怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.86 いもーれ奄美~平家伝説篇2

2008年01月19日 23時51分53秒 | 怪道
さて、平資盛です。

喜界島から大島に渡り征服したという3人組の頭目・資盛はさらに大島海峡をはさんで南に位置する加計呂麻島に渡ったことになります(ちなみに大島海峡、意外と水深が深く戦前は軍港として栄えヤマトやムサシも停泊、現在も大型船舶の避泊地として利用される他、最近給油活動云々でホットなインド洋派遣の補給艦ときわもここへ立ち寄ったとか)。北方から襲来する敵・源氏に対し、3人のうち最も後方に陣取ったことになり、また大島海峡をはさむ両岸・瀬戸内地方は琉球圏と内地との中継地で交通の要衝だったということで、ボスが押さえた地域としてはなるほど、の位置でもあります。

というわけで、奄美本島側の古仁屋(コニヤ)からフェリーにのって20分余り、生間(イケンマ)という集落から島へ入りました。そこから向かった先は、資盛が祀られているという大屯(オオチョン)神社。

大屯神社については、「諸鈍シバヤ」をやってる神社だと言えばご存知の方も多いのではないでしょうか。シバヤは「芝居」の転訛とも言われ、「室町時代の古歌舞伎の流れをくむ芸能」(案内板より)だそうで、毎年旧暦の9月9日に島の男性のみによって演じられる、国指定の重要無形民俗文化財。

余談ですが、ワタシが諸鈍シバヤをはじめて知ったのは「シシ切り」という演目によります。かつて狛犬サンから獅子とか獅子舞、シシ絡みの芸能をつらつら調べていた頃、獅子舞と言えば赤ら顔に金の歯並びでドロボウ風呂敷をまとった一人立ち(風流踊が起源トイウ)~二人立ち(仏教儀礼が起源トイウ)の獅子舞か、あるいは伊達藩系列で踊られている鹿(シシ)踊系のものといったところなわけですが、旧薩摩藩領でシシにかかる芸能はという猪(シシ)を対象にしたものになる、というのにヘヘェと唸った記憶がありまして。で、獅子舞・鹿舞ではシシは神さまもしくは神さまの使い的存在であるのが、旧薩摩藩領では倒される対象なわけで、これまた衝撃を受けた覚えがあるわけなんです。その、「シシ」が倒されるシシ舞こそが、諸鈍シバヤの「シシ切り」だったわけで。簡単な筋書きを申しますと、美女に岡惚れするシシを勇士が射殺す、というもの(→シバヤの様子はコチラ)。鹿児島の大平でやってるシシ舞なんて、横でチッコイ子どもの猪がぶるぶる震えてる様子まで演じられて、それはそれはカワイイんですョ。

話がそれてしまいましたね、えー、大屯神社。何を隠そうこの諸鈍シバヤこそ、平資盛がこの辺りを治めていた時に島の人に教え広めたとの伝説があるものだったりするわけです。・・・ここは、室町期の芸能を300年も先取りしていた資盛、さすがボウケンシャ!(←古)エライもんだなぁということにしておきましょう。境内には資盛の墓がありました、それもものすごく鳥居近くに。神社自体は湾に面した集落の北にある山沿い麓にあり、その北西側が集落の墓地。典型的なムラの氏神さんといった所でした。

さて、実は加計呂麻島には、もう一つ伝説があります。そいつが、実久三次郎という人に関わるもの。

この三次郎さんのお父さんと言う人がデスネ。なんと。南西諸島の貴種流離譚と言えばこの人!そう、鎮西八郎の名で知られる怪力の貴人・源為朝さんなわけです。保元の乱で崇徳上皇方についたために伊豆大島に流されたこのお兄さんは(史実では伊豆で反乱→自害)、その後黒潮に逆流して喜界島に到着、やがて琉球に流れ着いて王国の始祖・舜天となる前に、ちょっと奄美に寄り道してらしたわけですね。平3兄弟といい為朝さんといい喜界島を経由しておりまして、ストレートに奄美上陸しないのはなぜでしょうか。なにはともあれ、島の女性との間に生まれたのがこの三次郎くん。いやぁ、奄美オモシロイなぁw

