怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪日記vol.65 むくりこくり(ちょっとだけ改)

2006年05月29日 23時24分41秒 | 怪日記
先日和歌山にいった時に購入した『おしえてわかやま 民話編』に、由良町に伝わるという「もっくりさんとこっくりさん」というおもしろい話が載っていました。

ある男がよく働く嫁をもらったが、嫁はおかしなことに飯をまったく食べない。ある日出かけるふりをして屋根からのぞいていると、嫁の頭にもう一つの口があって、飯を炊きむしゃむしゃと食べている。おどろいて男が逃げ出すと、嫁が追いかけてきた。男が萱と菖蒲と萱と蓬のはえる草むらに逃げ込んだところ、嫁はどこかに消えてしまった。この婿を「もっくりさん」といい、嫁を「こっくりさん」と言う。以後、もっくりさんもこっくりさんも家に入らないように、家の前に菖蒲、萱、蓬を立てるようになった、というもの。

「もっくりさん」と「こっくりさん」と聞けば、まず思い浮かぶのは、南方熊楠が同じく和歌山は田辺市周辺で採集した「蒙古高句麗(もくりこくり)」というお化けであって、地理的にも近い由良町でも類似の名称が伝わっていたのであろうことを示唆しています。そしてまた、その「蒙古高句麗」に近い名を冠しながらも、物語は全国各地に分布する二口女、もしくは食わず女房の話であり、それに登場する人物(と化け物)に蒙古高句麗の名を分解した名前が与えられている、という特徴を持っていると言えます。

熊楠の『続南方随筆』(「郷土研究一至三号を読む」)が載せる「ムクリコクリ」は、3月3日に山に入るとその怪が出るので浜に遊び、5月5日に海に入ると出るので山に行く。ここでは姿かたちは述べられませんが、別の行では麦畑の中に高く低く一顕一消する、人の形をした化け物であるという。また、同じく田辺市の神子浜地域では鼬姿の小獣が麦畑にいて、夜に畑に侵入するものの尻を抜くという。あるいは、この話を熊楠に伝えた楠本松蔵という方の細君が子どもの頃に聞いた話によると、モクリコクリは水母のような形で群れて海上に漂っているとも言います。蒙古襲来時に水死した人の霊とも伝えるこのムクリコクリは、由良町もあわせれば地域ごとにてんでばらばらの伝承があるわけで、なんかようわからんけどもおばけなんだぁ、という印象だけは伝わってまいります。

そんなわけで、熊楠はさておき、由良町のこの話は一体なんだろう?とこの本を書かれたわかやま絵本の会代表の松下千恵さんにお手紙をしたためてお聞きしてみましたところ、興味深いお話が聞けました。

まず、「もっくりさんとこっくりさん」のお話自体は由良町が出している『文化財』という冊子の2号に載っていたもので、語った方はわからず、ひょっとしたら個人的に食わず女房の話と結びつけられて語られたのかもしれないとのこと。物語り自体がどの程度膾炙しているかどうかもわからないけれども、「もっくりさんこっくりさん」という言葉はわりと知られているようではありました。ちなみにこの話を今に伝える由良町の方々はすでに、「もっくり」「こっくり」が「蒙古」「高句麗」であるとはご存じなかったようです。(余談ですが、由良町には、水がポトリポトリとしたたり落ちる洞窟にこもり修行していたので「ポックリさん」と呼ばれるようになった、というお坊さんの話があるそうで、ポトリ→ポックリの転訛の例から、モクリコクリがモックリコックリとなったのは自然なよんだそうです)。

ありがたいことに、松下さん、今にこの話を伝える方々に問い合わせてくださったんですが、それによりますと、由良の漁民はむかしから九州や千葉まで漁に出ていたので、九州から誰かが聞いて来て伝えたのではないか、とおっしゃっていたらしいのですね(もっともこれは、ワタシがムクリコクリは蒙古高句麗という字が当てられるようですが、と手紙に書いたことに基づいて発想されたのかもしれません)。というのも、由良町のお祭の獅子舞は長崎風なんだとか。もしそれが本当ならば、こういった海を介して伝播する説話、というのはとてもおもしろいことですね。

