怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

土佐は着いたが岬はまだか

2006年09月30日 20時16分14秒 | ヘンろみち
たぶん、この先っぽが、室戸岬です。あと15キロほどなので明日の昼前には到着の模様。というわけで、土佐は修業の道場におります。引き続き百介さんの道歩いてます(多分)。

ご覧のようにただひたすら海と山の境界を、てくてく。風景以外にこれといって愛でるものもありませんので、般若心経を覚えてみたり、いい感じの砂浜を見かけてはウルトラ5つの誓いを絶叫しながら走ったりしてました。袖の下から見れば、私の視線の先には胸にマークをつけた人が飛んでいくのが見えたはず。

それはさておき、今日は佐喜浜(崎浜)というところに逗留しております。思ったより早く宿に着き時間を持て余してしまったので、宿の本棚に『佐喜浜郷土史』(非売品)を見つけツラツラ読んでいました。

なかなかおもしろかったです。そういう意味ではおもしろくない土地などそうそうありませんけども。2、3ご紹介いたしますと、観音下の石段を降りたところを夜中に通ると釣瓶に乗れ釣瓶に乗れと空からからっぽの釣瓶か下りてくる、てな場所があったり、夜通ると黒い牛が追い掛けてくると言われる谷があったり。船場(地名)にある虚空蔵堂の本尊の大日如来(なぜだ・笑)は「鳥仏師」の作と伝えられると武藤致和の『南路志』(1815刊の土佐の地誌)にあるんだそうですわ。…写真載ってましたけどね、止利にしては野趣あふれすぎですね(笑)。本の著者も、なぜここに鳥仏師の名が受け継がれていたか理解に苦しむとおっしゃってますが、なんぞ学のある方がいらっしゃったんじゃないですかね。おんば様とよばれる祠があるみたいなんですが、そのいわれは三輪山のオオモノヌシのお話そのままで、違うのはムスメが七たらい半ある蛇を産み落とすも育てるわけにもいかず葬った、と、その塚がおんば様だということになってたりもし
ますし。まぁ三輪山のお話は特別に学がなくても広く人口にカイシャした話でしょうけども。

ちなみにおんば様の「おんば」はこの辺りでは山姥のような意味で使われる言葉でもあります。昨日通過した海部郡には中世以降代々海部氏吉を名乗る名刀工がいたんですが、氏吉には山姥の意味での「おんば」にまつわるお話があります。なんでも金(キン)の「せいろ」をかついでそこになんでもほおりこんで食ってしまう「おんば」がいたが、氏吉の娘を自分の息子の嫁にもらいたい、と言ってきたので氏吉がならば一夜で千本の刀を作れば娘をやる、と(続きは千本に達しそうなので鶏を鳴かせてというパターン)。金のせいろをかついだ山姥ってのがおもしろいですよね。それはともかく、佐喜浜の「おんば様」はなんかこう…自分の中にある勝手なイメージではあるんですが名前と伝承が噛み合わない感じで気持ち悪いですね。おんば、にはもっと広い意味があるのかなぁ。

さてさて、佐喜浜にはワタシがかねてより出会えないかなと期待していたものがありました。すなわち、六部殺しの伝承です。本には殺した六部の財によって分限者になった一族の名前が明記してあったんですけども、どうも分家筋の方がまだご存命でらっしゃるようなのであえて名は伏せておきますが、相当な財をきずいたようで、香川の金比羅山の手水桶にも名が残っているんだとか。日浦に「聖神」という祠があって「ひじりさん」と呼ばれてるのが、その家によって代々祀られていたひじり墓なんだそうですよ(殺したのは高野聖、なんだそうです)。その後、不幸が重なって家産が傾き一族の若死が相次ぎ、なんと大正の頃、ただ一人の生き残りの方が六部の霊との縁切り祈願に高野山で祈祷を受けたところ、殺された六部の亡霊がありありと現われた、と伝えられているんだそうですわ。

