怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.110 立つ野 龍野 たつのー

2008年09月28日 04時07分03秒 | 怪道
↑↑↑タケダ・タケダ・タケダー♪のノリでお願いします。

えぇ、一週間ほど前に「大決戦!超ウルトラ8兄弟」見てきマシタ。
昭和の兄弟が好きなワタシにはこれがなかなかツボをくすぐられるデキ(平成は知らんのでw)。坂田自動車修理工場のシーンなんぞは特にジィンでしたねぇ。坂田兄の遺影といいやっぱり流星号を開発中、なとこといい。惜しむらくは番組がAになっても郷サンの帰りを待ちわびていた七三分けの少年はいずこへ?というぐらいでしょうか。スーパーはゲスラ達怪獣サンであってヒッポリトの方がキングじゃね?とかおめぇら長いこと暴れてる割には街が超ピンポイントでしか壊れてなくね?とかツッコミ出したらそりゃもうキリがないですが(イヤそれが楽しいんですが)、心配していたギガキマイラも激しく巨大なことでフォルムのマズさがカバーされ、橋がびびびーとなるのとか、攻撃の目的はよくワカランけどテラカッコヨスwでしたネ。あぁ横浜港、8人とかでGメン歩きしてぇw

というわけで。そろそろ本題に入りましょう。

お仕事で龍野に行ってきたわけです。行こうと思ってもなかなか行けない、と言うよりはこんなことでもない限りまァ来ることもなかったかもしれません。そんな龍野(市町村合併により現在は「たつの市」となってます)で、ちょっと道草食ってきました、という話です。

教科書的に概説しますと、龍野は兵庫県に所在しまして、場所は赤穂と姫路のちょうど中間あたり。播磨灘から揖保川に沿って出雲街道が街を縦貫しており、5世紀ぐらいの古墳があったり式内社とされる神社が2つほどあるような、そこそこ古くから拓けた土地です。中世、筑紫大道(元寇の時に京と九州を結んでつくった軍用道路)が郊外を走ってたこともあり、軍事的に利点とかあったのでしょうか、赤松政則の庶子だったせいで本家を相続できなかった村秀サン(黒田官兵衛に負けた政秀のオトンという方がわかりよいかしら)が北にそびえる鶏籠山に山城を構え、町はその城下町として発展します。江戸時代に入ると姫路藩の一部だったのがやがて龍野藩として分離、以後は天領もしくは譜代大名の統治する藩となると。そんなとこでしょうか。

姫路に向かう新快速で鳥取県が「妖怪のふるさと・鳥取」な吊り広告を出してるのを見つけましてね。もちろん鬼太ちゃん達のイラストで飾られとるわけですが、遠野の「民話のふるさと」なみのあくどいキャッチーコピーだなぁなんて苦笑いしてたら、JR本竜野駅につくなり「童謡のふるさと」てな巨大看板に出迎えられ、・・・なんかもうどうでもよくなりましたw 駅前ロータリーのすみでは二刀流で有名な某剣豪がファイティング・ポーズでガンとばしてらっしゃいますし。たつの市さんとしては、あかとんぼ※とムサシの町、がウリなのかしら。ちなみにダシ物好き&麺類好きのワタクシにとってはうすくちしょうゆとそうめんの町です。(※たつの市は「赤とんぼ」の作詞者・三木露風の出身地。)

揖保川に架かる龍野橋から旧龍野藩城下町をのぞむと、三方を山に囲まれたせせこましそうなところだなぁという印象。ですが、実際歩くと意外と懐が深い。若葉マークがありますね、町はちょうどあんな形をしているわけですけども、外から見えているのはマークの右半分だけという感じです。たつの市の中心部・繁華街は、現在は対岸のわりと下流の方に移ってしまっておりまして、旧城下町の町割りはかつてとほとんど変わっていないようです。ちょっとおもしろかったのが、検察庁が龍野城跡の大手門と直角にとなりあっているんですね。で、その検察庁のお隣が裁判所なわけです。こないだも仕事で和歌山の地方裁判所に行ったらお城がすぐ隣にあって、あぁ昔の奉行所跡なんだなぁと感心したんですが、龍野の場合、行政その他の機能はとうにヨソへ移転しているのに、お白洲の場所だけは昔のままなんだなぁと、しばらく感慨にふけりましたですョ。・・・イヤ、ふけっただけです、スイマセンw

そのお白洲での仕事をサクッと終わらせたところで、待ってましたの寄り道ターイム・・・なんですが。残念ながら、「播磨の小京都」なんて言われている町なわけです。なんちゅーかこう、シュッとしてるわけです、シュッと。作詞家出身地、というだけに町中に歌碑が36ぐらいあってそれをメグレとかいうマップがあったりするんだけども、碑めぐってテンション上がるのは日本拓本研究会ぐらいなんじゃないかとか思うわけです。