そもそも「ムクリコクリ」の語は「蒙古高句麗」のほか「蒙古国(ムクリコク)」だとか「蒙古国裏(ムクリコクリ)」とかであると諸説あります。日蓮の頃からすでに蒙古をして「むくり」と読んだようで(日蓮遺文、「南条殿御返事」1276)その呼び名は当時からなのかな、と思わざるを得ないのですが、「蒙古」をなぜに「ムクリ」と読むか、というそもそもを考えるに、やはり後ろの「高句麗」にひきずられたんじゃないのかと思いますので(でないと「リ」音が現れる理由がわかりません)、おそらく「蒙古高句麗」が正しいのではないかと類推しております。

さて、江戸時代の随筆、噺本などには、子脅しの一種として「むくりこくりの鬼」という形で紹介されていることが見られます。『桜陰腐談』(1712)に「小児の啼くとき之を怖しとして蒙古高句麗来ると曰へは止まざるという者なし」、『籠耳』(1786頃?)に「小児の啼くを止むるときむくりこくりの鬼が来るといふ」をはじめ、それぞれを『嬉遊笑覧』(1830自序)、『世事百談』(1841)がひいています。前の二書には元寇の際に蒙古と高句麗の兵が壱岐・対馬・博多一帯で残虐行為に及んだ話が説明されてもいます。元寇直後より九州北部地域ではそれこそリアルな恐怖とともに人々の口の端に語り継がれていたであろうこの言葉なわけですが、「蒙古高句麗」に付随するこういったイメージは近世末には少なくとも江戸、大阪を中心に、有る程度人口に膾炙していたと考えてよいかと思われ*、「むくりこくり」という言葉はこちらの意味合いが一般的だったはずなのです。

このような子威しの語「むくりこくりの鬼」がもつイメージと、和歌山で伝わっている「ムクリコクリ」はどうも違うような印象を受けます。子威しでつかわれる「むくりこくりの鬼」はやはり蒙古軍に発するいわば外から来る怖ろしい鬼のような、あたかも生身の体を持っていさえするような雰囲気がありますが、和歌山のそれは、たとえ蒙古襲来が喚起されていたとしても、蒙古襲来時に「水死した人の霊」のような捉え方をしているわけです。そこに、前者がもっている「襲ってくる」というような切迫感のある恐怖は感じられないわけで。

由良町の祭の獅子舞が長崎風であることだけで和歌山のムクリコクリが北部九州の伝承が海から伝わってきた言葉とするにはあまりにも乱暴なのはいうまでもございませんが、原型が全く失われてしまったあげく言葉だけが独り歩きしたかのようにまったく別の説話と合体している「もっくりさんとこっくりさん」を見ていると、「むくりこくり」の語が「怖いもの」を指すらしい言葉として伝わる→この地域ではよくわからないけど漠然と怖いモノに対する名付けに「もくりこくり」という語が使用された、というような想像はできるかもしれないな、と思いました。

どうでもいいことではありますが、国語大辞典を調べると、「むくり」と「こくり」をひっくり返した「こくり蒙古遁げる」なる語になりますと、「元寇の時の蒙古と高句麗の連合軍のように、さんざんの有様で逃げていく、ほうほうの体で逃げる」という、意味になっちゃうようです。なお、出典は不明。

最後に、お世話になったわかやまえほんの会の宣伝。こちらの会発行の本には先日ご紹介した『絵解き熊野那智参詣曼荼羅』を含めおもしろい本がそろってます。ものによっては大阪では梅田のアバンザという高いビルの2階のジュンク堂大阪本店の地図売り場で手に入れることができるそうですので、ご興味おありの方は是非、お手にとって見てください。


*・・・『昨日は今日の物語』(1614~1624頃)や『醒睡笑』(1628)、浄瑠璃の「用明天皇職人鑑」(1705)にも鬼や恐ろしいものの例えとして「むくりこくり」の語がみえるようです(国語大辞典)。

怪評vol.21 疲れ果てたらおいでなせぇ

2006年05月27日 15時26分08秒 | 怪評
この世とあの世の橋掛に そうっと送ってさしあげやしょう

一度だけ~生きてェ♪と鼻唄うたうほど気に入っていた仕切人の放送が終わりまして、サンテレビでは必殺・橋掛人をやってます。毎週深夜午前3時前後には仕事人・激闘編が、そして時代劇チャンネルでは仕舞人が放映中であります。和歌山テレビでは助け人走る!をやっているという噂を聞きました・・・世間は必殺まみれです。