三次郎はお父さんと負けず劣らず力持ちだったそうで、瀬戸内町の北隣にある宇検村にいたというこれまた力持ちの八丸と力比べをした際に、でっかい石を八丸の住む宇検村は名柄集落にむけて投げた!・・・けども手前の瀬戸内町は久慈なる地に落下したといいます。その距離、軽く見積もっても約6km!常人なれば野球のボールでも不可能です。ちなみにその時八丸は、久慈に落ちた石を三次郎のところまで蹴り返したといいます。常人なればサッカーボールでも(以下略)。

帰ってきてから瀬戸内町のHPをつらつら眺めていたら、なんでも近年、ユタさんのお告げで、三次郎とそのおかぁさんが埋葬されている場所が発見され、掘り返されたらしいw それはユカイすぎるぞ、奄美(≧∀≦)ノ ・・・結局何が掘り返されたんでしょうねぇ。

三次郎は今も加計呂麻島の北西端にある実久集落の神社に祀られており(三次郎神社)、その時投げた石と言われるものが残っているんだそうです。なんでも手形とか踏ん張った足跡とかが残ってるようでですね。これはゼヒとも見ねばならんということで実久に行きたいんですが、と言いますとこれが意外に遠かった。行ったらアナタが帰りに乗ろうとしているフェリーには間に合いませんよ、ということであえなく挫折しました。

諸鈍にはもう一つ、忘れてはならないスポットがありまして、それが「男はつらいよ」のシリーズ最終話、「寅次郎 紅の花」のロケ地であります。映画に使われた諸鈍の集落の南側に広がる白い砂浜とでいごの並木とあわせて、リリーの家が今もそのままに残っておりますわけですが、おうちの方は鍵がガッチリかけられて残念ながら入れずじまい。しかも天気はあいにくの曇り空、時折小雨がパラつくありさまで・・・テラ運ワルスw

少々お天気にはめぐまれませんでしたが加計呂麻島、かなりホットでユカイな島だったのでした。


大屯神社とその境内。シバヤは中央の土俵と本殿の間の空間で行われるらしい。


大屯神社境内にある資盛の墓。墓碑は「三位」以下は磨耗して読めず。


リリーの家。


リリーの家の前につづくでいごの並木。あぁ、天気さえよければナァ。


フェリーかけろまの図書スペースで「伝奇ノ匣」シリーズを発見。なかなか趣味がヨロシイw

怪道vol.85 いもーれ奄美~平家伝説篇1

2008年01月18日 23時50分32秒 | 怪道
奄美には平家落人伝説があります。落人の名は、平資盛、有盛、行盛のお三方。平家でしかも落人伝説というだけに、いわずと知れた平安末期の源平合戦、時は寿永4年、長門国赤間関は壇ノ浦にて海の藻屑と消えた平家の武者に名を連ねタル若き公達たちでございます、ペペンペンペンペンッ。本日は、奄美大島を縦貫しつつたずねてまわった、平家伝説についてのお話です。

ひとまず3人を史実の方から軽くご紹介しておきましょう。
一番名の知れているのは殿下乗合事件*なんかも引き起こしてる資盛さんでしょう。重盛さんの・・・一応次男になるんですかね、数年前の国営放送の大河ドラマで某総理大臣のムスコさんが演じられたり、異母兄に補陀洛渡海で有名な維盛サンがいらっしゃったりします。和歌にも秀でていたという軟弱者・・・と思いきや、最後の壇ノ浦までしっかり一族について行ったという、ただのボンボンではない気丈さを持っていた人かと思われます。享年は27歳とも24歳とも。極官は従三位蔵人頭。

有盛はそんな資盛の異母弟(4男)。一の谷の前哨戦である三草山で資盛ともども義経にシコタマやられました。極官は従四位下右近衛権少将。この人も壇ノ浦までがんばってます。享年は21歳・・・あぁあたら若い命を。行盛サンはというと、資盛・有盛の父である重盛サンの弟の子どもで、資・有の二人には従兄弟にあたる人。なんでも幼少時に父が亡くしたために重盛に引き取られたようです。戦歴なんかをみると、資・有兄弟よりもなかなか活躍してらっしゃる感じ。極位は正五位下。生年不詳ですが資・有とあまり変わらなかったようですネ。この資・有・行は、壇ノ浦で3人手を取り合って入水したという辺で、この3人セットができたかなというところ。

というわけで、死んで赤間神宮の七盛塚に供養され、たまに芳一サンなんかをビビらすチームに加わってみたりしてるはずの資・有及び同所には抽選モレな行盛(この人は別に一子が生き延びて種子島氏の祖になったとかいう話もあるらしい)の3人は、手に手を取り合って入水・・・せず遠く奄美まで落ち延びて何をしたかと申しますと、ナナナなんと!


