怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.141 志摩ものがたり(1)

2009年09月28日 02時07分19秒 | 怪道

どーん。
とーれとれぴーちぴーちエビ料理~(正:カニ料理 byカニ道楽)な季節に志摩半島とかうれしすぎと思ったら、エビ漁解禁は10月1日だったという罠(°Д°;)!さらにアワビ採りな海女さんが海から上がるのは9月14日だったという罰(°Д°`)!なにこのちょう谷間な時期ー!というシルバーウィーク真っただ中に別水軒が降臨した先は、三重県は伊勢志摩でありマス(写真は英虞湾に面する浜島町の伊勢えび大王像)。

志摩半島を訪れるとその多くのヒトビトがどっかの皇大神宮を参拝されるてのはここ数百年来のニッポン人のテッパンだったりしますけども、その辺は非国民な感じで軽快にスルー。お出かけ先をいつも謎に古代の行政区分で説明したがるワタクシでありますが、志摩半島というだけに、この辺は神宮のある伊勢の辺りをのぞくほぼ全域がかつての志摩国になりますね。今回のアテクシの旅は、まさにこの志摩国が舞台なのであります。

さて。それは、一冊の本から始まりました。
本の名は、『「異聞」平知盛――生きていた平知盛』金子堅治・著、三重タイムス出版部 平成2年刊。その小冊子を目にしたのはジジさま宅です。著者・金子さんは伊勢平氏会に名を連ねてらっしゃるようなご当地出身の方らしい。平知盛といえばご存じのとおり、清盛の四男で入道相国最愛の子といわれた平氏随一の猛将。清盛の死後没落の途をたどる平氏にあって壇ノ浦まで一族を率い、その最期には「見るべき程のことをば見つ」と碇かついで華々しく散った阿部寛(←タッキー義経)ではないですか。その知盛が生きているですってぇ、と吸い寄せられるように手に取った日のことは今でも忘れられません。・・・言うても刊行当時までさかのぼるよぅな古い記憶じゃないですケドw

いわく、伊勢市矢持町には知盛創建といわれる知盛山久昌寺なる寺院があり、知盛は壇ノ浦で死なず平家再興の意を持して密かにこの地へ落ちのびた。寺には知盛の墓や平家一門の供養塔が残り、また矢持町・横輪町にはいまもその末裔と称する人々が住んでいるという。いかにもへぇほぉふぅんな話でありますが、それこそアテクシが最も好みとするところ。ほじゃナニか、大物浦に現れたアレは、生霊もといホンモノか・・・ふぅむ何たる手のこんだ嫌がらせデアルコトカ!!てなわけで、以来いつかはここをメインに志摩を探検してやるぜぇと心に誓っていたアテクシ、このたび念願かなってようやく訪れることができたというわけデス。

そのくせ大阪を発った時間がそもそも遅かった上に二見シーパラダイスとかで無駄に喜んだりしてたせいで肝心の里に着いたのはずいぶん夕暮れ押し迫る時間だったのでありますが。一宇郷とも呼ばれるこの地域、位置的には志摩半島のちょうど真ん中ぐらい、どっかの皇大神宮からは二山ほど南にいったとこ。「死んでない知盛」本掲載の寛永11年(1634)に書かれたという某末裔の経歴文(家の由来を書いたモノ)によると、伊勢山田の船江村から伊勢入りし前山で3~4年過ごしたあと覆盆子谷(←矢持町)に入ったとありますから当地域へは伊勢側からの進出がうかがえます。ようは伊勢側の水系のヒト達てことスね。

志摩半島の伊勢湾と熊野灘(太平洋側)をわける大王崎沖の海が名だたる難所であったこともあって、たぶん南北の往来に陸路をとることはさほど厭われなかったんじゃないかと思われマス。熊野灘側の人が伊勢へ出るには目的地によって道を選んだそうですから、いくつかの街道が南北を貫いていたようですし、一宇郷はその通り道からさほどはずれていなかったみたいですね。こちとら車でざっと走った感じでは、昔の人の健脚なら、一宇郷からなら伊勢側へも五ヶ所湾側へも一日あれば十分往復できる距離と思われました。

