怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.89 何をやろうがあんたは俺のおっかさんだ

2008年04月27日 23時14分48秒 | 怪道
すっかり葉桜の季節になりましたね。

アタシは満開の桜よか葉桜の方がよほど好きなんですが、それというのも葉っぱもなしに咲き誇る花花花の群れを見ていると、一体根からいかほどの精気を吸い取っているものかとゾッとするんですなァ。桜の下には人のむくろが埋まっているとの言い伝えはその辺りから生まれたものではないでしょうかネ。そして淡い発色の桜ですらそうなのだから、色鮮やかな花をたわわにつける桃が生命力の最たる木とされるのもきッと同じ発想なんではないかと、自儘に得心する日々です。いや、ホントのところなんて知りませんよ。

そんな季節のうつろいを散歩がてらに味わえるほどヒマな日々を送っておりますから、時間はうなるほどあるわけです、人生は二度ない~三~度ある♪その時間を時代劇に費やして、これまた素敵に過ごしております。アタシが見る時代劇といったらそれァ必殺シリーズに決まってますワね。

前にも話したような気がしないでもないですが、三味線屋の勇次は好きなキャラの一人です。この中条きよし演ずる必殺シリーズ屈指の人気キャラ・勇次が初登場するのはシリーズ第17作目にあたる「新必殺仕事人」から。本日のタイトルは、シリーズ第1話「主水腹が出る」にて、母おりくより非情の過去を打ち明けられた勇次が、昔を背中でふり払い、ふたたびりくを母と呼ぶ、もはや伝説とされる名シーンでのセリフでございます。この時の「何を話されたのかもう忘れちまったよ」に象徴される「忘れちまった」は、勇次という人の美学の一端を象徴するセリフのように思いますネ。

必殺はイイです。出撃テーマがかかってからは特に、どの画面を切り取っても一幅の絵になっておりますからね。あそこまでコダワリの画を見せてくれる時代劇、そうそうないと思います。最近特に新・必殺ばかりみているんですが、「主水留守番する」ですかね、あの回の富士講の知識サマvs勇次、の戦いはいつもと違ってちっともスマートじゃないんですが、それがまたイイのです。ロウソクの火の上を走る三味線の糸、瞬時に崩れる白い煙!もうー、シビレちゃいますネッ。火の上を走ったかと思うと次は水の上ですからネ!

それが、おりくさんがいなくなると小唄のおっしょさんとかして芸者さんとか連れまわしちゃったりニヤケたヤロゥになりやがったりしてもうぅぅ、憎らしいったらありゃしないッ。お背ナのすみっこ、ひねってやりたいくらいですッ、勇サンのバカッ(←きぃ、と手ぬぐいを噛んでみる)。おっかさん、ってゆってる勇サンが好き・・・アタシも三味線習おうかしら。三味線といえば、少年舞妓千代菊ちゃん(コバルト文庫)の最新刊は三味線のお話です、愛らしい千代菊チャンに小一時間デレデレできますことウケアイですのでよろしかったらどうぞ。


とマァ楽しんでおりますと居ても立ってもいられなくなり、木津川の流れ橋に行くことにしたわけです。木津川流れ橋とは、この橋を使ったシーンを見たことがない者は時代劇好きにはいないというほど、名の知られた時代劇ロケ地であります。交通費をシブって原チャでたどりつくまで片道1時間半という、なかなかハードな時間を過ごして参りましたが、いやぁ、行く価値ありの場所ですョ。



流れ橋、正式名称を上津屋橋(コウヅヤバシ)といいます。京都の久御山町と八幡市を結ぶこの橋は全長約360メートルの日本最大の木造橋。橋が渡される昭和28年までは、この辺りは渡し舟で渡していたそうな。橋桁と橋脚が固定されておらず、川が橋桁の高さまで増水すると橋脚から浮いて流れてしまうように作ってあることから「流れ橋」といいます。川の水の圧力をまともにうけることになるのが橋桁、それを浮かせて流してしまうわけです。生活に欠かせない橋を、壊れないように頑丈に作るよりは多少壊れても速やかに修復できることを選んだ構造なわけですね。橋桁も流されるままにはせず、8つのブロックにわけてワイヤーでつないであるそうです。ちなみに前述のおりく×勇次のシーンで、画面奥の橋脚に「9」って書いてありますでしょ、あれは橋桁が流された時にもとの橋脚に戻しやすいようつけられた目印の数字ではないかと思われます。橋の下をうろうろしていると、たくさんの数字が所々に書かれておりましたのでネ。

