怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.54 播州お菊めぐり(下)

2007年01月31日 16時13分42秒 | 怪道
というわけで、堤邦彦先生の講演「日本皿屋敷伝説 その謎と真実」です。

お菊ちゃんのお話は、江戸の「番町皿屋敷」とこちらの「播州皿屋敷」を両巨頭といたしまして、全国約50ヶ所に分布する、江戸三大女幽霊の一人ですね(残りの二人はお岩ちゃんと累ちゃん。四大、にするとお露ちゃんが入る)。

主家の家宝であるお皿を割ってしまったためにお手打ちにあい井戸に投げ込まれて、夜な夜な皿の枚数を数えるというストーリーとしてよく知られますが、お皿は本当にお菊ちゃんが割るタイプやお菊ちゃんを恨む人に割られるタイプ、隠されるタイプがあり、お皿が割れるのもウッカリ事故のパターンも故意で割るパターンもあります。そもそもお皿が出てこないお話(主人に出したご飯に針を入れる)もあったり、またまた名前も「お菊」じゃないこともあり、井戸に落ちないこともあり。

とにかく全国に広く分布するだけにその類型も様々で、全てに共通するのは、ある家に奉公する女の子が主の非道により亡くなった後、怨霊となって祟りその家を没落に追い込む、というぐらいでしょうか。つまり、キーワードは「お菊ちゃん」ではなく「皿屋敷」なのですね、当たり前ですが。ある一族が滅んで家屋敷がなくなってしまったという、サラ(皿)地→更地に対する恐怖、すなわち「家の繁栄」の対極にある「家の断絶」に対する恐怖が根底にある怪談、ということになっています。

さてこの皿屋敷伝説、堤先生のお話によりますと、皿を数えてすすり泣くお菊ちゃんに、高僧が「十枚目」と言葉をかけてやることによって成仏させてやるという、仏教説話の類型パターンであるということで、いろいろと興味深いお話が聞けました。

そもそも足らずを補うことで幽魂を成仏させる話というのは、上の句を残して死んだ歌人の幽霊を下の句を作ってやることで成仏させる話が原型にあるとのこと。「十枚~」と言うてお菊ちゃんを成仏させてやる了誉上人は浄土宗中興の師なわけですが、増上寺末の大泉寺(盛岡)にもお菊の皿が伝わっていることなどから、浄土宗の説教にはお菊伝説が取り入れられていたことがわかるのだそうで。

対して、江戸麹町にあった常仙寺(曹洞宗)にもお菊の皿は伝わっているそうな。寺の縁起によりますと、お菊の霊を成仏せしめたのは当山三世の文令禅師であるぅ、とのたまわるわけですな。しかも山崎美成の『提醒紀談』によれば、年に何度か江戸の人々にご開帳していたようです。了誉上人はたった一言「じゅうまい。」とゆうてやったわけですが(それで納得したんかいお菊、と思うわけですが)、文令禅師は参禅するお菊にえぇか、えぇかと「法味」を説き聞かせたんだそうです。

ちなみにワタシが以前いった和歌山の窓誉寺(曹洞宗)のご住職によりますと、そこが伝える話によれば、禅宗ではファイト一発的呪文に「トツ」という掛け声があるそうで、お菊に対し「トォツ!」とやったのを、余人が「十(とぉ)」と聞き違えたのだろうとおっしゃっておられました。同じ宗派でもいろいろあります、ハイ(※友人のご指摘より、「トツ」は禅宗で受戒の際にいう言葉ということが判明いたしました)。

お菊ちゃんの皿と伝えるものは浄土宗や曹洞宗に限らず、彦根の長久寺は真言だし個人宅にあるもので真宗寺院から手に入れた(佐賀県)というのもあり(伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』より)、いずれの宗派にも唱導とお菊説話というのは密接な関係にあったということなんでしょうね。

