーパースターだったころ
感受性のピークを迎えた人は、カラヤンが判断の基準になる

時の経過は恐ろしいもので今ではカラヤンでさえオールドスターになりつつある
そして少しばかり残酷な批評もちょくちょく見かける

それにしても、フルトヴェングラー、、
ほんと何が違うのだろう
不思議で仕方ない
彼の演奏が唯一無比とまでは言わないが、他の演奏と比べて体に残る何かの総量は違う
どこが、なにが違うのだろう

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マイ・フェイバリット(バッハ、モーツアルト、ベートーヴェン)

2020年10月09日 08時48分50秒 | 音楽

ようやくエアコンのない二階でも過ごせるようになってきた
それでレコードやCDを我慢しなくても聴ける
文化の秋というのは気分的な問題ではなくて、こうした物理的な
環境に関係するのだな、、と実感する

久々に聴いたのはバッハのシャコンヌ
無伴奏ヴァイオリンパルティータ2番の最後の楽章で素晴らしい変奏曲だ
昨日はシゲティの演奏を聴いた(CDで)
実は最初グリュミオーのを聴き始めたのだが、音色がなんか今の気分と違う!
と感じたので途中でやめて、こちらに変更したのだった
流石に定評のある演奏で、真摯な演奏とか作品の本質に真正面から向かい合った演奏とか
言われる所以が納得できる
久しぶりなのでそうした漠然としたことだけでなく、演奏のフレーズのニュアンスなども
こうやるのか、、、と楽しむ

急にバッハの作品の好きな作品(三曲)のことを考えた
このシャコンヌは好きで、マイ・フェイバリットから外せない
次はパッサカリアハ短調
その次は音楽の捧げものが思い浮かぶ
マタイ受難曲は凄いなと思うものの「好き」という範疇ではない
グレン・グールドで有名になったゴールドベルク変奏曲もテーマの旋律がイマイチと自分には思えるし、
あまりにも規則に沿って変奏していくので(表現ニュアンスは違っても)
頭でっかちな印象を覚え少しばかり引いてしまうところがある

それならモーツァルトの三曲はなにかな、、と思い浮かべてみる
外せないのは「魔笛」
あとは気分次第で変わってくる
初期のK136のディヴェルティメントの若々しいのも好きだし、K219のヴァイオリン協奏曲も好きだ
ピアノ協奏曲も気分次第で20番になったり22番になったり23番になったり、、、
交響曲もその時の気分次第 38番が好きだったり40番が良かったり41番の完成度に恐れ入ったり

やっぱりモーツァルトが好きだな、、とつくづく実感する
まだまだヴァイオリンソナタにも良いのがあるし、ロンドイ短調も好きだ

今度は今年記念の年のベートーヴェンの三曲を思い浮かべる
2つは決まっている
1つは交響曲3番のエロイカ
もう一つは、ピアノ・ソナタ32番
あと一つが悩ましい、
現時点では14番の嬰ハ短調の弦楽四重奏曲だが
これは変わるかもしれない、、と思っている

気ままにあれこれ生産性のないことを思い浮かべてみたが
この生産性のないことが、実はとても必要なことと思えたりする
最近投稿が少しばかり真面目なものに偏っていたが、どうも「こころの居心地」が悪い
こうしたもの(実生活に関係のないもの)に触れると、少しホッとした気分になる

読書も真面目な本ばかり読んでいると、左脳ばかり使うようになるので
右脳を喜ばせるようなのも必要だな、、と勝手に思ったりする
ということで、いろいろ感じたり考える秋本番になってきた、、というところか

ところでも、もうひとり大好きな作曲家ブルックナーの好きな交響曲の三曲は
8番、9番、、そして2番





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有名でない曲(ブルックナーの二番の交響曲)