とはいえどんな町にでも、ウフフなモノはあるわけで。それが、教科書的解説中にはあえて話題にしなかった、龍野の地名由来。『播磨国風土記』に見える、野見宿禰伝説でありまス。野見宿禰というたら元祖リキシとかハニワの父とかいわれる、神話じみたキャラです。出雲の人ということになっている野見宿禰、都と出雲を行ったり来たりしているうちに、その途で病を得てむなしうなられるわけですが、それが龍野の地なんですね。宿禰が死んだ時に出雲から人が来て、野に立って揖保川からバケツリレー的に小石を運んで「墓山」をつくった、よって立つ野→龍野となったと言います(「たつの」となる前の地名は「日下部」・・・但馬と関係の深い氏族ですネ)。

天皇の葬送儀礼を扱った土師氏の祖である野見宿禰が、大和と出雲のほぼ中間点である龍野で死ぬとか、なんだかへー、ほー、ふーんですけどもね。小石を運んでそれを敷き詰めた墓山、なんて古墳作りの情景そのままな伝説なんですよね。で、あるわけですよ、その「出雲墓屋」と呼ばれたという野見宿禰の墓が、龍野には。

場所は鶏籠山の西隣、龍野藩主脇坂氏の祖をまつる龍野神社を見下ろす山腹。「野見宿禰神社」と呼ばれているようですが、そこへ向かう階段口に立つのは「野見宿禰塚」の碑。お白州仕事の後だけに、スーツにヒールなナリでひぃひぃ言いながらのぼりましたとも、お墓まで。

いわゆる宿禰塚古墳と呼ばれる直径40mほどの円墳(5世紀後半頃)らしいです。らしいですというのも、格好が格好だけにヤブをかきわけてまで確かめることができんかったからです。石垣で頑丈に固められた上に石の扉が閉ざされ、その扉には千家国造の紋が入っております。こんなふうに整備されたのはどうも明治以降のようで、背伸びして中をのぞくと、石造の祠のようなものが草叢の向こうに見え隠れしておりました。ぐるりを取り囲むのは、明治・大正の力士や行司たちが寄進した玉垣。やはり相撲に関わる方々にとってはここは聖地だったようです。残念ながらお相撲さんには詳しくないので、そこに刻まれる力士の名前は誰一人としてワカリマセンでしたがw

ちなみに東京は両国にも野見宿禰神社があって、相撲協会が毎年大祭をやってるみたいです。祭祀をシキッてるのはやはり出雲大社教の神職らしいですケドネ。

これでメタボ腹でミズラを結ったふっとい眉のオッサンが満面の笑みを浮かべつつ、「ハニ坊」とか適当な名前の国営放送の某キャラ亜種みたいのが息子的に右肩に乗ってたりする足もとに、「龍野へようこそ!」なんて書いてあったら、もっとサイコーだったんですけどw

またこっちに出張できないかなぁなんて思ったりした、数時間だったのでしたw


背景に鶏籠山、正面奥が大手門、手前左が検察庁入口の門です。立派でしょ。


野見宿禰塚の門扉はかたく閉ざされております。


揖保川と、向って右岸に沿って走るのが出雲街道。播磨灘方面に向かって撮影。


龍野公園前の観光出店で食った「宿禰そうめん」w

怪道vol.109 若狭は遠ても十八里~宮津編2

2008年09月19日 23時35分53秒 | 怪道
先日、ふと入った本屋の絵本コーナーにて、講談社えほん「安寿姫と厨子王丸」を発見。パラパラとめくると、なんと安寿は死なず、姉弟して母にあいにゆきめでたしめでたし、なんてことになってるw いろんな伝承を勉強した上なのか、単に残酷だからとの理由なのか。後者だとするならば、子どもが幼いうちに人の世の不条理を学ぶ機会がどんどん失われていっている気がしてなりませんね、イヤハヤ。

というわけで、引き続き「さんせう太夫」。由良川沿いにおいてこの二人の姉弟は確実にランドマークになっております。


安寿16才、厨子王13才とかのはず。

本日は太夫の元を脱出した二人の足跡を訪ねたお話。土地の伝承によりますと、和江の山奥深くに逃げ込んだ安寿と厨子王は、のちに「かくれ谷」(名の由来はもちろん二人の故事)と呼ばれることになった場所で水杯をかわし、別々の道を進むことになります。厨子王は「和江の国分寺」に身を寄せ、事情を知った僧により太夫の追手からかくまわれ、やがて都へと向かうことになるわけですが。

