小さな旅、大きな旅の写真物語(Virtual trips/travels)

京都や東京を本拠地として、自然の中や町を歩きながら、撮った写真をどんどん掲載します。いっしょに歩いているように。

Newアート考察 絵画と写真の狭間 その5 ~京都国際写真祭―3~

2022-05-28 17:58:05 | 写真日記
Newアート考察 絵画と写真の狭間 その5 ~京都国際写真祭―3~
2022-5-8 続き

少しは当方の写真に役に立ちそうな写真を見ようと、KG+の一会場に向かいます。烏丸通りを越して、京都文化博物館を越して、迷ったあげくコンセプトストア・ベルマナンにたどり着く。


KG+ Purpose of my life 217 MINA コンセプトストア・ベルマナン

Fujifilm GFX-100S + GF45mm


Fujifilm GFX-100S + GF45mm

やはり、撮影した後での重層やコラージュが当方の今後の方向だろうなと思うのです。





一見、紙袋に見えるが皮で出来ている。同様のバックが並ぶ。



イタリア製の装飾品だが、陶磁器というよりはファインセラミックスではないかと思う。店員の説明では落とすと割れますといっていました。色付けが幅広く、美しく均一で陶磁器から見ると魅力的。ファインセラミックスが家庭で作れるなら作ってみたい。

コンセプトストア・ベルマナンはなかなか面白い。


10/10現代日本女性写真家たちの祝祭  HOSOO GALLERY

岩根愛
<逞しい存在感を放つ桜の探訪である。写真と言葉を通じて、岩根愛は自らと自然との深いつながりを表現し、先祖伝来の信仰との関係性を表現する>


Fujifilm GFX-100S + GF45mm







𠮷田多麻希
「Negative Ecology」は、野生の鹿を撮ったネガフィルムの現像失敗を契機に始まったシリーズ。北海道の熊や鹿、鳥類など野生生物を撮ったネガフィルムを、洗剤や歯磨き粉など日用品に使用される薬品類を混ぜて現像することで、画像の損傷が「見えない自然の汚染」のメタファーとなる。


Fujifilm GFX-100S + GF45mm


ネット情報


Fujifilm GFX-100S + GF45mm


Fujifilm GFX-100S + GF45mm


Fujifilm GFX-100S + GF45mm

家内に言わせると、男女平等、女性差別反対と声高に叫んでいる連中が女性写真家の為の展示会とは何事か。さらにここに特別にGAY/LGBTの写真家が参加していることは何がいいたいのか。まあ深く考えることもなく、ただ人目を引きたいということと思いますが。
HOSOO GALLERYは、西陣の老舗「細尾」が運営するアートギャラリーですが、この展示会は人が集まるとふんだのか、予約制であり(我々は昨日の申請で次の日にやっと予約できた)、エレベーターは上りだけ、下りは5Fから歩けといわれ、トイレは無しといわれ、高齢者になんとも不親切な運営。全体に何か勘違いしているという悪い印象でここを後にします。

昨日見つからなかったKG+SELECT会場、<くろちく万蔵ビル>を見つけて入ってみました。公募型のコンペティションで選ばれた8名の写真家の写真が展示。しかし、特にここに載せる気になる写真もなく、スキップ。そのまま南に下って、四条烏丸駅でイタリアンを食べてビールを飲む、うまかった、昨日の昼食で入った土佐料理・居酒屋の藁焼のカツオ定食もそうでしたが、京都の味覚に対する平均値の高さを感じて嬉しくなる。

一駅、阪急京都線に乗って、京都河原町駅でおりて、祇園の奥にある建仁寺に向います。

No.10 奈良原一高 両足院(建仁寺山内)
2020年に逝去した日本を代表する写真家のひとりである奈良原一高の《Japanesque》シリーズのひとつ〈禅〉が展示されています。ヨーロッパ滞在中に日本文化の魅力に目覚め、帰国後、曹洞宗大本山總持寺(神奈川県横浜市)や總持寺祖院(石川県輪島市)にて、禅僧や僧堂等を被写体とした作品を作成。
当方にいわせると、海外で日本文化の魅力に気が付くことはごく一般的流れ。当方もご多分にもれず。 これに気が付かずに死ぬまで海外文化に憧れ続ける人も少なくありません。吉野の桜も見たことないのに、昔、ワシントンDCの桜を最高だと主張し続ける知り合いがいました。日本を知らないくせに、たまたま海外で見た風景や文化を最高という人はいっぱいいます。これは悲しい。決してワシントンDCの桜が素晴らしくないとは言っていません。













