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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

宗次ホール「イェルク・デームス ピアノリサイタル」

2017年05月04日 08時29分49秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

音楽家と宗教家は長生きすると言われている
この日の主役イェルク・デームスは88歳、日本で言えば米寿
母と同じ年齢だ 

74歳のポール・マッカートニーが相変わらずお茶目でパワフルなのと
同じように、名古屋宗次ホールで行われたリサイタルも
年齢を感じさせることはなかった

と言っても、足元は機敏というわけではなく肥った身体をノッソノッソと移動する感じで
昔見たチェリビダッケの指揮台まで歩く姿を思い出した
(あのときは、歩くシーンから静寂という音楽が始まっていたような気がした)

ところが演奏を始めると本領発揮
(ちょっとミスタッチもはあったけど自分は気にならず集中して聴けた)
弾き始めて何よりも驚いたのはその音色
なんと表現して良いのかわからないが、優雅で品があって余裕があって
今までこの会場(宗次ホール)で聴いていた音の記憶と違う
ピアノが今までと違うのだろうか、、、と疑問に思ったほどで
前半が終わった時点でピアノを確認すると、いつものスタンウェイ
何故、今回だけこんなに音色に気になるのか、、不思議な気がした
人間のすることだから同じ楽器でも出す音が違う、、、
と簡単に言ってしまえないほど印象に残った

プログラムはとても良い(自分好み)

バッハからモーツァルト、そしてベートーヴェン、ついでドビッシーとフランク
鍵盤楽器の音楽の表現の変化(その方法と内容)を比較できる
バッハの単一主題からの職人芸的な音響空間、時間の作り方
モーツァルトのホッとするような楽器間が歌うようなやり取り
ベートーヴェンのいい意味での効果を狙った心理的も必然性を感じる流れ
ドビッシーの響き自体の斬新さ、

バッハの半音階的幻想曲とフーガは、たまたまウイーン三羽烏のもう一人の
フリードリッヒ・グルダのレコードを昨年手に入れて自然と聴き比べることになるが
演奏比較というよりは、どちらかと言えば作曲者の方に関心がいく
バッハの音楽は音が詰まっている
真面目で定番的な安心感は毎度感じることで
音楽は感覚的(感情的)なものだけではないことを、そしてそういうことがドイツ人は
好きなんだということを改めて感じる

真面目なバッハの後のモーツァルトのなんという自由さと歌の心地よさ
押し付けることなく聞くほうが勝手に想像したり連想しなければ
その楽しみは真に味わえないかもしれないが、本当に無駄なくサラッと書いている
様なところがおよそ人が作ったものとは思えないモーツァルトの音楽
と言ってもケッヘル番号の遅い(K540)のアダージョ ロ短調は感覚だけでなく
もっと考えられて作られていると感じたが
この曲はめったに聴くことのない曲で、その分新鮮に楽しめたが、曲のある部分どうってこと無いフレーズ
モーツァルト特有のフイに淋しさを感じさせる瞬間がホンの僅かだけあって
その刹那、大事な秘密を見つけたようで、そしてそれはとても切なくて思わず涙が出そうになった
イェルク・デームスのピアノの音はこの音楽にぴったりだった

ニ短調の幻想曲はオペラのレシタティーヴォとアリアみたいなもので
(冒頭の美しい分散和音の弾き方を家ではレコードで聴き比べているが)
よく知っているだけに安心して聴けた

この後ベートーヴェンの最後のピアノソナタ32番となった
バッハとモーツァルトは続けて演奏したが、気分的な連続性はベートーヴェンまで
一気に行うと、どうなんだろう、、、という心配は余計なお世話で
モーツァルトを弾いたあとイエルク・デームスは一端舞台の端に行ったままで
(少し音楽的な興奮が収まるのを待って?)聴衆が次の曲への期待がたかまった
と思われる瞬間に、ノッソノッソと現れた

ベートーヴェンの32番のソナタ この曲は大好きだ
だからレコードでもCDでもいろんなピアニストのモノを持っている
しかし、実演で聴いたことはブレンデルの一回だけ
好きな曲となればこうあって欲しいという希望がどうしても出てくる
ブレンデルの音楽は、どうも相性がよくないようで、ピアノの音色が好みではなく
イマイチだったな、、、という印象しかない
 
イェルク・デームスの音色でベートーヴェンはどうか、、、
と少し心配はしたが、なんてことはない大丈夫、余計なお世話だった
特に第2楽章の感動的なこと、、冒頭の変奏曲のメロディはベートーヴェンが選びに選びぬいた
いや無駄なものを削り取って作り上げたシンプルな美しいもので
そこから導かれる変奏曲の中で実現される多様な世界
最後のソナタとあって、エロイカや5番を作曲した頃の充実した中期を連想させるような
充実した音の構築物としての変奏があれば
良いことも悪いことも、、それもまた人生!
と達観したような別の世界にいるような静かな音楽もある
(その前に鐘の音も響いてるような、、、)

本当はこれでこの日は充分で
後半はアンコールのような少し気楽な気持ちで聴いた
イェルク・デームスの音色はドビッシーにはぴったりだった
オーストリア人でフランス人ではないが、ドビッシーの音楽にも結構合うものだ
とそんなことを連想していた時、イェルク・デームスのピアノの出す音色は
ウィーンで地元の仲間の音を(ウィーンフィル等の)聴いているからに違いない
と根拠もない、しかし、きっとそうに違いないと思いが浮かんだ 

いつも身近に良い音を聴いている
ジャンル(楽器)は違っていてもそうして日常から自ずと身につく好みみたいなものが
彼のピアノの音の反映されているのだ、、、
そう思うことでこの日の気がかりは一端解決

生は本当に勝手なことを連想できるから楽しい
今後の予定では次は新国立劇場で「ジークフリート」となっているが
この演奏会で拍車がかかってその前に何か聴きに行くかもしれないな、、
 


 

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名フィルのブルックナー8番

2017年03月19日 08時33分21秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

新鮮な気持ちで聴きたいがために敢えて予習をしなかった
名フィルの定期演奏会のブルックナー8番

結局のところ、大好きな曲であるために頭のなかにはたくさんの記憶が残っていて
ついつい比較してしまう事となってしまった
ヴァントならここのところの響きは、もっとフワッとした感じだったとか
メータなら静寂の中の掛け合いはもう少し空間の(広さ)を感じたとか
朝比奈隆ならこの部分は必然性を感じるような繰り返しだったとか
フルトヴェングラーなら速度をあげるとこだったとか、、、

