太った中年

日本男児たるもの

100万人突破記念!

2008-04-30 | weblog

gooブログ 100万人突破記念のプレゼントに応募した

キーワード

「gooブログ たのしい仲間 100万人」

デジカメ当たれ! デジカメ当たれ! デジカメ当たれ!

gooブログのキャンペーンはこれで2回目の応募だ

前回はデロンギのコーヒーメーカーを手に入れようとしたがハズレた

クッソーgooブログ

気合を入れて今度こそ当たるだろう 頼むぞ100万人のgooブログ

 

それからなぁ

 

NHKのラジオ体操は80周年記念 コチラは何もない 

 

しかーし

 

レオタードのお姉さん!レオタードのお姉さん!レオタードのお姉さん!

 


フィリピンパブ 社会問題

2008-04-29 | weblog

「フィリピンパブ 感動の最終回」

フィリピンパブ   社会問題

フィリピンパブファンの中で、若く素朴なフィリピン女性を騙し性的関係を持とうとする日本人客も同時に増加した。その一方、日本人の優越感、外国人コンプレックス等を裏手に取り、日本人客を騙し金銭的摂取をするフィリピン女性も多く、そのためフィリピン嫌いな日本人も多くなり、そういった悪循環が日本社会の中でフィリピンという国に対する偏見を多く生んでいった。

また、既婚者でありながら妻と家族を捨てて、フィリピン女性と恋に落ちる日本人男性もいたのが偏見を助長した。中学生の一部の社会科副教材では、このような興行ビザを取得して来日したフィリピン女性を「じゃぱゆき=売春婦」と解説していたことも偏見を助長した。フィリピンでは「じゃぱゆき」という言葉は一般的で歌の歌詞に出てきたりTVで取り上げられることも多々ある。

多大な利益が期待できるビジネスとなったフィリピンパブの経営に乗り出す悪徳業者も出て、フィリピン人労働者への給料未払いやアパート軟禁、売春強要なども一部あった。そういった状況から逃げ出したフィリピン人は、滞在期限を越えて不法滞在になり入管に検挙されたこともあった。

2007年現在、興行ビザ制限の中で再来日できなくなることを恐れたフィリピン人が帰国せず超過滞在(不法滞在)となるケースが多くなった。


フィリピンパブ   フィリピンでは

フィリピンでは、多くの女性達が日本での労働で貧困を脱出する成功例が多くなり、ジャパニーズドリームを夢見る多くの女性達が現在でも日本行きを目指している。

また、フィリピンの第一線で活躍するプロのアイドルタレントであっても、日本のパブへの就労経験があるものも多くいる。日本ではルビー・モレノが有名TVタレントとなった。

フィリピンにはプロモーションと呼ばれるタレント養成所が多数でき、全土から集まった数万人の若いフィリピン女性が歌や踊りをレッスンし、日本行きを目指す。また、本国にあるカラオケバー、パブ等で日本行きを待機しているタレントが数万人いる。その多くが地方から都市に来た貧困な若者なので、養成所での生活費や訓練費はプロモーションへの借金であり、借金は日本での就労後に給料から返済するというシステムである。

また、上記の借金以外にも所属するプロモーションのコミッションの他、フィリピン人マネージャーのコミッションが給料の30%~50%(契約次第では50%以上)を占めるため、彼女達の手取り収入は非常に少ない(とはいえ、本国で働くよりも高額の給料を得られる)。

日本への渡航費用、滞在費、食費の一部は日本サイドの業者等が支給している。また、初回分の給料は来日する前に支給される。このような恵まれているシステムは日本だけである(これらが支払われていない、本人の借金であるという誤解は、日本人客から金銭的援助を受けるためのタレントの方便であることが多い)。

現在はビザ取得、入国の際の指紋採取等、来日が非常に難しくなり、容易にビザが下りる国(韓国、台湾、香港、マカオ、中東等)に海外就労する傾向にある(が、これら各国への就労は工場、家政婦等であり、フィリピンパブ等の水商売は非常に少ない)。

(以上、ウィキペディアより最後の引用)

(ワタシ モンダイアル オトーサン ビョーキ)

2005年3月、興行ビザ廃止の改正省令が施行された後、フィリピンのプロモーションと日本のプロモーターが廃業し、フィリピンパブも翌年までに大多数が閉店に追い込まれた。社会問題も過去の遺物となり、フィリピンパブ愛好者=ピン中オヤジたちは行き場を失い途方に暮れた。