また、播州皿屋敷伝説には、周知のとおり、「お菊虫」にまつわる後日談があります。お菊の百年忌にあたる(そいつはちっと出木杉英才)寛政7年(1795)夏、城下で後ろ手に縛られた女のような形をしているサナギが大量発生したのを、人々がお菊が虫の姿を借りて帰ってきた、と噂しあった、というものですね。この「お菊虫」と呼ばれたサナギの正体は現在ジャコウアゲハであろうとされ、姫路市の市の蝶になってるらしい。


お菊虫の図(大田南畝『石楠堂随筆』より)。

堤先生のご指摘によりますと、お菊虫の伝承は関西圏を中心とした西日本に分布が見られるが、関東圏では全くないということ。それらが『桃山人夜話』のような関西系の画家が描くものと、江戸の北斎や月岡芳年が描くものとの差になっているのだろうとは実におもしろかったです。

堤先生のお話においても、「皿屋敷」伝説から見える江戸時代人が怖れたもの、とは家の断絶、家の没落であり、武家などの家経営に対する教訓であろうとしめくくっておられたわけですが。家が没落してしまうことへの恐怖と、井戸で皿を数えるお菊の幽霊に対して抱く恐怖というのは、明らかに質の違うものだと思うのですね。後者の方は、言うなれば、人間の生理的な部分に訴えかける恐怖なわけです。

主の非道を戒める教訓がもとにあって、それに対してこういった別の次元の恐怖をおりまぜていってしまう江戸時代人の発想のすさまじさにはつくづく恐れ入りますね。もっともこれは、当時の人々は現在よりももっと「家の没落」に対して切羽詰った恐怖を持っていたんだなぁという推測ができるとともに、それが希薄になった現在では皿を数える「お菊の幽霊」へと恐怖の比重がスライドしていったと考えた方がよいのかもしれません。・・・とはいえやっぱり、江戸の人も、家の繁栄がどうのよりは、お菊の一まぁ~いの方が怖かったと思うんだけどなぁ(笑)。

そういうわけでたっぷり1時間半、ファンになっちゃいそうな人徳オーラを出し続けられる堤先生のお話を堪能したしました。えぇ、3月の大会でもう一度お会いできるのが本当に楽しみです。

せっかくなので姫路文学館の常設展示を拝観し、三上参次、辻善之助、井上通泰なんて姫路出身のマニアックな方々の展示をなめるように見ておりました・・・KR老師が。辻善之助のラジオの音声が聞けたのはちょっとうれしかったですが。「ガタピシ」というのは相反するものをならべて物事を分別したり、対比したりする、という意味の仏教用語なんですってね、建てつけの悪い扉のことだと思ってました。ちなみに椎名麟三が椎名リンゴに聞こえたのはヒミツです。

閉館時間も近づいたので、小雨降る中、お菊せんべいを買ったり地酒を試飲したりしながら家路につきました。

次はみなさんで、車で行きましょうね。

怪道vol.53 播州お菊めぐり(上)

2007年01月30日 23時55分13秒 | 怪道
つんさん、女将、KR老師と、姫路に行ってきました。「言うても畿外ですからね、バンシュウですからね、遠いですよ」と諭された際、バンシュウを「蛮州」と変換してしまったのはヒミツです。・・・キガイがケガイ=化外に聞こえたんですよぅ、姫路の方、ごめんなさい。

そんなとっても遠い姫路まで何をしに行ったかといいますと、伝説MACHIOKOSHIイラストマップ制作発表記念事業の一環で、京都精華大学の堤邦彦先生による講演「日本皿屋敷伝説 その謎と真実」があるというお話を、KR老師が教えてくれたからですね。その際、無料配布された伝説マップというのが、これ↓。



すごい立派でしょう。比較のためにおきましたのが某出版社の新書。つまりポスター大なんです。姫路市内の鳥瞰図の周囲にイラスト付の昔話や伝説が所狭しと書かれ、各お話にふられた番号が地図に落としてある、という趣向。播磨学研究所の埴岡真弓さんも監修されているということで、非常に行き届いた内容になっております。今後は姫路へ行く際には必需品となるシロモノでしょう。