だからと言って不満だったわけではない
大曲、1時間20分を要する曲を退屈せずに聴くことが出来た
この日強く印象に残ったとと言えば
すべての楽器(多分)で大音量となるところの気持ちよさだ
やかましいとかうるさい、というのではなくて
特に人間の苦悩とか叫びを表現しているのではなく
ただ単に音響として濁りがなくて、子どもが音を出しっぱなしにして
喜ぶような、そんな感じで聴いていて疲れない

大音量のファンファーレ、
それは彼にとっては神に対する姿勢とか彼の作曲の傾向で
この音量の印象はチャイコフスキーなどの生々しい音色とは随分違う

ただこの日少し不満があるとすれば、豪快な演奏は良かったが
もう少しデリケートな部分があっても良かったのではないか
と感じられた部分がところどころあった点
もう少し他の楽器の奏する音楽を聞いて、自分のパートの音量や音色を考えるような
ところがあってもいいのではないかと

多分この曲を名フィルが感動的なものとするのは、あと何回もの演奏経験が必要な気がする
楽譜上を卒なく演奏できるととと、フレーズの持つ意味を感じ取ることとは違って
演歌歌手が歌い込んで自分のものとするように、何回も弾き込んで自分のものとする時間が
必要なように

まったく8番とは関係ないがフィナーレの楽章で、コーダの部分
全部の楽章のテーマが奏されるものすごい効果とかフォルテッシモの心地良さは
9番の未完の交響曲もブルックナーはこうやって終わりたかったんだろうな
と頭に浮かんだ
だからこそブルックナーは未完の場合には、「テ・デウム」を演奏して欲しいと言葉を残した
サイモン・ラトルのブルックナーの9番のアルバムには補作された4楽章が録音されている
一度聴いただけでは、てんでバラバラなよくわからない印象をもつが
慣れてくると、こういう表現をしたかったブルックナーの気持ちを
なんとなく分かるような気がしてくる

この日、予想に反して女性の方々も比較的多く見かけた
「不機嫌な姫とブルックナー団」の小説にもあるようにブルックナーの音楽は
男向け!と思っていたが、この日はそうではなかったのかもしれない

コンサートの前には、同じ建物で行われていたゴッホとゴーギャン展を見て時間を過ごした

大変な人出で落ち着いて見られなかったが、
こうした絵画展もかなりエネルギーを必要とする
それで全部を気合を入れて見ようとするのではなく、フト心に語りかけてきた作品を
じっくり見ようとする

この日一番記憶に残ったのはゴッホの地味な「靴」という作品
何か拡大鏡で(望遠レンズで拡大したような)語りかけるモノがあった
それは「すごいぞ」とか、少し「怖い」と言うものに通じる何かだった
昔、ミュンヘンで見た「ひまわり」を見た時に感じた迫力に通じるものがあるような
そんな感じ
この感じは暗い色調の「自画像」でも少し感じられた
その目が怖い
鋭いというのではなく、何か別世界の何かを見てるような、、、

この様に生に接することは、録音や印刷されたものとは感じる何かが違う
都会に住みたいとは思わないが、こうした機会に容易に触れられる都会人
を少し羨ましいと思ってしまう 

 

 


 

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新城吹奏楽団の演奏会

2016年12月05日 09時02分18秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

今朝は少し横着して自分の別のブログからのコピペ!
本当はこちら用に 違った感想をアップしようとしたが
面倒になってお茶を濁すことに、、、

以下が引用部分 

新城設楽原歴史資料館と新城市文化会館
昨日は同時刻に興味ある催しが行われた
どちらに行くべきか、少し悩んだ末に文化会館の方を選んだ

昨日行われた文化会館のイベントとは

新城吹奏楽団の定期演奏会

この日のプログラムが思いっきりそそられる内容
何しろ大好きなモーツァルトと
あれをやったら盛り上がるだろうなと想像されたショスタコーヴィッチの5番の終楽章がある
しかもチケット代が安い(前売り500円、当日券700円)

結果的に大大満足  楽しかった
素人の方々の純粋に音楽を楽しむ気持ちは上手い下手と関係なく
何か暖かいものを感じさせる

全体は3部構成
まず驚くのは指揮者の方の歩くスピードの早いこと
ササッと歩いて(年齢は分からないがそんなに若くなさそうなのに?)
指揮台に跳ねるようにのって時間をかけずに始める
集中を図るなんて間のとり方などはなく始める

最初の曲は指揮者の方の作曲された曲のようだ
なんとまあ、難しい曲から始めたものだ
音程が取りにくいのか、音があっているのかわからない
難しい和音(現代人にしかフィットしないような)が続く
ときに武満やメシアンを連想されるようなフレーズがあったり
こういう曲を素人の楽団でやるというのはすごいことだ
つづいて比較的聞きやすいものを続けて一部は終了

短い休みを挟んで、ピアノが中央に移動されて始まったのが
お楽しみのモーツァルトの時間
超有名なアイネ・クライネ・ナハトムジークから第一楽章
ただ楽器編成のためか重心がエラく低い方にあって軽快なと言うよりは
少し重めの感じが、、それと希望を言えばもう少しチャーミングな表情付けが出来たような、、

ピアノが出てきたのは20番のニ短調のピアノ協奏曲の第2楽章が演奏されるため
弦無しでどんなふうになるのかと思ったが意外に気にならなかった
最初はやはり硬い表情 フレーズも真面目っぽい
でも途中、モーツァルトがよく聴いてくださいよ!
というような中間の楽器管のやり取りの部分から調子が出来きた感じ
最初のメロディに戻ったときは今度はもう少し余裕があって柔らかな
表情になっていた

次はクラリネット協奏曲
この日一番の収穫はこれ
本当に楽しかった
奏者もこの曲が好きなんだろうと感じられたし
夢中になって演奏しているところが聴いてる方も心地よかった
晩年の作のこの曲 やっぱりすごいや
やっぱりレコードやCDより生(ライブ)がいい

3部はショスタコーヴィッチをメインに
少しばかりクセのあるひねくったフレーズの多い作曲家だ
それは彼の生きた時代を反映しているようだ
でも個性という面も大きく、またやってる!という部分も少なくない
最後の最後に演奏された交響曲5番の最終楽章
これは盛り上がるだろうな
と想像されたが、予想通り盛り上がった
景気のよい派手な音楽だが聴いてる方よりは演奏してる人たちが
楽しそう、思いっきり開放的に吹けるシーンが存分に有って
気分が高揚して、、