この和江にあったという国分寺が、ちょっと謎なんですヨネ。国分寺というのは皆様もご存じのように、奈良時代に聖武天皇が鎮護国家のために国ごとにおつくりアソバシタ寺。ところが国分寺は一国に1コしか造らないものなわけです。丹後国のソレは、宮津市内は字国分にある、護国山国分寺。天橋立北岸に「府中」という地名が残っておりますのでその辺が国府、そこから西に1kmほど行ったとこになります。中世の護国山国分寺は西大寺末で、厨子王を都へ運んだという律宗聖がいたのは十分うなずける話ではあるけれども、かといって御年13才の厨子王にしても追手なさんせう太夫のムスコさん達も大変な距離をがんばったことになるわけですね。

対して伝承に見える国分寺は、太夫の屋敷があったという石浦の由良川上流側に隣接する、和江の「仏国山国分寺」。和江には字名でも「国分寺」という地名が残ってはいるんですが。立地的に、明らかに国分寺ならこんなとこには作らねぇよwな場所なんですね。現在は「毘沙門堂」と呼ばれる小さな堂宇が残るのみなんですが・・・和江谷川に沿って山奥へさかのぼること車でゆくこと約・・・10分弱てとこでしょうか。山深すぎだからw

府中にうつる前はここが国分寺だったんだァとかこっちは国分尼寺なんじゃね?とかおっしゃる方がいるようなんですけど、たとえ当時の由良湊が水運に栄えた都市でこの川沿いに官寺が作られることがあったとしても、もっと人目につくような便利なとこに作らないと性格的にも役目を果たしきらないんじゃないでしょか。もっともこの「毘沙門堂」付近、平安時代頃まで遡れそうなそこそこの規模の寺院があったらしいことが調査でわかっているようで、何にせよおもしろい土地であるには違いありません。国分寺へのぼる道への目印は「手打ちうどん 厨子王」の看板。店の前のT字路を入ってくださいネ。


左:看板、右:建物入口付近の姉弟。左に小さく見える黒看板には、「レストラン厨子王」とありました。一度つぶれてうどん屋に変わったのかしら。でもロゴが変化ないところを見ると・・・経営者一緒なんですかねw

さて、安寿です(ヤンさんで検索してたどり着いた人、別人ですからゴメンナサイね)。安寿という人は話ごとでその扱いにバリエーションがあるキャラクター。鴎外の「山椒大夫」では厨子王を逃がした後に入水自殺。説経節「さんせう太夫」では果敢にも太夫の元に戻り、彼らの手により折檻死する。では地元での言い伝えではどうかというと、彼女はその足で母親を探しにゆくも、和江の対岸にある中山の山中で飢えと疲れにより行き倒れて死んだと、言われています(弟と別れてめっちゃすぐですヤン)。その中山には、安寿の墓と伝えられるものが残っているわけですネ。中山の地はかつて「渡りの里」と呼ばれていたようで、その名の通り川の渡しがあったらしい。由良川が河口に向かって川幅を広げるクチにありましてね、付近ではこの辺りがもっとも幅が狭いのでしょう、現在では八雲橋という橋が架かっております。


安寿の墓。中には宝篋印塔がありマス。毎年7月には「安寿姫塚夜祭キャンドルイルミネーション」なるイベントをやってらっしゃるそうです(今年で第8回)。

これまでの伝承は安寿が悲しい結末をむかえるものばかりですが、この安寿を主役にした伝承もあります。それが、「お岩木様一代記」なる盲目の女性芸能者達が伝えたもので、語り手が一人称、すなわち自身を安寿として身の上をカタる形で進行するんだそうです(まるでイタコさんが安寿を口寄せするみたいデスネ)。「お岩木様一代記」では、佐渡にいたり盲目となった母の眼を開眼させるという山椒太夫伝承のいわばクライマックス部分を、安寿がやることになってます。これをゴゼさんが語るというのだからなんともアレなわけです。そして安寿はついには津軽の岩木山の神サマになっちゃう。

あんまり関係ないですが、これを見た時、崇峻天皇の皇子だった蜂子皇子も確か由良湊から船出して出羽三山の開祖になってるんだよな、なんてことをフと思い出しました。安寿(と厨子王)の出身は奥州なわけですから(父は岩木判官正氏)、地元に帰らはったといえばそうなんですけど、丹後地方と東北地方の意外な関係が見え隠れしたりなんかして・・・そうでもないかw

厨子王を主役に置く話では、それが地蔵の霊験譚であれ貴種流離譚であれ、安寿はまぁ・・・でしょうな。成長した厨子王が佐渡へ渡って出会う盲目の鳥追い、すなわち母親が「安寿恋しやほうやれほう、厨子王恋しやほうやれほう」と唄うクダリなんかは物語を代表する名場面ですけども、丹後は石浦の伝承ではそれすらありません。風の便りではどうも母親は佐渡でむなしくなったらしいと出てくるのみw(「山庄略由来」)。