せっかく姫路まで行くんだし、ということで、やはり「お菊出てこーい」は言うとかなあかんやろう、と、講演会が始まる数時間前に姫路入りすることになりました。が、寝坊したワタシと乗り遅れたKR老師が結局同じ電車になったりしてるうちに時間通りに動いていたつんさんとは普通にはぐれ、姫路に着くなりお腹すいたねぇとオムそばとかお好み焼きとかだらだら食べていると、時間というものはどんどん経つわけですね。

で、先にネタバレしておきますが、拝観時間にタイムリミットのある国宝かつ世界遺産を先に見ればよいのに何を間違ったかお菊神社やら長壁神社やらへ行ってたら堤先生の講演開始の時間になって、バガボンドの妖怪退治現場もドジっ子メイドの井戸も見れずじまいだったんですねぇ、これが。バカです、アホです、まったくもう(←自分に言ってるんですョ)。

なにはともあれ、せっかくまわった二つの神社さんのレポを簡単にしておきますと、お菊神社は言わずと知れた「播州皿屋敷伝説」のヒロイン、お菊ちゃんがおまつりされている神社。少彦名神を祀るという十二所神社の境内に、結構立派な社殿がございました。最近「十二」な神社に縁があるわね、などと適当なことを考えておりましたわけですが、ここの「十二」はむかしこの辺りに疫病が流行した際に、一夜のうちに12本のヨモギが生えたことにちなむもの。これを煎じて飲むと病がたちどころに治ったので創建されたそうな。

おわけいただいたご由緒書きによりますと、もともとは姫路城の南にある「南畝が丘」なる場所に鎮座していたものを、姫路城建設に当たって、城の裏鬼門の方角にあたる現在地に移動したらしい。そうすると、やはりお菊神社がここにあるのは、恐るべき祟りをなした怨霊を御霊として祀り、城を鎮護する場所に据えたということなんでしょうかね。播州のお菊さんは最初っから城主・小寺則職のために働いて死なはったわけですし、主家を祟ったわけではございませんけども。

長壁神社の方は今から1150年余の昔、国司の角野氏によって姫山の地主神として建てられた神社。城の守護神として祭られていたものを、庶人にも参拝しやすいようにということで現在地に遷されたそうなんですが、祭神は「光仁天皇の皇子刑部親王」と「その王女富姫」の2柱ということになっておりました。天守夫人な富姫は、なんと刑部親王の王女だったのですね、知らなかった!

・・・ていうか、今回諸般の事情でちっとも予習できずにこちらへうかがったのですけども、他戸親王はなぜにこちらにいらっしゃるのですか。死んだのは奈良の方だし、死後ニセモノが現れたのは周防でしょ。実はオサカベ違いで、よくある文字面に別の意味がすりこまれた結果というヤツなんでしょうか、教えてエライ人!!

帰ってから知ったんですが、この他に当初行く予定だった播磨国総社・射楯兵主神社にはどうも「鬼石」と呼ばれる、酒顛童子の首が石化したと伝えられるものがあるようですね。なんでも平井(藤原)保昌が播磨国平井にいたというつながりみたいです(摂津の平井ではなかったかしら?)。酒顛童子と聞けば黙っちゃいられない!というわけで、兵主神社は神社研究の関係でもお化け関係でもおもしろい神社ですし、伝説マップとあわせて、やはりもう一度行かねば、姫路。

その後、城内図書館に寄ったり、通りすがりにあるであろう一億円の便所なるものを一応見ておくかと思ってみたり(適当に歩いていたせいで結局見つからず)、で、設定した待ち合わせ場所でことごとく会えなかったつんさんとは、姫路文学館でようやく会えました(つんさん、本当にごめんネ・泣)。

一見は高級住宅街の中の静かなたたずまい・・・なのに向かいにラブホはあるわ目と鼻の先には銭湯があるわでイマイチどういう土地柄なのかはよくわからないという場所に、安藤忠雄設計のその近代的な建物がありました。見栄えはいいんですが入口からしてよくわからないという実に迷いやすい建物でした。