四国を歩いている時も吉野川で潜水橋を渡りましたがアレは鉄筋でしたからね。木製の橋というのはなかなかオツなものです。歩くごとにキシキシと軋む足元がなんともいえない味わいで、残しておきたい江戸情緒。下座のお囃子、寄席のぼり――トトントントントン・・・てこれはNHKラジオ名人寄席の口上ですが、そんな言葉がフと頭をよぎります。遠く春霞む山並みは、・・・場所柄ずっと大山崎の辺りが見えているのかと思っていたんですが宇治のほうなんですね。



渡ってるとなんだか歌いたくなってきて、いっとう口にのぼってきたのは「女は海」。続いて「夢ン中」に「さよならさざんか」「桜の花のように」と唄ってようやく「想い出の糸車」。最後についてゆきたい~ついてゆけない~♪というてたら、結局3往復ぐらいしてしまった・・・。目には青葉 山ホトトギスとはよく言ったもので。天気もイイし、とかくサイコーでした。

木津川流れ橋、京阪八幡市駅や近鉄大久保駅からバスが出ているようですが、八幡市駅近くから木津川に沿って上流に向かって1時間半ほど歩いたらトウチャクです。河畔は自転車+歩行者専用道路になっているので散策にも良です。菜の花畑が一面に広がっていたりもします、季節もよいことですしハイキングなどにどうぞ。


周辺の雰囲気からして、くだんの勇次×おりくのシーンは中州の辺りで撮影された模様。

怪評vol.45 忍者秘帖 梟の城

2008年04月20日 15時02分29秒 | 怪評
先日、京都テレビで映画『忍者秘帖 梟の城』をやっていましたもので、思わず見てしまいました。東映の配給で1963年に公開されたものです。

原作は言わずと知れた司馬遼太郎の『梟の城』。山田風太郎センセィの『甲賀忍法帖』(1958)とともにその後の忍者物ブームの先鞭をつけた作品で、中外日報に連載が始まったのが1958年4月、単行本化して世に出たのが1959年(講談社)、同作での直木賞受賞が1960年。風太センセィが忍者のフィクションな部分を極限までエンターテイメント化したのに対し、司馬遼のは忍者のリアリティをとことん追及したともいえるもので、この二つがほぼ同時期に出ているというのはおもしろいデスネ。近年、篠田正浩監督により映画化されたのは記憶に新しいことですが(1999)、この『忍者秘帖 梟の城』はその30年以上前に映像化されたものです。

ワタクシのブログを愛読くださってる方々でよもや『梟の城』を知りマセン、という人はおりますまい?なのであんまり気にせず書くのでご注意をw

軽く要約いたしますと、天正伊賀の乱で一族ミナゴロシにあった伊賀者・葛篭重蔵が復讐のために秀吉暗殺を謀る、というもの。伊賀を捨て士官の道に走った(いわゆる抜け忍というヤツですな)風間五平や甲賀者・摩利ノ洞玄との死闘、密かに激しく互いに惹かれあう正体不明のくノ一・小萩、そして彼らを使役するさる大名の影。絢爛たる桃山時代を舞台に繰り広げられる、息もつかせぬ大スペクタクル!感情を押し殺すことでかえってにおい立つ人間臭さみたいなものがね。カッコイイんですよネ。

とはいえ原作は原作、映画は映画なわけです。映画の醍醐味はその映像化の過程と物語の再編の仕方にミドコロがあるわけです。ワタシはあんまり昔の映画って見たことがないので何事かを語る、なんてことはできませんが、「忍法秘帖~」はナカナカ!今見ても全く遜色のないイイ映画だったデスョ。99年篠田版は作品全体として原作「梟の城」の雰囲気を非常によく出しておりましたが、こちらは「忍者秘帖」と銘打っているだけに歴史的背景などは周知のこととしてほとんど排除、原作の忍術合戦な面のみ押し出したものになっております。ストーリーの展開や人物設定はわりと原作に忠実で、99年版ほどの遊びはありません。