 タレントの入国が極めて困難になった現在、僅かながら営業しているフィリピンパブのほとんどは日本人と婚姻歴のあるフィリピン人女性たちとアルバイト契約している。就労について何等規制のない婚姻ビザは希少価値となり、偽装を含めた婚姻申請が急増した。

そして、一部のフィリピンパブでは、信じられない現象が発生した。

フィリピンパブは約30年の歴史がある。、タレントも初期の頃はジャパゆきさんと呼ばれた。タレントが困窮している現在、日本人と結婚歴のある最初期のジャパゆきさんがフィリピンパブで奇跡の復活を遂げてしまった。

子育ても終わり余生を過ごしている彼女たちにまでお声が掛り、輝かしい青春時代を再び謳歌しているのだ。フィリピンパブ無敵の存在だ。

超ベテランで人生の辛苦を舐めた彼女たちは「横綱」と呼ばれ尊敬されている。ピン中オヤジたちよ、嘆き悲しむ前に数少ないフィリピンパブで横綱に会いに行こうではないか。

ハァ~ ドスコイ~ドスコイ。


フィリピンパブ 文化

2008-04-28 | weblog

フィリピンパブ   文化

興行ビザでの外国人女性は、他にも、ロシア人や東欧各国、南米各国、中国人、韓国人、タイ人、インドネシア人等もいたが、最盛期である1990年代後半から2000年にかけてのデータではその大半がフィリピン人であった。

フィリピン人に多くの需要があった理由は

日本に近い(半年間という期限の興行ビザでの渡航費の安さ)

比較的親日で日本文化の影響も強い国民性と、陽気で従順な性格で日本人スタッフによる管理のしやすさ

英語が理解でき現地語がアルファベットであり母音が日本語と同じであることによるコミュニケーションのしやすさ

日本人が知っているような欧米の歌やダンスをほとんどのフィリピン人ができる

陽気でホスピタリティがあり日本にある南国世界の雰囲気 等があり、日本、フィリピン両国にとっての需要供給が一致して人気があった。

日本国内での数十年に渡るフィリピン人タレントの就労で、多くの日本人が手軽に異国人に接することができ、フィリピンパブ愛好家や、フィリピン人女性と結婚する日本人男性も多く、業界も大きくなり飲食業界における一つの文化となっていた。

(以上、フィリピンパブ   文化 をウィキペディアより引用)

(イラッサイマセ)

数ある外人パブのなかでも、なぜフィリピンパブだけが一人勝ちして巨大なマーケットを形成したのか、その理由とはナニか、簡潔にコメントしよう。それから今回は18禁、よいこは早く寝なさい、いいですね。

フィリピンパブ(略してピンパブ)=人身売買(売春)の巣窟だから、と考えるのは余りに短絡過ぎる。ピンパブで働くフィリピン人女性はタレントであって立ちんぼではない。来たお客とすぐにヤッちまったらそれで試合終了だろ。何度も足を運ばせるためには、ヤレそうでいて、なかなかヤラしてもらえない、コレが年間5000億円強の巨大マーケットを形成したピンパブサービスの核心だ。

「ピンパブとは夢を与え、夢を売るビジネスである」 

ピンパブは誰でも1セット(60~90分)3千円~5千円のお金を払いさえすれば、誰でも1セットの間、若いフィリピン人女性が横にきて恋人気分を味わえる場所だった。フィリピン人女性はチビ、デブ、ハゲ、クツ下の臭いオヤジ、年金手帳の爺さんたちに夢を見させて勘違いさせた。従来では顧客にならない人たちを積極的にターゲットにしていった。

長いデフレ不況下、冷え込んだ景気がダイレクトに反映する水商売のマーケットのなかで、ピンパブだけが確実にシェアを拡大していったのは新しい顧客を創出したからに他ならない。なにしろ彼女たちにとってはどんなお客も横に座ればお金を簡単に引き出せるATMだった。


フィリピンパブ 歴史part2

2008-04-27 | weblog

フィリピンパブ 歴史

2004年、アメリカの国務省による人身売買報告書の中で、日本が人身売買容認国として名指しされた。数十万人いた興行ビザでの若い外国人女性の日本入国を「性的搾取による人身売買であり、被害者である外国人女性を全く保護していない」と批判した。日本の芸者文化のような、女性が酒を酌み歌や踊りでお客をもてなすキャバクラのスタイルは、欧米では確立しないビジネスモデルであり、ダンサーやホステスといえば売春婦が当たり前の欧米では理解できず誤解を受けたと思われる。しかし当時、日本の外交政策の最優先戦略であった安全保障理事会入りの目標があった為、日本政府はすぐに興行ビザの撤廃を決めた。