というわけで、メインの堤先生のお話は、次回にいたします(疲れたらしい)。


「名勝おきく神社」碑。


長壁神社。播磨国大社24社のひとつだった面影はない。


国宝は、遠くにあって拝むもの。


ドジっ子メイド、お菊のキャラせんべい。しっかり9枚入り。固めで割れにくい卵せんべいなのは玉にキズか。

番外編 四国のミチ 其の3

2007年01月21日 04時14分19秒 | ヘンろみち
みなさんこんにちは!四国88ヶ所遍路大使(認定番号:651)*です。今日は、徳島の北東部と香川東部で似たようなもんを見かけたよ、というお話をいたします。

2番札所極楽寺からすぐのところにあった諏訪神社の境内で、早めのお昼ご飯を食べようと腰をかけた目の前に、不思議な石碑を見つけたのです。それが、これ。



一見墓石のように見えますが実は五角柱になっていて、正面には「天照皇大神」、次いで時計回りに、「大己貴命」「少彦名命」「埴安姫命」「稲倉魂命」の字が刻まれ、碑の真ん中辺りにしめ縄が結ばれています。徳島を歩いている時、これと同じものを、神社の境内や田んぼの端でしばしば見かけました。また、タヌキめぐりをしている際(詳細は後日)、南小松島の駅構内では、近年建てられたばかりとおぼしき御影石製のものがありました。徳島県内でワタシが目撃した南限は、22番平等寺に至る手前でしたから阿南市の真ん中辺りになります。

以降、高知、愛媛と全く見かけなくなって久しくなり、そろそろ忘れかけて遍路も終盤にさしかかった時。香川県は高松市内で、再び同じものを目にすることになりました。見たのは徳島と同じく神社の境内であったり(83番一宮寺手前の成合天満宮)、県道280号線沿いの民家の玄関先であったり。建てられ方としては、碑に正対すると自身は南面して立つことになるものと、東面して立つことになるものの2種類・・・だったと思います。


(高松市内で見たもの)

なんだろうこれは、と思いつつ、結局四国にいる間はわからずじまいだったのですが、最近になってようやく判明しました。これ、「地神碑」と呼ばれるものなんだそうです。

どうやら発祥の地は徳島らしい。それが、江戸時代から明治期にかけて瀬戸内地方に広まり、徳島、香川以外に岡山でもわりと見られるものだそうで(柴はん&いつきのおじぃちゃん、お見かけになりませんでしたか?)、他に北海道でも徳島県人の入植地で集中して存在するようですね。居並ぶ神さんのメンツを見ても、またおそらく、太陽の方向を向いて立つことになるのであろう辺りからも、農耕に関わるものであることは歴然としてます。

徳島ではどのように祀られているのかはググった段階ではイマイチわからず、ここにはとりあえず岡山での習俗をご紹介いたしますが、祭日というのが、春分の日と秋分の日のそれぞれに一番近い「戊」の日の2回。この日は「金忌み」といって、「鍬を使うと地神様の頭に鍬を打ち込むことになる」からということで、農作業を休む慣わしになっているのだそうです。・・・なんだか、どっかで聞いたような話ですね、大江山の周辺に伝わるという、酒顛童子が殺された7月15日には刃物を一切使ってはいけない「鎌止」の慣習。ちょっと違うか(笑)。

徳島の地神信仰は明治期に公権力が入ったり、その上でなおかつ地域性をいまだに持っていたり、というような報告があるようですので、おいおいまた調べてみたいと考えておりますが、この話は今日はひとまずこの辺りにしておいて。

徳島と香川の、さらにしぼって阿讃山脈の南と北に位置する二つの地域、板野郡(徳島)と引田町(香川)についてのお話です。

地神碑を見かけた高松市内はさほどでもないですが、87番長尾寺を出て88番大窪寺に向かう頃から徐々に、にっぽん昔話のような香川の山並みは徐々にうすれ、大窪寺から白鳥温泉をぬけて引田までくると、その風景が、どこかしら徳島的のどかさが漂ってきます(徳島は、どこがどうとはっきり言えないのだけれど、とにかくとっても「のどか」なのです)。