何がイイってその忍者アクションが、かなり味わいがあるんですね。これは映像技術が発達した現代の視点で観るからこその感想かと思うんですけど、CG一切ありませんがら全て生身でやってるでしょう、それが「リアルな忍者」に肉薄して見えるわけです。99年版とて、月光に冴え渡る銀の甍の上を横切る黒い影・・・って忍者的にはそんな目立ち方イイんスカ!な感じではあるんですが、映像としてはテラカッコヨスなんですけども。重蔵の下忍・黒阿弥(99年版で火野正平がやってる人ネ)が名張ノ耳に嵌められ、無数の蝋燭の中を惑うシーンなんかね・・・小細工ナシでも幻想的光景は表現できるのだナァと感心しますョ。そんだけカッコよくまとめてるようで、城の見取り図なんかはかなりチープでステキ。


これをもとに潜入するなんて自殺行為w

主役・葛篭重蔵を演じるのはかの大友柳太朗!・・・えぇと、1966年、東映が唯一製作したという怪獣映画「怪竜大決戦」の大蛇丸だっていえばわかっていただけますw?この人はホレボレするほど殺陣がカッコイイ、んですが、忍者にしてはちょっくら明朗快活すぎるほどの熱血漢ぶりを好演w そして重蔵のライヴァル・風間五平が大木実。ワタシ知らないんですけどフジテレビの清水次郎長での大政が有名らしいです。若き日の河原崎長一郎さんが雲太郎(原作では雲兵衛、99年版の筧利夫)、前田玄以が「斬り抜ける」で俊平さんの仇役な松平丹波守、菅貫太郎さん。菅さんは玄以というより三成のイメージな気がするんだけど。

そんでもって小萩がね!高千穂ひづるさんがやっておられるんですね。いやもぅ、びっくりするほどお綺麗な方で。彼女はご存知のように元タカラジェンヌで、くノ一の妖しさと近江佐々木氏の姫君という高貴さをあわせもった役柄を見事に演じられておりますわけです。ちなみに映画を遡ること約3年、「梟の城」はフジ系でテレビドラマ化されてるんですが、その時小萩を演じたのがこれまた元タカラジェンヌで、ヨッチャンこと春日野八千代大先生の相手役をされていた鳳八千代さん。小萩は元タカラジェンヌがやるという伝統があった(?)わけですから、99年版も鶴田真由じゃなくて紫ともさんとかがすればよかったのにと思うのはワタシだけw?ちなみにテレビドラマで重蔵をやってるのは「メカゴジラの逆襲」(75年)で海洋開発研究所の太田所長をやってた富田浩太郎さんなんだそうです。テレビ版も興味ありますネ。

というわけで、17年ぶりぐらいwに原作を読んでみたりなんかもして楽しい気分になったので、京都は円山公園南隣にある大雲院に、石川五右衛門の墓を訪ねてみました。

大雲院は織田信長親子の菩提を弔うために天正15年(1587)、貞安上人が創建した浄土系寺院。貞安上人はかの安土宗論(1579)において法華宗と宗論、これを論破したことで信長の信頼厚かった方ですからそのご縁ですかネ。元は二条烏丸にあったのを、秀吉が寺地の狭いことを憂慮し四条南の一等地に移転させます。近代を迎えこの地が繁華になりすぎたために、昭和48年現在地に移転。とか何とかいうよりも、祇園祭の鉾にも似た謎の建造物・祇園閣がある寺だといえばすぐにおわかりかと思われます。

大雲院、そういえば一般公開されてないんだったァ!と門の前で青くなったんですが、折角来ましたのでね、ダメもとでピンポーンと押したら、親切な寺務の方が仕方なぃなァと苦笑しながら見せてくださいましたw えへへ、ホントにどうもスイマセンw


石川五右衛門の墓。

寺務のおじぃちゃんによりますと、ここに五右衛門の墓があるのは、三条河原の刑場に向かう五右衛門の丸籠が四条にあった大雲院の前を通りがかった時、貞安上人がお声をかけ、最期に臨み説法をなすった。その話に痛く感じ入った五右衛門が、死後は大雲院にて葬ってほしいと願ったために、それに応えたという伝説が残っているんデスョ、とのこと。江戸中期以降、義賊として創造され人気を博したわりには墓は細かい傷だらけで、なんでまたこんなことに?とお尋ねすると、なんでも五右衛門の墓石を削って持たせると、その子が泥棒にならない、と信じられたことがあるからなんだそうでw 宇治の橋姫が恋愛成就の神サンになってるのと同じノリですね、全くたくましいというかなんというかw

ちなみに訪ねた当日の午前中、同じく五右衛門の墓をタカラジェンヌが撮影に来ていたらしく、うぉっと惜しい残念ニァミスかぃぃと地団駄踏んだんですがw、なんでしょうね、6月の星組公演「スカーレット・ピンパーネル」にあわせての安蘭けい特集番組でも撮ってたんでしょうか(2000年に安蘭けいが「花吹雪恋吹雪」なる石川五右衛門モノをやってるんデスw)?