2006年、予定通り興行ビザの発給は10%程度に激減し、その結果、日本各地にあったフィリピンパブのほとんどは閉店してしまった。

2007年現在のフィリピンパブでは、ほとんどが興行ビザでの就労ではなく、アルバイト契約で働いている。日本人との結婚や育児で滞在許可がある者や、親族訪問ビザで来日しているフィリピン人である。尚、観光ビザはフィリピン人に対してはとても厳しく取得が難しいが、2週間程度の観光であればビザ発給は特に問題はない。親族訪問ビザも親子関係のみで兄弟ではほとんど発給されない。

(以上、フィリピンパブ 歴史 残りをウィキペディアより一部引用)

前エントリーではフィリピンパブが思いもよらないほど巨大なマーケットであること指摘した。しかし、”驕れる平家は久しからず”飛ぶ鳥を落とす勢いだったフィリピンパブは米国によってアッケない終焉をむかえる。今回はそれを掘り下げて考えてみる。

ハイ、ではウィキ記事冒頭部分から執筆者のピン中オヤジにケチをつけよう。日本の外務省にあたる米国国務省は毎年世界各国の人身売買(売春)被害をABCD4つの水準に分けて該当国に警告している。2004年以前から日本とフィリピンは該当国だった。メディアで話題になったのは国連人権委員会による人身売買監視国家に指定されたことだった。

人身売買被害について、1998年にアロヨ大統領と森山元法務大臣の会談で、当時の入国者数約7万人を半減することで既に日比政府間で合意していた。ところが、無為無策だったため減るどころか増加の一途を辿っていた。だからウィキに「安全保障理事会入りの目標があったため興行ビザの撤廃を決めた」とあるが、実際は米国が在日米国大使館に日比両国の政府高官を呼びつけて入国者数を10%まで削減しろと恫喝し、青ざめた日比両国が慌てて興行ビザの撤廃を決定したことが本当のところだ。日比両国は大恥を掻いた。

また、ウィキでは記されていないが、この年はフィリピン国軍イラク派兵の撤兵問題があった。このイラク撤兵事件が「テロに屈した」と米国の逆鱗に触れ、その制裁措置としてフィリピンパブで働くフィリピン人女性の入国規制をした、というのが大方の見解であった。それは史実として正しい。当時、撤兵の英断を下したアロヨ大統領は英雄気取りで国民の支持を回復した。

しかしながら、腑に落ちないのはイラクに駐留していたフィリピン国軍は僅か20数名、それが撤兵したところでイラクの治安に影響するとは到底考えられない。所謂「見せしめ制裁」としても、何故それが、フィリピン人女性の日本入国規制なのか、論理的整合性に欠けるではないか。入国規制問題が起きた当時のネットでは、特にフィリピン人女性を妻のもつピン中オヤジが大騒ぎしただけで、米国制裁による入国規制の目的と方法に疑問を呈する輩はほぼ皆無だった。

米国から突然、「フィリピンパブは人身売買の巣窟で、そこで働くフィリピン人女性は性的被害に遭っている、おまえのカーちゃんデベソ」、そう烙印を押されれば、当然、「ふざけるな」となるワケだが、在日米国大使館に対して抗議行動を起こした日本男児たるピン中オヤジはいなかった。実際に米国の勧告通りだったから仕方のないことではあるが、少しでもピン中オヤジの気概を見たかったものだ。

さて、米国による制裁の目的に話題を戻せば、当時さらに疑問に思ったことは、制裁方法の用意周到さ、だった。米国は在米人権保護団体を通じて国連人権委員会に対して日比政府に人身売買改善の勧告をしたあと、すぐさま米本国で働くフィリピン人すべてのビザをチェックし、稼ぎ頭であるフィリピン人看護師の雇用を控えるよう各州の医療団体に通告した。イラク撤兵によるフィリピンに対する一連の制裁措置はあたかも事前に計画されていたかのように思えた。

当時、フィリピン人女性の入国規制問題をいち早く取り上げ、審査する入国管理局の内実をかなり踏み込んで書いていたブログがあった。人身売買について暴力団の資金源になることが最大の問題だと指摘していた。それはその通りで、米国国務省による人身売買国家の指定も貧困国に巣食うマフィアの存在を標的にしている。ただ、そのブログで残念だったのは管理人がフィリピンパブ業界関連の人間らしく終始、入国管理局の官僚及び官僚体制を批判することに留まっていたことだった。