2020年08月12日 08時32分51秒 | 音楽

クラシック音楽は少しばかり距離をおいた表現で
「高尚な音楽」と言われることが多い
でも、少なくとも自分がそれを楽しんでいるのは
「高尚」だからではない
単純に心地よいからだ

クラシック音楽というと、あだ名が付いた曲、例えば運命とか田園とか
未完成とかが挙げられて、それを口にするだけで悪い意味で一歩引かれてしまう

ところで、このあだ名のついた曲とついていない曲について
商業ベースではあだ名が付いていたほうがセールスしやすいと思われるが
個人的にはあだ名が付いていない曲でも絶対外せない曲がある

一番嫌いなクラシック音楽の作曲家のアンケートをとると
断トツなのがブルックナーだったとの報告がある
3Bはバッハ・ベートーヴェン・ブルックナー(ブラームスではなくて)と
思い込んでいる自分からすると、とても信じられない結果だ
あまりあれこれ考えずに、ブルックナーの音響に浸っていると
訳もなく心地良く、ある人はブルックナーは音を浴びて味わうのが良い
といっていた

そのブルックナーの音楽で比較的有名なのが4番の「ロナンティック」だが
自分はあまり有名でない2番の交響曲が好きだ
特に最初の2つの楽章はレコード・CDを繰り返し聴いている
1楽章は何故かモーツァルトの「プラハ」を連想するし
2楽章はブルックナーの生まれ育ったオーストリアの田園地帯を
思い浮かべることができる
そしてそれは意志的な意図のある音楽というよりは、
自然の声のようでまるで野原に座ってぼーっとしている心地になる

この2番への愛着は、どうも一般的ではないらしく
録音され発売されたレコード・CDも多くない

でも、好きなんだな、、、
人がどう評価しようが、、この音楽は好きだ
(いつか世間評価が変わるような気がする)




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フルトヴェングラーのトリスタンとイゾルデから

2020年08月07日 08時19分20秒 | 音楽

いつもなら今頃はドイツの小都市バイロイトでは、世界中のワグネリアンが集まって
オーケストラの上に蓋がある祝祭劇場の独特な音響を味わって
聴いてきた(見てきた)ばかりの舞台の感想等を話し合っていただろう
だが今年は、新型コロナの所為で音楽祭は中止、
自分は行ける身分でも立場でもないが残念に思う

ほとんど偶然に近いが、このバイロイトで1976年二つの舞台を見聴きした
「トリスタンとイゾルデ」と「パルジファル」だ
二つともホルストシュタインの指揮で、この指揮者の演奏の別の日を聴いた
吉田秀和氏は高く評価していなかったが、自分は初めて体験する音楽に
ノックアウトを食らった

「パルジファル」は好きな音楽だったので、予めレコードでだいたいの流れは知っていて
何の抵抗もなく聴き進めて行く事ができた
「トリスタンとイゾルデ」の方は全曲は知らず、一幕の前奏曲と愛の死の部分しか知らなかった
だが、集中しているとそれ以外にも印象に残る部分があった

その一つが第二幕の「愛の二重唱」と言われる部分で、トリスタンとイゾルデが
ピロートークとまではいかないが、何やらある観念に陥った心情を吐露している部分だ
これはとてもロマンティックとか官能的な感じの音楽で
特にフルトヴェングラーの指揮するニューフィルハー管弦楽団の全曲盤のレコードは
一度知ってしまったら、ちょっとやそっとでは抜け出せない魅力に満ちている
徐々にフォルテされていく音、そのフォルテに従ってテンポは遅くなっていく
その効果のすごさ、、、それは音楽という範疇を越えているようだ

このフルトヴェングラーのレコードの真骨頂はその後に続く「ブランゲーネの警告」の部分で
二人だけの世界以外は目に入らない二人に、誰かが偵察に来ているから注意する様に、、と
訴える音楽だ
この音楽が凄い
初め聴いた時も、バイロイトで二回目聴いた時もこの部分は深く印象に残っていた
だが、フルトヴェングラーのレコードの演奏は本番の舞台以上だ
なにしろ、ヴァイオリンの伴奏(フレーズ)が、歌にまとわりつくようで
そのヴァイオリンに耳全体が集中してしまう
そして出てくるのはため息