演奏途中で、まさか新城でショスタコーヴィッチが聴けるとは思っていなかったので
何かうるっとしたものを感じた

ということで、当日券700円分はお釣りが出るほど楽しんだ
アンコールもホッとした、くつろいだ感じに溢れた演出
これも良かった

ここまで 

2日続けて音楽三昧(METライブビューイングと新城吹奏楽団)だったが
軍配は昨日の文化会館の方
でも出来ることなら会場を満杯にしてあげたかったな
 

 

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METライブ・ビューイング「ドン・ジョバンニ」

2016年12月04日 08時19分22秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

昨日、電車は多少の遅れはあったものの時間には充分間にあった
チケットを前もって購入して、時間前にハプニングで会場に行けない
前回の反省を踏まえて今回は当日券を求めた 

METライブ・ビューイングの二作目は「ドン・ジョバンニ」

この地区では名古屋のミッドランドシネマしかやっていない
 昨日はこの映画の初日ということもあってなかなかの売れ行き
自分が手にいれたのは結構前目の右側の席
もう少し後ろの真ん中寄りが良かったけれど、仕方ない

ドン・ジョバンニは実演で一度見たことがある
それはどんなだったか情けないことにあまりよく覚えていない
しかし覚えていることもある
それはプレイボーイ・悪人、ひどい人物であるドン・ジョバンニだが
何故か彼を応援したくなっている自分がいたということ
多分反省しなさいという部分だと思うが、
「今更 反省の言葉を言うべきじゃない、そのまま突っ切れ!」
と感じたことだけは覚えている

しかし、昨日あらためて劇を見ていくと
ドン・ジョバンニは本当にひどい人物だ
やりたい放題、モラルなんてなし、口から出まかせ
その態度は「おいおいやりすぎだろう!」とツッコミを入れたくなるほど

しかし、この男の生命力、バイタリティはなんだろう
それを感じさせるのが多分音楽の力
モーツァルトの性格描写がすごいということなのだろうか
ドン・ジョバンニは確かにひどい人物だが
(こんな風に採りあげると文句が出そうだが)
彼だけが悪いわけじゃない
ドンナ・アンナは別としてドンナ・エルヴィーラやツェルリーナは
彼に騙されたり騙されそうになっている
それはドン・ジョバンニが言葉巧みだったというよりは
彼女らにそういう一面があるということではないのか
ものごとは男一人だけでは進まない
その微妙なところをダ・ポンテの台本をモーツァルトは
イタリア語のどこか騒がしい早口のセリフと音楽で描写している

多分、昨日は音楽というより劇の方に関心は行ったようだ
でも劇中に「もう飛ぶまいぞこの蝶々」が出て来るあたりは
作曲家自身もサービス精神というよりは
ノッて作曲しているような気がした

音楽は、指揮がファビオ・ルイージ
最近レコード芸術とか音楽の本を読んでいないので
この人がどんな人かよくわからないが
記憶をたどるとどこかで聞いたことのある名前のようだ
昔、ブルックナーの7番を名古屋で指揮した人のような記憶が、、
違ってるかもしれない
ただ、そのときは感心しなかったな
で映画の中の指揮ぶりは、、、
特に驚くほどのことはなかった
序曲冒頭の音も、もう少し緊張感のある音があっても良かった

歌手陣は演技も含めて見慣れていないので(聴き慣れていないので)
それがうまいのかどうなのかはわからない
ただドン・ジョバンニとツェルリーナ、それとレポレッロ のキャラクターは
感情移入が容易に出来るほどだった

しかし、この歌劇は悲劇なのか喜劇なのか
悪人は地獄に落ちるという教訓じみた物語なのか
といえば、必ずしもそうでないような気がしてならない
あまりにもドン・ジョバンニの性格を示す音楽が雄弁過ぎる
多分、人には矛盾した様々な感情をもっていて
一面的に正義を言うのはどこか胡散臭いということを
それとなく語っているような、、、
いやこれは考えすぎか

ところで、昨晩家に帰ったあとYoutubeで「魔笛」の一部を見た
ドイツ語の響き、民謡的なメロディ、屈託のない無邪気な音楽
やっぱり、自分は魔笛が好きだと再確認 
子どもたちにも人気があるのがわかる気がする

ところでMETライブビューイングの入場券の半券があれば
次回は300円安くなるということだ
次があるかどうかは今のところ分からないが
大事にとっておかねば、、
 

 

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METライブビューイング「トリスタンとイゾルデ」

2016年11月16日 08時46分14秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

今年は自分にとってヴァーグナーの年だった
9月に名古屋の芸術劇場で演奏会形式で「ラインの黄金」
10月には新国立劇場で飯守泰次郎さんの「ワルキューレ」
そして昨日(11月15日)はMetライブビューイングで「トリスタンとイゾルデ」
 

映画で楽劇(オペラ)を見るのは初めてだ
偶然この出し物を知ったが、オペラなら何で見に行く
ということはなくて、興味があったものだけ行くことにしている
METライブビューイングは10作品あるようだが、興味をそそられるのは
「ドン・ジョバンニ」くらい?
(行けば行ったで「椿姫」も「薔薇の騎士」も良いかもしれないが、、)

音楽会へ行くときの選択の基準はまずはプログラム
田舎から都会に出かけるのはチケット代だけでなく交通費も加算されるので
慎重に考えなくてはならない
その意味では、昨日見た「トリスタンとイゾルデ」は
プログラム、指揮者がサイモン・ラトルということで無条件に飛びついてしまった

「トリスタンとイゾルデ」では自分にとって記念すべき作品で
人生で一番最初にみたオペラ(楽劇)がこれ
しかも、バイロイトで、それも日にちを変えて2回も
偶然とは言えバイロイトで本物を見られたのは、今にして思うと本当にラッキーなことだった

この思い出の作品だから日本でも、東京のNHKホール、名古屋の金山文化会館にも足を運んだ
(しかし、随分前の話で最近は行っていない)
映画形式での楽劇鑑賞 実演ほど価格はかからず、大きく見えるのでそれはそれなりに
興味深い、しかも今回はラトルの指揮だし、、

ということで、これを知ったときから楽しみにしていた
新鮮な気分を保つために「予習」はしないようにした
その場で音楽と向かい合うには妙な予想をするよりは
流れに身を任せたほうが(自分の場合は)良い