大島を攻めて征服しちゃいます。


元気ですね。なんで負けたんでしょうか、平家。それはさておき、ひとまず喜界島にたどり着いた3人は、その後大島へ渡り、行盛は龍郷町の戸口(トクチ)に、有盛は名瀬の浦上に、資盛は加計呂麻島の諸鈍(ショドン)に城を構え、敵(→源氏ですョw)の襲来に備えたそうな。笠利町(奄美大島の北端の町)の蒲生崎には有盛の家臣・蒲生佐衛門が見張り番として配置されていたそうで、そこに佐衛門を祀った神社もあるとのこと(残念ながら行けズ)。3人は以下の位置関係で、神社に祀られております。



まず龍郷町は戸口の行盛神社の印象から。戸口は奄美を縦貫する国道58号線を脇にそれて戸口川にそって奥へと入り組んだ集落です。58号線近くから、地名は奥へいくほどに下戸口→中戸口→上戸口となり、行盛神社は最奥の上戸口の集落の真ん中にあるこんもりした丘の上にありました。奥、すなわち上へいくほど下、中、上となるのはよくあるかもしれませんが、この辺り独自の呼び習わして、下戸口は天川(テンカワ)、中戸口は中方(ナカホウ)、そして上戸口を内袋(ウチブクロ)というらしい。そういうことを聞くと、なんだか上戸口を中心とした集落の構造を描いてしまうのが人情というものです。

続きまして名瀬市浦上の有盛神社。この辺も現在は58号線が北からトンネルでぶち抜いて南下しておりますが、名瀬の湾から入ってくれば浦上川に沿って奥へと入り組んだ位置にあたります。その集落の、これまたこんもりした丘の中腹に立つのが有盛神社。案内板によるとこの神社、市の文化財指定を受けている仏像があるとのこと。帰宅後調べてみると、どうも石造の弁才天像らしい・・・。仏像っぽいフォルムをしているのでしょうか、気になるところですが残念ながら本殿は鍵がかかっていて見られず。とりあえず島津時代のものらしいです、ハイ。この神社の立つ丘の上には(パッと見はよくわからんかったですが)中世の山城跡があるようです。

立地的に言えば両者は非常に似かよるわけで、戸口の行盛神社のほうも何らかの形で城が築かれていたのではないでしょうか。そういった古い城の跡と、平家の落人伝説とが何らかの形で出会ったんでしょうね。要はそれがいつ頃かとなると・・・少なくとも島津時代にはすでにこれらの神社はあるんですけどもね。もうちょっと本格的に調べんとあきませんようです。ついでに言うと少々気になることとして、奄美って平姓が多いんですよね。どっちが先かは知りませんが・・・平の姓が先にあってくれると、ワタシとしては楽しくてヨイですw まぁ、後ですかね。

ちなみに奄美の人達の姓について簡単に触れておきますと、一字姓の割合が内地にくらべて高いです。奄美出身の元(ハジメ)ちとせや中(アタリ)孝介なんかもそうですね、前々回にお話した昇(ノボリ)さん、他に明(アキラ)、伝(ツタエ)、真(マキ)、城、寿、泉、栄・・・。とても情緒があってよいなぁと思うわけですが、いつ頃かということまではお聞きできなかったんですけども、かつて一字姓を嫌って後ろに「田」や「畑」や「野」をつけて二字姓に変える、というようなことをした歴史もあるんだそうです。んー、マ、おそらく島津時代ですかね。

印象で言いますが、資盛たちが征服したとか物騒なことを言うわりにちっとも嫌がってないんですね、奄美の人は。直接にはうかがえませんでしたけれども、奄美の平姓の人は何らかの形で自らの出自を彼ら3人と結びつけて考えられていることは想像に難くありません。ですから、きっとこんな言い方になってしまったのは、島津による奄美攻めが悲しい影を及ぼしてしまったんではないかとも思います。ちょっと前までは島津に対してはわだかまりが残っていた、とは島ンチュの何人かからうかがったことデス。

