どーん。
とーれとれぴーちぴーちエビ料理~(正:カニ料理 byカニ道楽)な季節に志摩半島とかうれしすぎと思ったら、エビ漁解禁は10月1日だったという罠(°Д°;)!さらにアワビ採りな海女さんが海から上がるのは9月14日だったという罰(°Д°`)!なにこのちょう谷間な時期ー!というシルバーウィーク真っただ中に別水軒が降臨した先は、三重県は伊勢志摩でありマス(写真は英虞湾に面する浜島町の伊勢えび大王像)。
志摩半島を訪れるとその多くのヒトビトがどっかの皇大神宮を参拝されるてのはここ数百年来のニッポン人のテッパンだったりしますけども、その辺は非国民な感じで軽快にスルー。お出かけ先をいつも謎に古代の行政区分で説明したがるワタクシでありますが、志摩半島というだけに、この辺は神宮のある伊勢の辺りをのぞくほぼ全域がかつての志摩国になりますね。今回のアテクシの旅は、まさにこの志摩国が舞台なのであります。
さて。それは、一冊の本から始まりました。
本の名は、『「異聞」平知盛――生きていた平知盛』金子堅治・著、三重タイムス出版部 平成2年刊。その小冊子を目にしたのはジジさま宅です。著者・金子さんは伊勢平氏会に名を連ねてらっしゃるようなご当地出身の方らしい。平知盛といえばご存じのとおり、清盛の四男で入道相国最愛の子といわれた平氏随一の猛将。清盛の死後没落の途をたどる平氏にあって壇ノ浦まで一族を率い、その最期には「見るべき程のことをば見つ」と碇かついで華々しく散った阿部寛(←タッキー義経)ではないですか。その知盛が生きているですってぇ、と吸い寄せられるように手に取った日のことは今でも忘れられません。・・・言うても刊行当時までさかのぼるよぅな古い記憶じゃないですケドw
いわく、伊勢市矢持町には知盛創建といわれる知盛山久昌寺なる寺院があり、知盛は壇ノ浦で死なず平家再興の意を持して密かにこの地へ落ちのびた。寺には知盛の墓や平家一門の供養塔が残り、また矢持町・横輪町にはいまもその末裔と称する人々が住んでいるという。いかにもへぇほぉふぅんな話でありますが、それこそアテクシが最も好みとするところ。ほじゃナニか、大物浦に現れたアレは、生霊もといホンモノか・・・ふぅむ何たる手のこんだ嫌がらせデアルコトカ!!てなわけで、以来いつかはここをメインに志摩を探検してやるぜぇと心に誓っていたアテクシ、このたび念願かなってようやく訪れることができたというわけデス。
そのくせ大阪を発った時間がそもそも遅かった上に二見シーパラダイスとかで無駄に喜んだりしてたせいで肝心の里に着いたのはずいぶん夕暮れ押し迫る時間だったのでありますが。一宇郷とも呼ばれるこの地域、位置的には志摩半島のちょうど真ん中ぐらい、どっかの皇大神宮からは二山ほど南にいったとこ。「死んでない知盛」本掲載の寛永11年(1634)に書かれたという某末裔の経歴文(家の由来を書いたモノ)によると、伊勢山田の船江村から伊勢入りし前山で3~4年過ごしたあと覆盆子谷(←矢持町)に入ったとありますから当地域へは伊勢側からの進出がうかがえます。ようは伊勢側の水系のヒト達てことスね。
志摩半島の伊勢湾と熊野灘(太平洋側)をわける大王崎沖の海が名だたる難所であったこともあって、たぶん南北の往来に陸路をとることはさほど厭われなかったんじゃないかと思われマス。熊野灘側の人が伊勢へ出るには目的地によって道を選んだそうですから、いくつかの街道が南北を貫いていたようですし、一宇郷はその通り道からさほどはずれていなかったみたいですね。こちとら車でざっと走った感じでは、昔の人の健脚なら、一宇郷からなら伊勢側へも五ヶ所湾側へも一日あれば十分往復できる距離と思われました。
