さて、平資盛です。
喜界島から大島に渡り征服したという3人組の頭目・資盛はさらに大島海峡をはさんで南に位置する加計呂麻島に渡ったことになります(ちなみに大島海峡、意外と水深が深く戦前は軍港として栄えヤマトやムサシも停泊、現在も大型船舶の避泊地として利用される他、最近給油活動云々でホットなインド洋派遣の補給艦ときわもここへ立ち寄ったとか)。北方から襲来する敵・源氏に対し、3人のうち最も後方に陣取ったことになり、また大島海峡をはさむ両岸・瀬戸内地方は琉球圏と内地との中継地で交通の要衝だったということで、ボスが押さえた地域としてはなるほど、の位置でもあります。
というわけで、奄美本島側の古仁屋(コニヤ)からフェリーにのって20分余り、生間(イケンマ)という集落から島へ入りました。そこから向かった先は、資盛が祀られているという大屯(オオチョン)神社。
大屯神社については、「諸鈍シバヤ」をやってる神社だと言えばご存知の方も多いのではないでしょうか。シバヤは「芝居」の転訛とも言われ、「室町時代の古歌舞伎の流れをくむ芸能」(案内板より)だそうで、毎年旧暦の9月9日に島の男性のみによって演じられる、国指定の重要無形民俗文化財。
余談ですが、ワタシが諸鈍シバヤをはじめて知ったのは「シシ切り」という演目によります。かつて狛犬サンから獅子とか獅子舞、シシ絡みの芸能をつらつら調べていた頃、獅子舞と言えば赤ら顔に金の歯並びでドロボウ風呂敷をまとった一人立ち(風流踊が起源トイウ)~二人立ち(仏教儀礼が起源トイウ)の獅子舞か、あるいは伊達藩系列で踊られている鹿(シシ)踊系のものといったところなわけですが、旧薩摩藩領でシシにかかる芸能はという猪(シシ)を対象にしたものになる、というのにヘヘェと唸った記憶がありまして。で、獅子舞・鹿舞ではシシは神さまもしくは神さまの使い的存在であるのが、旧薩摩藩領では倒される対象なわけで、これまた衝撃を受けた覚えがあるわけなんです。その、「シシ」が倒されるシシ舞こそが、諸鈍シバヤの「シシ切り」だったわけで。簡単な筋書きを申しますと、美女に岡惚れするシシを勇士が射殺す、というもの(→シバヤの様子はコチラ)。鹿児島の大平でやってるシシ舞なんて、横でチッコイ子どもの猪がぶるぶる震えてる様子まで演じられて、それはそれはカワイイんですョ。
話がそれてしまいましたね、えー、大屯神社。何を隠そうこの諸鈍シバヤこそ、平資盛がこの辺りを治めていた時に島の人に教え広めたとの伝説があるものだったりするわけです。・・・ここは、室町期の芸能を300年も先取りしていた資盛、さすがボウケンシャ!(←古)エライもんだなぁということにしておきましょう。境内には資盛の墓がありました、それもものすごく鳥居近くに。神社自体は湾に面した集落の北にある山沿い麓にあり、その北西側が集落の墓地。典型的なムラの氏神さんといった所でした。
さて、実は加計呂麻島には、もう一つ伝説があります。そいつが、実久三次郎という人に関わるもの。
この三次郎さんのお父さんと言う人がデスネ。なんと。南西諸島の貴種流離譚と言えばこの人!そう、鎮西八郎の名で知られる怪力の貴人・源為朝さんなわけです。保元の乱で崇徳上皇方についたために伊豆大島に流されたこのお兄さんは(史実では伊豆で反乱→自害)、その後黒潮に逆流して喜界島に到着、やがて琉球に流れ着いて王国の始祖・舜天となる前に、ちょっと奄美に寄り道してらしたわけですね。平3兄弟といい為朝さんといい喜界島を経由しておりまして、ストレートに奄美上陸しないのはなぜでしょうか。なにはともあれ、島の女性との間に生まれたのがこの三次郎くん。いやぁ、奄美オモシロイなぁw