大倉喜八郎が金閣・銀閣に続いて銅閣つくったれ!というのでかの伊東忠太に設計させたという祇園閣、なんでも団体で予約したら見せてもらえるんだそうですよ。いずれそのうち、みんなで見物に行くのも一興かと。

まァ、えらい話がズレましたが、オモシロカッタですョという話だったのでした。

怪道vol.88 ゲゲゲの境港~下巻

2008年04月17日 02時14分24秒 | 怪道
まるでお経を転読するかのように猛スピードで書籍を読み漁る厨子王サンの傍らで、わんこそばを給仕するかのようにハイッ、ハイッと次なる本を渡し続けるワタシ・・・という謎な夢で朝を迎えました、二日目です。寝起き後30秒ばかし沈黙したのは言うまでもございません。うぅん、前日にサインとか見たせいですねきっと。

米子まで戻ってレンタカーを借り、向かった先は弓ヶ浜半島の付け根付近、中海側に所在する、粟嶋神社。粟嶋は古くは『日本書紀』や『出雲国風土記』、『伯耆国風土記(逸文)』にその名が見える地名で、『伯耆国~』ではスクナヒコナがここから常世の国に渡ったことになっています(「少彦名命、粟を蒔きたまひしに、莠実りて離々りき、即ち粟に載りて常世の国に弾かれ渡りたまひき。故、粟嶋と云ふ」)。かつては中海に浮かぶ小島でしたが、江戸時代の中頃以降、周囲の干拓により地続きになったとのこと。かつては山自体が神体とみなされ、山の麓に社があったようなんですが、元禄3年(1690)、現在の山頂に社殿が構えられることになったようです。


粟嶋全景。

山腹に荒神さんがあったりとオモシロイんですが、それに加えてですね。ここには「八百比丘尼」伝説があるんですネ。八百比丘尼といったら、あやまって人魚の肉を食ってしまった娘が不老不死の身を得てしまい800年余生きるという話。伝説の地としては福井県小浜の空印寺が有名ですが、その他にも高知県須崎、愛知県春日井市、三重県津市などなど、全国的に分布するポピュラーな話。ふぅむ、鳥取にもありましたか!というところです。この伝説は一般的には「比丘尼」というだけあって寺と結びつきやすいんですが、まずここは古くからの神域と結びついているのが変わりどころといえばそうですね。

ここで伝えられている話はまた竜宮伝説ともまざりあっていてちょっとおもしろい。案内板からそのまま引用しますと、
「昔、粟嶋の周辺に11軒の漁師が住んでいて、粟嶋神社の氏子として「講」(ママ)という集まりをもっていた。ある時、一人の漁師が村に引っ越してきて、講の仲間に加えてもらった。
一年後、(新しくきた)その漁師が当番になった時、今までのお礼にとみんなを船に乗せ、竜宮のような立派な御殿に案内してもてなした。何日か経って帰る時、最高のご馳走として人魚の料理が出されたが、誰も気味悪がって食べず、たもとに隠して帰る途中で海に捨てた。
ところが一人の漁師が捨てるのを忘れたため、その家の18歳になる娘が父の着物をたたむ時に見つけ、しらずに食べてしまった。それから後、娘は不老不死の身体になり、(略)この世をはかなみ、尼さんになって自らこの洞穴に入り干柿を食べ、鉦を鳴らしつつ息絶えたという。(略)村人達はこれをあわれんで、娘のことを「八百比丘さん」(ママ)とか「八百姫さん」と呼んで、ていねいに祀ったという」