ところが不思議なのは、このヴァイオリンのまとわりつくような音楽は
持っているレコードのカラヤン・クライバー・バーンスタイン・ベームの全曲盤では
それ程聴こえてこないのだ
あの胸が苦しくなるような切ないような音楽は、フルトヴェングラーでしか味わえない
ヴァイオリンの音が彼のだけ良く聴こえるのは、そのように聴こえる様に録音されているからなのだろうか

とにかく、この部分があるだけでフルトヴェングラーの演奏は特別なものと感じる
他にも第二幕の最後の悲劇的な和音の音色
第三幕の前奏曲の孤独、、、
これらは他の表現方法があるとは言え、知ってしまうと抜け出せない

ところで、ブランゲーネの警告は、こんな音楽

Tristan und Isolde, Act 2, Scene 2: "Einsam wachtend in der Nacht" (Brangänes Stimme)

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フルトヴェングラーのトリスタン(ブランゲーネの警告のヴァイオリン部分)

2020年06月23日 08時42分08秒 | 音楽

非日常を感じることは気分転換になって良い
音楽や映画、絵画や芝居に心奪われて
その瞬間は頭を占めていた悩み事も忘れられる

聴くたびに非日常を感じる音楽がある
その非日常の特別な感覚を味わいたくて聴こうとするが
運悪くその非日常感を味わえなかったら
今度は感じられなかったことに失望する怖れもあるので
気楽に向かい合えないでいる

その音楽の筆頭はフルトヴェングラーの指揮する音楽だ
有名な「第九」の第三楽章の沈潜した瞑想的な音楽
マーラーの「さすらう若人の歌」の表情豊かなオーケストラの伴奏
「モルダウ」の冒頭のフルートの意味深げなやり取り
「ブルックナーの8番」の第三楽章の忘我の瞬間
「エロイカ」の全体的な統一感と若さと奏者の気合が感じられる音楽
その他きりがないが、最近気になったのが「トリスタンとイゾルデ」の音楽

聴き比べまでしたのが、第二幕の有名な愛の二重唱の部分
正確にはメインの箇所ではなくて、ブランゲーネの警告の部分
この音楽は昔バイロイトで観た(聴いた)時、初めて聴いたり観たりしたのだが
とても印象に残っており、数日後もう一度観る(聴く)ことになったときは
その部分が楽しみに思ったものだ

フルトヴェングラーの全曲盤のレコードは、ここでは歌にまとわりつくように
ヴァイオリンが奏され、その音楽は声(歌)以上に雄弁で、憧れ、恍惚感、
更に肉体的な快感まで感じさせる
この部分が聴きたくて、このレコードをかけることになるのだが
不思議なのはベーム・カラヤン・クライバー・バーンスタイン指揮の
レコードではここは拍子抜けするくらいあっさりしている
というより、音楽が美しく流れているだけでそれ以上でも以下でもない
という感覚(その美しい音楽の表現にいろいろ解釈はあるとしても)

こうして比べると、何が違うのだろう、、と思わざるを得ない
濃厚なロマンチシズム、感情移入の激しい音楽、音楽は楽譜に書かれた音楽の再現
というよりは、そこで起こっていることを今まさに観ているような感覚
この感覚はフルトヴェングラーでしか味わえない

ただこの感覚が一般化されるかどうかはかなり怪しいかもしれない
人の感じる素地は、その人の生きている時代背景が影響する
自分らの生きていた時代はギリギリでフルトヴェングラーの求めたものとの
接点があったかもしれない
でも今は、このような濃厚な音楽は歴史的意味としか捉えられないかもしれない
現代はもっと感覚的な心地良さとか技術的な完璧さを要求されるのかもしれない