というわけで、加計呂麻島に渡ったという資盛さんの伝説は、次回・平家伝説篇2にてお話いたしまス。


行盛神社の鳥居。本殿へあがる階段には、地元消防団のホースが日干しされておりました。のどかw


行盛神社。こちらの神社はたいてい鉄筋コンクリート建て。


有盛神社。めずらしく木造。島津時代には航海安全の神として信仰を集めたようです。


かつて遍路中に世話になったなつかしのハンディ缶に出会う。京・大阪では見ないんですよね、コレ。



*殿下乗合事件・・・嘉応2年(1170)、平家ヴッちぎり時代に時の摂政・基房に対しイチビッて下馬の礼をとらなかった資盛が、逆にしこたま打ち据えられて逃げ帰るという醜態をさらしました。ところがお父様及びおじい様(清盛)がただの成上がりじゃなかったために基房さんは死ぬばかり報復を受けた、という事件。

怪道vol.84 いもーれ奄美~伝説篇2

2008年01月16日 23時37分24秒 | 怪道
前回の「ジョウゴのメラベ」の追伸から。妹を殺してしまった兄貴はお約束どおり嘆き悲しんで自ら死を選ぶわけですが、二人とも死んでるのによう考えたら天川を徘徊するのは妹だけなんですねぇ。これはこれで、やはりオモシロイのです。

と、いうわけで。

奄美大島と言えば忘れてならない妖怪サンがおります。ご存知、ケンムンでございます。本日は、大島をうろついて聞き集めてみた、ケンムンにまつわるお話から進めてみたいと思いマス。

ひとまず村上健司サン編の『日本妖怪大事典』を参考にしながら、ケンムンとはナニモノであるかを簡単にまとめてみますと。

*ケンムン*
奄美諸島でいう妖怪。海にも山にも現れる河童のようなもの。ガジュマルやアコウなどの木の精ともいい、「怪の物」「化の物」「木の物」「毛の物」などの意味とされる。身体の特徴・性質は伝える土地ごとに異同があり、子どものような体格、顔は犬、猫、猿などに似て、体には毛が生えているとか赤い肌をしていて裸だとか、頭に皿がある、髪の毛はおかっぱで赤い髪ともいう。足が細長く、いつも両膝を立てて座っており、頭より膝の方が高くなる。季節によって山と海を移動し、人間に相撲を挑んだり、子馬や出会った人間ソックリに化けたり保護色のように周囲と同化したりと、変化能力も高い。いわゆる河童やキジムナー、イッシャといった南西諸島の妖怪の性質がほとんど含まれているのが特徴。
なお、戦後にGHQの命令で刑務所を設立する際にたくさんのガジュマルを伐ったため、島人はケンムンの祟りを恐れた。マッカーサーが死んだのはケンムンがアメリカに渡って祟り殺したのだ、と言われたそうな。

当然ですが、島ンチュのみなさんがおっしゃるケンムンはほとんどこれと異同ございませんw 実に嬉しいことに、ケンムンはいる、と信じてらっしゃる方がそこそこおられまして、小さい頃は危ないところへ行かないようにと親から「ケンムンが出るゾ」とおどかされたものです、とおっしゃるオネェサンや(未だにガジュマルの木のそばに行くのはコワイそうです)、見える人には今もちゃんと見えるんだよ、と詰め寄ってくるオジィチャンもおりました。

幸いだったのが、親戚がユタをやっているという70歳を少し過ぎたあるおじぃちゃんとお話させていただけたこと。琉球諸島にはノロとユタと呼ばれる神事に関わる巫がいらっしゃるのは皆さんもよくご存知かと思われますが、ノロが公的な神事をつかさどるのに対し、ユタは亡くなった人の口寄せをしたりお祓いをしたりという民間の拝み屋さんなんですね。このおじぃちゃんの親戚というのはなんと珍しいことに男性のユタなんだそうです。

そのユタさんがよくおっしゃっていたこと、として聞いたお話なんですが、なんでもケンムンが現れると、女は眉にツバをつけ、男はタバコを吸う、という撃退法があるそうな。ヤボを承知でいいますと、いずれも覚醒作用のある動作ですね。ちなみに「相撲をとろう」と寄ってくることがやはり多い、ということで、その時に言い返す決まり文句がちゃんとあるんだけど「忘れちゃったョー」ですって。多分「屁ェこくぞ」とかそういう感じかなと思うんですが、うら若きメラベの前では言えなかったカナ・・・なんつてw「ケンムンに山に連れて行かれると助かることもあるけれど、海に連れて行かれると絶対に助からない」なんて辺りは特におもしろかったデス。

