太った中年

日本男児たるもの

ハゲタカの主張

2010-01-08 | weblog

God Love

 

さて奥さん、以下、ハゲタカファンドの帝王ジョージ・ソロスによるダイヤモンド特別寄稿 を転載。

「世界を覆う危険な金融保護主義 “二番底”という我々の未来」

著名な投資家であるジョージ・ソロス氏は、現在の危機は、過去のいずれとも違うと喝破する。国家という枠を超えたグローバル金融市場の混乱を鎮めるには、まったく新しい規制メカニズムの創造が必要と説く。

 

今日、グローバル経済が直面する不確実性は、尋常でないほど広い範囲に及んでいる。われわれはちょうど、第二次世界大戦後最悪の金融危機を切り抜けたばかりである。これに比肩しうる危機といえば、1991年に弾けた日本の不動産バブル(日本はまだそこから回復していない)、それに1930年代の大恐慌くらいである。ただし今回の危機は、これらに比べて数字の面でははるかに大規模であり、質的にも異なっている。

日本の体験と異なり、今回の危機は単独の国にとどまらず、世界全体を巻き込んだ。また大恐慌とは異なり、今回は金融システムが崩壊するままに任せるのではなく、人為的な生命維持装置をあてがわれた。

事実、今日の問題の規模は、大恐慌の頃のそれさえ上回っている。1929年、米国における貸付残高はGDPの160%相当であり、1932年には250%にふくらんだ。2008年の場合は、最初から365%という数字だった。そしてこの計算では、広範に利用されているデリバティブ(1930年代には存在しなかった)は除外されている。

それにもかかわらず、人為的な生命維持装置はうまく機能した。リーマン・ブラザーズの倒産から1年足らずのあいだに金融市場は安定し、株式市場も反騰に転じた。経済は回復の兆候を示している。人びとは普段どおりのビジネスに戻りたいと考え、2008年の崩壊は悪い夢だったのだと考えたがっている。

残念ながら、この景気回復は息切れしがちであり、この先、(2010年なのか2011年なのかは確言できないが)第二の景気後退が待ち構えている可能性さえある。

割れた卵は戻らない

私の見解は決して突飛なものではないが、しかし現在主流となっている雰囲気とは対立している。景気の回復が長く続けば続くほど、それが今後も続いていくと信じる人が増えてくる。だが私の見るところでは、これが平衡とはほど遠い状況の特徴なのであり、そのような状況では、認識が現実に追いつけなくなる傾向が表れる。

厄介なことに、この「遅れ」は双方向に働く。ほとんどの人は、今回の危機が過去の危機とは異なるものだということ、つまりわれわれが一つの時代の終わりにいるのだということをまだ理解していない。それ以外の人は(私も含めてだが)、景気回復がどこまで進むかを予想できていない。

全体として見れば、各国の金融当局は、今回、過去の危機を処理したときと同じ方法で対応した。すなわち、破綻した金融機関の救済と、金融・財政両面での刺激策である。

だが今回の危機は規模がはるかに大きかったため、同じ手法ではうまくいかなかった。リーマン・ブラザーズの救済が失敗となったのが一つのヤマ場となった──金融市場は現実に、その機能を停止してしまったのである。

これはつまり、各国政府が、「これ以上、システムの危機につながりかねない金融機関の破綻は認めない」と実質的に保障しなければならなくなった、という意味である。こうして、危機は世界経済の周縁部にまで広がっていった。というのも、この部分に相当する諸国は、主要国に比べて信用性の高い保障を与えることができなかったからだ。

最も大きな打撃を受けたのは東欧だった。東欧の中心的な国々は、中央銀行の安定したバランスシートを生かして金融システムに資金を投入し、市中銀行の債務を保証した。一方で政府は、前例のない規模で国債による資金調達を行ない、景気刺激策を打った。

だが、現在、「グローバルな金融システムは崩壊を免れた」「ビジネスは通常の状態に徐々に戻りつつある」という見方が広まっているものの、これは現在の状況に対する深刻な誤解である。ハンプティ・ダンプティは二度と元の姿には戻せないのだ(※訳注:ハンプティ・ダンプティはマザーグースの童謡に登場する。割れた卵の比喩)。

1980年以降に進んだ金融市場のグローバリゼーションは、金融資本が世界中を自由に動き回ることを可能にし、課税・規制が困難になった。これによって金融資本は特権的な立場に置かれた。各国政府は、自国民が何を望んでいるかよりも国際資本が何を求めているかに多大な関心を注がざるをえなくなった。個別の国のレベルでは、国際資本に対する抵抗力を示すことは困難だった。

だが、こうして登場したグローバル金融システムは根本的に不安定なものだった──金融市場は、好き放題にやらせておいても安全だという誤った前提に立脚しているからである。グローバル金融システムが崩壊したのも、そしてそれを再び元の姿に戻せないのも、それが原因なのだ。

危険な金融保護主義

グローバルな市場にはグローバルな規制が必要である。だが、現在行なわれている規制は国家主権という原理に根ざしたものだ。なるほど、自己資本比率に関するバーゼル合意に顕著なように、国際的な協定もいくつか存在する。各国の市場監督当局のあいだにも適切な協力関係がある。しかし、その権限の源泉はといえば、常に主権国家なのである。

これが意味するのは、いったん停止したメカニズムを再起動するだけでは十分ではない、ということである。われわれはこれまで存在したことのない規制メカニズムを創造しなければならない。現状では、各国の金融システムが、その国の政府によって維持・支援されている。だが各国政府がもっぱら気にかけているのは自国経済のことである。これによって、金融保護主義とでも呼びうるものが生まれており、グローバル金融市場を混乱させ、破壊させかねない脅威となっている。英国の規制当局はもう二度とアイスランドの当局を当てにしないだろうし、東欧諸国は外資系銀行への依存を続けるのを躊躇するようになるだろう。

したがって、規制は、その範囲という点において国際的なものとなる必要がある。さもなければ、グローバル金融市場はレギュラトリー・アービトレージ(規制裁定取引)によって破壊されてしまう。つまり、企業は規制環境が最も緩やかな国に移転し、それ以外の国は、とうてい抱え切れないほどのリスクに晒されてしまう。

グローバリゼーションが成功したのは、それによって各国が規制の解除を余儀なくされたためである。だが、このプロセスを逆転させてもうまくいかない。統一的な規制に向けて各国の合意を得るのは難しいだろう。国が違えば利害も異なる。だから各国は異なるソリューションを志向するのだ。

この実例を欧州に見ることができる。欧州連合の加盟国は、金融に関する統一的なルールについて合意できていない。欧州連合でさえできないことが、いったい世界の他の地域で可能だろうか。

1930年代、貿易保護主義が、ただでさえ悪い状況をいっそう悪化させた。今日のグローバル経済においては、金融保護主義が、当時よりもさらに大きな危険となっているのである。

リーマン・ショックでもボロ儲けした勝ち組ファンドのジョージ・ソロスが上記でナニを言っているのかややこしくてよくわからんが、「金融保護主義政策をするな、規制緩和してもっとオレに金儲けさせろ」と主張しているのだ。但し、「グローバルな市場にはグローバルな規制が必要である」と言いながら「欧州連合でさえできないことが、いったい世界の他の地域で可能だろうか」と言っているからナイものネダリに他ならない。つまりは従来の金融保護主義ではダメでまったく新しい金融規制のグローバル・ルールが必要ってことはジョージ・ソロス自身が「従来の方法論では金儲けが出来なくなった」とダイヤモンド・オンラインでボヤクのだった。