本当は昨日ではなく交通費の安い土曜日、つまり映画初日で予定していた
しかしJRにハプニングが起きて最初から見られないことになった
そこで、劇場の方にお願いして昨日の火曜日に日にちを変えていただいたた
(これは本当に助かった、チケット代が無駄になるのが避けられた)

前置きが長くなったが、映画が始まった
有名な前奏曲が奏される ラトルの音楽はどんなか気になる
だが映像があると耳よりも目の情報の方が多いようで
関心は画面に向かう
変な円のようなものが写った
時計の針のようなものがゆっくりと回る
それが何回も  そうか、これはレーダーなのか
と想像した(違っているかもしれないが)
第一幕は船でイゾルデをマルケ王のところまで連れて行くことになっているが
その船を暗示させるものかと気づいたら、その円の中に船が荒海の中を
進んでいく姿が映された
しかし、これは自分には気に入らなかった
トリスタンの一幕を知っている立場からすると、この様な具体的な見せ方は必要ない
むしろ映すんなら甲板から固定した視点で船が海の中を進んでいくほうが
良いような気がする そのほうが冒頭の水夫の音楽に繋がる

ということで、視覚的には今回は期待できないかもと思い
目を閉じて前奏曲を聴くことにした
一幕が始まる  偏見なしに見ようとしたがどうしてもある演出と比較してしまった
ある演出とは 40年も前に見たバイロイトのそれだ
バイロイトの舞台は一幕は船の帆を連想させるものが存在感たっぷりにあった
そしてイゾルデが「空気を、、」というところは 幕だったかドアだったか
を開いて 話の内容と素直に舞台が一致してた
服装も昔のお姫様や貴族のようなもので(これは怪しいかもしれないが)
今回の現代的な服とは違う
今回は(最近は)船も具体的で舞台左手に階段があって、3階建ての大きな船のようだ
しかし、どうも自分はこうした具体的すぎるのは気に入らない
バイロイトの帆があって、さあこれが船です、船の構造や部屋の雰囲気は
各自自分で想像してください、、みたいな方が好き

オペラ(楽劇)は主人公が悲劇のヒーロー・ヒロインであっても
舞台の上で活躍するのは歌手、声を維持するのに大柄な(つまり肥った)人物が
演技する  確かに声はすごい 声もいい  しかし肥った人の演ずる話の中に
集中できるかといえば、そうなるには少しの時間経過が必要
いったん慣れてしまえば気にならなくなるが
その意味でイゾルデ役のニーナ・ステンメさんがめちゃ豊満な体格ということでなくて
少し助かった トリスタン役のスチュワート・スケルトンさんはたっぷりしていたが
これは西洋人にはある体格で 許せる範囲、、

ブランゲーネ役のエカテリーナ・グヴァノヴァさんは「小林幸子」を連想してしまった
何故かは分からないが 

一幕は話の発端となる(発端はもっと前にあるが一応)
イゾルデのイライラした気持ち(恋する気持ちをコントロールできない)は
分からないでもないが、またケチをつける訳ではないがイゾルデは舞台の左右に動きすぎる 
頻繁に動き回って、あれだと気の強いワガママな女性みたいな人物設定で
自分の好みとしてはもう少し動きの少ない、気は強いが内に秘めていた思いに
今まで堪えてきたが、とうとう耐えられなくなった人物という設定のほうがいい
これは自分が日本人だからか、、西洋人の考える女性というのはあんなように
自己主張の強いのが当たり前なのか

一幕の印象的な音楽は船が岸に近づく前に奏される
緊張感に富んだ音楽、そして媚薬を飲んだ後に
バイオリンとハープで静かに奏されるあの有名な旋律
この効果は抜群で、一回聴いただけでこのシーンはいつまでも記憶に残る
このあと船は岸に着くが、あまりにもリアルなのは、、、

二幕まで少し休憩があり、その間にインタビューの映像があった
ラトル「二幕のブランゲーネの警告あたりから音楽は一気に流れていく
あのシーンは本当に美しい音楽、、みたいな事を話していた
そのとおりで、二幕の一番の聴きどころはそのところ
トリスタンとイゾルデが不倫の密会をしていて、2人だけの世界にはいっていって
その2人だけの世界がまさに2人だの客観性を欠いた世界に我を忘れている
このところのヴァーグナーの音楽は本当にすごい 
何回聞いてもある部分は毛細血管が広がりそうな、
ヴァイオリンの音に恍惚となりうそうな音楽だ
初めて聞いたバイロイトでもこのシーンは覚えている

ブランゲーネの警告が終わって、ピロートークのような会話が続く
音楽もけだるいようなもの、自分たちの思い込みの熱い世界からなる情熱的な音楽
へと行ったり来たり、、、そしてピークを迎えようとする刹那
不倫現場を抑えられる
少し品がないかもしれないが、彼らが行っているのは不倫なのだから
このところはもう少しリアリスティックな服とか様子のほうが
効果的ではないか、、と思ったりする
舞台がリアリスティックで不満なのは二幕のイゾルデがトリスタンに会うために
駆け回っている(と想像させる)部分
バイロイトでは森の中を走っていることを暗示させるように僅かな光が
右から左へ、左から右へと動いていた(ような気がする)
そして不倫現場も室内ではなくて木の下のような(このあたりは記憶が曖昧)
野外のほうが闇とかを容易に連想しやすい
メロートとの戦いも剣ではなくて今風の銃というところは少し拍子抜け
トリスタンが怪我をして終わるこの二幕の音
劇的なのだがレコードで聴くフルトヴェングラーの全曲録音のそれと比べると
フルトヴェングラーの音色が魔術的に濃厚・ロマン的なのがわかる
取り返しの付かないことが起きてしまった  というようなニュアンスの音
そんな印象は今回はなかった  しかしドラマティックだった

3幕はあの重苦しい前奏曲とそれに続くイングリッシュホルンの印象的な音楽
1幕が最初イゾルデとブランゲーネの掛け合いでスタートし
3幕はトリスタンとクルベナールの掛け合いで始まる
女の声と男の声で、対称的になっているのかな、と昔思った

正直、演出は好きじゃなかった
(素人だから好き嫌いだけで話ができる)
だから、最後は感動できるかなと不安だったが
会場映画館、暗くて良かった
終わる頃には知らず知らず頬を熱いものが流れた
手で何回か拭ったが、人に知られずに良かった