フィリピンのイラク撤兵による米国の用意周到なる制裁措置。フィリピンパブの狙い撃ち。いったい何が目的だったのだろうか。そこで、エントリー基軸通貨で示した米国の意志、「ドル防衛(信用の維持)とドル市場の拡大」を今一度思い出したい。自ずと答が見えてくる。何しろフィリピンパブは年間約5000億円強の巨大なマーケットで、暴力団の資金源となれば、ブラックマーケットを生み、ドル信用を失墜させる。

フィリピン人女性のほとんどはフィリピンパブで得たお金をドア・トゥ・ドアをいう公的金融機関を通さない方法で本国へ送金する。巨額な資金を送金した地下銀行が摘発されたこともあった。フィリピンはメキシコに次いで世界第二位の出稼ぎ国家である。フィリピンパブを標的にした米国の真の狙いはブラックマーケットを生み出すフィリピン国家の金融体質に制裁を科してドルを防衛したかったのではないか、そのように推論し結論付けたがどうであろう。今回はちょっと熱いエントリーになった。


フィリピンパブ 歴史part1

2008-04-26 | weblog

フィリピンパブ   歴史

1970年代に日本人によるフィリピンへの買春ツアーが国内外でメディアに取り上げられ問題になった。その後、日本人の旅行者は激減する。

80年代以降、興行ビザ(タレントビザとも呼ばれる)でのフィリピン女性が徐々に仕事を求めて来日するようになる。単純労働を認めない日本へ、貧困な家庭出身のフィリピン人でも歌やダンスができればできる仕事として、多くのフィリピン人が競って日本行きを目指すようになる。

一方、本来芸能人や歌手だけが認められるはずの興行ビザの曖昧な規定の下で、ほとんどの労働の実態はキャバレーやスナックでの接客行為(ホステス)であった。

最盛期の2000年前後には、年間8万人のフィリピン女性が興行ビザで来日し労働していた。北海道から沖縄、八丈島に至るまで日本全国ほとんどにフィリピンパブが存在していたが、大阪だけは(暴力団の資金源になることを恐れた警察による手入れにより)他の都市圏に比べ極端に少なかった。

(以上、フィリピンパブ   歴史 をウィキペディアより一部引用)

八丈島のキョン!に至るまで

前エントリーに引き続き、いったいどんなヤツがウィキの記事を書いているのかますます気になる。フィリピンパブへ頻繁に通うオヤジを、フィリピンパブ中毒患者=略して「ピン中」と言うが、ウィキ記事は「ピン中オヤジ」によるものと推測する、図星だろ。

ピン中オヤジは当然フィリピンパブ(そこで働くフィリピン人女性)への個人的な思い入れが極端に強いから、著しく客観性に乏しくなる。しかし、ウィキはインターネットの百科事典を標榜しているため、その記述はより客観性を求められる。従ってフィリピンパブの項目は必ずどこかトチ狂った記事を書くことになり、その微妙なさじ加減が面白い。

>最盛期の2000年前後には、年間8万人のフィリピン女性が興行ビザで来日し労働していた。

上記のことを踏まえてもこの記述は少し頂けない。外務省白書によれば2000年前後は7万~7万5千人のフィリピン人女性が右肩上がりに来日して、2004年に8万人強となり最盛期を向えた。7年前、友人がフィリピンパブをオープンした際、マーケット・リサーチをしたからこの数字はよく覚えている。「最盛期の2000年前後」とはウィキ記事を書いたヤツの勝手な憶測で、その時期にハマってピン中オヤジになったんだろうな。

図星だろ、ピン中オヤジよ、恥ずかしいことではない、正直に言え。

ある経済雑誌によれば、フィリピンパブ(を含めた外人パブ)は産業種別に分類すると飲食/外食産業ではなくて何故か娯楽/余暇産業になる。2002年の統計で娯楽/余暇のマーケットは、第一位が会員権売買を含む中古ゴルフ(約1兆2千億円)、第二位が外人パブ(約6千億円)だった。外人パブではフィリピンパブが一人勝ちだから、少なく見積もっても単独で年間5千億円以上の巨大なマーケットを形成していたことになる。

また、2002年は東証平均株価が7千円台にまで落ち込んだ不況のドン底だった。中古ゴルフはバブル崩壊後、不況に歩調を合わせてマーケットが縮小していった。しかし、フィリピンパブだけがそこで働くフィリピン人女性の来日数の増加と共に確実にマーケットを拡大していった。