比丘尼さんがいた洞穴は今も「静の岩屋」と呼ばれていますが、『万葉集』巻3に「大汝 少彦名のいましけむ 志豆の岩屋は 幾代経るなむ」なる歌が掲載されておるそうな。千数百年昔の人が、こんな岩の隙間まで観ていたことには本当に驚かされますわけですが、何にせよ万葉の昔には神サンの居所だったこの岩屋がなぜに八百比丘尼の住まう処となったのか、実に興味深いところです。粟嶋神社にはかつて神宮寺があったのかもしれませんね。そして「八百姫」な呼称は場所柄、幕末~近代以降ぐらいにあえて呼び変えたんじゃないカシラ。とりあえず出典が知りたい。

何はともあれ、なんせ800年ですからね。しかもこの案内板、「講」とかゆってるし、八百姫さんは少なくとも中世以降に人魚食うてはりますでしょ。時期によっては今でも生きてるかもしれん、あるいはつい最近まで生きていた計算になるわけですよ。

そこで思い出すのがのんのんばぁなわけですw のんのんばぁは、「現在の八百比丘尼」と言われているというクダリがありますね(「黒姫山の主」)。のんのんばぁ、顔は確かに少々シワクチャですが、「ほとけかずら」で披露する上半身の裸体は、意外に若い!というか相当若い!これは18歳ぐらいかもしれないわけですねッ。・・・粟嶋の八百姫さんはのんのんばぁですね、きっと。


粟嶋神社の参道を右にそれて山のほぼ裏手まで出たところにある、「静の岩屋」。鳥居の額には「八百姫宮」とある。

続いて向かいましたのは、中海を渡って島根県側にある弁慶島。弁慶島の弁慶とはもちろんあの武蔵坊弁慶。彼は熊野別当湛増の子と言われるわけですが、この辺りでは松江の生まれだと伝えられており、母親が手に負えないほど腕白な弁慶を捨てた島がここ「弁慶島」と言われます・・・という話を去年MZ学会でうかがったわけですね。近くまで来たからついでに寄ったろかと。

写真を撮ったつもりがあやまってデータが消えてしまいまして今はご紹介できないんですけど(そのうちジジサマが撮影したデータをもらってupしときますんでw)、近くで畑仕事をしていたオッチャンに聞きましたらば、弁慶島、なんと私有地なんだそうですョ。島に住居をかまえてらしたおばちゃんがいたそうで、かつては船で行き来していたようですが今は地続きになっています。「弁慶のおばちゃん」と呼ばれていたその方はすでに大阪に出られたとかで、島は無人の廃墟となってました。探検したらちょっとオモシロそうな島でした。

さてさて、大根(ダイコン)島に寄り道して高麗人参の産地をのぞいたりなんかしてから、次なる目的地、正福寺へ。・・・境港へ行って水木ロードだけで帰っちゃそりゃ片手オチというモノですからネ♪説明するのもまどろっこしいですがw、正福寺は小さい頃のんのんばぁに連れられたしげーさんが、「別の世界」の存在を知るキッカケとなったという、地獄極楽図があるお寺です。


正福寺。


再現、のんのんじぃとワタシ。


えー、ひとまず一反化繊くんあたりにツッコミいれてもらいましょうかw

位牌堂へ向かう本堂裏の廊下に飾ってあった昔の写真とくらべると、現在の境内はずいぶんスッキリ木々を抜いてしまった感じですが、建物はしげーさんが小さい頃と同じまま。拝観料は要らない上に、親切な住職さんが1000円相当のお守りセットをくださいました(申し訳ないのでコッソリお金置いてきましたけど^^;)。

お寺でのんびりした後は、『のんのんばぁとオレ』などでしばしば登場する弓ヶ浜まで再び車を飛ばし、日本海の風に吹かれてきました。人はその人生においては、かくれんぼしているシアワセ達を探してまわるオニみたいなものなのかもしれません。境港でのんびりしてると、そうやって隠れているシアワセの見つけ方がうまくなるような気分になりますネ。今年もよい誕生日でした

・・・とかヒタっていたら、砂浜へ前進しすぎた車がタイヤを砂に取られて脱出不能になり、JAFのお世話になるハメになるという素敵なオチがついたところで(いやホンマにw)、境港の旅はお開きといたしましょう~。