この地域と、南側になる板野郡には、共通する名産があります。それが、和三盆。香川側では讃岐和三盆、徳島側では阿波和三盆と呼ばれています。日本で和三盆が作られるのは、この阿讃山脈の南と北のこの地域だけで、「竹糖」と呼ばれる特殊なサトウキビを原料として作られるのだそうです。両地域は気候や土壌が似かよるのでしょうね。製法は表向き互いに秘伝とされていたようですが、それぞれ18世紀はじめのほぼ同じ時期に確立したといいます。

それぞれの地域に伝わる、和三盆づくりのはじまりについて伝わるお話をご紹介しましょう。

〈讃岐〉
四国遍路の途で病に倒れた薩摩人を介抱したところ、恩義を感じたその旅人が死罪覚悟で国禁のサトウキビの苗を持ちだして届け、それが讃岐の国に根づいた。

〈阿波〉
旅の修行僧が立ち寄ったとき、九州で砂糖黍が栽培されていることを土地の者に伝えた。それを知った若者が日向国に行き、サトウキビの苗と製法を修得し帰って、阿波のサトウキビ栽培の基礎を作った。

サズカリモノ的由来譚の讃岐と自ら獲得におもむいた由来譚をもつ阿波、という違いが見えます。この地域におけるサトウキビの栽培は吉宗による享保の改革の一環で商品作物栽培が奨励されたことにはじまるのですが、実は、製造に着手したのは讃岐の方が先なんですね。どちらも実話かどうかは考慮の余地があるものの(両方とも、具体的な人名まで伝わっていたりします)、両話の温度差の違いは、遅れをとった阿波の焦りと無関係でないように思えておもしろいですね。

で、この両地域を結ぶのが、歴史に名高い大坂越えになります。ワタシが歩いて越えた大阪峠は、実は明治に入って整備された「旧道」と呼ばれるもの(新道は県道1号線)で、本来の道は荷馬が通れないほどの難所だったという話ですけども、この辺りの山は讃岐平野に点在するような、瀬戸内の島々を形成したような峻険な山々とは違いますしね。阿波と讃岐を結ぶ、比較的交流の頻繁な道だったと思われます。そしてまた、引田と板野郡は、もろに大坂峠の北と南の出入口なわけです。

阿波で旅の僧が話したというサトウキビの栽培地も、宮崎まで行ったという若者の真実の行き先も、お山を一つ越えた引田の集落だったのではないでしょうか(笑)。


大坂越えの道より、引田の集落を見下ろす。


*…歩き遍路を結願すると任命してもらえる称号。証明書は前山おへんろ交流サロンにて発行される。無料(なお、88番札所大窪寺発行の証明書は有料)。




怪道vol.52 初詣、タタリ詣~午後編

2007年01月19日 15時55分18秒 | 怪道
行ってきました大阪天満宮。

大阪に生まれた女(BORO)やけど、天満宮、初めてお邪魔いたしました。天神祭はよう行くんですけどもね。師匠にお誘いいただいて、船渡御の舟に乗せてもらったこともございます(林家花丸師匠が同船しておられてそれは楽しかった思い出)。南から入って、まず4人とも、あっちじゃねぇ?こっちじゃねぇ?なんてどれが本殿かにも迷う始末で、結局でらい建物は一つだけだったので多分これだろうと、手を合わせてまいりました(適当)。

大将軍があるねぇ、なんて暢気に拝んでたんですが(これでいいのか竹居ゼミ・笑)、そもそも大阪の天満宮、道真さんが大宰府へジャーーーー、の際にお参りしたのがこの大将軍社であり、没後50年を記念とばかりに一夜の松が7本も生えた。夜な夜な梢から金雲を発すというその奇瑞に、時の天子・村上天皇は菅公の縁と天満宮をお建てになりました、ということらしいです。ここは難波京から見て確かに西北にはあるんだけども、改めて思ったのは、難波京というよりは大阪城の西北でもあるんですね(大将軍は都の西北に鎮座する方位の厄災解除の社)、そっちの方はかなりシックリくる感じです。