これを解くカギは、同書に見える、厨子王が都へ落ちるさいにお伴をしたという「和江村の住人佐藤関内」が国司となった厨子王に褒美・御墨付を給わった、という箇所にありそうな気がします。この佐藤関内、地元ではハッチョモン(八右衛門)と通称されているんですが、このイエは山椒太夫のタタリで鏡餅が搗けない(搗くと血が飛び散るんですって)なんていわくを持っているらしい辺りから、おそらくこの地域の分限者かなんかなんでしょうね。「山庄略由来」等のこの辺の伝承には、この佐藤ハッチョモン家のカタリが入ってるんじゃないかしら。「山庄太夫」にとってかわった土地の有力者が自らの富の背景を厨子王伝説に求めつつ、その一方でタブーも抱える。よくある話です。「山庄略由来」にせよ「お岩木様一代記」にせよ、語り手によって物語は取捨選択されるのだということがよくわかりますネ。

・・・うーん、スイマセン、やはり2ヶ月も前のことを書こうとすると、現地で得た経験よりも知識偏重になってしまいますねorz。やはりこういうものは鮮度が命だと、あらためて思いましたと反省したところで(汗)。

若狭シリーズはこれにてオワリですー。


《参考文献》
・酒向伸行『山椒太夫伝説の研究』名著出版 1992
・林屋辰三郎「『山椒太夫』の原像」文学22号 岩波書店 1954
・網野善彦「芸能の担い手と享受の場」(『日本民俗文化大系7』所収、小学館 S59)

怪道vol.108 若狭は遠ても十八里~宮津編1

2008年09月15日 23時44分06秒 | 怪道
振り返ったりしていると2ヶ月ほど前の話をまとめていなかったことを思い出しましたw というわけで。

若狭をひとめぐりした後、ちょいと足をのばして宮津郊外、舞鶴市との境は由良川河口へ、「山椒太夫」旧跡を訪ねて参りました。どっかの宮のオヤブンの実家とかじゃないですよ(ご出身は名古屋ですからね)、「山椒大夫」は「あんじゅとずしおう」というタイトルの方が現在はポピュラーでしょうか。さんせう太夫が支配し、売られてきた幼い安寿姫と厨子王丸が大変な目にあったその舞台は、ここ宮津は石浦の地ということになっております。

念のため軽くあらすじをまとめておきますと、讒にあって流された父親を尋ねて奥州を旅立った母子が、道の途で人買いに騙され離ればなれとなる。丹後の長者・山椒大夫の元に売られた安寿と厨子王の姉弟、大夫の元で酷使されるうち逃亡をはかり、弟を逃がした安寿は入水自殺。厨子王は逃げ込んだ国分寺の僧らに助けられ都に落ち延び、貴人の家に拾われた上に、やがて父の汚名を晴らすと共に丹後国司を兼ねるに至る。任地・丹後に赴いた厨子王は山椒大夫を厳しく罰し、また安寿の菩提を弔う。のちに佐渡を訪ね、盲目となった母と再会、かつて母からもらった地蔵をかざすと、母の目が再び開いたのでした、めでたしめでたし。

てのがよく知られる森鴎外版の「山椒大夫」のあらすじ。源流は室町時代にさかのぼり、江戸時代には説経節と呼ばれる仏教の唱導芸能として完成したお話でアリマス。ちなみに二人の姉弟をいじめるだけの大夫がタイトルになっているのは鴎外のせいではなく説経節の頃からのことで、多くの研究者を悩ませつつもその由来はいまだによくわかっていません。

説教節というだけに仏サマはありがたいのですょということを説くためのモノなわけで、話中、コトあるごとに厨子王達を助けるために登場するのが「金焼地蔵」(身代わり地蔵)と呼ばれるお地蔵さん。これは安寿と厨子王が母と離れ離れになる際にもらった地蔵で、その名の由来は、①姉弟が逃亡を図った罰として焼けた鉄を押し当てられるというメにあった時、その火傷を身代りに受けてあげたことによります。その後も大夫の元から逃げる時に②厨子王が追手に見つかる寸前に姿を隠すのを手伝ってくれたり、前述の③盲目の母を開眼させたりと都合三度助けてくれます、ヤァありがたい。

さて、太夫が住んでいたという辺りは、河口近くでえらく川幅を広げる由良川の西岸、石浦にあります。宮津側から入ったワタシは海岸沿いに安寿が潮汲みをしたという汐汲浜を左に見つつ、石浦へ。どうでもいい話ですが、安寿が飲めもしない潮水をせっせと汲まされているのが子供心にずい分不思議で仕方がなかったんですけども、長じてここ由良では製塩が盛んだったと知った時、アレは塩を作ってたのかぁとものすごく感動した思い出があります。厨子王は塩焼きのための柴を刈ってたわけですネ。

というわけで、まず向かった先は如意寺。ここはなんと、かの「身代わり地蔵」があるという寺です。明治までは熊野三所権現と呼ばれていたという由良神社の脇をいくとそこが如意寺。本堂の向かいにある地蔵堂にたどりつき、入口をみると鍵が。いやな予感がビリビリしつつも本堂脇のお家を訪ねたところ、出てこられたおばぁちゃんに一言、住職不在につき開けられませんとのことで、ガックリ。代わりに写真をみせていただきましたんですが、それがこれ↓↓↓。