平家の落人の村というと隠れ里なイメージがあるやもしれませんが、そんな立地も手伝ってかここの知盛さんの末裔を標榜される方々はまったくカクレておりません。「死んでない知盛」本に掲載の「黒田家所蔵系図」によると、鎌倉幕府滅亡の折には北条方について近江番場峠で自害したヤツがいれば南北朝期には南朝方について和泉で討死してるヤツがいる。また天文年間には伊勢国司北畠の下で山田合戦に活躍したものがいれば時代下って九鬼臣下で秀吉の朝鮮の役に死んでるのもいる。・・・なにこの、志摩半島の歴史を凝縮した出来事一覧な感じはw

ちなみに今も続くその某家の例の「経暦文」てのは、戦国時代に志摩半島を支配した九鬼氏が兵庫の三田に飛ばされたあとに志摩に入った内藤家に対して自らの土地支配の正当性を主張するため提出されたものでして。身も蓋もない&言うまでもないことをゆうて申し訳ないですが、伊勢は相国入道清盛ら伊勢平氏を出した土地柄なわけです。ここいらに興った土豪が自らの出自を平家につなげるのはこれまた自然と言えましょう。ついでに後日五ヶ所湾をドライヴしていた時に町の古老に聞いた話によりますと、旧南島町の海岸沿い(熊野灘側ネ)には名の後ろに「竃」のつく集落が七つあり、そいつは平家落人の村だと話してくださいましたしネ。伊勢側にも熊野灘側にも平家落人伝説があるわけです。

ここに平家の隠れ里があるというのは古くから割と知られた話でありまして、現在矢持町一帯は「平家の里」ということで村おこし中。里の橋のガードレールは全部無駄に赤く塗られてたりして、出したい雰囲気は気持ちだけ伝わってくる感じ。また地元で採れた野菜なんかの直売所がありましてね。そこに「名物 御平家餅」なんてのぼりが立ってるもんですから、それは食わねばと早速注文したらば、10分ほどたって出てきたのが↓↓↓。



これは・・・五平餅ではないですかね?「ゴヘイモチ」→「ゴヘイ」+「ケ」+「モチ」→「ゴヘイケモチ」→御平家餅。ってダジャレかオイーッてな具合に、ツレが爆笑するぐらい激怒したワタシw こってりミソが相当な満腹感をもたらしてくださいますので、里に行かれる方はぜひどうぞ。

さて、メインの久昌寺です。どうも曹洞宗寺院なんだそうです。ご住職は不在で残念ながら中は全く見れなかったですが、知盛遺物としては建久9年(1198)に作成されたという位牌があったり、平家の紋である揚羽蝶の紋が入った和鏡があったり。ちなみに和鏡は「天下一藤原吉重」の銘があるらしいので桃山期以降の作ですなw また昭和27年に本堂を新築した際に本堂裏手の斜面にある知盛の墓を発掘した(←オイw)ところ、寛文の頃の写経石、さらに人骨二本が出たといいます。人骨は平安末期と推定されるとのことですがどんな鑑定をしたのかは存じませんw 土饅頭にのってた五輪塔は室町後期をさかのぼるものではないようですしネ。これだけ並べただけでも混ざってる感がありますねぇ。

ただし本尊の阿弥陀如来は承久3年(1222)の銘があり、幸賢さんという仏師が作った国宝に指定されるほどのモノなんだそうですが←ずっと同じ場所にあった保証はどこにもないわけで。とりあえずこの辺の土地を切り拓いた人たちのルーツは、室町後期ぐらいと考えてよろしいかと思われます。積年のターゲットだった知盛の里・・・来てみれば意外とふぅんで終わるものでw 知盛が隠れ住んでた洞窟とか山上の観音堂とかには行けておりませんので、またいつか、来ることがあれば。

さてさて、次回はだいだら法師の大王崎についてどぇす。


久昌寺の本堂裏斜面にある知盛の墓。


その右に広がる墓石群。40基を超えるそうで、平家一門の供養塔と考えられているそうであります。

怪道vol.140 紀伊の田辺で弁慶詣で

2009年09月24日 02時19分37秒 | 怪道
なじみの方々は伊勢の話はと思いましたねw?
アテクシもホントは伊勢の話をしたかったんでありますが、ちょっとこみいった事情で旅行中に撮影した写真が手元にないんであります。なので写真が手に入るまでのツナギに、先日お白州仕事で紀伊田辺にいった時のお話でお茶をにごしますョというわけで。