橋掛人、イイです。まず設定がステキ。谷中で墓守をしていた多助老人が殺されるところから物語りはスタートします。この多助老人、「橋掛人」の元締めだった方。生前に請け負った「仕事」が13あるらしく、絵図に暗号めいて書き遺してあった。元締めを継いだ多助の娘・お光(春光尼、西崎みどり)を中心に、「頼み人」を探りつつ、遺された仕事を実行していく、というツクリになっておりました。託された江戸市中の絵図を火であぶると、次の仕留める相手の居る場所に依頼人を表す言葉が赤い字で浮かび上がる、という趣向。ひゃぁすてき、と思ったら、かつて「新からくり人」で似たようなことがなされていたようです(『必殺シリーズ完全闇知識~やがて愛の日が編』必殺党、テレビジョン文庫より)。

本編では過去に数々の個性的悪役を演じてきたらしい(前掲書、参照)津川雅彦さんがかつぎ屋の柳次としてレギュラー出演された、という意外さがあったみたいです。柳さんの「仕事」の作法がまたカッコいいのです。仕留める相手のもとまで、しゅるりしゅるりと反物を投げ、その上を歩いていく。そして餓鬼の刺繍が施された反物から金糸を抜き出し、それでもって相手の頚を絞める。暗闇に白く光りながら波打つ反物がヒジョーに美しい上に、羽織までビシッと着こなしたヨソイキ姿ががたまらない。逆に悪役をやっていた津川さんを見てみたくなります。

必殺まみれな日々を送っていたところ、昨日ひさしぶりに、スタンダードな時代劇としては一、二を争う暴れん坊将軍を見てたのですが、これがねぇ・・・なんだか物足りないんですわ(笑)。もとからそんなにおもしれぇと思って見てたわけではなく、どちらかと言えば「今日の悪人の決意の台詞は何か*」を賭ける楽しみだけで見ていたようなもんだったんですけども。なんだかむしょうにね、鼻にツクわけです。えらそぶりやがって、なんなんだテメェは、というか(笑)。

うまいことは言えませんが、江戸情緒のにじみ具合も、必殺がだんとつに抜きん出ているわけです。必殺のお歴々は表の世界ではまっとうな町人ですから、夜と昼の顔の違いを鮮明にするためにも、昼の稼業の様子が自ずから多く描かれる。どこまで正確に再現されているかの正否までは存じ上げませんが、そこには髪結い、仕立て屋、三味線屋、かつぎ屋、屋根職人、鳥追い、組紐屋、鍛冶屋といった、江戸の市井の人々の日常の暮らしが色濃く見える。たぶんここまで「江戸」を感じる時代劇というのはそうそうないのではないでしょうか。必殺は、「江戸」にどっぷり、浸れるわけです。

さらに言えば、かつてワタシは必殺仕事人について、仕事人たちによる「仕事」が言ってみれば私人による私刑である以上は善人がとことん悪い目にあう、それが見るに忍びない、と思っていたこともありますが、・・・言うたら暴れん坊においての市井の人々(必殺で依頼人に当たるような方々)は、確かにひどいめに遭いはするんですよ、でも基本的に「いい人」は死なない。過去に悪事を働いていても、殺しさえやってなければ改心の余地もある。実に都合よく正義の扇が飛んできますし、うそぉつけ、と言わんばかりに助けが入る。・・・必殺を見慣れると、なんだか鼻白むわけです(笑)。

考えて見れば必殺稼業をやってる連中と言うのは、晴らせぬ恨みを晴らすため、本当に悪いヤツだけを仕留めるんだけれども、天下の風来坊にしても長七郎ギミにしても桃さんにしても、出あえ出あえで出てきたお侍さんは全部ぶった斬っちゃうわけでしょ。仕切人第5話「もしも鳥人間大会で優勝したら」を見ててもその差は歴然なわけです(その他大勢の藩士には手を出しません)。「お上」だとか「正義」の立場にある連中と言うのは、こんなにいとも簡単に「正義」の名の下、関係のないやつらまでぶち殺してしまうんだなぁ、ということになるわけです(ミネ打ちとかゆうても死んでますから、アレ)。ばったばったとなぎ倒していく殺陣の見事さに拍手喝采するのがテイストの話ですからそう言う所を比較しても意味はなく、つまりはワタシの嗜好性の変化の問題に過ぎないものなんですけどね(笑)。

