↑↑↑タケダ・タケダ・タケダー♪のノリでお願いします。
えぇ、一週間ほど前に「大決戦!超ウルトラ8兄弟」見てきマシタ。
昭和の兄弟が好きなワタシにはこれがなかなかツボをくすぐられるデキ(平成は知らんのでw)。坂田自動車修理工場のシーンなんぞは特にジィンでしたねぇ。坂田兄の遺影といいやっぱり流星号を開発中、なとこといい。惜しむらくは番組がAになっても郷サンの帰りを待ちわびていた七三分けの少年はいずこへ?というぐらいでしょうか。スーパーはゲスラ達怪獣サンであってヒッポリトの方がキングじゃね?とかおめぇら長いこと暴れてる割には街が超ピンポイントでしか壊れてなくね?とかツッコミ出したらそりゃもうキリがないですが(イヤそれが楽しいんですが)、心配していたギガキマイラも激しく巨大なことでフォルムのマズさがカバーされ、橋がびびびーとなるのとか、攻撃の目的はよくワカランけどテラカッコヨスwでしたネ。あぁ横浜港、8人とかでGメン歩きしてぇw
というわけで。そろそろ本題に入りましょう。
お仕事で龍野に行ってきたわけです。行こうと思ってもなかなか行けない、と言うよりはこんなことでもない限りまァ来ることもなかったかもしれません。そんな龍野(市町村合併により現在は「たつの市」となってます)で、ちょっと道草食ってきました、という話です。
教科書的に概説しますと、龍野は兵庫県に所在しまして、場所は赤穂と姫路のちょうど中間あたり。播磨灘から揖保川に沿って出雲街道が街を縦貫しており、5世紀ぐらいの古墳があったり式内社とされる神社が2つほどあるような、そこそこ古くから拓けた土地です。中世、筑紫大道(元寇の時に京と九州を結んでつくった軍用道路)が郊外を走ってたこともあり、軍事的に利点とかあったのでしょうか、赤松政則の庶子だったせいで本家を相続できなかった村秀サン(黒田官兵衛に負けた政秀のオトンという方がわかりよいかしら)が北にそびえる鶏籠山に山城を構え、町はその城下町として発展します。江戸時代に入ると姫路藩の一部だったのがやがて龍野藩として分離、以後は天領もしくは譜代大名の統治する藩となると。そんなとこでしょうか。
姫路に向かう新快速で鳥取県が「妖怪のふるさと・鳥取」な吊り広告を出してるのを見つけましてね。もちろん鬼太ちゃん達のイラストで飾られとるわけですが、遠野の「民話のふるさと」なみのあくどいキャッチーコピーだなぁなんて苦笑いしてたら、JR本竜野駅につくなり「童謡のふるさと」てな巨大看板に出迎えられ、・・・なんかもうどうでもよくなりましたw 駅前ロータリーのすみでは二刀流で有名な某剣豪がファイティング・ポーズでガンとばしてらっしゃいますし。たつの市さんとしては、あかとんぼ※とムサシの町、がウリなのかしら。ちなみにダシ物好き&麺類好きのワタクシにとってはうすくちしょうゆとそうめんの町です。(※たつの市は「赤とんぼ」の作詞者・三木露風の出身地。)
揖保川に架かる龍野橋から旧龍野藩城下町をのぞむと、三方を山に囲まれたせせこましそうなところだなぁという印象。ですが、実際歩くと意外と懐が深い。若葉マークがありますね、町はちょうどあんな形をしているわけですけども、外から見えているのはマークの右半分だけという感じです。たつの市の中心部・繁華街は、現在は対岸のわりと下流の方に移ってしまっておりまして、旧城下町の町割りはかつてとほとんど変わっていないようです。ちょっとおもしろかったのが、検察庁が龍野城跡の大手門と直角にとなりあっているんですね。で、その検察庁のお隣が裁判所なわけです。こないだも仕事で和歌山の地方裁判所に行ったらお城がすぐ隣にあって、あぁ昔の奉行所跡なんだなぁと感心したんですが、龍野の場合、行政その他の機能はとうにヨソへ移転しているのに、お白洲の場所だけは昔のままなんだなぁと、しばらく感慨にふけりましたですョ。・・・イヤ、ふけっただけです、スイマセンw