平家の落人の村というと隠れ里なイメージがあるやもしれませんが、そんな立地も手伝ってかここの知盛さんの末裔を標榜される方々はまったくカクレておりません。「死んでない知盛」本に掲載の「黒田家所蔵系図」によると、鎌倉幕府滅亡の折には北条方について近江番場峠で自害したヤツがいれば南北朝期には南朝方について和泉で討死してるヤツがいる。また天文年間には伊勢国司北畠の下で山田合戦に活躍したものがいれば時代下って九鬼臣下で秀吉の朝鮮の役に死んでるのもいる。・・・なにこの、志摩半島の歴史を凝縮した出来事一覧な感じはw
ちなみに今も続くその某家の例の「経暦文」てのは、戦国時代に志摩半島を支配した九鬼氏が兵庫の三田に飛ばされたあとに志摩に入った内藤家に対して自らの土地支配の正当性を主張するため提出されたものでして。身も蓋もない&言うまでもないことをゆうて申し訳ないですが、伊勢は相国入道清盛ら伊勢平氏を出した土地柄なわけです。ここいらに興った土豪が自らの出自を平家につなげるのはこれまた自然と言えましょう。ついでに後日五ヶ所湾をドライヴしていた時に町の古老に聞いた話によりますと、旧南島町の海岸沿い(熊野灘側ネ)には名の後ろに「竃」のつく集落が七つあり、そいつは平家落人の村だと話してくださいましたしネ。伊勢側にも熊野灘側にも平家落人伝説があるわけです。
ここに平家の隠れ里があるというのは古くから割と知られた話でありまして、現在矢持町一帯は「平家の里」ということで村おこし中。里の橋のガードレールは全部無駄に赤く塗られてたりして、出したい雰囲気は気持ちだけ伝わってくる感じ。また地元で採れた野菜なんかの直売所がありましてね。そこに「名物 御平家餅」なんてのぼりが立ってるもんですから、それは食わねばと早速注文したらば、10分ほどたって出てきたのが↓↓↓。
これは・・・五平餅ではないですかね?「ゴヘイモチ」→「ゴヘイ」+「ケ」+「モチ」→「ゴヘイケモチ」→御平家餅。ってダジャレかオイーッてな具合に、ツレが爆笑するぐらい激怒したワタシw こってりミソが相当な満腹感をもたらしてくださいますので、里に行かれる方はぜひどうぞ。
さて、メインの久昌寺です。どうも曹洞宗寺院なんだそうです。ご住職は不在で残念ながら中は全く見れなかったですが、知盛遺物としては建久9年(1198)に作成されたという位牌があったり、平家の紋である揚羽蝶の紋が入った和鏡があったり。ちなみに和鏡は「天下一藤原吉重」の銘があるらしいので桃山期以降の作ですなw また昭和27年に本堂を新築した際に本堂裏手の斜面にある知盛の墓を発掘した(←オイw)ところ、寛文の頃の写経石、さらに人骨二本が出たといいます。人骨は平安末期と推定されるとのことですがどんな鑑定をしたのかは存じませんw 土饅頭にのってた五輪塔は室町後期をさかのぼるものではないようですしネ。これだけ並べただけでも混ざってる感がありますねぇ。
ただし本尊の阿弥陀如来は承久3年(1222)の銘があり、幸賢さんという仏師が作った国宝に指定されるほどのモノなんだそうですが←ずっと同じ場所にあった保証はどこにもないわけで。とりあえずこの辺の土地を切り拓いた人たちのルーツは、室町後期ぐらいと考えてよろしいかと思われます。積年のターゲットだった知盛の里・・・来てみれば意外とふぅんで終わるものでw 知盛が隠れ住んでた洞窟とか山上の観音堂とかには行けておりませんので、またいつか、来ることがあれば。
さてさて、次回はだいだら法師の大王崎についてどぇす。
久昌寺の本堂裏斜面にある知盛の墓。
その右に広がる墓石群。40基を超えるそうで、平家一門の供養塔と考えられているそうであります。