三次郎はお父さんと負けず劣らず力持ちだったそうで、瀬戸内町の北隣にある宇検村にいたというこれまた力持ちの八丸と力比べをした際に、でっかい石を八丸の住む宇検村は名柄集落にむけて投げた!・・・けども手前の瀬戸内町は久慈なる地に落下したといいます。その距離、軽く見積もっても約6km!常人なれば野球のボールでも不可能です。ちなみにその時八丸は、久慈に落ちた石を三次郎のところまで蹴り返したといいます。常人なればサッカーボールでも(以下略)。
帰ってきてから瀬戸内町のHPをつらつら眺めていたら、なんでも近年、ユタさんのお告げで、三次郎とそのおかぁさんが埋葬されている場所が発見され、掘り返されたらしいw それはユカイすぎるぞ、奄美(≧∀≦)ノ ・・・結局何が掘り返されたんでしょうねぇ。
三次郎は今も加計呂麻島の北西端にある実久集落の神社に祀られており(三次郎神社)、その時投げた石と言われるものが残っているんだそうです。なんでも手形とか踏ん張った足跡とかが残ってるようでですね。これはゼヒとも見ねばならんということで実久に行きたいんですが、と言いますとこれが意外に遠かった。行ったらアナタが帰りに乗ろうとしているフェリーには間に合いませんよ、ということであえなく挫折しました。
諸鈍にはもう一つ、忘れてはならないスポットがありまして、それが「男はつらいよ」のシリーズ最終話、「寅次郎 紅の花」のロケ地であります。映画に使われた諸鈍の集落の南側に広がる白い砂浜とでいごの並木とあわせて、リリーの家が今もそのままに残っておりますわけですが、おうちの方は鍵がガッチリかけられて残念ながら入れずじまい。しかも天気はあいにくの曇り空、時折小雨がパラつくありさまで・・・テラ運ワルスw
少々お天気にはめぐまれませんでしたが加計呂麻島、かなりホットでユカイな島だったのでした。
大屯神社とその境内。シバヤは中央の土俵と本殿の間の空間で行われるらしい。
大屯神社境内にある資盛の墓。墓碑は「三位」以下は磨耗して読めず。
リリーの家。
リリーの家の前につづくでいごの並木。あぁ、天気さえよければナァ。
フェリーかけろまの図書スペースで「伝奇ノ匣」シリーズを発見。なかなか趣味がヨロシイw
喜界島から大島に渡り征服したという3人組の頭目・資盛はさらに大島海峡をはさんで南に位置する加計呂麻島に渡ったことになります(ちなみに大島海峡、意外と水深が深く戦前は軍港として栄えヤマトやムサシも停泊、現在も大型船舶の避泊地として利用される他、最近給油活動云々でホットなインド洋派遣の補給艦ときわもここへ立ち寄ったとか)。北方から襲来する敵・源氏に対し、3人のうち最も後方に陣取ったことになり、また大島海峡をはさむ両岸・瀬戸内地方は琉球圏と内地との中継地で交通の要衝だったということで、ボスが押さえた地域としてはなるほど、の位置でもあります。
というわけで、奄美本島側の古仁屋(コニヤ)からフェリーにのって20分余り、生間(イケンマ)という集落から島へ入りました。そこから向かった先は、資盛が祀られているという大屯(オオチョン)神社。
大屯神社については、「諸鈍シバヤ」をやってる神社だと言えばご存知の方も多いのではないでしょうか。シバヤは「芝居」の転訛とも言われ、「室町時代の古歌舞伎の流れをくむ芸能」(案内板より)だそうで、毎年旧暦の9月9日に島の男性のみによって演じられる、国指定の重要無形民俗文化財。
余談ですが、ワタシが諸鈍シバヤをはじめて知ったのは「シシ切り」という演目によります。かつて狛犬サンから獅子とか獅子舞、シシ絡みの芸能をつらつら調べていた頃、獅子舞と言えば赤ら顔に金の歯並びでドロボウ風呂敷をまとった一人立ち(風流踊が起源トイウ)~二人立ち(仏教儀礼が起源トイウ)の獅子舞か、あるいは伊達藩系列で踊られている鹿(シシ)踊系のものといったところなわけですが、旧薩摩藩領でシシにかかる芸能はという猪(シシ)を対象にしたものになる、というのにヘヘェと唸った記憶がありまして。で、獅子舞・鹿舞ではシシは神さまもしくは神さまの使い的存在であるのが、旧薩摩藩領では倒される対象なわけで、これまた衝撃を受けた覚えがあるわけなんです。その、「シシ」が倒されるシシ舞こそが、諸鈍シバヤの「シシ切り」だったわけで。簡単な筋書きを申しますと、美女に岡惚れするシシを勇士が射殺す、というもの(→シバヤの様子はコチラ)。鹿児島の大平でやってるシシ舞なんて、横でチッコイ子どもの猪がぶるぶる震えてる様子まで演じられて、それはそれはカワイイんですョ。
