怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

えもやんデイ

2006年10月19日 23時26分52秒 | ヘンろみち
衛門三郎生誕千二百「有余」年記念。
まぁ、そうしか言いようがありませんわな(笑)。いつでも記念の年にできる適当な感じがすばらしいです。

今日は久万高原を一気に駆け降りて松山市内の札所を打ちまくってきました。こんな納経ラッシュは徳島以来です。調子に乗ってがんがん行ってたら5時ぎりぎりになって(納経時間は朝7時~夕方5時まで)最後の方はマジにダッシュしてましたが。やですね、余裕のない遍路って、まったく。

結局、本日は道後温泉は石手寺までたどりついたわけですが、本日駆け抜けた土地というのはまさに、遍路の大先達、えもやんこと衛門三郎のいわゆる地元だった場所にあたります(えもやんについては歩き始め3日目ぐらいのブログをご参照あれ)。

正確には、三坂峠を平地まで下ってきた辺りにあたる荏原という地。えもやんの住んでた邸宅跡とされる場所が別格寺院の文殊院(冒頭の写真はここにあったもの)となっている他、近くにはえもやんの8人(5男3女らしい)の子供たちの墓と伝えられる「八ツ塚」が残ります。八ツ塚、勝手に8つほど墓標が並んでいるのかな程度に思っていたら、直径7~14メートルほどの群集古墳でした。円墳や方墳がまざっており、時期は古墳時代末期ということです。石室などは未調査で農耕儀礼の歳時墳という見方もあるようです。

これがいつ頃からえもやん伝説と結び付いたのかは不明ということでしたが、えもやん伝説においてお大師の鉢を8つに割ったえもやんが8人の子供を8日のうちに亡くす、というのはどうもとってつけた観がありますから、伝説成立の過程においてきっとこの群集墳がまずあったんじゃないかとなんとなく思います。田んぼのど真ん中に点在する8基の墳丘はなかなかに壮観でございました。

本日最後にたどりついた石手寺は、以前お話しましたように「国司に生まれ変わりたい」と死んだえもやんの望みがお大師に叶えられて再び生を受けた時に、手に握り締めていた石が奉納されたお寺。元は安楽寺との名だったところを改称したのはかの空也上人ということになっておりますが、2番手前の浄土寺にも上人の伝承が伝わっておりました。3年ほど近くに住んでいたらしく、その上六波羅密寺よろしくな六字の名号を唱える姿の空也像があるみたいです(非公開)。なんでこんなとこにあるんでしょうね、お寺は空也上人ご自身が刻んで行かれたとしかおっしゃいません。

夕闇迫る中訪れた石手寺にもえもやんの像がしっかり立っていました。そしてえもやんが生まれ変わった時握っていたという玉の石も土産物屋にがっつり売ってました。1個800円。無駄に高くて重かったので当然買いませんでした。

関係ないですが石手寺にてちびこいポクポク木魚を購入。明日からの般若心経のお供にするの。