おもしろかったのが境内にある摂社・十二社。祀られていたのはこの方々。



このチョイスはなんなんでしょう(笑)。

「吉備聖霊」「早良親王」「伊予親王」、ちょっと飛んで「藤原広嗣霊」「橘逸勢霊」は、いわずと知れた、日本史に燦然と輝く怨霊さま方ですね。「藤夫人」は宮子さんでしょうか、吉備真備だの早良親王だの伊予親王と並べられるほどの方という印象は正直ワタシにはなかったです。長屋王や吉備内親王の方がおっそろしいイメージありましたが、この人たちは入ってないんですね。「丈太夫」は帰ってから調べましたところ、大阪という要素などから鑑みまして、野崎参りの段で有名なお染・久松の、久松の父「相良丈太夫」(和泉国石津家の家臣で主家の宝刀吉光を紛失した責任を取って切腹をしたという設定の人)とかなのかしら(違ってたら教えてネ)。

間の神さんたちにうつりますと、「火雷神」は天神信仰の草創期に道真さんと同一視され、後に眷属となった神。「火産霊神」「埴山比売神」「天吉葛神」「河菜神」は、どうも鎮火祭にて祀られる神様のうち水波能売神のみを除いたメンツのようです。なぜに除かれたのかがよくわかりませんね、ウンコの埴山比売とオシッコの水波能売神なのに(身もフタもない言い方)。ちなみに「天吉葛神」はヒサゴ、「河菜神」は水草で水の神様。

十二社とか言われるとなんかこう、熊野の十二所権現のパロディにでもしたかったんだろうかと思いたくなるんですけどもね。「霊」とつく4柱、「神」とつく5柱、その他の3柱、の括りが三所権現、五所王子、四所明神、を彷彿とさせる・・・というのはムリヤリですけどもね、神さんの性格とかあんまり類似してないですし(笑)。とりあえず、参拝したワタシ共が一番テンション上がってたのは、このお社だったのでした。


大阪天満宮にて、つんさんのスネ撮影会に便乗す(ホルスタイン・スネとなでうしの巻)。

天神橋筋商店街を北上しつつ、タコヤキ食べたり古本屋をのぞいたりしながら、お次は堀川戎へ。翌日から十日戎がはじまるということでざわめいた町を通り抜けると、環状線脇にたたずむこじんまりしたお社が。ここのメインは境内の地車稲荷こと榎木神社。榎木の大木のもとにちょいんとあるこのお稲荷さんは、地車囃子の真似をしては近所の人を驚かせて喜んでいたという吉兵衛狸を祀ったもの。

タヌキさんの姿はなかったですが、社殿いっぱいに作られた地車に、願いがかなえば奉納するというミニ地車が所狭しと置かれており、何ともいえない素敵な雰囲気のお社でございました。ちょっと割高感はありましたが、奉納地車作成キットを購入。結構、気に入ってます。

本来の予定はここまでだったのですが、午前中にまわった楠永神社のタタリの木つながりで、つんさんオススメのもう一本のタタリの木を回ることになりました。その木は、太融寺の「龍王大神」(イチョウ)。



場所は野崎町と太融寺町の間を南北に走る、片側三車線の道。車道に思いっきりはみ出して幹をのばす姿には、季節柄木のボリュームはないとはいえ、相当異様かつ偉容をかもしだしています。燈篭に太融寺の名が書かれていることからも、現在は100mほど西に所在する太融寺の、かつての境内にあった木であるらしい。ここから東が野崎町になる辺り、境内の境界にあった木になるんでしょうかね。道路建設にあたって、木を伐ろうとした業者に相次いで不幸があったそうで、今も根元に斧をいれた痕が残っている・・・とは後から知った話で、伐り口そのものは見ておりません。

「龍王」を祀っているだけに生卵のお供えが後を断たないらしく、つんさんが以前にここを訪れたときには大量の生卵が割られた状態で木の根元に散乱していたとか。「玉子を割って供えるな。くさります。よごれます。掃除が大変です」との張り紙に「掃除を大変がるな」の一言が殴り書きされてありまして(笑)、えぇ、まぁ、仲良くお祀りして下さいね。こちらも、何やら真剣にお参りされている方もいたのでオイタはナシです(後日つんさんが再訪された所、同じ方が同じ時間帯にお参りされていたそうです)。