つまりはフルトヴェングラーの魔術にハマって抜け出せないでいる
だけなのだが、とにかく、何かが違うと感じることだけは確かだ

トリスタンの音楽はその他にも二幕の最後、
トリスタンが刺されるシーンの音色がフルトヴェングラーのは
取り返しのつかない出来事のような悲痛(?)な音色だが
他の演奏は、そこまでのインスピレーションを喚起しない

フルトヴェングラーのこのレコードは何度も聴いたわけではないのに
もう深く記憶どころか、体験として残っている

フルトヴェングラーの音楽で感じること
これを知らないことは人生で損してるとまで思ったりするが
個人的な思い込みなんだろうか

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「エコーズ」(狂気よりも)

2020年05月25日 08時56分36秒 | 音楽

おせっかいなグーグルアプリ(iPad上)がピンク・フロイド「狂気」の10の秘密
などと誘ってきたので、昨日の日曜日、久しぶりにレコードをかけてみた
評判の「狂気」は個人的にはそれほど感動もしていないし、気に入っていない
でも今聞いてみたら少しは違う印象を持つかもしれない、、
と、とりあえず偏見なしで聴いてみようとした

なんか物足りないな、、
エコーズとか原子心母の焼き直しみたいな、、
B面のマネーあたりから熱気は感じられたが、どうもイマイチの感覚は拭いきれない

それでお口直しにおせっかいを引っ張り出した

お目あてはB面の「エコーズ」
20分を超える大曲で神秘的で宇宙を思わせたり、何故か雅楽を連想させたり
それでいてしっかりロックの要素もある
この曲を聞くと何故かモーツァルトのクリリネット協奏曲を思い出す
それは単に個人的な感想に過ぎないが、「純度の高さ」という点で一致するような気がする
ロックの音楽で「純度の高い」と感じるのはもう一つビートルズの「アビー・ロード」
この音楽も音楽自体で他の力を借りずにその存在価値を誇っている

ところで「エコーズ」を聴いてて最近の音楽のことを考えた
(と言っても最近の音楽は聴いていないのでなんとも言えないが)
今の音楽も、このエコーズが表そうとした何かを求めているのだろうか、、、

エコーズが表そうとした何か(?)
エコーズが表にでたあの時代は、あのジャンルの音楽界は何故かみんな難しいことを考えていた
消化不良になりそうな、、しかし、若さ故に直感的な正しさに満ちているような
そうした熱気がそこにはあった(そして自分も若かった)

その時代にしかわからないものはあるかもしれない
古典として残っているものも、その時代にリアルタイムで感じられたのとは
違う評価基準で捉えられる気がする
フルトヴェングラーのトリスタン全曲の濃厚さは
カラヤンやクライバーの現代的な響きとは少し違うために
耳が慣れていないと単に古いとしか感じないと思われるが
このエコーズも、今の人には何をそんなに大上段に振りかぶって
と思われてしまうかもしれない

でも若い時期に全身で共感した記憶があると
それはなかなか忘れることはできない
「人は食べたものでできている」
と言われるが、自分も聴いたもの、読んだものからできていると
深く実感するこの頃だ

それにしても「エコーズ」は名曲だな
知らないなんてもったいない、、と、おせっかいにも思ってしまう

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美しい5月に

2020年05月01日 08時16分52秒 | 音楽

5月だ
耳元を過ぎる風も、不意に聞こえる鳥の声も
降り注ぐ陽の光も、生まれたての生き物のような新緑も
どこか包み込んでくれるような優しさがある

5月だ
不意に「美しい5月に」という言葉が浮かんだ
それはシューマンの歌曲集「詩人の恋」の一曲目
伴奏のピアノのいつまでも解決しないような
憧れがいつまでもあとを引くような
もやもやしたような不思議な世界に引き込まれた