で、さらに昨日、「木枯らし紋次郎」も見ておりました(CS放送)。前掲、必殺党による『完全闇知識』で、必殺のファンクラブをたちあげた山田誠二さんが必殺以前には紋次郎にはまっていた、とおっしゃるので、ふぅんと思ってものすごい久しぶりに見たわけです。これが。

・・・こんなにカッコよかったっけ(゜ロ゜)?と思ったわけで(笑)。「あっしには関わりのねぇことで」という言葉の意味がむかしよりわかるようになったのか、「無宿の渡世人」の身だからと、ひたすら人との関わりを避けるその姿勢がまずイイ。チャンバラシーンもまたいいわけです、お侍が建物内でやるいわば舞うような派手さは全くなく、どちらかというと凶暴かつ野趣あふれる感じでやけにリアルで生々しいのに、なぜか絵としてはめちゃくちゃカッコイイ。40分すぎたぐらいからはもうかっこよすぎて逆にリアリティがねぇや、やっぱり必殺だな、とあっさり引き返してきましたけども。なんだかこう、アウトヒィロゥというのは、実によいですねぇ。

やくそく かけひき ほしうらない♪
というわけで、次は何がはじまるんでしょう、楽しみです。とりあえずDVD買うお金を貯めるかナァ。


*・・・天下の風来坊・徳田新之助が将軍サマだとわかっても始末することを決意する際に悪人どもが吐くセリフは、ご存知のように「上様でもかまわぬ」「上様の名を語るふとどきものじゃ」「こんなところに上様がおられるわけがない」の3パターンに分けられますが、それを悪人の顔ぶれや悪逆度などから当てっこするわけです。・・・今度脚本家もあわせて統計とってみようかなぁ←もう誰かしてそうだけど。

怪評vol.20 妖婆死棺の呪い

2006年05月24日 18時43分47秒 | 怪評
怪道をゆく(仮)も本日で開設一年を迎えました。情報を発信するというよりは、勉強させていただいたことの覚え書きのように使っているだけの他愛のないブログですが、曲がりなりにもなんとか続けてこられましたのも、支えてくださった皆様のおかげでございます。ありがとうございます。今後とも、精進してまいりたいと存じます。

というわけで、今日はいつきのおじぃちゃんが貸して下さった、「妖婆死棺の呪い」というロシア映画について。この映画に出てくる「ヴィイ」が、以前内輪で話題になり、そんなら皆で見ようということになったからです(ワタシはその時いなかったんですけども)。これがなかなかおもしろい。もう2回見ちゃいました。ちょっとネタバレ込みで書きますから、ストーリーを知りたくない、という方は注意してお読み下さい。

1967年に制作されたロシア映画だそうです。文豪ニコライ・ゴーゴリがロシア・ウクライナ地方に伝わる民話を描いたという『Вий(ヴィィ)』が原作になっています。旧・邦題は「魔女伝説・ヴィー」だったらしいんですが、なんでまたこうもアカラサマにC級化しちゃったんでしょう、「死棺の呪い」って(笑)。 

簡単なあらすじをいいますと、神学生・ホーマが休暇で帰省中に道で迷い、一夜の宿をとったところ、その家は恐ろしい妖婆の住む家だった。なんとか逃れようと妖婆に打ちかかったが、コト切れる寸前に妖婆は美しい娘に姿を変える。恐れおののいて神学校に戻るも、校長からとある村の名士の娘が突然亡くなったために、その祈祷をするよう命じられる。しぶしぶ出向いた先で教会に横たわっていたのは、妖婆が死ぬ間際に姿を変えた娘・ミハエルだった。祈祷のため、ホーマは三日三晩、ミハエルと共に教会に閉じ込められることになるが・・・。というもの。