そのお白洲での仕事をサクッと終わらせたところで、待ってましたの寄り道ターイム・・・なんですが。残念ながら、「播磨の小京都」なんて言われている町なわけです。なんちゅーかこう、シュッとしてるわけです、シュッと。作詞家出身地、というだけに町中に歌碑が36ぐらいあってそれをメグレとかいうマップがあったりするんだけども、碑めぐってテンション上がるのは日本拓本研究会ぐらいなんじゃないかとか思うわけです。
とはいえどんな町にでも、ウフフなモノはあるわけで。それが、教科書的解説中にはあえて話題にしなかった、龍野の地名由来。『播磨国風土記』に見える、野見宿禰伝説でありまス。野見宿禰というたら元祖リキシとかハニワの父とかいわれる、神話じみたキャラです。出雲の人ということになっている野見宿禰、都と出雲を行ったり来たりしているうちに、その途で病を得てむなしうなられるわけですが、それが龍野の地なんですね。宿禰が死んだ時に出雲から人が来て、野に立って揖保川からバケツリレー的に小石を運んで「墓山」をつくった、よって立つ野→龍野となったと言います(「たつの」となる前の地名は「日下部」・・・但馬と関係の深い氏族ですネ)。
天皇の葬送儀礼を扱った土師氏の祖である野見宿禰が、大和と出雲のほぼ中間点である龍野で死ぬとか、なんだかへー、ほー、ふーんですけどもね。小石を運んでそれを敷き詰めた墓山、なんて古墳作りの情景そのままな伝説なんですよね。で、あるわけですよ、その「出雲墓屋」と呼ばれたという野見宿禰の墓が、龍野には。
場所は鶏籠山の西隣、龍野藩主脇坂氏の祖をまつる龍野神社を見下ろす山腹。「野見宿禰神社」と呼ばれているようですが、そこへ向かう階段口に立つのは「野見宿禰塚」の碑。お白州仕事の後だけに、スーツにヒールなナリでひぃひぃ言いながらのぼりましたとも、お墓まで。
いわゆる宿禰塚古墳と呼ばれる直径40mほどの円墳(5世紀後半頃)らしいです。らしいですというのも、格好が格好だけにヤブをかきわけてまで確かめることができんかったからです。石垣で頑丈に固められた上に石の扉が閉ざされ、その扉には千家国造の紋が入っております。こんなふうに整備されたのはどうも明治以降のようで、背伸びして中をのぞくと、石造の祠のようなものが草叢の向こうに見え隠れしておりました。ぐるりを取り囲むのは、明治・大正の力士や行司たちが寄進した玉垣。やはり相撲に関わる方々にとってはここは聖地だったようです。残念ながらお相撲さんには詳しくないので、そこに刻まれる力士の名前は誰一人としてワカリマセンでしたがw
ちなみに東京は両国にも野見宿禰神社があって、相撲協会が毎年大祭をやってるみたいです。祭祀をシキッてるのはやはり出雲大社教の神職らしいですケドネ。
これでメタボ腹でミズラを結ったふっとい眉のオッサンが満面の笑みを浮かべつつ、「ハニ坊」とか適当な名前の国営放送の某キャラ亜種みたいのが息子的に右肩に乗ってたりする足もとに、「龍野へようこそ!」なんて書いてあったら、もっとサイコーだったんですけどw
またこっちに出張できないかなぁなんて思ったりした、数時間だったのでしたw
背景に鶏籠山、正面奥が大手門、手前左が検察庁入口の門です。立派でしょ。
野見宿禰塚の門扉はかたく閉ざされております。
揖保川と、向って右岸に沿って走るのが出雲街道。播磨灘方面に向かって撮影。