イゾルデの「愛の死」のラストシーン
バイロイトでカテリーナ・リゲンツァが背伸びするように歌っていたのを
急に思い出した
そして、バイロイト祝祭歌劇場前でチケット探してますと自分たちが
ウロウロしてたときに知り合いになっパンフレット売りのバイト(?)の女の子が
(多分今では許されないだろう階段席に座って聞いていたと思われるが)
3幕が終わって明くるなった時、何度も涙を拭っていたのを思い出した
彼女たちには母国語のドイツ語 
外国人の自分よりもっともっと深い理解の仕方をしたのだろう
そんなシーンを40年も前のことだが思い出した

ラトルの音楽の良し悪しは正直なところ分からない
多分生で聴く音は、もう少しうねるような、それでいてニュアンスに富んだ音色だったと思う
これは実演はどうだったのかを想像するしかない
現代的でメリハリがあるというデジタルの音
最近、この手のソフトに(CD)感動したことがない 
レコードはツボにハマってレコードの裏表をひっくり返して
せっかく感じやすくなっているこの機会を逃すともったいない
みたいな気がする時があるが、デジタル音源はほとんどこういう経験がない

やっぱり一番は生といういことになるが
田舎だとなかなか簡単にそれができるわけじゃない
都会に住みたいとは思わないが、唯一、音楽環境は羨ましく思う

さて、METライブビューイング 
それなりに面白かったので、もしかしたらまた行くかもしれない
しかし、音がなあ、、



 

 

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新国立劇場のワルキューレ(10月8日)

2016年10月09日 20時45分47秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

もしかして愛知県の片田舎への電車が間に合わないかもしれないと思い
一泊して観ることにした新国立劇場の「ワルキューレ」
数日前から予習をしてこの日を迎えた
 

派手な1.3幕は眠らない気はしていた
でも2幕は長いし延々と会話ばっかりで、睡魔に襲われたら(ブリュンヒルデじゃないけど)
寝てしまわない自信がなかった

ところが、何の事はない心配は杞憂に終わった
それどころか、2幕が思いの外面白かった
ストーリー的に指環の重要な要素がたっぷりはいっていて
4部作が何故「ニーベルングの指環 」と名付けられて
本当の主役は誰なのか ということも理解できたような気がした

まずは順を追って第一幕から
一幕は今回に限らず聴く機会は多いので楽勝な感じで舞台に集中
斜めになった安定感のない青い色彩の舞台
剣の刺さった大木も斜めに生えている
それが象徴的にどんな意味がるのかは自分には分からない
ただ、シャープできれいだなが第一印象
そのきれいと感じたのはジークムントとジークリンデの盛り上がる
月の光が差し込むところではなくて
フンディングの仲間が家に入る扉を開けて外の光が家に差し込むところ
ここは視覚的に印象に残った
そして一幕で一番印象に残ったことと言えば「人の声の凄さ」
鍛えられ訓練され、そして才能にも恵まれた人たちの声の凄さ
これは本当にすごい
この日のキャストは

残念ながら知らない人ばかり
セリフや歌詞を見て聞かなければならないオペラやリートは
目がしょぼくなっている自分はあまり聴かない
単純に歌詞のない音楽だけであれこれ想像するほうが楽でいい
ところが、実演で言葉と音楽が混じり合うとこうした分野も捨てがたい

この日の歌手たちを比較対象できるくらいの知識とか
たくさんの歌手の歌を聞いていれば聴く楽しみ方は違っただろうが
この日はただストーリーに集中して聴くだけしかできなかった
(それで十分なのだが)

声の凄さは体格に比例するかもしれない
パヴァロッティはとんでもなく肥満だったし、今回の主役級もみんなふくよかな体型
ドラマを観るなら興ざめしそうだが、それを圧倒的な声の力でカバーし
おデブさんは気にならなかった
昨年ウィーンで見たパルジファルはおデブさんが気になって最後まで集中できなかった
(衣装も薄汚かったし)
音楽はウエルズングのライトモチーフや剣のそれはもう少し効果的に鳴らしたり
暗示したりできそうな気がしたが、とにかく一幕はただただ声がすごいに尽きた

2幕、普段よく聴かない部分だ
この聴かないことが却って良かったかもしれない
先取りして音楽を待つのではなくストーリを楽しめた
浮気性の神(ヴォータン)、その浮気にもそれなりの理由があるのだが
ちゃんとチェックしている正妻の迫力に負けてしまい、自分の心を偽って
せっかく期待して産ませたジークムントを自らの力で滅ぼしてしまう運命を選択する
ここにすでにアルベリヒ(ニーベルング)の呪いがかかっている

4日間かけて上演するこのシリーズを通称「ニーベルングの指環」と呼ばれるのは
このアルベリヒの呪いのかかった指環を中心にして物語が進められからだ
特に表立って指環が出てくるわけではない、出てくるのは呪いにかけられた運命だけ
そしてその指環を最初手にしたのは「愛を諦めた」生物としてのアルベリヒ
愛を諦めた代わりにその指環は「世界を征服できる」力を持つ  という設定が面白い
この指環は策略によってヴォータンに取り上げられてしまったので、その取り上げられる瞬間に
指環を持つものには不幸な運命を!という呪いをかける

本当にオペラの題材としてはあまり美味しくない内容だ
権力闘争とか欲とか裏切りとか、、

話がそれてしまった
とにかく2幕は面白かったということ
そしてこの2幕は指環を楽しむためのいろんな情報が詰まっているということが分かった

しかし、それでもここの音楽は実演でないと聴き続けられないだろう

3幕
ストレッチャーが出てきた
ワルキューレの仕事(死んだ英雄をワルハラに運ぶ)を考えるとそれも分からないではないが、
いざ目前に現れると少しショックだった
音楽は2幕から雄弁に語り始めている
ライブの良さ、勢いに乗ったもの勝ちのようなもので
歌手の呼吸と音楽が寄り添って、舞台を見ないで楽譜を見て演奏しているのが
不思議な気がする
やっぱりオーケストラはオペラの演奏をすると呼吸とかノリとか
一ランクアップするかもしれない

さて有名なヴォータンとブリュンヒルデの別れ
不覚にも一瞬泣きそうになった
健気で真に勇敢な父思いの娘との別れ
そして、次に登場する英雄を暗示させる音楽

ワルキューレは終わったが、作品として単独で取り上げられるといっても
何か消化不良の気持ちが残る
先がどうなるか?その気持ちのほうが強い
まるでミステリーのとてもいい場面で中断されているような気分で落ち着かない
次の「ジークフリート」「神々の黄昏」が今すぐにでも聴きたい気分だが
会場に貼られたポスターをみて驚いた
来年6月に「ジークフリート」10月には「神々の黄昏」が上演されることになっていた

トリスタンやパルジファル、タンホイザーはまだしも指環はちょっと!
と思っていたが、いろんな解釈ができるこのシリーズは
「ハマってしまう」かも知れない 
(でも、ホント妙な物語)

とりあえず、来年も行くぞ! 