えぇ、なんだかお白州仕事が忙しいのであります。どのくらい忙しいかと申しますと、2ヶ月に一度のペースで出入り筋のお訴えをしている上にアテクシが担当した案件は訴訟移行率がバカに高い。しかも根っからの旅好きという嗜好性から人の嫌がる遠方に嬉々としてゆくのを重宝がられて、とにかくお相手さんの管轄お奉行所が笑かすぐらいに津々浦々。週末も甲賀から帰ってきたとこだったりしますがそんなんは全く近い方で、来月は新宮、浜坂、京丹後が待っているとゆう・・・つまりはレポートお楽しみにw。てなわけで紀伊田辺。帰りの汽車が一時間先まで来ねぇな暇つぶしにうろうろした時のご紹介デアリマス。

紀伊田辺といいますと、大阪湾から紀伊水道の辺りを「て」の字で現すならばちょうど最後の止めに息を入れはじめるあたり。知の巨人・南方熊楠が後半生を過ごした街として知られておりますが(武術ヲタくずれの別水軒としては合気道の創始者植芝盛平の生誕地なことでもテンションあがるわけで)、古くは有間皇子の叛乱計画にゆかりの深い(←w?)牟婁津であったり、熊野詣の行列が蟻のそれと例えられた時代には紀伊半島の内陸をゆく中辺路と海沿いをまわる大辺路の分岐点となった、水陸ともに要衝の街。

そんなことより紀伊田辺は、駅を降りるなりそういえばそうであったと膝をつきそうになるほどに、武蔵坊こと弁慶たんの街なのであります。駅前ロータリーには弁慶たんが薙刀ふるう銅像があり、駅前通りには弁慶町商店街がはしり、あらゆるところに10月2・3日に行われるという「弁慶まつり」ののぼりがはためき、さらに毎月第三月曜日は弁慶市、果ては日本政策金融公庫の相談受付中看板も弁慶たんという、とにもかくにも弁慶づくし。弁慶たんの出生地は諸説ありますが、ご存じのように熊野別当湛増の子という出自が広く人口に膾炙しておりますね。この湛増というのが田辺別当家の頭領でまたその拠点がここ紀伊田辺なもんだからそういうことになってるわけです。ゆうても当のオヤジには鬼子と忌まれて殺されかけるんですがw

誕生の地というだけに誕生にかかわるモノが点在しておりまして、まず「産湯の釜」を持っているのが、新熊野三所権現こと現・闘鶏神社であります。この闘鶏神社、源氏か平氏かどちらにつくか赤と白の鳥を闘わせて白が勝ったし源氏につくぜという湛増の一世一代なギャンブル・エピソードを伝える一方で、龍神信仰を背景に持つ仮庵山の麓に坐すという今はやりのいわゆるパワー・スポット(←この言い方すげぇ苦手w)。「弁慶生誕の地」の石碑が立つのはこの闘鶏神社の西側にあったという熊野の修理別当の寺院・大福院の敷地内。別当家の建物がかつてここにあったとかいうことなんでしょうか、その辺の説明は全くなしで古そうな石碑が唐突にポツンと建っておりました。

鬼若生誕地がよしんば闘鶏神社前だとして、「産湯の釜」が闘鶏神社に引き継がれたのはなんとなくわからんでもないですが、鬼若の「産湯の井戸」てのがですね。その大福院跡から直線距離にして500m以上も離れとる片町にあったわけでして。お前どこまでいっとんネーン( ^^)Y☆Y(^^ )な感じなわけです。18ヶ月目にしてやっとこ生まれただけに、水汲みに走らされたヒトはよほど取り乱してたと見えますナ。ちなみに現在の産湯の井戸は区画整理により移動され、扇ヶ浜に面する市役所と商工会議所に挟まれた坪地に再現されております。

   
大福院敷地の「生誕の地」碑(左)、闘鶏神社所蔵の弁慶産湯の釜(中)。闘鶏神社はちなみに湛増の鉄兜とか鉄扇も持ってますw (右)は再現された弁慶産湯の井戸。

まぁこんな辺は名の知れた人にまつわる生誕地遺物としてはよくある類のものですが、度肝を抜かれたのが「弁慶腰掛の石」。○○の腰掛石的なものはあまたの伝説的人物が座ったモノがそれこそ全国各地にあるわけですが、だいたい旅するヒトが休憩してそうなとこにあるもんですわな。ところがこの石は、場所は「産湯の井戸」がかつてあった片町のほんの目と鼻の先、現・八坂神社の境内になります。度肝を抜かれたというのはその形状。腰掛石というからには座りやすそうな石を想像しますが、ところがどっこい。こんな感じなんでやんすよw↓↓↓