弓ヶ浜の海岸は延々、米子まで続く。

怪道vol.87 ゲゲゲの境港~上巻

2008年04月16日 16時57分13秒 | 怪道
ウフフ、かねてより念願の境港に行って参りました。ここはワタシにとって、機会を逃すとなかなか行けない場所の最たる例で、意外でしょう、実は行ったことなかったんです。なので、誕生日には行きたいところに連れて行ってやろぅという米寿のジジサマのお言葉に、「さかいみなと」と即答しましたわけでス。マンガなんて『正チャンの冒険』しか知らぬというw大正生まれのジジサマですから、ワタシが何にテンションをあげてるかサッパリ承知せんという顔のまま、伯備線と鬼太郎列車を乗り継いで、ついにやって参りました境港ですッ。

ひとまずは、境港というマチについて。「さかいみなと」とワンピースな地名のように思っていたのですが、地元の方とツラツラお話していると、やはり「さかい」「さかいまち」の「みなと」なんですネ。いわずもがな、鳥取県と島根県の県境にある漁港を中心とした弓ヶ浜半島の先端に位置する街。『出雲国風土記』に載る国引き神話では、美保関を引き寄せるのに使った綱がこの弓ヶ浜半島にあたるとされております。当時は「夜見嶋」と書かれておりますこの土地は、「夜見」すなわち「ヨミ」→黄泉なんて発想にいたるわけですが、大先生の生まれ育ったこの場所はまさにあの世とこの世の境界の地とも言えましょう。

大砂州・弓ヶ浜半島を横断する鬼太郎列車ことJR境港線の車窓からは、およそ稲作など不可能であろう砂地の大地が延々と続くのが見えます。畑はあっても水田はない。そんな風景をぼんやり見つつ、そういえば大先生の作品では、あれほど郷愁を誘うような妖怪とそれをつつむ背景画だけれども、青々と水を湛えた水田の風景てのは滅多に見かけないよなぁと思ってみたりなんかして。断ぜん畑の方が多いんじゃないでしょうかね、三平くんが耕しているのも畑ですし(帰宅後ざっと見たら数少ない田んぼの画でも刈入後がほとんど)。ひょっとしたら大先生の幼い頃の原風景には水田がなかったからかなぁ・・・というのは深読みしすぎでしょうね、きっとw そんな畑作ばかりの土地ですから、人々の目は自然と海へ向かうことでしょう、というか海に興味のある人しか住まないでしょう。境港は今も漁獲水揚げ量は日本屈指の港のようです。

ねずみ男駅(米子)から鬼太郎駅(境港)まで約40分。ワタシも小さいサンの頃に仕事に出た親を迎えに行くんだと3駅ぐらい先までテクテク出かけていって警察沙汰を起こしたことがありますがw、小さいしげーさんはこの距離を往復歩いてドーナツ買いに行ったんだなぁと思うと、すごい子だったんだなぁとあらためてしみじみ。


鬼太郎列車こと境港線。

というわけで、到着しました水木ロード。1つ1つのブロンズ像にフハッと鼻の穴をイカらせてヨロコぶワタシと、「・・・こんなところに来るとは思てなかっタ」と絶句するジジさま。が、この3月8日で大先生が86歳になることを知るに及ぶとボクより2歳下なんか、とにわかに親近感を覚えたらしく俄然興味を持ってくれはじめ(イヤ出発前にちゃんと説明したはずなんスけどねw)、これは何やアレは何やと1体1体解説するハメに。訪れた当日4月13日に発売されたばかりの13版「妖怪ガイドブック」のスタンプラリーをしつつ、やってくるねずみ男やネコ娘に突撃しつつ、みやげ物を物色しつつ、そりゃもう目の回るような忙しさで@@;。

さてまずやって参りましたのが、先月30日、妖怪広場に完成したばかりの「河童の泉」。河童の泉と言うからには、さぞかしウジャウジャと河童がいるのかと思いきや。確かに真ん中の小屋にはカン平とタヌキがお話し中、隣の高台にでーんとひかえる三平に・・・悪魔くん、カッパ達の小屋の前で横泳ぎするねずみ男、ちゃんちゃんこを着せてもらった小便小僧な鬼太ちゃん、小豆洗いや岸崖小僧、さざえ鬼までいるシ!まァにぎやかなことです、ハイ。霧が吹くというのでしばらく待ってたんですがシュンともプシュとも言わないので、今度は次なる妖怪神社へゴー。