ジャーン。

見よこの見事なまでの焦げ痕!あの姉弟はオデコに焼印うけてなかったかしら?という疑問は、この辺の伝説では肩に焼印うけたことになってるらしいからオッケーみたいで。お顔立ちがやけに上品でしょう、調査の結果、なんでも快慶作というのは疑いのない代物・・・なんだそうですがね。現物を見せてもろていないとはいえ、どうやら高さが50cm強あるらしい。でかいですネェ、これを懐に入れて持ち歩いていたというんだから、安寿も厨子王もかなりの巨体とみたw

天保12年(1841)に書かれたという『丹哥府志』なる地誌によると、この仏像はもとは現在でいう舞鶴市鹿原の真言寺院・金剛院にあったものだそうで、何らかの事情で末寺である如意寺に移ってきたとのこと。同書には、この像は「津志王丸身かわりの地蔵」であり「かたにやきがねのあとあり」とあります。仏事、特に真言宗でのソレは火がつきものですから、大事な仏像に火が飛んでしまうこともあったでしょうし、お地蔵さまの霊験ですというのはとてもナイスな言いわ(ry なんてことも考えてたわけですが、境目もやけにクッキリ。本気で「やきがね」あてたんでしょうかネ。こういった「身代わり地蔵」系の地蔵や観音やという仏像は全国津々浦々にありますネ。

説経節「さんせう太夫」は、多くの芸能者がカタリついだものです。国分寺に逃げ込んだ厨子王が律僧の葛籠に背負われて京へのぼるクダリなどは、かつての律宗聖が地蔵を背負って唱導に歩いた姿をあらわしているのだろうとの指摘が古くからされておりますわけですが。これぞかの姉弟が肌身に持ち歩いた地蔵でござーい、と見せてたんでしょうか、安寿・厨子王の肌身の地蔵というのは都と丹後地方を結ぶ街道沿いに点々としてあるみたいデスナ。特に京都は下京の朱雀権現堂のは有名らしく、ここのは②の時の地蔵だそうです・・・今度行ってこよw

如意寺にはもう一つ、さんせう太夫の首塚といわれるものが残っております。鴎外版「山椒大夫」では罰せられるだけだった太夫、説経節でも土地に伝わる伝承でも、丹後に国司として赴任してきた厨子王にあっさり「鋸引きの刑」に処されます。話の時代設定は平安時代ぐらいなんですけどというツッコミは控えておきまして、この刑、首だけ出して埋められている罪人の首を通りがかりの人がちょっとずつ斬るというまぁ残酷きわまりないものです。今回は見つけられなかったのですが、近くにはさんせう太夫の「首引の松」と呼ばれる松があったんだそうですョ。


さんせう太夫の首塚。

石浦には「山椒太夫屋敷跡」と呼ばれる場所もあります。かつて由良川河口一帯を支配し、「由良の戸」と称する内陸水運と沿岸航路の結節点として栄えた由良湊を拠点としたという「三庄太夫」の屋敷・・・にしては、お地蔵さんや古い五輪塔がさびしく立ち並んでいるだけの、平場と言える平場もないような場所でした。貝原益軒(1630~1714)がこの辺りを旅した時に、「石浦といふ所に山椒太夫の屋敷の跡とて石の水船あり」と書き残し、案内板いわく古墳の横穴石室が露呈しているんだろうと指摘されている妙な石組もあるにはあったんですが、ひどく草莽にしずんでおりまして近づくこともままならず。なんかよくワカリマセン、というのが正直なところデス。

というわけで、次回も引き続き、ヤッホー ヤッホッホー 厨子王ヤッホー♪で行きます。


山椒太夫屋敷跡。手前の小屋風のところに、地蔵や五輪塔がある。


「石の水船」。方形の石組みの上に巨石が蓋をしているような感じ。見えている部分で・・・幅1m弱×長さ2m前後。

※「さんしょうだゆう」の表記について、森鴎外版について言及しているものは「山椒大夫」「大夫」、説経節および土地の伝説について言及しているものは「さんせう太夫」「太夫」と書い(くようにし)てます。

怪道vol.107 今さらながらの牛女

2008年09月13日 02時12分53秒 | 怪道
季節の変わり目ぐらいになると、戯れにオノレの名前をググッてみたりするわけです。本名じゃないですよ、同姓同名多すぎてあまり意味ないですからw