龍野公園前の観光出店で食った「宿禰そうめん」w
えぇ、一週間ほど前に「大決戦!超ウルトラ8兄弟」見てきマシタ。
昭和の兄弟が好きなワタシにはこれがなかなかツボをくすぐられるデキ(平成は知らんのでw)。坂田自動車修理工場のシーンなんぞは特にジィンでしたねぇ。坂田兄の遺影といいやっぱり流星号を開発中、なとこといい。惜しむらくは番組がAになっても郷サンの帰りを待ちわびていた七三分けの少年はいずこへ?というぐらいでしょうか。スーパーはゲスラ達怪獣サンであってヒッポリトの方がキングじゃね?とかおめぇら長いこと暴れてる割には街が超ピンポイントでしか壊れてなくね?とかツッコミ出したらそりゃもうキリがないですが(イヤそれが楽しいんですが)、心配していたギガキマイラも激しく巨大なことでフォルムのマズさがカバーされ、橋がびびびーとなるのとか、攻撃の目的はよくワカランけどテラカッコヨスwでしたネ。あぁ横浜港、8人とかでGメン歩きしてぇw
というわけで。そろそろ本題に入りましょう。
お仕事で龍野に行ってきたわけです。行こうと思ってもなかなか行けない、と言うよりはこんなことでもない限りまァ来ることもなかったかもしれません。そんな龍野(市町村合併により現在は「たつの市」となってます)で、ちょっと道草食ってきました、という話です。
教科書的に概説しますと、龍野は兵庫県に所在しまして、場所は赤穂と姫路のちょうど中間あたり。播磨灘から揖保川に沿って出雲街道が街を縦貫しており、5世紀ぐらいの古墳があったり式内社とされる神社が2つほどあるような、そこそこ古くから拓けた土地です。中世、筑紫大道(元寇の時に京と九州を結んでつくった軍用道路)が郊外を走ってたこともあり、軍事的に利点とかあったのでしょうか、赤松政則の庶子だったせいで本家を相続できなかった村秀サン(黒田官兵衛に負けた政秀のオトンという方がわかりよいかしら)が北にそびえる鶏籠山に山城を構え、町はその城下町として発展します。江戸時代に入ると姫路藩の一部だったのがやがて龍野藩として分離、以後は天領もしくは譜代大名の統治する藩となると。そんなとこでしょうか。
姫路に向かう新快速で鳥取県が「妖怪のふるさと・鳥取」な吊り広告を出してるのを見つけましてね。もちろん鬼太ちゃん達のイラストで飾られとるわけですが、遠野の「民話のふるさと」なみのあくどいキャッチーコピーだなぁなんて苦笑いしてたら、JR本竜野駅につくなり「童謡のふるさと」てな巨大看板に出迎えられ、・・・なんかもうどうでもよくなりましたw 駅前ロータリーのすみでは二刀流で有名な某剣豪がファイティング・ポーズでガンとばしてらっしゃいますし。たつの市さんとしては、あかとんぼ※とムサシの町、がウリなのかしら。ちなみにダシ物好き&麺類好きのワタクシにとってはうすくちしょうゆとそうめんの町です。(※たつの市は「赤とんぼ」の作詞者・三木露風の出身地。)
揖保川に架かる龍野橋から旧龍野藩城下町をのぞむと、三方を山に囲まれたせせこましそうなところだなぁという印象。ですが、実際歩くと意外と懐が深い。若葉マークがありますね、町はちょうどあんな形をしているわけですけども、外から見えているのはマークの右半分だけという感じです。たつの市の中心部・繁華街は、現在は対岸のわりと下流の方に移ってしまっておりまして、旧城下町の町割りはかつてとほとんど変わっていないようです。ちょっとおもしろかったのが、検察庁が龍野城跡の大手門と直角にとなりあっているんですね。で、その検察庁のお隣が裁判所なわけです。こないだも仕事で和歌山の地方裁判所に行ったらお城がすぐ隣にあって、あぁ昔の奉行所跡なんだなぁと感心したんですが、龍野の場合、行政その他の機能はとうにヨソへ移転しているのに、お白洲の場所だけは昔のままなんだなぁと、しばらく感慨にふけりましたですョ。・・・イヤ、ふけっただけです、スイマセンw