これはおそらく「ワッ!」的におどろかせたいんだろうなぁというのはわかるけれども、2単位ぐらい何かがずれてる、というシーンがいくつか。ヴィィをはじめとする魔物さんたちには拍手喝采です。一反化繊くん、これは絶対見るに値する映画だよぅ。どうでもいいことですが、ほうきをかかえた妖婆がホーマに肩車状に乗りかかってそのまま飛行する、というシーンがあったんですけど、クルト・バシュビッツの『魔女と魔女裁判』(だったはず)の「先生、もっと低く・・・」の挿絵の構図をふと思い出しました。

魔女が変じた娘・ミハエルを演じているナターリヤ・ヴァレリイが壮絶に美しい方で、それだけになかなかの凄みがあります。言ってしまえば怖いのは彼女だけだったんですが(笑)、ホーマが張った結界の外側をぐるぐる回り続けるシーンはとにかく圧巻。必見です。

幻想世界小事典HPによりますと、ヴィィとは「小人の親玉で、そのまぶたは地面までたれている」とあります。映画では、結界の中にいるためにホーマを見つけられないミハエルがヴィイを呼んでその居場所を探させるという形で登場します。まぶたで常に目が覆われていて、一度ひらけば結界ですら無効化して見つけてしまう、というあたり、「見る」ということに強力な力を持っている魔物なわけです。三晩、恐ろしい魔女から逃れ逃れてもう少し、という時に、その「もう少し」を打ち砕きにやってくるヴィィは一番のハイライトなのですね。「妖婆」は物語をはじめるモノであり導くモノであり終わらせるモノでもあるんですが、やっぱりタイトルは『Вий(ヴィィ)』が正しい。「魔女伝説・ヴィィ」は・・・おしぃ。「妖婆死棺の呪い」は・・・おもしろいけどツボを間違ってるわけです(笑)。

小説はきっとコワーイのでしょうね。でもこの映像では、ミエナイ、とむずかる(ように見える)ヴィイの愛くるしさ。長いまぶたを周囲の魔物どもに持ち上げさせ、頭の上にパタンと乗せられとるのが耳にしか見えない。そして円らな瞳でモグロフクゾウ並みの「ドーン!」。もうー、悩殺されます。

ネットをサーフィンしておりましたら「ティル・ナ・ノーグⅤ」というゲームに同名の「ヴィイ」という敵キャラが出てくるらしいことが載っておりました。設定によると「南ロシアに伝わる、地中に棲む老婆の姿をした妖怪。よく人にとり憑くといわれ、時には死んだ若い娘にとり憑き、その姿で現れたりする」とありましたが、おそらくこの映画に着想を得たとかでしょうか。

数年前にDVD化されたようで、特典映像がとてもいいのですって。ゴーゴリの生誕130周年を記念して1939年に製作された短編記録映画「ゴーゴリゆかりの地を巡って」に加え、帝政時代に作られた、「肖像画」「スペードの女王」「歓喜する悪魔」の3作品が見れるそうな。ちょっと、興味があります。

今晩も、多分見ます。

ゆめのはなし

2006年05月23日 23時42分24秒 | その他
静かな午後の光がすだれ越しに、黒光りする縁側の板を、井草の薫りのほのかに残る日焼けした畳の上を、ほつり、ほつりと落ちていく。まだ決してあたたかくはない風をうけながら、すだれはゆらりゆらりと外の空気を運ぶ。つられて畳にうつる影の形も、おいでおいでとおぼろにゆれる。

たてに、よこに、組み方を変えながら大きなひとつの四角におさまる何枚もの畳の波をながめると、真ん中で円座をくむ大人の背中が、三人、四人と笑っている。うたうようにあおぎみて、幼女はくるりくるりと舞い歩く。帯にさされた風車が、背中でからころ音を立てる。

あああああ。
奇妙な声に振りかえれば、油すましに似た薄青い顔の男が立ってゐる。
はいってゐゐかな。
すだれの合間からぬっとすべりこみ、ずゐと体をさしゐれて、どすりと重ゐ足を縁側にかける。どすり、どすりと板の間を、どすり、どすりと畳の上を。山歩きの後の沓は土にまみれ、歩くたびに底がきらり、きらりと光をはじく。
おかぁちゃん、おくつに、きばが、はえている。
足跡は畳の上に、黒く、そそけた孔を掘りこんでいく。