これまで「別水軒」で検索かけるとイチバンにヒットするのが拙ブログでありました。細々とはいえ3年強、塵も積もればというヤツで、言うたらそうあっていただきたかったんですけども。このたびの検索結果では、なんと。今年のbk1怪談大賞の拙稿がいっちゃん上に来るわけです。・・・700強に及ぶ投稿を、1作1作読んでる人がそんな大量にいるんだbk1スゲェ世の怪談好きのヒト達スゲェと感心しておりましたらですね。下へスクロールしていくと。

なんと今回のアテクシの作品が、( ゜д゜) ・・・(つд⊂)ゴシゴシ ・・・(;゜д゜) ?! 同大賞選考委員・福澤徹三さんのベスト50に選ばれていた、という驚愕の事実wwww(←今頃気づきましたスイマセン) そうか、そのせいだったのか・・・orz。幻妖ブックブログ「私のベスト5」で今年も選んで下さっている方がいるなぁと確認しただけで十分に満足しておりましたのでネェ、ハハハハ、去年より一歩前進てとこでしょうか、バンザーイwww と過去を振り返りまくりのワタシ。

振り返りついでに、今回はちょびっと過去を振り返っての怪日記、十日ほど前のお話をシマス。なんだかんだで実物を目の前にするのは2年半ぶり、という懐かしき東の人・ケンモンちんがコチラに来ているというので、ご本人のリクエストにお応えして、甲山山麓ですでに手垢にまみれて久しい「とある都市伝説」の地をお散歩することになりますた。

どうでもいいですが甲山という場所は、実は別水軒には大変懐かしい場所。堀江謙一と椎名誠を師と仰ぐような暑苦しい叔父がいたせいで、幼少のころよりここらから六甲にかけて、毎夏のようにキャンプという名のサバイバルに連れ出され鍛えられ・・・た気もしますが便所作りに精を出していたことばかりが一番の思い出です。ついでに人生初の貧血を起こした地でもあり。

というわけで、ハイ、牛女さんです。西宮や六甲界隈でささやかれたこの昭和のニオイ色濃く残る牛女の話は、小松左京の小説「くだんの母」等にも見えるような有名すぎるもので、戦中戦後の頃から地元新聞などにもとりあげられたことがあるといいます。いわく、西宮には分限者による大規模な牛の場があり、その屋敷の座敷牢には牛の頭をもつ娘・牛女が閉じ込められていたが空襲で焼かれた時に逃げ、焼け跡でしばしば目撃された・・・。それに発して、甲山頂上で牛の鳴き声が聞こえたので振り返ると牛女がいて追いかけられるとか、甲山付近の某寺院に出没するとかetc。

赤い襦袢を着ているという牛女さん。牛と男をむすびつけるとミノタウルスとかオトミン将軍とかのイメージになっちゃいますけど、女といわれるとなぜにこうもゾクゾクとした妖しさを持つんでしょうね、牛だというのに見事に艶めかしい女性の肢体を想像してしまいます。とかいいつつ牛の顔で赤い服・・・って「なで牛」カイナとニヤニヤしたくなりますわけですが、目撃談によると白い牛の顔とも言いますね。でもそれじゃまるでホルスタインですねぇウッシーはブランド牛な神戸牛だってことを忘れちゃいけない気もしますネ。

ウッシーに追われでもしたら再び貧血を起こす危険を感じるほどの暑さと湿気と体調疲労に悩まされつつも、阪急・甲陽園駅からうねうねと曲がり、甲山大師道をだらだらと上る道をゆくこと30分弱。「高級」という俗な言葉では形容することすらはばかられるようなかつての気高い料亭「はり半」の抜け殻なんかを横目にみつつ、たどりつきましたよ甲山は神呪寺。えぇ、甲山大師なんていうだけに、これはあのオヤジの寺です。今回も近道コチラ的標識にツラレて心臓吐くほどの山道を登らされたり、ようようたどりついた境内の休憩所の隣に脳天をつんざく寺鐘連打場を設置されたり他、なトラップの数々、頭に来たので寺の説明はしてやりませんw ついでに甲山、神功皇后がメットを埋めたとかいう話がありますが、登山口で「うしおんなー!」と叫ぶだけ叫んで鮮やかににスルー。

そのまま引き続き甲山大師道を西へ西へとうねうねゆくと、道に右、左するのが北山貯水池、甲山墓園、アガペ甲山病院に、かの甲山事件の跡地である某病院。やがて見えてくるのが、牛女頻出地のひとつにあげられる、鷲林寺下交差点――。

元々山林だった甲山山麓が、苦楽園・甲陽園といったいわゆる高級住宅街へと姿を変えたのは大正年間。その北・或いは北西側、六甲山地との境にある地域が、この甲山大師道周辺なわけです。ワタシなんぞがあらためていうまでもないことですが、この辺りは近代に拡大した都市の、新たな周縁部となった場所といえるわけですね。牛女伝説の背景にあるという「大規模な場」もまた日本に食肉文化が流入した近代以降の施設ということになります。以下は差別云々ではなく日本という国における長い歴史の中で生まれた一文化事象であることを前提にお話ししているとお断りさせていただきますが、そういった施設というのは様々な事情で、多かれ少なかれ都市周縁部に所在するものなわけです。