 


 

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宗次ホール「第3回 弦楽四重奏コンクール」雑感

2016年09月19日 08時34分10秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

今年は、最初から最後まで頑張って聴いた宗次ホール
「弦楽四重奏コンクール」 

昨年はスタミナ・集中力切れで途中で退席した

しかし、低価格で真剣勝負がしっかり聴けるのと
聴いたことのない曲をまとめて聴けるのに誘われて
電車賃を払って出かけた(今年は聴く方も最初から気合が違った)

大正解!
先日の3000円で聴けた(見れた)「ラインの黄金」に引き続き
チケット代2000円でほぼ一日中の音楽三昧は
コストパフォーマンスがめちゃくちゃ良くてありがたい

でも、本当は途中で退屈して集中力が切れたり、お昼のご飯を食べた後は
眠たくならないか心配だった
ところがその心配は杞憂に終わった
(それでも最後は少し疲れたが)

一団体、持ち時間は45分、ハイドンの作品から一曲
その他自由に選択した一曲が演奏されて、そのトータルの評価で順位を決定
審査員はホールの2階席に陣取っていた

最後まで聴いたが、これらの曲を録音したものを同じように集中して聴けるか
といえば 、それは絶対無理で、やはり生演奏だからこそ聴き続けられたと言える

この日演奏された曲の大半は知らない曲
知っている方を数えるほうが速い
必ず演奏されるハイドンの作品でも知っていたのは「ひばり」「5度」
自由曲はベートヴェンの「ハープ」と4番のハ短調、ドボルザークの「アメリカ」
それからバルトークの3番(CDで聴いてるはず)くらいなもの
こうなると演奏の解釈がどうのとか上手い下手などはほとんど分からない
そこで素人の強みで楽しんだほうが勝ちということで
聴いてるときに頭に浮かぶ事を勝手に楽しんだ

ところで、審査員というのは大変な仕事だ
同じ曲ならまだしも全部違う曲で実質6時間聴き比べる作業をしなければならない
難しい作業だなと思ったりする

この日の順番は

1.ブロッサム・クヮルテット
2.カルテット・ダモーレ

ここで昼の休憩45分

3.ルボワ・カルテット
4.タレイア・カルテット

5.山田弦楽四重奏団
6.ソフィア・カルテット

7.エイム弦楽四重奏団
8.ロリエ弦楽四重奏団

コンクールと言うが、この順番は評価に影響するのだろうか
最初のグループはその後の比較の対象になる(?)
それは不利なのか、それとも得なのか
それに最後の方は疲れて飽きてきて新鮮に聴いていられない(?)
これも不利なのか、、、
でも、こんなことを幾度も経験してきた人たちが審査員
審査員って大変だ

さて頭に浮かんだ勝手な連想
最初のブロッサム・クヮルテット
冒頭の音を聴いた刹那「ウィーンの香りだ」と思った
奏者の音色のせいか、ハイドンの曲のせいか、どちらか分からないが
とにかく「ウィーンの香り」という言葉が頭に浮かんだ
「ウィーンの音」ではなく「ウィーンの香り」というのが少し不思議
この最初の印象が良かったせいで、この日一日はそのままの気分で終えられたのかもしれない

ハイドンはハマってしまう作曲家ではなく、どちらかと言えば
少し気の利かない真面目な音楽家の印象があったが
この分野(弦楽四重奏)については過不足なく、バランス・収まりの良い感じだ
感情過多ということもなく、品良く、それなりにかっちりしててウィーンぽくて

ハイドンでも作品番号が若い時と後半とはすこし印象が異なる
自分は真面目なかっちりした後期よりも自由な発想力に任せた(?)初期のほうが
聴いてて楽しい(かな)

ブロッサム・クヮルテットの自由曲はフォーレの後期の弦楽四重奏曲 ホ短調 作品121
フォーレは好きな作曲家
特にピアノが入った室内楽曲はなんとも言えず美しい瞬間がある
この弦楽四重奏曲はハイドンの時代のおおらかな気分から、
近代の難しい感情の世界に入ってしまったようで、はやり後期のピアノ三重奏を
連想させる瞬間があった

このフォーレの後に聴いたカルテット・ダモーレの「ひばり」は
緊張感から開放されてホッとした

ハイドンには申し訳ないが、やはり自由曲のほうが興味深い
ベートーヴェンの「ハープ」は曲中に例の運命の動機がでてきて
吉田秀和が「ベートーヴェンを求めて」で書いていたように
彼は一生あるテーマを追い続け(使い続け)ていたのだと感じる
ベートーヴェンの曲のほうが感情的な流れの必然性が感じられる

昼ごはんの後は(結局関心があったのは自由曲ばかりだった)
ルポワ・カルテットの「アメリカ」
タレイア・カルテットのメンデルスゾーンの2番 イ短調

アメリカはよく聴く曲で、リズミックなところとメロディアスのところ
特に2楽章が心地よく、この日も堪能できた
メンデルスゾーンは初めて聞く曲
彼らしく感情表現を強く表に出すことはなく節度の中に収まっている
(4楽章では不気味というか効果的な音形もあったが)
そのなかで気に止まったのは、あのヴァイオリン協奏曲を思わせるフレーズが
時々聴こえたこと
やっぱりメンデルスゾーンも癖とか好みとか個性とか
そういう音形があるのもだと思ったりした

この作曲家独自の癖とか個性とか好みは
あとで聴いたチャイコフスキーやバルトークにもあった
チャイコフスキーは、「またやってる、いつのもあれ」という瞬間があったし
バルトークは「弦チェレ」を彷彿とさせる瞬間があった