 
弁慶腰掛石。(右)はスケールに280mlペットボトルを置いたもの。

剛力弁慶、岩をも砕くおそるべきケツ圧w もしくは高密度な質量によりケツ形に沈んだ、な感じでしょうかw なにより弁慶、ケツちっさw アテクシ試しに座ってみたですがね、それほど近頃はやりのオンナノコー♪ではない別水軒だけに入らんかったらどうしようとちょっとドキドキしたぐらいの大きさです、イヤちゃんと座れましたけどw 少なくとも弁慶たんのことですから関取なみの巨体のはず、となると長じて湛増に会いに戻った時に座った石ではない→しかも産湯の井戸のすぐ近くとなると、コイツは赤んぼ弁慶のケツ形なんでしょうネ。赤んぼのくせにこのケツのデカさそして体重の重さ、もはや妖怪じみておりマス。腰掛石あらため弁慶尻形石に改称希望。


それでもお時間が少々余ったので、ついでに高山寺まで熊楠の墓参りに行ってきました。高山寺は田辺の市街地の北西、町を北西から西へとめぐるように流れる会津川の対岸の丘に位置します。市街地と川を隔てているだけに、川北の集落側の寺になるのかなと思いきや、寺の正門は田辺の市街地に向かって開かれ、その正門と川に架かる大師橋、それに続く市街地への道が一直線につながっている感じ。

熊野詣って、むかしヒャクレンショウとか読んでた時にサブリミナルな感じで脳内に刷り込まれたのかなぁと思いますが、天台宗が深く関わっている信仰だというイメージがあるわけです(熊野検校とか寺門のヒトですし)。その一方で、紀伊半島というところは橋杭岩に代表されるように、広く庶民レベルで我らがオダイシ(弘法の方ね)にまつわる伝説が浸透している地域でもあるわけで。この高山寺というお寺も何を隠そうオダイシ寺院。もとは聖徳太子に帰依した地元の長者が建てた寺とかで、オダイシは中興の祖になります。行脚を続けるオダイシが弘仁7年(816)、この地で異相の老翁と出会い種々の物語をした、この老翁というのが高山寺の建つ山の鎮守・稲荷明神で、この時、稲荷明神がオダイシと約束をしてやがて稲荷は京にのぼり東寺の守護神となったというんですね。・・・なんかいろんな順序がワヤになってる気がしますけどもw ついでに弘仁7年ゆうたら金剛峯寺建設でクソ忙しい時に行脚とかオタク相変わらずナメてるよねな感じですが。こういう京と非常につながりの深い伝承が残るあたり、だてに熊野詣で栄えた町ではないなぁということにしておきます。

とかまわってるうちに帰りの電車は結局2台ほど乗り遅れてたりしてw ちなみに来月もお白州仕事で再訪するのはヒミツです。


高山寺麓を流れる会津川の「鑑淵」。オダイシがこの地を離れる際、惜しむ人々に請われて自らの姿を映しながら自身の像を彫ったというナルシー故事にちなむ。

怪道vol.139 桃太郎ツァin田原本(下)

2009年09月15日 01時38分57秒 | 怪道
先週末、急な発熱に見舞われまして。新型インフルによる死者発生な沿線・・・どころか同市内に住んでるもんですからうへぇまさかと思ったですが、翌日昼にはあっさり平熱に戻り医者に行くまでもなく疑惑は晴れ。よう考えたら7月からこっち休みなしだったことに気づいて自分の体にゴメンナサイですw 楽しみにしてをった某シンポジュームには行けませなんだが、丸二日在宅で過ごし積ん読本を3冊ほど消化したりなのほほんホリディ。その節はご心配くださった皆さま方、どうもスミマセン。

てなわけで、前回の続きにてござる。
せっかくナラまできたし桃太郎ツァとかにしたしということで、吉備津彦こと彦五十斧彦命をモモタローというならば、その異母姉妹てことになるんだぜ、な倭迹迹日百襲媛(ヤマトトトビモモソヒメ)のお墓参りを目的地と定めた別水軒であります。倭迹迹日百襲媛というたら箸墓伝説でも有名ですが、一部の歴史家が卑弥呼なんじゃねとか言うてるその人です。モモタローとヒミコはご兄弟なんですよとか胡散臭さがちょうイイですよね。はたして田原本から桜井まで寄り道しつつのママチャリ行としゃれこみましたわけです。