ちなみにこのおじぃちゃんのご親戚なユタさんは神道系らしい。人の来歴を「視る」のに特に優れておられたとかで、内地からもお客さんが多かったんだとか。「天照大神」なる掛け軸が飾ってあったそうですが、これをして「テンズィさん」と読んでおられたようです(テンジンさん、の意味かなと思われます)。おじぃちゃん、このユタさんは「オヤガミ様のマツリをしてくれる人だからネ」というようなことを何度もおっしゃってらして、おそらく先祖マツリのようなこともされていたのでしょうか。いやぁ、我ながらイイ人に出会えたものです(そのユタさんにゼヒ会いたいと言ったら、残念ながら体調をくずされて入院中でした)。

さて、おじぃちゃんに深々と御礼を言って、奄美パークなる、奄美の旧飛行場跡地を利用してつくられた奄美の自然・歴史・習俗を一堂に会して楽しめます、な施設を一応念のためにのぞいて参りますと、奄美の年中行事についての展示がしてありました。奄美の神事はそのほとんどが集落の中の広場にあるトネヤ(刀禰屋か?)に女性のみが集まって、神人(かみんちゅ)と呼ばれるノロを中心に神今食→歌って踊っての神遊びをして解散、てな流れなんですね。遊んでから飯食うヤマトとは逆なのです。←その程度かぃw

ついでに言うておきますと、奄美パークには没後に「日本のゴーギャン」などと注目された花鳥画家・田中一村の美術館があります。ゴーギャン云々言うのはあくまで生き方の問題で、奄美大島の自然に魅せられて移住して以後の画風は、・・・言うたら若冲系ですかね。若冲好きな方は好きなんじゃないでしょうか、この人の絵。ワタクシ絵のことはよくわかりませんので、えーと、パスw

ぐずぐず見ていたら閉館時間になってしまい、全部見れなかった・・・んですが、それなりに楽しかったです。が、ここの悪いところは、「奄美の習俗」的展示をワンサとしているわりにはそれに係る書籍をまったく置いていない!その上図録もない!せめてそのぐらいはよろしくお願いします。

というわけで、次回は一気に島を縦断してみまス。お楽しみにー。


島人証言によるケンムン頻出地その1:大島紬村にある樹齢300年のがじゅまる。紬村のスタッフさんであの木は怖いョとおっしゃる方もいました。


島人証言によるケンムン頻出地その2:笠利町にある「あやまる岬」。「あやまる」は漢字で書くと綾丸岬で決してゴメンナサイの意ではありません。ちなみにこの日はかすんでみえませんでしたが、鬼界ヶ島・・・もとい喜界島はこの先にあります。


島人証言によるケンムン頻出地その3:前回お話したアマンデーの碑のある大刈岳の麓。なにはともあれ、ケンムンが出るば場所はまず鳥肌が立つからわかるんだそうですょ。


奄美の旅での収穫品、様々に解釈されたケンムンたち。かわいいデスネ。右端のオイモサン型ケンムンは、土産物屋で店番してた兄ちゃんがくれたモノ(売り物じゃなかったものでw) 奄美のヒトはとかくよくモノをくれます。



奄美に行ったら食べてみろと言われていたヤギ汁。島ンチュに聞くと居酒屋とかに行かないと置いてないよといわれ、名瀬までのこのこ食べに行ってきましたョ。文字通り、メェーとなく山羊の肉を豆腐や野菜と一緒に塩味で煮た汁。味は羊の肉に近く、少々臭みがありますがヒジョーに美味でした。昔は大きな宴会があるごとに1匹つぶして食べる、てな類のものだったようです。

怪道vol.83 いもーれ奄美~伝説篇

2008年01月15日 23時56分41秒 | 怪道
やァどうもミナサンこんにちわ。

ニッポンは寒いですね。温暖化が口やかましく言われる昨今、南北極の水が溶けて海に沈む島やとんでもない異常気象に悩まされている大変な地域がなかったら、ニッポンも亜熱帯になっちまぇばいいのにと思ってしまうほど、寒い冬がダメな別水軒です。というわけで南の島でリゾートしていた別水軒です。仕事はどうしてたかって?そんなものは休んでいたに決まってイルッ(言うても小心者ですからたかだか1日やソコラですョ)。