そのお白洲での仕事をサクッと終わらせたところで、待ってましたの寄り道ターイム・・・なんですが。残念ながら、「播磨の小京都」なんて言われている町なわけです。なんちゅーかこう、シュッとしてるわけです、シュッと。作詞家出身地、というだけに町中に歌碑が36ぐらいあってそれをメグレとかいうマップがあったりするんだけども、碑めぐってテンション上がるのは日本拓本研究会ぐらいなんじゃないかとか思うわけです。
とはいえどんな町にでも、ウフフなモノはあるわけで。それが、教科書的解説中にはあえて話題にしなかった、龍野の地名由来。『播磨国風土記』に見える、野見宿禰伝説でありまス。野見宿禰というたら元祖リキシとかハニワの父とかいわれる、神話じみたキャラです。出雲の人ということになっている野見宿禰、都と出雲を行ったり来たりしているうちに、その途で病を得てむなしうなられるわけですが、それが龍野の地なんですね。宿禰が死んだ時に出雲から人が来て、野に立って揖保川からバケツリレー的に小石を運んで「墓山」をつくった、よって立つ野→龍野となったと言います(「たつの」となる前の地名は「日下部」・・・但馬と関係の深い氏族ですネ)。
天皇の葬送儀礼を扱った土師氏の祖である野見宿禰が、大和と出雲のほぼ中間点である龍野で死ぬとか、なんだかへー、ほー、ふーんですけどもね。小石を運んでそれを敷き詰めた墓山、なんて古墳作りの情景そのままな伝説なんですよね。で、あるわけですよ、その「出雲墓屋」と呼ばれたという野見宿禰の墓が、龍野には。
場所は鶏籠山の西隣、龍野藩主脇坂氏の祖をまつる龍野神社を見下ろす山腹。「野見宿禰神社」と呼ばれているようですが、そこへ向かう階段口に立つのは「野見宿禰塚」の碑。お白州仕事の後だけに、スーツにヒールなナリでひぃひぃ言いながらのぼりましたとも、お墓まで。
いわゆる宿禰塚古墳と呼ばれる直径40mほどの円墳(5世紀後半頃)らしいです。らしいですというのも、格好が格好だけにヤブをかきわけてまで確かめることができんかったからです。石垣で頑丈に固められた上に石の扉が閉ざされ、その扉には千家国造の紋が入っております。こんなふうに整備されたのはどうも明治以降のようで、背伸びして中をのぞくと、石造の祠のようなものが草叢の向こうに見え隠れしておりました。ぐるりを取り囲むのは、明治・大正の力士や行司たちが寄進した玉垣。やはり相撲に関わる方々にとってはここは聖地だったようです。残念ながらお相撲さんには詳しくないので、そこに刻まれる力士の名前は誰一人としてワカリマセンでしたがw
ちなみに東京は両国にも野見宿禰神社があって、相撲協会が毎年大祭をやってるみたいです。祭祀をシキッてるのはやはり出雲大社教の神職らしいですケドネ。
これでメタボ腹でミズラを結ったふっとい眉のオッサンが満面の笑みを浮かべつつ、「ハニ坊」とか適当な名前の国営放送の某キャラ亜種みたいのが息子的に右肩に乗ってたりする足もとに、「龍野へようこそ!」なんて書いてあったら、もっとサイコーだったんですけどw
またこっちに出張できないかなぁなんて思ったりした、数時間だったのでしたw
背景に鶏籠山、正面奥が大手門、手前左が検察庁入口の門です。立派でしょ。
野見宿禰塚の門扉はかたく閉ざされております。
揖保川と、向って右岸に沿って走るのが出雲街道。播磨灘方面に向かって撮影。
龍野公園前の観光出店で食った「宿禰そうめん」w