どうせだから太融寺にもお参りしておきましょうか、と何気なくお寺に入ったら、なんとまぁお大師のお寺で、思いがけず年明け第一発目の般若心経を唱えるはめに。こんなところでお大師にあうとはある意味ヤツのタタリに違いないと思ったのはワタシだけですけども。大師堂わきでは何やら講が行われている模様で、58番仙遊寺の夜に聞いたような、太鼓の伴奏付般若心経が朗々と唱えられていました。般若心経って聞いてるとどうしてこう、踊りだしたくなっちゃうんでしょうね。

その後は、グダグダとまんだらけとか行って、グダグダと解散しました。

よく考えれば、いつでも行けるとなかなか行かないのが地元の町、ということでこれまで大阪の中心地をちゃんと歩いたことがなかったのですね、ワタシ。お恥ずかしい話ですが、点でしかとらえられていなかったのが、少し線でつながりました。おもしろいです、大阪。暇があればまた、ウロウロしてこようと思います。



というわけで、戦利品。堀川夷の玩具・奉納地車と、科学館でゲットしたミニ恐竜たち。中央はアンギラスことアンキロサウルス(←衝動買いのキメテ)。

怪道vol.51 初詣、タタリ詣~午前編

2007年01月17日 02時08分46秒 | 怪道

よりにもよってこんな日に、なんてステキなんだ、JAのカレンダー(1日一言ずつ健康にまつわる格言が書いてあるんです)。

というわけで。そんな1月8日は成人式に、いつものメンバーでぞろぞろと、大阪の中心地あたりをぶらぶらして参りました。朝は寝床でぐぅぐぅぐぅなメンバーが多い中、本日はいつきのおじぃちゃんがお昼前までの参加ということで、はりきって8時半集合。まずは大阪市西区にある靱公園内の楠永神社へ。

楠永神社、その名の通り、樹齢約300年とされる楠の巨木が神社の主神となっております。もとは二本あったようですが現在は一本のみ。残す一本とて、コンクリート芯が差し込まれた痛ましい姿で残っております。

文禄3年(1594)にここから北東へ約700mほど行ったところに遷座した「御霊神社」があった場所なのだそうです。「御霊神社」の由緒書によりますと、その名称は寛文年中(1655~1672)に改称したとあるから、「御霊神社」が楠永神社の場所にあった頃は「圓神祠」であったことになりますね。で、この「圓神祠」の創祀はというと、八十嶋祭(天皇の即位儀礼の一環で行われる祭)が嘉祥3年(850、祭の初見、『文徳実録』)に圓江で行われたことにはじまる、という。

ご存知のように大阪湾の海岸線はちょうどこの付近まで深く入り込んでいました。楠永神社脇の案内板によると、江戸時代、靱公園の付近一帯は海産物を扱う市場となっていたようで、寛永元年(1624)、荷揚げの便をよくするために、この場所に「永代浜」を開削したと言います。楠の樹齢とあわせると、この大楠は浜を開削したその頃に植えられたか苗木だったかするものなんじゃないか、と皆で話しておりました。

帰ってから少し調べたところによりますと、この楠永神社の地、後に「御霊神社」となる「圓神祠」が遷座した後は、別に「永代浜住吉神社」なる神社が建っていたらしい。明治の頃に活躍されたという銅版画家の森琴石という人が、明治40年(1907)に天保山に遷座する前の永代浜住吉神社の様子を描いておられるようで(多分『大阪府管内地誌略』)、その境内に、おそらくワタシ共が眼前にした2本の巨木も描かれているようです。

それぞれ事情はことなるんでしょうけども、楠永神社の場所というのは、二度も神社に遷座されてるんですねぇ。残ったのがこの楠の木だけというわけですが、この楠、幾度か伐採が試みられるもそのたびに怪我人が出るなどのタタリがある、ということで、本日のターゲットその1となった次第です。とりあえず本体にはさわりましたけども見るからに弱弱しい状態ですからオイタをしようという気もならず、落ちてる枝の一本を軽くへし折るぐらいにすませておきました。