というわけで奄美です。青いウミ広がるサンゴショウな奄美に行ってきました。降り立つなり、無言で4枚ぐらい脱皮・・・半袖になりましたョ、奄美さいこうー。このぐらいのヌルさがないと人間ダメになりますねぇとシアワセを噛みしめつつ、「ヘィ、タクシー」と向かった先はアマンデー。

アマンデー。「天孫嶽」と書く場合もありますがそれは当て字で、地元の人によりますと単純に「奄美嶽」だそうで、アマミダケ→アマンダケ→アマンデー、のように考えればよいのでしょうネ。このアマンデーは、アマミ民族発祥の地とされる場所だそうで。首筋にエラみたいなのがあった水色の髪のヒト達のこと?と思ったアナタ、考えすぎです。

場所は奄美大島の北端に位置する笠利町の真ん中あたり。大島はそのほとんどの土地が4~500m級の山々が連なる険しい土地。ただ、龍郷(←大島紬発祥の地デスネ)から北、笠利の辺りには、平地と言える広い空間があり、逆にそれより南は険しい谷あいと湾に面した地域に集落がぽつりぽつりとあるのみです。そんな辺からも奄美は当初は笠利を中心に開発がすすんだ島なんだろうなと察しがつきます。

実は、アマンデー(奄美嶽)とされる場所は笠利の大刈岳付近とする説と、大島海峡(加計呂麻島と大島の間の海)に近い宇検村にある湯湾岳だとする説があります。つまるところ「奄美嶽」なる正式な地名をもつ山はナイんでありますが、湯湾岳ってのはおそらく大島の最高峰なんですね(694m)。そんなへんどうも作為的。対する笠利の山は平野部にあるとはいえ標高200mにも満たない平凡な山なんですが、考古学の方面ではおもしろい遺跡がゾクゾクでていてかなりホットな奄美大島の、主要なものがやはり笠利町に集中していることなんかも考えますと(貝塚とかいっぱいありますョ)、アマンデーは笠利の方でよいのではないかなと個人的に思っております。

「天孫嶽」な当て字からもわかりますように、アマンデーは女神・阿麻美姑(アマミコ)と男神・志仁礼久(シニレク)が降り立った場所、すなわち奄美の天孫降臨説話の舞台となった場所。昇曙夢の『大奄美史』によりますと、奄美の島々がまだ固まっていないころ、高天原から下界をみた天照大神が二人を呼び寄せて「島を修理せよ」といわれたので、下界に土や石を運び無数の島々を作った、とのこと。

ちなみに昇曙夢は加計呂麻島出身の昭和初期のロシア文学者で、奄美復帰運動に尽力した人として有名です。『大奄美史』は彼の名著の一つではあるんですが、この天孫降臨説話については奄美大島の歴史的背景とともに、執筆された時期が昭和24年という奄美復帰運動の最中だということは少々気にかけておいたほうがよろしいでしょうね。といいますのも、どうも地元の人の話を聞いていると、アマミコさんは「テンニョさん」というて親しみを持たれているけれどもシニレクさんの影がまったくもって薄いわけです。

ついでに、アマンデーにあった碑がコレ↓↓ 

碑文は「阿麻美姑天神最初天降地」とある。

碑をなぜに墓の形にする、とツッコミたい気持ちはそこそこにしておいて(アマンデーの場所を聞くとテンニョさんのお墓があるョーと教えてくれたわけです)、てゆーかシニレクさんは?と聞きたいわけですね。「なんでだろうねぇ、いないねぇ」となんとものん気なお返事しかいただけませんでしたが(南の島に来た感じでグー)w そもそもの墓碑自体は明治34年につくられたもので、本来は北隣の山頂付近にあったのが、昭和53年に自衛隊が屯所をつくるというので現在地である大刈岳山頂に移動されたようです。なんだか久しぶりに、国家権力にムッときたワタシ。