完成したての河童の泉。


妖怪神社でございます。

「とりあえず楽しく過ごせますように」、「運がよくなりますように」とお願いしました。絵馬とかお守りとか、あくどい商売したはりますなぁw とかいいつつチャッカリ妖怪おみくじなんか引いてみたりして、「ぬらりくらりと暮らしていてもひょんな人から小さな幸せやってくる あぁめでたいな」とありました。いやァなかなか幸先のよろしいことで(´ω`)。神社の隣の妖怪ショップげげげさん・・・ですかね、妖怪フィギュアのお店。なんといいますか、ヒジョーに危険な店でした。金がいくらあっても足りゃシネェ。非売品のコーナーはもぅー、終始垂涎デス。

妖怪バナシに声も枯れそうになってくる頃、ようやくたどり着いた水木しげる記念館。うーん、じゅうじつの展示の数々、うならせますね!ナカの話は皆さんの方がよくご存知でしょうから多くは語りませんが、他のお客さんの邪魔にならないようには気をつけつつ20分ぐらい、しょうけらなキモチで蔵の中をしゃがんで見てましたトモ。中庭には4月9日に出現したばかりの10体の妖怪燈籠が!・・・一度火を灯して夜見てみたいッスねぇ~と館の人にゆうたら閉館時間は17:00だそうで。大変ひつれいいたしました(汗)。1日どっぷり楽しめそうー・・・な勢いだったんですが、この辺りでさすがのジジサマにも疲労の色が濃くなってきましたので、ジックリ観るのはまた次の機会のお楽しみに。

終始うむうむと頷きつつ楽しんでいらっしゃったジジサマの感想は、「せいぞん中にこぅまで立派なものを建てられるとは、かんぷくしたナ!」とのことです、ハイ。

すっかりファンになったらしいジジサマ、ぜひにも作品を読んでみたいぞ、とおっしゃいますので何を見繕おうかなぁと思案中デス。ひとまず貸本マンガ復刻版の『墓場鬼太郎』を貸してあげる予定ですが、ワタシは「河童の三平」とちくま文庫の「妖怪ワンダーランド」シリーズが好きなので、単行本クラスの大きさでないものでしょうかネ、文庫版だと、さすがに年寄りなジジサマには小さすぎてしんどいようなんです。ご存知の方はどうぞご教授お願いしマス。

夜は目玉おやじの入浴剤でご存知の方も多い皆生温泉でユルユル。フグづくしをいただきまして、イヤァ、まことに!楽しい誕生日イヴでございました。



いっぱいいました


・・・フッ。


妖怪スタンプラリーは、ちゃんと完走いたしましたョ。

怪想vol.26 土が化けたる伏見人形(3)

2008年04月07日 16時20分51秒 | 怪想
というわけで、現存する唯一の伏見人形のお店、「丹嘉」さんの工房へ行ってまいりましたレポをお送りいたします。前の2回はつまりは長大な前フリなワケでw。

さて、丹嘉さんは京都東山五条から伏見まで22町続く本町通(旧・伏見街道)の、伏見区との境界あたりにあります。伏見人形は京都のそこここのお店や神社で分けていただくことは可能ですが、それらの人形はすべて、丹嘉さんで製作されたもの(最近まであった「菱屋」の在庫が残っている場合もありますが)。創業は寛延年間(1748~50)といいますから、ちょうど「風俗モノ」と呼ばれるジャンルが開花し始めた頃。金森得水の『本朝陶器考証』(安政3年/1856)に載る30軒弱の伏見人形の店のうちの「丹波屋嘉助」が該当するかと思われます。同書に「右の者ども土人形その外焼物渡世に罷りありそうらえども、漸く三代相続の者どもばかりにて」と見えますので、年代的にもちょうどいいぐらいですネ。

さて。

伏見人形は、まず「原型」とよばれるプロトタイプが作られます。それをオス型としてメス型を作り・・・という工程は実は現在は行われておりませんw かつて「原型」は原型師(「タネ師」とも)と呼ばれるワタリの職人によって作られていたそうです。原型のデザインはもちろんのこと、メス型をつくるにあたっての2枚分けのラインを決めるというのが重要だったとか(通常2枚に分かれるんですが、香合など3枚4枚に分かれる場合もあるらしい)。こういった原型師の名はほとんど残っておりませんが、天保年間(1830~1843)に活躍したという「一のや和助」などがわずかに知られております(実はウチの発掘現場からもこの銘が入った伏見人形がでました)。