で、ワタシがポキッとやったのをきっかけに。この後、何人かがつまずいたり頭をぶつけたり、と細かい不運にさいなまれたわけですね。かくいうワタシも免許証をなくしたわけで。・・・だめですよぅ、自分の不始末をタタリのせいにしちゃ(笑)。

続きまして、ここから移転したという御霊神社の現在地へ。この神社の鳥居と思しきものがおもしろいところにある、というつんさんのお話より、神社の南側から攻めることになりました。着くとびっくり、御霊神社南隣の某企業のビルのさらに南に、まさに唐突に鳥居があるではありませんか。ビルの入口と鳥居の中心線は微妙にずらしてありましたが、なんとも不思議な光景。

ご由緒書きの表紙の絵図(出典は不明。摂津名所図会か)、「圓御霊社」とあるものによると、本社の方は東を正面とした造りになっておりますが、南隣、ちょうど某企業のビルがある辺りは「本堂」「大師堂」と見えますので真言系の寺院があったようですね(寺名はちょっと読めない・笑)。鳥居は確か明治十何年かの銘が刻んでありましたので、毎度おなじみ神仏分離のあおりか何かで寺が壊された後に作られた鳥居、といったところでしょうか。

祭神はテンテルダイジンの荒魂、「津布良彦神」「津布良媛神」の産土神さんに応神天皇、そして謎なのが「源正霊神(げんしょうれいじん)」。鎌倉権五郎景政っておっしゃるんですけども・・・しばらく、しばらくの鎌倉権五郎さんは平姓だったように思うのですが。そんでもって「御霊社」の命名の由来はなんでございましょうね。

そんなわけで、ここがワタシの2007年初詣です(笑)。おみくじも人生2度目の大吉。うん、今年は幸先がよいようですぞ。

で、本日のメイン・イベント、大阪市立科学館へ。学天則くんと「プラネタリウム <安倍晴明の見た星~平安時代の星座と天文>」を見ようというのが、最大の目的。学天則くんは実物(ったって現物は行方不明ですが)の2分の1のスケールでできたレプリカ。ちょっとは動いてくれるかなぁとワクワクして行ったんですが、ピクリとも動いてくれなかったのはちょっと残念でした。でも、帝都物語でお見かけして以来のまばゆき金のボディには、感激。感激しすぎて、写真撮るの忘れた・・・ガッカリ。

科学館は、とにかく面白いところだということはよーくわかりましたが、それと同時に大変疲れるところだということもよくわかりました。実験しすぎの発電しすぎで、日ごろの不摂生もたたって気がついたらべろべろに疲れてた(回ったり回したり走ったり飛んだり、ワタシのようなヤリタガリにはかなり危険な博物館ということですね)。おかげでプラネタリウムの記憶が定かでない(笑)。まぁそれは、フランス製の実に快適な座席のせいとも言えます。

イヤ、おもしろかったんですよ、太陽とか宵の明星だとかが大阪の街中に墜落していくところとか、中国の星座には「天厠」なるものがあって、オツリに「屎」までついている、とか。話は、晴明がそれこそ「怪異」とするものは天体現象として起こりうるものだという説明が大筋。最後は占いなどを信じるのは云々でシメられるという、ありがちなもの。ははぁ、勉強になりました、と言うて終わりです。

次回はグダグダの午後編をお送りいたします。


うつぼ公園にある楠永神社。樹齢300年の大樹は、いたるところに治療の痕が。


ビルの前にたつ御霊神社の鳥居(多分)。


首都大阪。・・・よく考えたら、メガギラスでは逆アングルだったかもしれません、どっちにしろ大阪城は合成でしょうが。本編でプラズマエネルギーの開発が中之島で行われていたのはどうやら湯川秀樹がここで中間子理論を研究したことによるオマージュらしいことがわかったのは収穫。