スゴイねぇコレは。週末にゴルフをしてフィリピンパブで一杯やることが当時、日本のオヤジたちのスタンダードなライフスタイルだった。

なぜフィリピンパブだけが巨大なマーケットを形成したのか、当然疑問に思える。フィリピンパブの歴史とはまったく関係ないウィキの冒頭文(フィリピンへの買春ツアー)は巨大なマーケットを形成した原因に関連づけたいのだろうか。この記事を書いたピン中オヤジは頭に血が上り、冷静さを失い、目が血走り、つい先走って書いてしまったことは想像に易い。

ウィキのピン中オヤジよ、いったいアンタにナニがあったのか。

フィリピンパブはそのような魔性を秘めていたのだった。(part2へ続く)


フィリピンパブ オープン

2008-04-25 | weblog

フィリピンパブは、主にフィリピン人が接客するパブ、飲食店。フィリピン人ホステスとの会話や飲酒、食事の他に、ダンサーによるショーやカラオケなども楽しむことができる。

(以上、フィリピンパブをウィキペディアより一部引用)

フィリピンから帰国してからというものナニかと用事がある。帰国直後、友人がフィリピンパブをオープンしてそのレセプションに呼ばれていたことをスッカリ忘れていた。今はコワイほどヒマな人生を過ごしているからスケジュールなんて気にしていない。電話が掛ってきて思い出した。

思い起こせば7年前、別の友人が転業してフィリピンパブをオープンした。そのお店の立ち上げに関わり、それがキッカケで初めてフィリピンへ渡航した。そいつのお店はもうこの世にない。

今回、お店をオープンした友人も過去にフィリピンパブを僅かな期間やっていて再チャレンジとなる。フィリピンパブの特殊な状況や歴史を知っている人なら、今更新規オープンすることを意外に思えるだろう。詳細は割愛するけれど、現在のフィリピンパブはフィリピン人女性を確保できるなら確実な売り上げが見込める非常に安定したビジネスだ。

それにしても、いつも引用するインターネット百科事典ウィキペディアで何気なく検索したら「フィリピンパブ」の項目があったことに些か驚いた。いったいどんなヤツがウィキに記事を書いたのだろうか、気になる。また、ウィキ記事を読めば(多少のリテラシーを必要とするが)百科事典だから無理して客観性を持たせようとしているところが可笑しい。

面白いからウィキのフィリピンパブについて暫くエントリーしよう。


ぶっかけうどん

2008-04-24 | weblog

今回、フィリピン行きの際、セントレア空港でトンデモないイタ飯を食べてしまった。いつも通りの蕎麦を紗羅餐で食べればよかった、そう後悔、反省したら無性に蕎麦が食べたくなった。自宅の近くではイトーヨーカドーにある蕎麦屋(正しくはうどん屋)が一番おいしいのでそこへ行く。

イトーヨーカドーの屋上駐車場、ロシア構成主義風の写真。

手打ちうどんのお店 杵屋 ここだ

午後2時を回り、お客はいない。蕎麦を食べようとメニューを見たら”サービス・ランチ ぶっかけうどん”の文字がいきなり目に飛び込む。おお、我が人生を振り返ってみれば、”ぶっかけうどん”を食べたことがなかった。よし、ならばオーダーしよう。日本人として、男として”ぶっかけうどん”を食べずして死ぬワケにはいかない。そーでしょ。

生まれて初めての”ぶっかけうどん” 

奥さん、語感から有らぬ想像はダメよ

”ぶっかけうどん” 期待したほどでもなかったが、おいしく頂いた。

フト気づいたけれど、この日は元セックス・ピストルズ、シド・ヴィシャスのTシャツを着ていた。以前、管理人自身を「キムタクそっくりの美男子」と言ったがウソに決まっている、「ブラザー・トム」が妥当な評価だ。しかも頭髪は金髪に染めている。シド・ヴィシャスのTシャツを着た金髪ブラザー・トムが”ぶっかけうどん” を初体験、記念すべき日となった。

食後のコーヒーは太陽カレーご夫妻推薦の喫茶店へ行った

店内インテリアは落ち着いた雰囲気

これくらいの写真はすぐに撮れる 余裕だ

ケーキセットをオーダー 苦手な甘味のトレーニング

有機栽培のコーヒーがとても美味い

品のよい常連さんたち 左の女性はセレブなおばさん

本日のキーワードは”ぶっかけ” 

”ぶっかけ ケーキ”

”ぶっかけ コーヒー”

”ぶっかけ セレブ”

”ぶっかけ おばさん”・・・もう、ヤメよう

そうだった、今日はシド・ヴィシャスのTシャツを着た金髪ブラザー・トムだから場違いな気もした。でも、また行こう。”ぶっかけ ぶっかけ”