初めて聴いたのはヘルマン・プライ
同時期の万能の歌手、フィッシャー・ディースカウではない
プライの素朴な歌いっぷりの方が、うまいけどどこかやりすぎの感がある
フィッシャー・ディースカウよりも気に入っている

動画はフィッシャー・ディースカウの方が多くアップされているが、プライのはこちら
ピアノ伴奏に心を掻きむしられる
Hermann Prey; "Im wunderschönen Monat Mai"; Dichterliebe; op. 48; Robert Schumann

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今日聴いた曲(ブルックナー8番・ヴァント・ベルリン・フィル)

2020年04月18日 19時21分17秒 | 音楽

体調も天気も冴えないので家に引きこもっている
気晴らしは音楽となるが、車以外では音楽を聞き流すのは
もったいないと思っている
音楽を聞く時はスピーカーに向かって集中して聴くほうが
得られるものが多くて好ましく思っている(どんなジャンルの音楽も)

でもスピーカーに向かって難しい顔をしてる光景は
他人が見たら、ちょいと奇妙に感じるかもしれない

さて何を聴こうか?
とその日の気分で選ぶ
今日は先日購入したヴァント指揮のベルリン・フィルのブルックナーの8番
を引っ張り出した
大好きなブルックナーの8番だが、それだけに聴いてて気分的に外した!
とは思いたくない
だから気分がのるまで待ったいた
今まで4番.5番.7番.と聴いてきてが、ようやく今日その気になった

ベルリン・フィルは昨年の11月に初めて生で聴いたが
その合奏能力、余裕のある名人芸、精緻な音楽に驚いた
ヴァントは10年以上も前にNDRでのブルックナーの8番で今も記憶に残っている
そのベルリン・フィルとヴァントの組み合わせで悪かろうはずがない

やっぱりベルリン・フィルの音色は凄い
余裕綽々、そして艶っぽい(最近のCDの音は良くなっている?)
ヴァントは感情移入はしないで、とても丁寧に音楽を作り出していく
オーケストラの能力が高いので、自分のイメージを伝えるだけで
彼独自の音楽が展開される
(チェリビダッケよりもヴァントは自然な流れ)

ブルックナーの音楽は不思議だ
この一曲で1時間以上かかり、一般的には長い曲だ
しかし、気がついてみると、もう終わるのか?
と思うことがある
ブルックナーの音楽はベートーヴェンやブラームスのように人間的な何か
を感じさせるものではなくて、自然と対峙してるような
あるいは純粋に音響を楽しんでいるような気にさせる

もちろん個人的な癖はある
2.3のリズム、反進行、最終的には神の栄光を称えるような大音響でのファンファーレ
またやってる、、、と
でもこれは仕方ないなあ、、、と肯定してしまう

この曲のフルスコアを購入していた
スコアリーディングができるわけではないので
楽譜だけで音を理解するのは難しい
(モーツァルトやブラームスはヴァイオリンをメインに追っていけば何となく分かる)
楽譜を見ると、作曲という行為がとても緻密な作業のように思えてくる
だが、スコアを見ながら聴くのは今日はやめにした

心地よい満足感で聴き終えられたが、ふいに思い出したのが
ハイティンクとコンセルトヘボウのブルックナーの8番と
響きは似ていなかったかな、、ということ
これはいつか確かめなくては
こうして次に聴く音楽のリレーはできていく

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びわ湖ホール「神々の黄昏」のライブ配信を観て

2020年03月08日 18時58分13秒 | 音楽

本来なら現場で観て聴いているはずだったびわ湖ホールの「神々の黄昏」
コロナウィルスの対策のために無観客で上演し、無料でインターネット配信
することになった(ライブ配信)
昨日は野暮用があって最後は観られなかったが、今日はパソコンに向かって
気合を入れて観た(聴いた)

終わった後、思わず画面に向かって拍手してしまった
日本語訳は画面に出てこなかったが、その分音楽とか背景とか動作に
集中できて退屈することなどなかった
(大枠のあらすじは知っているのもあるが)