あと少し頭に浮かんだこと
ベートーヴェンの作曲能力の凄さ
感情に伴う流れの必然性、そしてそのまとまり、更に聴衆の気持ちを捉えて
離さない魔力  これは本当にすごい(弦楽四重奏4番 ハ短調を聴いて)

興味深いものに日本人作曲家の作品があった
矢代秋雄の弦楽四重奏だ
武満みたいな音楽かな?と予想したが
武満と言うよりはシェーンベルクを連想した
畳み掛けるリズムは西洋というよりは日本を感じたが
この曲を聴く事によって武満の凄さ・独自性を再確認した

あとは、、、、
やっぱり疲れてしまった 
でも勝手にあれこれ想像することは楽しい

そうだもう一つ現場で感じたことがあった
それは男性の奏者が少ないということ
最後の最後、ロリエ弦楽四重奏団だけ男4人だったが
あとは男がいても一人で、中心となる第一ヴァイオリンは女性

男の感性による演奏は女性とは違うはず
と思い、バルトークを選んだのは男ならではと思ったりしたが
実際に出てきた音も筋肉質のたくましい音だった
スピード感もどこか女性中心のグループとは違う
ただ、これがドイツの男性による演奏だったらもう少し違う音色
なのではないかな?と勝手に想像した

ところで、コンクールと言うだけあって最後には順位がつけられた
曲が全部違う、しかも知らない曲ということで、
聴衆者のアンケートとしては自分は「もう一度聴いてみたいグループ」
という判断で2つのグループを選択した

素人だから、演奏能力よりは選曲の良し悪しが左右してしまった感はある

ところで、プロと聴衆が選んだ結果は

◆第1位 Quartet ame(エイム弦楽四重奏団)
◆第2位 Thaleia Quartet(タレイア カルテット)
◆第3位  Quartet d’amore(カルテット ダモーレ)

◆聴衆賞 ロリエ弦楽四重奏団

◆ハイドン賞 Quartet ame(エイム弦楽四重奏団)
◆宗次賞 Sophia Quartet(ソフィア カルテット)

弦楽四重奏コンクール 次は再来年だそうだ
次も行こう! 

 

 



 

 

 

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ラインの黄金 (9月11日 愛知芸術劇場 コンサートホール)

2016年09月12日 07時39分57秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

最初は睡魔との戦いになるのかもしれない
と不安だったコンサート形式による「ラインの黄金」
しかし、そんなことはなかった
それどころか、終わったあとは人に何か伝えたくて
無闇矢鱈とツイッターに投稿したり、アンケートにいろいろ書き込んだり、、、
つまり、感動したということ

チケット代は3000円 
会場につくと厚めの解説パンフレットもついた

完全に元手は取った

そのコンサート(上演)が成功したかどうかは、もう一度行きたい(聴きたい)と
思わせるかどうかが判断の基準であるとしたら、今回は大成功
来年予定される「ワルキューレ」は絶対行こうと終わった瞬間に決めた

コンサート形式というものの、歌手は立ちっぱなしということはなく
証明も照度、色合いを変える演出がなされた
もちろん字幕も左右に準備された

雰囲気という面では、つかみは良かった
演奏が始まる前に舞台左手の上方で管楽器によるファンファーレが奏された
それはバイロイト祝祭劇場で幕間に奏されるモノを連想させて
一気に期待感がふくらんだ
(少し残念なのは音色、バランス、音程に不安を感じさせたこと) 

この楽団はアマチュアの人の集まりらしい
だからなめらかな肌合いの音、つややかな響き、安心できる流れはなかった
しかし、それで不満だったかといえば、全然そんなことはなくて
むしろ何かしらないが、熱い勢いみたいな感じられて、特に後半になるにつれて
音楽とドラマが一体化したような瞬間が何度となく感じられた

だから演奏の善し悪しと言うよりは劇の進行、内容に関心が行ったし
勝手な連想はヴァーグナーの考えたことに考えが及んだ

「ラインの黄金」は、よくよく考えると奇妙な作品だ
恋愛の話でもないから感情の昂ぶりみたいなものはないし
あるのは「嘘」とか「企み」とか「言い争い」とか
およそ美味しい話とはいえない
しかし、この物語の中で奏されるライトモチーフの雄弁なこと
字幕は確かに両サイドにある
物語を知るには字幕に頼るしかない
しかしその字幕は演じられるところから視線の動きを大きくしないと見られないので
どうも集中できない
だからパッと読んで視線は舞台にとなるのだが
この時威力を示すのがライトモチーフ 
気持ちとか雰囲気とか運命とか、その他諸々の表情を雄弁に語る
その面白いこと、、、

ヴァーグナーはこれ(ラインの黄金)を序夜として、あと3日続く
とんでもない物語のテキストを書き、作曲をした
彼は天才というより、化物という方がふさわしい

プロの視点から見ると、彼のテキストは欠点が多いらしい
でも自分はプロじゃないからそこまではわからない
確かに大げさだったり、もったいづけてるところも感じるけど
音楽の進行に必要ならそれもあり!と気楽に考えるくらい

指輪と言われるこのシリーズ
指輪といえば映画「ロード・オブ・ザ・リング」を思い出すが
アルベリヒがミーメをいじめて隠れ蓑などをつくらせるところの音楽は
映画の気味悪い連中が武器をつくっているシーンを彷彿とさせた

「ロード・オブ・ザ・リング」の作者トールキンは
ヴァーグナーの指輪に影響を受けたのだろうか

そんなこんなで、まだまだ思いつくことはいろいろある
歌手の方々がみんな日本人であったことは少し驚き
オドロオドロしい日本的な物語ではないが、何の違和感もなく世界に入っていけた
(むかし東京で見たパルジファルは、日本人が出た時は違和感を感じたが)

そうそう、一番残念だったのはクーラーが効き過ぎ
これは正直つらかった
吹き出し口の真下だったのか知らないが、ホント寒かった
この出来事は上演の記憶と一緒に残るエピソードで時間が経つと
良い思い出になるかもしれない(から、いいかとするか!) 