免許証の再交付

2008-04-23 | weblog

先週末、帰国の途に着く 週末のマニラ空港は人でごった返す

フィリピンエアラインは先月同様1時間遅れのフライト

帰国してから運転免許証を紛失したことに気づく あーあ

仕方がない 再交付しよう 申請用の写真1枚が必要だ

サンプルの写真 30×24mm 富士フィルムの社員かな 

僅かばかりの時間 妄想に耽る なんてことはない

即日交付の免許センターへ行く

おっとと 昼時だったので近くの中華レストランへ

マーボー豆腐のランチをオーダー クドくない これはおいしい

ウエイトレスの女性はチャイナドレス ニンハオ ニンハオ

このお店のご主人は陳健一氏の父親のもとで修業したらしい

レジに写真が飾ってあった 食後のコーヒーもおいしい 謝々

普通免許が中型免許に呼称が変わった 

平日で人は少なく、約30分で再交付が終わった ヤレヤレ


環境音楽の問題

2008-04-22 | weblog

ブライアン・イーノ(Brian Eno 本名:Brian Peter George St. Jean le Baptiste de la Salle Eno, 1948年5月15日 - )は、イギリス・サフォーク州のウッドブリッジ出身の、男性音楽家である。作曲家、プロデューサー、音楽理論家である。ソロの音楽家としてはおそらく、「アンビエント・ミュージック(環境音楽)」の先駆者として知られている。ちなみに、同じく音楽家として活動しているロジャー・イーノはブライアンの実弟である。

(中略)

日本でもパソコンブームの火付け役となった、あのマイクロソフト社のオペレーティングシステム、「Windows 95」の起動音「The Microsoft Sound」は彼の作曲によるものである。「The Microsoft Sound.wav」のプロパティには彼の名が記されている。一般にはあまり知られていないが、世界中の多くの人々が知らず知らずのうちに彼の作品を鑑賞していたということになる。

「CHRONICLE POP MUSIC CRITIC」誌の1996年のインタビューによると、マイクロソフト社からの依頼は「人を鼓舞し、世界中の人に愛され、明るく斬新で、感情を揺さぶられ、情熱をかきたてられるような曲。ただし、長さは3秒コンマ25」であったという。

当時新しいアイデアが思い浮かばずに悩んでいた彼は、これを「待ち望んでいた課題だ」と快諾し、製作にとりかかった。 最終的に84個のごく短いフレーズが製作され、その中の一つが「The Microsoft Sound」として提供された。 ちなみに、親友ロバート・フリップは同系列のソフト「Windows Vista」のサウンドを担当している。

***

狭義の環境音楽は、英国の作曲家であり、ロキシー・ミュージック(Roxy Music)に参加していたロック・ミュージシャンでもあるブライアン・イーノ(Brian Eno)が唱えたAmbient Musicという音楽思想を示す言葉の訳語であり、このコンセプトに基づいたイーノの一連の作品と、同様のコンセプトによる作曲家達の作品を指す。

後のインタビューにおいてイーノは環境音楽の考え方が、エリック・サティ(Erik Satie)の家具としての音楽、または家具の音楽(英:Furniture Music, 仏:Musique d'ameublement) に影響を受けたと語っている。しかしながらイーノの環境音楽は、音楽が周囲の雰囲気を積極的に定義付けると言う点でサティの音楽とは異なる。

当時のイーノが環境音楽の例として語ったのが記念碑と不可分の音楽である。何らかのモニュメントとそこに流れる音楽が周囲の雰囲気を決定する。この音楽はその場所でしか聞くことができず、最初から記念碑の一部として作曲されるというものであった。したがって本来の環境音楽は音楽のジャンルではなく、音楽の作曲・使用方法に関する思想を表す言葉である。この思想は今日の大量生産され消費される音楽とは対極にある考え方である。

(以上、ブライアン・イーノ、環境音楽をウィキペディアより引用)

Brian Eno Music for Airports  

そんなワケで環境音楽の創始者ブライアン・イーノ。イーノもロキシー・ミュージックもキング・クリムゾンの親友ロバート・フリップもモーホ仲間。ソニーのO元会長もマイクロソフトのビル・ゲイツだってそれらしい。ウィキでは決して触れることの出来ないコワイ環境だ、とだけ指摘しておく。


トマソン・マニラ

2008-04-21 | weblog

トマソン(階段だけが残された電柱)の例 

トマソン、もしくは超芸術トマソン(ちょうげいじゅつとまそん)とは、赤瀬川原平らの発見による芸術上の概念。不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物。創作意図の存在しない、視る側による芸術作品。マルセル・デュシャンの「レディ・メイド」の方法に、日本古来の「見立て」「借景」を取り入れた 。