それにしても舞台がとてもきれいだったこと
自分の好きな青(しかし明るい青ではなく深い青)を主体とした舞台で
一幕のノルンの登場は満天の星を背景にしてとても幻想的
ジークフリートがラインの旅をする時はライン河を想像させる波が登場する

幻想的なシーンはジークフリートの葬送行進曲の野辺の送りの場面
アップルコンピュータの壁絵に使われるような情感に満ちた小さな丘を
多くの人間のシルエットが棺を担いで左から右へ動いていく
水面には月が反射している
その野辺の送りを一人遠く見つめている人間がいる
それは多分、ジークフリートの弱点の背中をさしたハーゲン

最近のオペラは読み替え、新規解釈が多くて、それはおせっかいで
少しばかりうんざりしているが、この「神々の黄昏」はオーソドックスな
真正面からの真剣勝負
そしてその照明、プロジェクション・マッピング(?)のきれいなこと

本当にこういうのが観たかった、聴きたかったと今でも悔しく思う
この演出でもう一度、どこでも良いから(東京でも名古屋でも)やってくれないかな
そしてこの演出のシリーズでパルジファルもやってほしい

いつもは音楽が気になるが、今回は舞台が気になって仕方なかった
こんなのは初めてだ(本当に幻想的で美しかった)

ホント、何度も繰り返すが、生で観たかった、、、

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ヴォルフの「メーリケ歌曲集」(フィッシャー・ディースカウとバレンボイム)

2020年02月23日 18時33分59秒 | 音楽

先日シューマンの「詩人の恋」を聴いていたところ
そのピアノパートがとても魅力的だったので
そういえばヴォルフの歌曲のピアノも良かったぞ!
と思いだして、長いこと放ったらかしにしていたレコードを引っ張り出した
フィッシャー・ディースカウとバレンボイムの組み合わせの「メーリケ歌曲集」だ

ヴォルフの歌曲は感傷的な美味しいメロディがあるわけではない
詩の表現するところを的確に効果的に表現すべく作られている
このレコード、気張って引っ張り出したものの、最近は目がしょぼくなっているので
解説書の詩を読むのも面倒になって、結局のところ歌声とピアノだけを聴いた

詩を読まなくてもミツバチが飛んでいるようなところとか
嵐がやってきているような様子はわかる
でもそのような描写的な音楽よりはもう少し別の心理的なニュアンスを
表現しようとした音楽が多い
そしてその歌のピアノの雄弁なこと
伴奏という範囲を超えて声と一体となって一つの世界を作り上げている
その音色、その音の強弱、あるときは寄り添うように、あるときは競うように
ピアノの音は楽器の音というよりは自分の体の中の何かが鳴っているような気がする

ヴォルフの歌曲でフィッシャー・ディースカウとバレンボイムの組み合わせは
このレコードのあとゲーテ歌曲集、アイヒェンドルフ歌曲集と続くが
ゲーテ歌曲集でもやはりピアノが凄い
ピアノが凄いのはもともとピアノパートの作曲が優れているのか
それともバレンボイムの解釈とか演奏が凄いのかわからない
でも、詩はわからなくても声とピアノだけで充分楽しめる

レコード解説書には詩の日本語訳のほか作曲の日付が記されているが
そのおかげでヴォルフが毎日のように別の曲を作曲している事がわかる
と同時に、ヴォルフは連続して作曲している場合はある固定観念、
気分、音楽的なイメージに囚われているのではないか、、、と思うこともある
連続して作曲された歌はどこか似ているところがあると思えるし
それは人にはありがちな傾向のように思える

ということで、久々に聴いたこの二人の共演による3枚組のレコード
次に聴くのはまたずっとあとになるかもしれない
今回は、何かは理解出来ないとしても、感じる事はできた、、、というところ

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