この辺りの方はお遍路さんのことを遍土(へんど)と呼ぶんだそうです。…なんだか急に、自分が彼岸の人間になった気がしました(笑)。

とどろき神社

2006年09月29日 19時09分11秒 | ヘンろみち
斬鬼さーん、自分の神社ッスよーっ(阿南市新野町、轟神社にて)。

というわけで、昨日、阿波国最後の札所(23番薬王寺)を打ちおわりまして、本日土佐にちょびっとだけ入りました。そんなこんなで百介さんの道を歩いています(同じ道かは知りませんよ)。冒頭の轟鬼くん万歳写真は22番平等寺近くで見つけた神社なので、昨日の朝方の写真になりますね。轟鬼があんまり騒ぐので寄り道したわけです。

この轟社のご由緒を簡単にご紹介しますと、人皇第52代嵯峨天皇の治世は弘仁5年、勅使をもって大和の龍田社より分霊を奉進したという、まぁ式内社に比定されている神社のようです。圧巻だったのは境内を取り囲むように林立する10数本の樟の巨木群。樹齢はざっと300~500年程でしょうか。500年ほど前に近くの壹比売神社から木花咲耶比売命を合祀したとありましたから、樹齢ともなんとく合うかなぁと言うことで、少なくともその頃辺りには整備されて以後場所を動いてない、と考えていいのでしょうかね。

もっとも徳島には「轟さん」と親しまれているもう一つの「轟神社」が海部郡海陽町にあります。宿の方に轟神社はどこかと聞くと、最初の返事は地元のこの社ではなく海陽町の方だったというぐらい徳島ではちっと有名な神社。

というのもこの辺りでは「蜂須賀公と轟さん」という昔話がありまして、蜂須賀公と申しますと言わずもがな阿波藩主なわけですが、ある時蜂須賀公が轟さんにお参りした時、信心してるんだからたまには姿を見せておくれと言うと滝から大蛇の姿であらわれたというようなお話なんだそうです(轟神社には落差58mに及ぶ轟の滝はじめ轟九十九滝と呼ばれる多くの滝がある)。この話のオチがちょっとおもしろくて、中空に向かって頭を下げる藩主をいぶかしく思った家臣が何に向かってそんなに頭をさげてらっしゃるのかと尋ねると、なんだ見えないのか、ならばワシの袖の下から見てみよ、と言うのでそうすると家臣達にもその姿が見えた。だから、見えないものが見えてしまうので袖の下からものを見てはいけないんですょ、という教訓に持っていくのですね。そんな習慣は初めて聞きましたので大変勉強になったわけです。

阿波蜂須賀公、徳島通過中にやたらと耳にしました。蜂須賀公の信心厚かった神社ですだとか蜂須賀公の寄進によってできた寺だとか塔だとか。余所から来たお殿さんですしねぇ、お国入りした後、民心掌握にいろいろ手を尽くされたんでしょうかね。そのご苦労を垣間見た気がし、またそれが箔付けとして機能してるのであろう辺り、一定の成果をおあげになったんだろうなぁと思います。

海陽町の轟神社とこの阿南市新野町の轟神社との間に本末関係があるかどうかはよくわかりません、書いてなかったし(笑)。神社のお隣にはそこそこの大きさのお寺がでーんとあったので行ってみると額には「神宮寺」の文字が。…わかりよくてよいですね(笑)。徳島を歩いていると、大阪や京都よりもはるかに高い確率で神社とお寺が隣り合わせに立っているのをよく見かけた気がします。特筆すべきことなのかどうかわかりませんが(笑)。

そんなわけで、海陽町を通過中、この辺をなわばりにしてるのは「とどろきタクシー」だと知りました。乗るならこれだなと思っていたら(以下略)。



BGM*清めの.../轟鬼

さるとらへび?

2006年09月26日 16時27分13秒 | ヘンろみち
ヌエ大師、と読みます。

この辺の地名が沼江(ヌエ)ですので、ま、別になんてこともなく、なんてこともないんですが。地名由来を尋ねようとした相手が、まぁお一人で、それはご苦労さま、あら大阪から、よくお参りでした、ほんとによくお参りでしたと怒濤のように話し続ける方で…聞く隙がなかった(v_v)。ワタシもまだまだ修業ですね。ちなみにオレンジジュースお接待していただきました。

午前中にうろついていた小松島には「金長タクシー」てのがあるようで。乗るならこれだなと思っていたら(以下略)。