話がそれてしまいましたね、えー、大屯神社。何を隠そうこの諸鈍シバヤこそ、平資盛がこの辺りを治めていた時に島の人に教え広めたとの伝説があるものだったりするわけです。・・・ここは、室町期の芸能を300年も先取りしていた資盛、さすがボウケンシャ!(←古)エライもんだなぁということにしておきましょう。境内には資盛の墓がありました、それもものすごく鳥居近くに。神社自体は湾に面した集落の北にある山沿い麓にあり、その北西側が集落の墓地。典型的なムラの氏神さんといった所でした。
さて、実は加計呂麻島には、もう一つ伝説があります。そいつが、実久三次郎という人に関わるもの。
この三次郎さんのお父さんと言う人がデスネ。なんと。南西諸島の貴種流離譚と言えばこの人!そう、鎮西八郎の名で知られる怪力の貴人・源為朝さんなわけです。保元の乱で崇徳上皇方についたために伊豆大島に流されたこのお兄さんは(史実では伊豆で反乱→自害)、その後黒潮に逆流して喜界島に到着、やがて琉球に流れ着いて王国の始祖・舜天となる前に、ちょっと奄美に寄り道してらしたわけですね。平3兄弟といい為朝さんといい喜界島を経由しておりまして、ストレートに奄美上陸しないのはなぜでしょうか。なにはともあれ、島の女性との間に生まれたのがこの三次郎くん。いやぁ、奄美オモシロイなぁw
三次郎はお父さんと負けず劣らず力持ちだったそうで、瀬戸内町の北隣にある宇検村にいたというこれまた力持ちの八丸と力比べをした際に、でっかい石を八丸の住む宇検村は名柄集落にむけて投げた!・・・けども手前の瀬戸内町は久慈なる地に落下したといいます。その距離、軽く見積もっても約6km!常人なれば野球のボールでも不可能です。ちなみにその時八丸は、久慈に落ちた石を三次郎のところまで蹴り返したといいます。常人なればサッカーボールでも(以下略)。
帰ってきてから瀬戸内町のHPをつらつら眺めていたら、なんでも近年、ユタさんのお告げで、三次郎とそのおかぁさんが埋葬されている場所が発見され、掘り返されたらしいw それはユカイすぎるぞ、奄美(≧∀≦)ノ ・・・結局何が掘り返されたんでしょうねぇ。
三次郎は今も加計呂麻島の北西端にある実久集落の神社に祀られており(三次郎神社)、その時投げた石と言われるものが残っているんだそうです。なんでも手形とか踏ん張った足跡とかが残ってるようでですね。これはゼヒとも見ねばならんということで実久に行きたいんですが、と言いますとこれが意外に遠かった。行ったらアナタが帰りに乗ろうとしているフェリーには間に合いませんよ、ということであえなく挫折しました。
諸鈍にはもう一つ、忘れてはならないスポットがありまして、それが「男はつらいよ」のシリーズ最終話、「寅次郎 紅の花」のロケ地であります。映画に使われた諸鈍の集落の南側に広がる白い砂浜とでいごの並木とあわせて、リリーの家が今もそのままに残っておりますわけですが、おうちの方は鍵がガッチリかけられて残念ながら入れずじまい。しかも天気はあいにくの曇り空、時折小雨がパラつくありさまで・・・テラ運ワルスw
少々お天気にはめぐまれませんでしたが加計呂麻島、かなりホットでユカイな島だったのでした。
大屯神社とその境内。シバヤは中央の土俵と本殿の間の空間で行われるらしい。
大屯神社境内にある資盛の墓。墓碑は「三位」以下は磨耗して読めず。
リリーの家。
リリーの家の前につづくでいごの並木。あぁ、天気さえよければナァ。
フェリーかけろまの図書スペースで「伝奇ノ匣」シリーズを発見。なかなか趣味がヨロシイw