建仁寺 法堂(はっとう)の双龍図、建仁寺創建800年を記念した小泉淳作(1924年– 2012年日本画家・陶芸家)の作品。


小泉淳作(日本画家・陶芸家)




家内が八坂庚申堂のくくり猿を訪ねたいというので、建仁寺を出て、東に歩いて東大路に出る。そのつもりだったのですが、いつのまにか南に向かって五条通りに出てしまいました。知っているようでわかってない恐ろしさ。タクシーで高台寺に向かいます。そここから八坂庚申堂はすぐ。

八坂庚申堂は最近突然ブレークした若者のネット時代の人気お寺。人気マンガ、きのう何食べた?の映画版で、しろさんとケンジが訪れ、可愛い物が好きなケンジがここの<くくり猿>に喜こぶシーンで有名になりました。









次の日の朝よった珈琲店に貼っであった八坂庚申堂の<くくり猿>の由縁。



八坂塔、八坂神社を抜けて、神社前の京の米料亭・八代目儀兵衛に向かいます。これも子供達情報による。



米を食べさせる料亭、米三昧~『八坂』コースで5千円なんぼ。これは一種のマジック。



当方はここでまた美味しいお酒<銀シャリ>にでくわす。京都・丹後の地酒 白杉酒造株式会社がササニシキで作る特別純米酒。ササニシキはお寿司で好まれる米で、通常お酒には使われない。シャープでドライな口当たりとうたっていますが、当方の感じではコメのうまみが濃厚でありながら通常の純米酒のように甘すぎないお酒。米を酒の肴に米の酒を飲むという初めての経験。これがなんとぴったりの旨さ。



八穀米のお粥から始まって、延々とお米の料理が続きます。


銀シャリパン



銀シャリの次に飲んだ、澤屋まつもと守破離・純米大吟醸。これは一般的純米大吟醸で、米を肴に飲むというお酒には銀シャリにかなわなかった。





土鍋炊飯釜Bambooで炊いた儀兵衛オリジナル米<翁霞>の銀シャリ御飯


御飯のお供盛り合わせ



10品目の締めはオコゲのだし茶づけ。
お米マジックは京都マジック。立派なマジックです。

店を出て、勝手知ったる(はずなのだが)白川沿いを歩いて地下鉄東西線・東山駅へ向かう。当方は10年前までの7年間、三条通りの三条駅と東山駅の中間に住んでいました。





地下鉄烏山御池でおりてホテルに向かう。今日も昨日も2万歩以上のウオーキングでした。
これで京都国際写真祭の話はおしまい。明日は大阪ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの日です。

ここで京都国際写真祭を見て、<絵画と写真の狭間>を総括しましょう。

Contemporary Artに関する本、<みんなの現代アート>グレイソン・ベリー著を行きの新幹線で読みました。期待に反して、何だかちっともわからない感銘を受けない本でした。本屋でたまたま開いたページに<一般の写真とアート写真の違いは、サイズが2m以上大きいか小さいか、登場人物が笑っているか笑っていないか。価格が5桁以上か否かである>という記述と著者が陶芸家であるという点が興味あって買ったのですが。当方の能力がプアなのか、根源がずれているのか。

セザンヌから始まった分解と再構成、選択と削除のアートの世界はContemporary Artにいたって。そのダイバーシティの極致が複数の<アート村>を作った。狭い村では村でだけで通用する価値基準がある。村の住人は自分たちの価値基準にのめり込んでおり、分からない奴はバカだと思っている。村人は自分たちの価値基準で競い合い、優れたと思われる作品には億という値がつく。その値につられて、作家は何とか注目されたいと競いあう。
グレイソン・ベリーは美術館で小便器がアートとして飾られ、さらにそこに本物の小便を流し込む試みまでがアートか否かという議論を延々と続ける。
<現代アーティストの話題は抽象表現主義vsシュールレアリズムとかではなく、政治であり、誰が価値ある活動家であり、誰が金に目をくらませたエセ冷笑家であるかというようなことである>という彼の言葉が表すように、ある意味、今回の京都国際写真祭が示すように、アートとはアート村でいかに目立ち、上手くゆけば村の金持ちに取り入ることが出来るのではないかという試みであるのだ。アートは美しいもの、皆の心が感動するものの追求ではなくなった。それでもアート村の住人には心の糧なのだ。