そうだ、会場では江川紹子さんを見かけた
最初、知ってる人がいる 誰だったっけ いちおう挨拶しとかねば
と思ったが、江川紹子さんと気づいて挨拶はやめた
こっちは知ってるけど、あちらはこんなおっさんは知らない
彼女は今年のバイロイトにも行ってるしワグネリアンということがよく分かった

ということで、おおいに満足のコンサートだった
来年はワルキューレ
その前に10月に東京でワルキューレ 楽しみ
 

 

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ショパン弾きではないかもしれない(?)丸山凪乃

2016年08月27日 18時15分47秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

土曜日の午後、宗次ホールのスイーツタイムコンサート並の価格で
自宅近くの新城市文化会館で生のピアノ演奏を楽しめたのが
写真の丸山凪乃ピアノリサイタル

この会場でクラシック音楽を聴くのは多分2度目(もしかしたら3回目)
JCの方が頑張って実現できた第九を歌う会の演奏会
それとモーツァルトのK219のヴァイオリンと新世界のプログラム
(少し怪しいのはラフマニノフの2番のピアノ協奏曲があったような、、、)

とにかく久しぶりのことだ
プログラムは

前半はショパンの作品
後半はシューマンとリストのロマン派の作曲家に、最近の人ファジル・サイの音楽

このピアニストのことは知らない
だが解説によると史上最年少でショパンコンクールにでたらしい
それで前半は、そのコンクールで演奏した作品を並べたようだ

演奏は、若いな
深みやニュアンスの微妙なところはない
バリバリと感情移入はそれほどなく弾ききっていく
もっと大づかみの解釈というか捉え方が必要かな
と思ったりした
ということで、有名な曲が並んだ割には印象には残らない演奏

しかし後半は、なかなか面白かった
自分でも自分の好きな曲と話しただけあって
共感の度合いが全然違う
この人ショパン・コンクールに再度挑戦するらしいが
ショパン弾きではないのでは!というのが実感
ショパンよりはもっと濃厚な感情の作曲家のほうがあっていそうな気がした

後半の最後の大曲 リストのソナタも面白かったが
今の彼女のフィーリングにピッタリと思われたのがファジル・サイのパガニーニ・ジャズ
例の24の奇想曲のひとつをジャズ風にあしらったもの
クラシックではなく今の気分をより的確に反映しているようで楽しかった 

サイモン・ラトルが古典となった音楽ばかりではなく
今の時代の今の気持ちを表現して、今の人しか共感を得られないような現代音楽を
無視してはいけないようなメッセージを発しているが
大げさなことを言わなくても、確かに今の音楽はもう少し門戸を
広げるべきかもしれない

そういえば数カ月前にいったエレーヌ・グリモーのリサイタルでも
現代曲はそれなりに面白かった 

帰り際、アンケートの回収があって、もっとこの手のコンサートの開催を希望したが
さて、、、、 

 

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キム・ダミ ヴァイオリンリサイタル (宗次ホール)

2016年06月13日 08時25分55秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

コンサートに行くきっかけはプログラムか
それとも演奏家か?といえば自分の場合は
圧倒的にプログラムへの興味による

まずは演奏される曲が良いか、悪いかが 問題となって
いくら興味深い演奏家でも好みに合わないプログラムだと
それだけでパスしてしまう
(ゲルギエフは興味あっても苦手なチャイコフスキーでは
行く気になれない)

昨日、宗次ホールで行われたキム・ダミのヴァイオリンリサイタル

でかけたのは、このプログラム

2番目のヴィターリのシャコンヌが聴きたかったためだ

バッハと並ぶこのシャコンヌの名曲は、以前やはり宗次ホールで聴いた
この時は演奏者のヴィターリ愛にあふれ、感情のこもった演奏が
とても良かった

数カ月前からこのリサイタル(プログラム)は知っていて楽しみにしていた

ここからは完全に個人的な独断と感想
単なる思い込みに過ぎないかもしれないし、たまたま自分のコンディションに
よって不安定な感じ方だったかもしれないが
とりあえず何か残しておくことに

最初のヴィヴァルディ
その出だしの音でこの人の音の傾向・その日の方向性は
決まってしまうが、少し残念だったのが、その音は自分の好みの音ではなかった
楽器はストラディバリウスだそうだが何故かそんなにきれいな音とは思われなかった
特にフォルテというか大きな音量の時、もう少し吹っ切れたすっきりした音がでないものか
と感じて、実はこの時からヴィターリのシャコンヌの演奏にも少し不安がよぎった

ヴィヴァルディは職人的な音楽家で、内的欲求から作り出スタイプの作曲家ではないので
曲自体の必然性はあまり感じなかったが、ゆったりした楽章は四季の緩徐楽章を思い起こされて
この部分は心地よかった

さてお目当てのヴィターリのシャコンヌ
ピアノのゆっくりしたテーマの音形が奏されて
思い入れたっぷりのメロディーが奏されたが先ほど感じた不安を
吹っ切るものではなかった
何か空回りしている感じ(自分の中だけなのかもしれないが)

演奏は知らない曲の場合はその曲自体の訴えるものに集中できるが
聞き慣れている曲になるとつい比較という行為をしてしまう
ヴィターリのシャコンヌの比較対象はオイストラフ
この演奏が素晴らしい 濃厚な感情表現に富んでいてとてもドラマティック
他にYoutube でハイフェッツやサラ・チャンを聴いても
オイストラフを越える印象を持つことがない

こんな名演と比べることが可哀想なことだが、それでもライブだから
その時しか感じることの出来ない瞬間があるのではと期待したのだが
キム・ダミさんのこの曲に対する共感が本物ではないのでは!と思ったりする
いや、彼女はまだ若すぎるのかもしれない
この濃厚な感情の名曲はもう少しいろんな経験を積まないと
駄目なのかもしれない(と勝手に思い込んだ)

この曲に比べるとタルティーニの「悪魔のトリル」は良かった
音も無理なく鳴り始めて曲に感情が入っていく奏者の様子も見られた
(シャコンヌは感情の面が強すぎる曲なのかもしれない) 

後半のプログラムは概ね満足のいくものだった
ドビッシーのソナタは生で聴くのはラ・フォル・ジュルネの時以来
才気ばしったとっつきにくい曲だが、2回目のせいか
今回は結構面白く感じられた
(でも、やっぱり奇妙な曲の印象は残る) 

カルメン幻想曲は難しい聴き方をするより楽しむための曲
その意味ではリサイタルの最後を締めるには良い曲だ
なにか残るということはないが、その刹那は楽しむことができる

ということで、楽しみにしていたヴィターリについては少し残念だったが
こちらのコンディションもあるから仕方ないか
これが(お互い)一発勝負の生演奏というものか

ところで、席は指定となっていて前から4番目
本当はもう少し後ろのほうが良かったのかもしれない
演奏者と近すぎたために 生々しすぎた?

 

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