現在どういった作業がされているかというと、すでにあるメス型から型を抜く→焼く→胡粉で下地を塗り→ニカワ絵の具で絵付け→完成まで。これは原型師さんが既にいなくなってしまったことと、丹嘉さんには1,000を超える型が収蔵されているためです。この人形を広く世に知らしめた先代6代目さんですら生涯で半分に満たない型しか「塗れなかった」と言います。ただでさえ無数の型を持っている上に、近年窯の火を落とした店の型をも預けられたとかで、新作が作られなくなって久しいのだそうです(先代が原型から作った「眠り猫」は唯一の例外→コチラ)。ということで、人形制作は現在、特にその「絵付け」の部分が作品を左右することからでしょうか、「塗る」と表現されております。

工程は季節ごとに行われます。春から夏にかけては土の水分を保ちつつもすばやく乾燥させることが可能な型抜き成型→乾燥→焼きが中心。冬になると絵付け。これには前述のとおりニカワ絵の具が使用されております。ご存知のようにニカワが動物の骨から作られておりますから、腐敗を避けるためですね。というわけで、かれこれ2ヶ月ほど前にお邪魔した時はちょうど絵付け作業をされていたのでした。


ニカワ絵の具を熱して溶かしながら使うのは、今(↑)も昔(↓)も変わりません。

火鉢の上であたためながら塗る(大蔵永常『公益国産考』弘化元年/1844より)。


まんじゅう喰い、塗られ中。


「伏見人形ツラばかり」と言われますように、背中は塗らないのが特徴(写真は福助の背面)。

背中側を塗らないのはもちろん絵の具の節約で、その上に原材料は土ですから主に庶民層を中心とした人々が購入したと考えられていますが・・・なんのなんの。町家のみならず、諸藩の藩邸、旗本屋敷から中流貴族と、幅広い階層の宅跡から出土している伏見人形は、昨年さらに、摂関家クラス(二条家)の邸宅跡からも発掘されるに及び、大変注目されております。今年の年明けごろに東京国立博物館で開催されておりました「宮廷のみやび―近衞家1000年の名宝」、足を運ばれた方も多々いらっしゃるかと存じますが、そこで御所人形や賀茂人形といった京人形が展示されておりましたね(近衛家=摂関家)。こんなことを言うたら伏見人形にシツレイではないかと思うわけですが、やンどころなき方々がお手にされるものはそういった高級品であって、よもや伏見人形が!というわけです。

二条邸から発掘された多くの伏見人形は、二条家の人々に愛玩されたものか当家の使用人の物かの検証が現在行われているようです(出土地点や一緒に出土した遺物の様相から判断します)。ただ、中流貴族や藩邸クラスからは必ず出土している「仏像」をモチーフとした人形が一点も出ていないことは注目にあたいすることで、これが二条家のモノである可能性のみならず、伏見人形における「仏像」がいかに使用される物であったか等、様々なことを示唆するコトとなっています。

とはいえ、かつては庶民のものだった伏見人形。現在は全工程手作業ならではの、庶民には少々手が出にくい高級品だったりします。

さて、丹嘉さんの工房内をうろうろしていると、焼きに失敗して廃棄された山からある人形を発見しました。それがこれ↓↓


ビビビビビンとワタクシのツボを突いたこの人形。ご主人、コレは一体なにヤツでございますか!と引っ張り出しておたずねしたところ、「ばっちょ傘」と呼ばれる人形だとおっしゃる。ばっちょ傘とはこの人形がかぶっている傘、そして徳利に「通」の帳面、左袂の脇にポコンと飛び出たまぁるい尻尾。・・・おわかりですか?なんとこれ、タヌキなんです。言うなれば信楽焼きの狸が、人間に化けた姿なんですよッ。してやったりとばかりにアッカンベーをするこの表情、ご主人によればヒトを化かして酒をゲットしたその姿ではないかというお話。

これ、是非焼いてください塗ってください(≧∀≦)ノ!とお願いしたところ、それぁ・・・いつのことになるかはワカリマセンwと一笑されてしまいました。これが店頭に出ているかどうかは、足しげくお店に通ってみてくださいとのこと。ホシイと思ったそこのアナタ!・・・丹嘉さんに通い、ご主人にひつこく頼みましょうw

というわけで、全3回にわたってお話してまいりました伏見人形、これをもちましてお開きとさせていただきます。


むかし塗られた「ばっちょ笠」。