近代的周縁部に起こった近代的背景をもつ伝説、それが牛女伝説と言えましょう。やがて昭和40年代に入り、広大な墓苑や貯水池、病院といった、ある意味「らしい」施設が次々と建てられていく中で、あらたな文化的土壌が生成され、「牛女」というキャラクターのみが独り歩きし、現代的に進化していった、と言えるのかもしれません。・・・この程度のことは誰かゆうてそうな気がしますね、スイマセン都市伝説とか、教養程度にしか知りませんのでw

これ以上はひとまず立ち入らないでおきますけれども、先ほどからうねうねうねうね申しておりますように、運転時のハンドル操作においてそれなりの緊張が求められる道がずぅっと続いてるんですよね、この辺。その沿道に、字面的に誤解を招きやすい「神呪寺」のような寺があり(真言、程度の意味なんですけどねw)、墓地、病院、事件の跡地といった場所を見つつ曲がりくねった道を通り抜けたところで、ややひらけた谷あい的地形にたどりつきます。東西方向にはしる大師道は交差部を底にしたゆるやかな谷を呈し、それに対し北から南へ下る坂が交わる。そこが、「鷲林寺下交差点」なわけです。地勢的にもなんだか滅入る感じがいたしますでしょうw この四辻は、見るヒトによるといろんなモノが出没しとるんだそうですネェ。なにはともあれ、条件のそろった感はなきにしもあらず、というのがとりあえずの感想。

そのまま再びぜぃこらひぃこらのぼりつめた先は、本日2度目のオヤジの寺、鷲林寺。鷲林寺にしろ神呪寺にしろ、その草創にはソランジンという仏教における魔を考える時おもしろいであろう神さんが関わっておるのですが、あまりにもの汗と暑さとほんの少しの藪蚊で思考は停止。ここの荒神堂とか八大竜王サマのお住まいなんかがウッシーの居場所なんてお話が世間をにぎわせたこともございました。お寺の方にはまったくもって迷惑至極だったことでしょうねぇ、昼行こうが夜行こうが、そんなものはいませんよw

今日も一日ゴクローサン、とすっかりダレて終了モードのワタクシ共は、迷わずタクシーにおいでいただいて気持ちよく下山。会えなかった以上は食うてやる(?)と謎の雄たけびをあげ運転手さんにウマいウシの肉を食わせてくれる店までお願いしますと勢い込んだらば・・・時刻は余裕の午後3時前、世間はおやつの時間なわけです。開いてる店なんぞありゃしねぇw くじけた我らはアルゼンチン産牛肉を使用したビーフジャーキーをしがみながら、征服感に満ち満ちて、西宮を後にしたのでした。



鷲林寺に向かう道すがら、甲山を振り返る。


かつてウッシー居住地とうわさされた洞の前には、八大竜王サマの祠が建てられております(平成19年建)。

怪評vol.49 怪竜ファイト!

2008年09月04日 21時58分42秒 | 怪評
我が家のPCもついにヴィスタになりました。6年間愛用したヴァイオさんがついにお亡くなり遊ばしたんですけども・・・ははは、さわやかに使いづらいですw まぁこれも壊れる頃には慣れるでしょうということで。

先日、久しぶりに『怪竜大決戦』を見ました。4月頃に「忍者秘帖 梟の城」('63)で大友柳太朗を見てからなんだか無性に見たくなってですね。「怪竜大決戦」('66)は、60年代の怪獣映画ブームの中で東映が唯一作った怪獣モノ。怪獣モノとはいいつつも、江戸時代の読本にはじまるいわゆる児雷也モノですので、出てくる怪獣さんはガマとかなんですが、その体長は読本なガマのイメージを10倍ぐらいにしてムリヤリ怪獣化した感じではあります。

いーなずっまっとーどろきかーぜよふっけー♪とのチビッコ達の軽快な合唱にあわせて颯爽とはじまるこの物語。児雷也モノだけにライヴァルはもちろん大蛇丸なんですが、ヨメの綱手はナメクジではなく蜘蛛を扱う上に、松浦将監ではなくてなんと大蛇丸の娘、そして蜘蛛ヶ峰に棲む蜘蛛ばばぁの孫、なことになってます。ヘビ→カエル→クモじゃ、三すくみというよりただの食物連鎖の順番デスネ。

簡単なストーリーをご紹介しておきますとですね。時は戦国、近江国の尾形城で、家臣結城大乗とその手下・大蛇丸が、主君尾形左馬亮に逆心を抱き、殺害。左馬亮の幼い一人息子・雷丸はかろうじて湖上へと逃れるも、大蛇丸が変化した龍が追いすがる。危ういところを大鷲に救われた雷丸。この大鷲は、飛騨の奥深く雲霞む蟇ヶ岳に棲む蟇道人の化けた姿であり、蟇道人は大蛇丸のかつての師匠だった。