山をおりると「節田」なる集落で「阿麻弥姑神社」なる神社を紹介されました。ちょうど大刈岳を仰ぎ見ることのできる場所で、「かんたかい地」と尊崇されていたという山の上までは滅多に行かなかったのか、遥拝所的な存在なのかなといったところ。奄美はハブが出ますしね、内地のようにオイソレと歩き回るのはだいぶ危険なようです。話を聞いていると、それとあわせて山奥深く入ること自体が、相当恐ろしいことだと今も考えられているようでもありました。


アマンデーの場所と阿麻弥姑神社の位置関係。

というわけで、山奥にかかる奄美の民話をひとつ、ご紹介。笠利と龍郷の境にその谷あいが漏斗のように険しいことから「ジョウゴ」と呼ばれる地があったそうな(天川と書いて「じょうご」と読むそうな)。このジョウゴには両親に捨てられた兄と美しい妹が住んでいたが、ある時、兄がその妹に恋をしてしまうわけです。妹は兄の思いを受け止めるわけにはいかないから、自分には恋人がいる、とウソをつくんですな。で、その恋人を殺さないと兄と一緒になることはできない、だからその恋人を白い馬に白い着物を着せて天川に誘い出すから殺すように、というんですな。兄はそれを真に受けて、待ち構えて目の前に現れた白いヤツを刀で切り落とした。すると、それが自分の妹だったという、悲劇なわけです。

笠利の辺りでは有名な、「ジョウゴのメラベ(女童)」のお話なわけですが、この天川と言う場所、龍郷で発祥したと言う大島紬にとっても重要な場所でもあるようです。この天川の近くに赤尾木という場所があり、ここに昔、天から白馬が降り立って美しい湖ができた、そこの水で洗うと大島のあの褐色の美しい染めがでるようになった、というんですね。妹が白馬に乗って兄に切られに向かったことと、この白馬が降り立ったという伝説は多分どこかでリンクしているのでしょうなぁ。

ちなみに、ですが、そのメラベがね、出るんだそうですよ。髪を洗う姿を見たというのや(←これはちょっとコワイですネ)、河に連れ込まれそうになっただとか、白い服でいまも天川を歩いているんだそうで。いまでこそトンネルが通りましたものの、昔は笠利→龍郷は山越えをしていたとか。ジョウゴはその途中にある、おそらく最も山深いところのようですから、きっとみんな、怖かったんですね。

初日から、けっこうディープなお話にめぐまれた奄美の旅。
次回もお楽しみに~。



阿麻弥姑神社。


この山の向こうに、天川の地がある。


よく見かけたツワブキ。なんでも奄美の人は茎の部分を年越し蕎麦代わりに食するんだそうです。

怪評vol.44 あけまして、魍魎です

2008年01月05日 23時03分11秒 | 怪評
気づいたらもう5日もたってるし(汗)。遅くなりまして申し訳ありません。
あけましておめでとうございます。別水軒、今年はいろんな意味で化けて行く所存です。

今年の三が日は初めてお着物で過ごしてみたりいたしました・・・いうても着物をきていてはコタツでグダグダできないのでおせち料理中限定ですw 去年は結局けぅとお出かけした時に一度着たっきりで、しかも長谷寺に着て行くなんて我ながらバカじゃないかと思ったものですが、今年はどんどん着る回数を増やしていきたいですネ。

と、新年の誓いを立てたところで、毎月恒例・要略の会のお勉強会を兼ねた新年会に、お着物で行ってまいりました。新年のご挨拶だけに、格式高く色無地の紋付。母からもらった昔の着物なものですから裄が少々短いんですけども、お気に入りの一枚だったりします。これまで自分で着付けする時は紬のような一旦着てしまえば着崩れしにくいものしか着たことなかったんですが、絹物に初挑戦してみました次第ですョ。で、さらにチャレンジャーなことに、新年会に集合している皆さんと引き続きにこのナリで映画「魍魎の匣」を鑑賞してきたわけです。お着物のおかげで2時間強、背中つりそうでした、ハハハハ。「魍魎」鑑賞に着物集合を呼びかけた某家族の皆さん。着慣れていない方は、・・・覚悟めされよw

