日本の文化は、パーツの集合なのだと思う。
面白いことに個々のパーツはひどく精巧に出来ている。
そのことが、特徴でもある。
種々雑多な文化の寄せ集めであっても、個々のパーツが完成していれば全体のバランスはあまり気にしない。
というか時間をかけて統合化することが苦手なのだろう。
社会システムそのものがそうなっているし、大学でも教えていない。
基本ソフトを組むのも下手である。
組み上げても、比較的早い段階で破綻してしまう。
時間スケールも、空間スケールも、箱庭サイズなのだろう。
だからすぐに結論を求めたがる傾向が強い。
少し立ち止まってこれからのことをゆっくり考えたいと思うのだけれども、生活のスタイルがそれを許してくれない。
先日、友人のオーストラリア人が研究室にやってきた。
確か、50歳くらいだと思う。
彼は、大学との契約があと一年で切れるから、その後はリタイアするのだという。
「日本人的なリタイアではないけどね。」と笑いながら言った。
今、彼は資産を1億円持っていてオーストラリアの銀行に預けている。
利子が年6%あるので、それだけで生きていける。
それに美術関連の巨大なデータベースを構築していて、その利益も大きいのだという。
残りの人生を悠々自適に暮らすのだという。
日々、汲々として暮らしている身としてはうらやましい限りである。
考えてみれば、自分の家を買うだけで多額のお金を銀行に払い続けてきた。
いったい何の為に、誰のために働いてきたのだろうか。
刹那的な美学の中に日本の文化があるとするのならば、リタイアそのものが人生の終わりだったはずだ。
生活や医療が変化したおかげで、平均寿命がずいぶんと延びてきた。
日本の文化も、もう少し長い時間、広い世界観の中で再構築したほうが良い気がする。
今、私は、人間の存在に関わる理論を考えている。
人間の大きさをl、活動空間の大きさをLとした時、x=l/Lというパラメーターが大きな意味を持つ。
そして存在ポテンシャルをφ=φ(x)=x/(1-x)と定義すると、面白いことが分かってくる。
活動空間を小さくすればするほど、φは大きくなるが逆に存在リスクが大きくなる。
逆の場合には、存在ポテンシャルが小さくなり存在リスクも減る。
日本の社会は、前者である。
壮大な宇宙空間で、われわれが生きている世界は決して広くない。
むしろ閉じ込められた世界にいるといっても良いだろう。
その中で繁栄し、滅亡する道を選ぶとするのならば、存在ポテンシャルは高いほどよい。
ちょうどルーレットのギャンブルに似ている。
一つの数に全財産をかけて短時間でゲームを楽しむのか、多くの数に分散してかけて少しでも長く楽しむのか。
期待値が最も高いのは前者だが、すべての人をハッピーには出来ない。
考えなければならないことは、私たちは自分だけで生きているのではなく、子孫や他の世界の人々と共に生きている点である。
そうだとすると、解は一つしかない。
活動空間Lを可能な限り大きくすることだ。
ただ無制限に大きくすることは出来ない。
それを決めるのはおそらく資源なのだろうと思う。
資源は有限なのだから、どこかに最適な解が存在するのだろう。
科学技術とは、それを求めるためのツールに過ぎない。