トマソンの語源

トマソンは基本的には無用の長物を意味する。語源は、元読売巨人軍の外人助っ人のゲーリー・トマソン選手に由来する。この巨人軍のトマソンが前評判の割に、役に立たなかったため、無用の長物のことをトマソンというようになった。

トマソンの発見

1972年、赤瀬川原平、南伸坊、松田哲夫が四谷の道を歩いていると、上り下りするだけで上った先には特に何もない階段を発見した。

翌年、赤瀬川原平が、江古田の駅である窓口を発見した。ベニヤ板で塞いである使われなくなった窓口である。そのベニヤ板が、必要以上に律儀に、微妙な曲線に合わせて切断されていた。

また、南伸坊が、お茶の水の病院で、塞がれてしまったがきわめて堂々とした門を発見する。

これら「四谷の純粋階段」「江古田の無用窓口」「お茶の水の無用門」は、”作成者が芸術と考えていない芸術=超芸術”と定義され、「超芸術」の中でも不動産に付着するものに「トマソン」という名前が与えられた。当時、読売ジャイアンツに助っ人として所属したが、さっぱり打てないゲーリー・トマソン選手にちなんだ名前である(「無用なものを保存している」としてこの名前になったが「写真時代」連載開始直後に解雇となる)。

(以上、ウィキペディアから引用)

そんなワケでフィリピンで採集した完璧なるトマソン(無用階段、或は純粋階段)2つ。

採集場所は借りていたアパートの近く。昨年、散歩の途中で偶然発見した。その時は感動のあまり涙が溢れ、思わず神に感謝した。散歩がすこぶる楽しくなり、その後も近くを物色したが、これほど完成されたトマソンはなかった。そうしたことから雑誌宝島のVOW的に「町にある、なんだかよくわからない変なモノ」まで概念を広げて散歩することにした。

ビルの1Fー倉庫或は車庫のドアらしい。しかし、いつも中には何もない、また、ドア或は赤い鉄板が開閉するのか不明。F、G、H、I、Jの記号もワケワカラン。

道路補修工事で使用されたらしいタールまみれの物体。サイドカーは工事用のスコップ、つるはし置場なのか、フォークリフトのように丸いハンドルが謎を深める。

さて、コレは何でしょう・・・か

最初は電話ボックスかと思った。しかし、中は全くの空洞で電話機他モノがあった痕跡はない。BARANGAY(バランガイ、最小行政区=町内会)PIO DEL PILAR(町名)つまりピオデルフィラ町内会のプロジェクトがヒントだ。無用階段の近くに存在する。約半年間この物体の正体を考察したが不明。どうしても知りたくて今回は近所の人に聞いた。それはアッケナイ答だった。謎は謎として脳の記憶に留めて置いたほうがよい。

これは別に謎でもない。パーキングの立て看板をジーンズの物干し代わりに使用しただけもモノ。発見したときは単純に笑えた。カメラを向けて撮影したら近所にいたオバサンたちがゲラゲラ笑いだした。やはり、フィリピンでも可笑しい事なのだろう、つまり、それを知らしめた”写真撮影のパフォーマンス”こそが芸術的であった。