大人の背中のななめ隣にしゃがみこみ、男はがぶりと水を飲む。
おかしも、ちゃんと、くださゐよ。
責めるように、男は幼女をななめに見る。背中を押された幼女はただ、とまどいながら、手を差し出す。
おゐしくないねぇ。
男は、おかしそうに、哂うのだ。

みずどりは、ひがしからにしへたびするんだよ。やまのみねでたびじたくをおえ、そろそろたどりつくころだよ。
丸ゐ男は、ほそゐ目をさらにほそくした。幼女はただ、薄青い顔をみあげ、牙のはえた泥だらけのくつを指さした。

おじさんの、みんぞくがくってなぁに。

きみともどうもすれちがうようだ。
見るまにむっつりと青くなった男は、両手をついて体をひねり、縁側の隅へところがる、ころがる。そのままじっと、外を眺める。はじめからそこにゐたように。靴のよごれは落としても、その背中は、このとろとろとした部屋の中のモノを受け止めようとはしないのだ。

男の足あとは、あたりに黒々と残っている。靴裏の牙がほりおこした畳表は、そこいらじゅうでそそけたっている。

よごれだけでも、おとさなくっちゃあ。
幼女は濡らした袂で、くつ痕をぬぐう。ぬぐってもぬぐっても、絞りたりない水が袂からにじみだし、畳に広がっていく。袂が水をはきだしている。背中の風が、まわっている。きれいにみえて、なんて後味が悪いのかしら。幼女の背中で母がため息をついた、その時。

あぁ、みずどりがきた!
男がうれしそうな声をあげた。すだれが一瞬、宙を舞う。はばたきはさほど強くはないというのに、はじかれたようにまきちらされたその羽根は、わさりわさりと宙を舞い、一枚、二枚、風に流され、部屋の中に流れ込む。

風の流れが、よめない。いや、風をよまないのは羽根のほうか。けがれない光景に、なぜこうも心が騒ぐのか。なぜこうも、波立つのか。

ふいたばかりなのに、ね。
まだ乾ききらない湿った畳の上に落ちては。右へ左と気ままに舞い落ちる羽根は、掴もうとする幼女の指の間をすり抜け、ぺたり、ぺたりと滲んでゐく。羽根は男の足跡を拭いた水を吸っていく。羽根は床にまつわりつき、よれて、よれて、よれて。


水鳥がついと頚をもたげ、謡うように啼いた。
「あゐだろ、あゐ」

怪日記vol.64 大会検討会

2006年05月22日 23時41分14秒 | 怪日記
書こう書こうと思いつつ、いろいろに逡巡しているうちに時は流れ・・・幸いなことに大会検討会をまとめなければならないという役目上再び当日の討論を聞く機会に恵まれましたので、やはり自分のためにもまとめておこうとKeyboardに向かいました。

「王権と怪異」についての第2回大会がしんどい結果に終わったことで行われた今回の検討会だっただけに、「王権」の問題が活発に議論されました。それには、恠異学会綱領がかかげる「前近代王権論を読み解く方法論的ツールとしての「怪異」の位置づけ」のように綱領に「王権」解読が記されていることに対する歴史学以外の分野の方々からの根強い批判があったことがあります(ワタシ個人的には、恠異学会で歴史学の側がそれほど「王権」ばかり言ってきたというような印象はなかったんですけどもね)。

ために、西山代表から「怪異」もしくは怪異学会と「王権」の関係やそれが綱領に書かれる経過が、改めて語られました。「怪異」は「王権」研究のツールとして有効だという代表の意見には、以前「恠異学のこと」でも書かせていただいたようにワタシも深く賛同することです。その上で、「王権」に対する互いの対立点を探りあい、また、互いのスタンスが忌憚なく議論された、というふうにお見受けいたしました。ただ、それでも歴史学以外の方は得心されたなかったように思います。「王権」自体を論じることによって眠りにつかれたS女史を見ていると、この亀裂はもっと根の深いというか・・・学問間における方法論の違いに根ざしているんだろうなぁと感じたわけで。