時は過ぎ、蟇道人のもとで生い立ちを秘されたまま成長した雷丸は、忍びの術の修行を重ね、その技は今や道人を凌ぐほど。そんな雷丸に、なんで今ごろなのw?な追っ手がかかる。雷丸不在の間に蟇道人の草庵を訪れた大蛇丸、かつて道人より奪った「昇龍の巻物」をツリにして道人殺害に及ぶ。道人のいまわのきわに「変身蟇の法」を授かり、さらには自らの出生とそのカタキの名を知った雷丸は、名を自雷也と変え、父と母、そして蟇道人の仇討ちに、一路近江を目指す。そしてついに、仇敵・大蛇丸との死闘がはじまるのでありました!

まぁー、この大蛇丸ってヤツが悪いのなんのなわけです。
既出の悪事に加え、綱手の父恋しの情を利用して雷丸暗殺を命ずるわ、失敗した綱手を娘と知りながらあっさり殺害未遂に及ぶわで。この悪人度120%な大蛇丸を、かの大友柳太朗がヤッてくれるわけで、こーれーがまためろめろにカッコイイんですナ。ワタクシの、完全無欠なストライクゾーン。雷丸との最後の激闘、そしてトドメをさされて湖に仰向けにばったり沈むとこなんてもー、何回見たかワカラナイぐらいデス(´ω`)ウットリ。雷丸がほんとただの小僧に見えますよぅ。

その、対する雷丸こと自雷也を演ずるのが若すぎるほどの松方弘樹。こいつが天然というか単なるヴァッカというか。蟇道人が大蛇丸により瀕死の重傷を負ったところへ、蟇ヶ岳を訪れていた美少女・綱手をつれて戻ってきた雷丸。道人のいつもと違うその様子に・・・・・・気付かないw 遅くなってスイマセン♪と普通に日常生活はじめようとするわけで(気づいたのは綱手です)、この場面、見たヒト全員が「気づけよ忍者w」と同じセリフ同じ角度でツッコミいれたに違いないと思われます。

最大の悪行は、大蛇丸を退治たその後で、尾形家の再興をするのかと思いきや。「すべては終わるとむなしい・・・城はない(壊したのはガマに化けたアンタや)。あるのは領民が作る畑だけだ」とひとりごち、みんなでいい土地を作るんだぞ、と言い捨て綱手と手に手を取って飛び去っちゃうんですネw 下剋上まっさかりな時代の肥沃な湖東地方(多分)で、民だけでよい国をつくれってアンタそれどっかの首相のサプライズ辞任なみの放り投げっぷりスョw

古き良き時代の怪獣映画の人間模様なんてまぁだいたい、なんとなくでいいんです。そう、怪獣のバトルシーンさえおもしろければ、なんだって。この「怪竜大決戦」はどうかといいますと。実にユルくてワタクシ好みなわけでありマスw 雷丸変化するところの蝦蟇の焦点の定まらないうつろな目のステキさと言っタラ!そして大蛇丸変化するところの竜と相対した時の、お互いの目線の噛み合わなさと来たら!

大怪獣バトルとかね、ウルトラファイトっぽいと言われてますがあれは単に怪獣がバトルしてるだけでワタクシに言わせれば「ウルトラファイト」でもなんでもないんです。ウルトラファイトの真髄はそのユルさにあるわけで、戦い前ににらみ合ってはイケマセン。かの「ファイト」のユルさはどこからやってくるかというと、怪獣たちがものの見事にあさっての方向むきながら殴りあうところにあるわけですネ。「怪竜~」のファイトはまさにソレなわけです、スバラシイ!


かみあわない視線、うつろな目。


そしていともめずらしき二足歩行な龍。

ガマはガマだけにヘビな龍には負けちゃうんですね。危機迫るガマに力を与えるのは、綱手のクモ。ゆうても蜘蛛ばばぁが困った時に1回だけ使えるョゆうてくれた蜘蛛の飾りのついたかんざしを放るだけなんですけど。それがクモンガに化けるわけです。で、カエルとクモが協力してヘビを倒すという・・・普段の食物連鎖の下位にあるもんが仕返しした、みたいな話なわけですが、ヘビゆうたって龍なんだからもちっとなぁ、と言いたくもなるものの、琵琶湖の竜とゆうたら、かつてムカデに負けた子を思い出しますわけで。龍は琵琶湖で戦っちゃダメなんですょ、多分。

ちなみにこのガマ、「仮面の忍者赤影」で蟇法師の千年蟇として角とかとられてちゃっかり再利用されているので(火を吹く仕掛けとか一緒です)、逆にそっちの方で有名かなと思われマス。併せてご覧くださいませー。