夜景 part2

2008-04-20 | weblog

フィリピンのメトロマニラ、摩天楼のそびえ立つ中心都市マカティ市はシンガポールと並んでアジアで最も美しい夜景スポットと言われている。素敵な夜景を撮るのは難しい。

BlogMura-Shizuoka

mark knopfler and eric clapton and wonderful tonight

夜の帳が下りると
彼女はドレスを選び 
ほんのりお化粧して 
金碧の長い髪を梳る
そして僕に尋ねる
「これで どうかしら」
僕は答える
「今夜の君は最高だよ」


僕たちはパーティーへ行く
道行く誰もが振り返る
僕と一緒に歩く美しい人に
そして僕に尋ねる
「ご機嫌は如何」
僕は答える
「今夜の君は最高だよ」

とても素敵な夜だった
君の瞳に愛を見つけて
でも不思議なのは
僕の愛に君が気付かないこと


パーティーの幕が下り
僕は少し頭が痛い
彼女にドライブさせて
ベッドまで辿り着く
僕はそっとささやく
スタンドを消しながら

愛しい人よ
今夜の君は本当に素敵だよ

訳 bibbly


青空のビビリー

2008-04-19 | weblog

借りていたアパートの退去の立ち会いも無事に終わった

最後の記念に屋上で写真撮影をしてみよう

一度、このプールで泳いでみたかった でも勇気がいる

本日は晴天なり

爽快な気分!と言いたいところだが、フィリピンは真夏のように暑い。


リトルトーキョーの昼食

2008-04-18 | weblog

昼食はホテルから歩いて1分のところにある日本人向けレストランが集まるリトルトーキョーで食べる。私の記憶が確かなら先月渡航した時も同じ記事をエントリーしている。

進歩がないと言ってしまえばそれまでだ。

先月帰国間際に新しいお店がオープンした そのお店が気になる

リトルトーキョーはコの字型で2か所の入り口に鳥居があり、中に入ると中庭がある。数あるお店のなかでも魚も肉も新鮮で美味しいから瀬里奈が一番賑わっている。

値段が安くても味が不味ければダメだろ。

通りを抜けると何故か子供用のブランコがある 

中庭 日差しが強烈で暑い 兎に角、フィリピンは暑いのだ

お酒は飲まないので居酒屋へは行かない

うらめしや、このようなネーミングは如何なものか。食べ物に関してシャレや冗談はマイナスではないのかな。味が口に合わない客は、笑って済ますより、損したなと思うだろう。

このお店では食べる気はしないな。

 比較的新しいお店 すしバーっていう看板だけれど味は大したことない

お好み焼き屋、評判はいいけれど食事となるとなぁ

先月帰国間際にオープンした新しいお店がここ

感じのいい店内とスタッフ

お昼の焼き魚定食 鮭、サバ、サンマはあるけれどカマスの焼き魚は盲点だった。

定食の値段も日本円で500円位だから割安感がある。

ハンバーグ定食が一番旨い 今回の渡航で昼ご飯はここへ通った


ホテルの朝食

2008-04-17 | weblog

先月、フィリピンで借りていたアパートの退去した。今月の渡航はアパートの家賃、電気、水道代の清算と最終の立会い、鍵の返却をする。他にすることは趣味の写真撮影ぐらい。

今回は借りていたアパート隣の日本人が経営する古いホテルへ宿泊。

NTTホテルという名前だけれど、モチロンNNTは無関係。

建物全体が緑色で目立つ、日本人の宿泊客が多い。

チェック・イン フロントの女性は全く日本語が話せない。

部屋はワンベッドルームタイプで、持ち込みでノートPCが使用できる。

NTTホテルの朝食。まあ、これなら悪くはないだろう。しかし、普段は五分づき玄米を食べているので白いご飯では物足りない感じがする。

フィリピン滞在中、朝は散歩のあと、ネットカフェでコーヒーを飲むだけにしている。ところが、いつも行くネットカフェは既に閉店していた。

仕方がないのでアモーソロ通りにあるアモーソロ・マンションを目指す。

アモーソロとは国民的人気の画家の名前

日本ならば岡本太郎画伯といったところか

ホテルから歩いて10分、走って9分 年には勝てない

NTTホテル同様、分譲マンションのホテル仕様

1Fにあるティーラウンジ インテリアがカッチョエエ

店内の様子 ここも日本人宿泊客が多い

リンゴのオブジェがオシャレだ

バイキングスタイルのモーニング トーストがおいしい

最後はとても気さくなママさん


空港の写真part2

2008-04-16 | weblog

出国審査が済んだあと国際線出発ロビーでフライトを待つ

二時間前にここで待機しなければならない 今日はさらに早い時間だ

人もまばらでヒマ!ブラブラしながら写真でも撮影しよう

タバコ、お酒、お土産の免税店はAM 7:00からオープン

有名ブランドの専門店 ブルガリとカルチェの広告デザインが秀逸

コスメテックのエリア AM 7:00 オープン 香水の香りが漂う

ブルガリ・オムを使用しているから買っておこうかな

ブルガリのところで突然声を掛けられた おお、美人だ、イヤッホウ!!

彼女から熱心にブルガリの男性用オーデコロンの説明をしてくれた

そんなことより、Yさん、拙者の愛を受けとめて

結局、アラミスを買った しかも2つ 1つはJetさんにプレゼントしよう

そのあとコーヒーショップへ 有機栽培が売り物 味はちょっと・・・

外貨両替のトラベレックス ここは手数料が高すぎる もうヤメる

あっというまに時間が過ぎた 飛行機の搭乗口へ向う

搭乗口への最後の通路 朝の光が眩しい この写真はいい

フィリピンエアラインの機内 人は少ないね

まず、フィリピン入国カードの記載 慣れたものだ

続いて機内食 魚がなくてチキンだけ 食べられなかった ゴメンナサイ

フィリピンエアラインのスッチー めずらしく若い子だった