Contemporary PhotographyはContemporary Artに大きな影響を与えています。Contemporary Artのダイバーシティーのなかで、極めて重要なポジションを締めているように思います。
今回のContemporary Photographyの中にいくつかのアート村が混在するようですが、どれも当方の方向には一致しない。それぞれの村の住人は当方をバカにするだろうが、そうだからしょうがない。

しかし、これらの<アート村>は互いに影響し合っており、当方にも何らかの影響を与えているに違いない。以前のアート考察にも述べましたが、アート村はそれぞれ独立し、しかし互いに影響し合うしかなく、それが最もいいのだという結論にまた到達する。

丸めて言えば、今回の旅の結論は皆勝手にしやがれ、当方は好きなように自分の方向を追うだけだ、という原点に戻っただけでした。しかし、これも大きな収穫です。

アートと日本工芸、再び日本工芸のすごい力を京都に見ました。しかし、当方が目指す<アート>を変えることはできない。影響し合うことはできるが、変えることはできない。

且つて絵画は写真の出現で実写から追い出されて抽象画に向かいました。セザンヌ、ルノアール、マチス。ピカソを経て近代絵画の全盛期を迎え、これが当方の原風景であり、<絵画>のイメージなわけです。
<川邊りえこ>のいうように現代アートは作家の個性を「もの」に表出する。個性を「もの」に表出するには写真は手っ取り早い、しかも簡単に全世界に広がることが出来る。いつのまにか現代アートは写真/動画/デジタルアートが中心軸となっているように見えます。インスタレーションも写真/動画/デジタルアートが無ければ成り立たない。

当方の原風景を仮にファインアートとよぶことにすると、ファインアートはまたもや写真に追い出されて元来た道を戻っているのか? まあ素敵、この絵は写真見たいと観客が精密具象に喜ぶ。かろうじてウォーホル、バスキア、バンクシーなどが頑張ってはいるが、現代アートは写真/動画/デジタルアート/インスタレーションとイコールとなり、一般大衆にはつまらない時代になる。
クラシック音楽の流れが、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンまではなんとかなるが、その後の現代音楽は大多数の人が感動できる音楽ではなくなった(しかし、当方は<4分33秒>の無音の演奏として知られるジョン・ケージの演奏、<4分33秒>ではありません、プリペアド・ピアノを聴いて。その才能に感激したのですが)。現代アートも同じ道を進んでいるように見える。

<絵画と写真の狭間>という課題の設定自体が現代アートに関しては意味ない気がしてきた。これから現代アート、写真、ファインアートはどこへ行くのか?

この国際写真祭を京都でやることは何を意味するのか? 絶対的自信のある京都の伝統芸術にとって、現代写真祭は単に客寄せの手段であり、屁とも思ってないのかもしれないし、伝統芸術に何か少しでも刺激が入ればいいかと思っているのかもしれない。

これから現代アート、写真、ファインアートの行く先は、ウォーホル、バスキア、バンクシーの次は日本の伝統芸術の心かもしれない。且つて、浮世絵が西洋アートに大きな影響を与えたように。

<川邊りえこ>のいう<日本の美の本質は総体にある>が鍵となるか?

確かに、お茶、能/ 狂言/歌舞伎、御所/お寺/お庭/仏像を考えると現代アートのはるか上のインスタレーションであり、皮肉と札束ではなく厳しい美の戒律とオモテナシが支配し、自然/宇宙/万物との真摯な融合/祈りである。個人が世界/宇宙の中心でなく、総体の中に個人がいる。
伊藤若冲のいう、当方の根源である<あらゆるものに神は宿る! 私は祈りながらそれをありがたく写し取らせていただくだけです。> それでいいと思うのです。







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