歴史学は史料をもとに成立する学問だと思います。思うに、「怪異」と「王権」がどうとかいう問題は、歴史学と「王権」の問題と言いますか、歴史学そのものがもつ限界に端を発した亀裂なのではないでしょうか。恠異学会の古代・中世の歴史系の方々が「王権」を語る、もしくは「王権」に偏りがちになるのは、古代・中世を対象とする歴史学では、「王権」を抜きに語れないからなんじゃないでしょうか。なぜなら遺された史料のほとんどが、「王権」を中心としたモノ・コトについての史料だからです。言い切っちゃうのは、乱暴なんですけども。

検討会で榎村寛之さんが、古代では情報の発信者側のことはわかるが、受容者側のことはわからない、対する近世では発信者と受容者双方のライブの反応が検討でき、また受容者同士を並列して検討することも出来る、とおっしゃったのは、それを暗に示しているのではないかなぁと思います。発信者側しか残っていないとはいえ受容者がなかったわけでは絶対にないのだけどそれをひろうのは難しい。可能なのは、受容者の反応を、発信者側が記録にとどめた範囲のモノゴトで・・・でも結局それは、発信者側である「王権」の論理で記録されてしまうものなわけで。ワタシ自身全くの勉強不足ですから、そうではない例もきっとたくさんあるとは思いますが。

近世以降、恠異が王権を介さずにも語れるようになるのは、「王権」とは別のところに発生した史料がたくさん残っているからではないのかなぁと。・・・当たり前すぎますね、すみません。

検討会終了後、実は威吹亀さんに、テキスト重視という方向性であれば動物学は単にテキスト解釈のためのツールに留まってしまうんじゃないか、ということについてうかがう機会を得ました。いわく、動物学というスタンスで怪異を考えるならば認識論的なものになる可能性は高いだろう。かといってこれまで自分の築いてきた動物学という方法論は曲げられるものではないし、曲げるつもりもない。「学際」とは、知を共有することによって新たな知を生み出すことであって、だから、怪異を考える上での土台となるテキスト解釈において、動物学の見地から確実に出来るものを確実にしていく、それで構わないのだ、と。・・・あぁ、学際とはこういうことをいうのだと、ワタシは痛く感じ入りました。こいつを聞いた以上はブログに上げねばなるめぇ、というのがありまして、拙いながらも一生懸命書いております。

特に古代、中世の歴史学は、史料の限界から王権に拘泥せざるを得ない、という面がある、と思います。だからこそ、古代の、そして中世の文学やその他の分野が、王権とは離れた怪異を語ってほしい。そうやって、パズルのピースをつなぎあわせていけたらなぁ、と思う。限界や欠点を補い合うことが学際ではないか、と、隅っこの方からの遠吠えではありますが、こっそり思ったわけです。

実は本日、五木のおじいちゃん、KR老師、女将とワタシの4人で、月に一度の勉強会をしていた時、ふとしたことがはずみで集中力が切れてしまった後、すっかり話題について行けなくなったもんだから(笑)↑のようなことをぼんやり考えていたわけです。魂が抜けてたのではなく、別のことを考えておりましたのです本当にすみません(v_v)。

たとえば自分は恠異学会と離れたところでは、いずれ園韓神社についてまとめることができたらなぁ、と考えております。史料の少ない事象について考えるには、そのものを取り囲む出来事、仕組み、そして社会全体からの位置づけをはかっていくことが必要です。修士論文の時点で自分に欠けていたと強く感じるのは、対象を中心にすえた同心円が余りにも狭かった、という点。そして思い至ったのは、対象に関わる神話であろうと、神祇制度であろうと、何をするにもその背後には「王権」はつきまとうのではないか。特に古代においては、「王権」を中心とした社会と切り離れては対象は存在し得ない。なぜなら、史料は「王権」を中心にして遺されたものだから。避けて通れば、見えるものも見えない、のかもしれない。それは、怪異と同じで。

・・・でも、対象の大きさに途方に暮れて、しんどいな、と思ったわけです。うーん、今さら気づいたんかいアホんだら、ということばかりな気がします。いろいろ考えたせいでちょっくら知恵熱が出てきたので、今日はこの辺で。