ハイ、というわけで魍魎です。以下、ネタバレ込みですので、ご注意くださいませ。




最近のワタシの趣味はもっぱら兵庫県某所に拠点をおく某歌劇団に向けられておりますわけですが、この劇団をこよなく愛して病膏肓な方々の症状として、ドラマ・映画を見、または小説を読んだりしては某劇団の舞台になったらどうなるかしら、なんてことをつい考えてシマウというのがあります。ワタシなんかもそのぅ・・・そういった兆候が少々出ている方でして、時には軽く書いてみたりなんかするんですな。

そういう時にどういったことをするかというと、趣味で適当にやってることですから実際にプロの方々がどうしているかなんて知りませんよ、と一応お断りしておいて。まず登場人物をトップ、二番手、三番手と配役するとかいうのは初歩的なことなんですが。次いで、劇化する以上は物語を三次元の世界に書き起こす必要があり、加えて某劇団の舞台には独特の「お約束」があるわけで、それに向けて物語を組み直さねばならんわけです。その際、一番難しい&楽しいことは、「見せ場」にどのシーンを選ぶかということなわけです(某劇団ではしばしばストーリー性よりも「見せ場」に重点がおかれる傾向がある)。で、その見せ場にむけて物語を組み替え、繋げていくわけですネ。ちなみに最近遊んだのはM・ルブランの『悪魔の赤い輪』だったりしてw ・・・某劇団熱に関しては近頃だいぶイタイ人だと思われているようなので、今後はなるべく口にするのを控えていくつもりです、スイマセン。

とはいえこういう作業は物語にとどまらずあらゆるものを「書く」ことに関しては思いの外勉強になるものでして、趣味と実益を兼ねたお遊びとして末永く続けていこうと思ってるんですが。ここまで言うと、ワタシが何を言いたいかは、「魍魎」を御覧になった方にはおわかりになると思います。つまり。

原田眞人すげぇ(゜∀゜)。

すごすぎて、お手本にすらなりませんw 現在の自分の興味関心の在り処から言わせていただきますが、映画「魍魎の匣」最大の見所はまさにそこにあると言えましょう。原作の見所・見せ場のチョイスの妙、場面での配役の妙、場面構成の妙、そして物語の再構築の妙。あんだけ別の話になってるのにこれは「魍魎の匣」だと納得してしまう、ってのがとにかくスゴイ。この映画、原作と負けず劣らず好きです。

配役は、柄本明と黒木瞳なのがよかった。スイマセン、きっちりしたレビュを書ける人間ではないのでこの辺はとかく感覚的になってしまうんですけども(汗)、美馬坂教授が柄本明であることで、作品全体の雰囲気が変わる感じがします。少なくとも柄本さんという役者さんは、浮世離れした雰囲気を持つ役者ではないわけです。あの箱館・・・というよりは箱城、な建造物の真ん中にいるのが柄本明、というのがなんともイイではありませんか。ちなみにあの箱城は、「人体」がもつ「スケール感」を非常によく表現されていますね。オノレがミクロ決死隊になったかのような気分を味わわせていただけます。

そして黒木瞳。KR老師とも話していたんですが、あの胡散臭さは黒木瞳ならではw 何より柚木陽子が黒木である理由を痛感したのは、全てが終って陽子・映画界に復活!のシーンです。ワタシが某歌劇団の舞台を愛してやまないのは、主人公が恋人とどれほど悲しい別れをしようと、或いはどんな悲劇的な死を迎えようと、その直後にチャンチャラチャンチャーン、と全てを水に流すかのようにはじまる絢爛豪華なパレード。なにがあっても「まぁいっか★」で終らせてくれる、あの能天気さなわけですね。あれだけのカタルシスのあとによ?陽気に両手をあげてニッコリ微笑むことができるのは、某歌劇団の舞台を経験している人でないと説得力がありません。あのノリは、まさに、某歌劇団のノリです。あの笑顔にすべての悲しみを押し殺して~とかいう解説はしないほうが逆にいいと思います。しかもみなさん階段に勢ぞろいされてました辺りもかなりツボ。

そこで終らないところがまたこの映画のニクいところでありまして、最後はきちんと、観ている者を「匣」の世界にひきずりこんで下さいます。観ている人全てが、雨宮がするするとあけた匣の中を、のぞきたい、という欲求にかられたのではないでしょうか。そして、現れた、「匣の中の娘」に。

スッテーン、となるか、ほぅ、と唸るかは、皆さまそれぞれのセンス次第ということでw


本年も、どうぞよろしくお願いいたします。