突然ですが世界初の妖怪専門誌、季刊『怪』で化野燐さんが絶賛連載中の「葬神記」。あれはホントにオモチロイです、掘り屋(←ゆうても紛いモノですが)だったこともある別水軒にはもーホントにツボすぎるお話。贅沢をいうなら月刊ペースで読みたいぐらいだと思ってますからガンバッテクダサイとハゲシク応援しておいて。そういえばあれは田原本の辺りが舞台だった気がするなぁとか天糠戸命とか鋳造遺構が話題になってたなぁてことで、寄ることにしたのが、鏡作神社。

鎮座する八尾の集落は黒田から田園地帯をはさんだ東隣で、古くは大和川の支流・寺川にある田原本の津として栄えた今里の浜のやや上流あたり。まぁ古来より鏡作部が住んでおった土地でとか宮中は内侍所の鏡がどうとかの由緒は調べたらどこにでも書いてますからご参照いただいて。南面する本殿は春日造な社殿が屋根の部分で三棟ならんでくっついてるという、朱もあざやかな江戸中期の建築。例によって本殿ぐるっと見物に出ますと、いきなりおっとっとな光景にでくわします。

鏡作神社、拝殿と本殿のぐるりを囲む玉垣の西側にある柵扉が開放され、中への出入が自由になってるんですわ。平野の杭全神社みたいに本殿と拝殿が完全に別個に独立して建ってる所だったら間だろうが平気でうろうろしますけども、垣で囲われた中は玉砂利が敷き詰められていて、てな空間となりますと、そんな本殿・拝殿の間の空間てのはちょっと横切るのに躊躇しますネ。ところがそんな空間を通路とするかのようなその先、つまり垣内の東の端に、西面して小ぶりなお社が立っている。通っていいんだよねぇとドキドキしながら近づいてみたところ(後で拝殿東脇からも参拝できるよう柵が開放してあった)、よくある一間流造の社殿なんでありますが、梁のところに白い蛇の意匠がついてるんです。

神社敷地に隣接する建物は釣鐘ありの瓦に卍が刻んでありの、まごうことなき神宮寺だった社務所でありまして、ご神職の奥様と思しき方がお昼時というのに親切にいろいろ教えてくださいました。この西面するお社、八尾(かつては「八百」とも表記したらしい)の集落の産土神で若宮さんと呼ばれていて、祭神の名は「天八百比命アメノヤオヒノミコト」。なるほど垣の内でもイケイケでお参りできるようになってあるのは産土さんだからなわけです。しかし若宮さんというたらタタリ神なことが多いわけで、そいつが土地神でどうも蛇っぽい上にここが鏡作神社とかって、なんかぬかとう様みたいでありましたですょw

 
鏡作神社(左)、手前に見えるのが本殿・拝殿を囲う玉垣。(右)は若宮さん。西面するのは三輪と一緒。ちなみに←のとこに白い蛇がいる。


進路をさらに東へとり、唐古の楼閣くん(→コチラ)に会おうか会うまいか5秒ほど悩むフリをして華麗にスルー、次なるターゲット、法貴寺の集落へと向かいます。ターゲットというのはですね、昔、ナラの友人に法貴寺の川沿いのモチモチの木には砂かけばばぁが住んでるとかいう話を聞いたことがあったんですョ。モチモチの木とゆうたら、夜ひとりでおしっこに行けない豆太がじぃさまのために山の麓まで走ったご褒美にみたキラキラな木ですね、正式名称をクロガネモチといいます。つるんとした幹がにゅっと天に向かう、植物オンチな別水軒にも比較的覚えやすい木なんですけど。法貴寺の集落に隣接する川といったら大和川。川に沿って豆太の木やーいと探し探してようやく1本、池座神社の境内に見つけました。・・・えぇ、まぁ、それだけなんですけどもw

 
モチモチの木。すなはふつてきませんでしたのでこの木で正解かどうかは不明。

暑さでへろへろになってきたところで一休みしようと集落を南へ抜けやうとした時。小ぶりな祠のわりに比較的広い敷地をもつ様子の、神社と呼ぶにはもう少し慎ましやかなお社のある一角を見つけ、お邪魔します。懸魚に「斉」の字が刻まれた祠がならんで二つ。こちらはなんのお社ですかいなぁと通りがかりのヒトにたずねましたところ、ここは「さいくじさん」こと斎宮神社といって在原業平がかつて伊勢の斎宮と手に手を取って逃げてきて、この辺に「斎宮寺」なる寺をつくって静かに暮らしていたんだそうであります。ほほぅそれはそれはお幸せそうでなによりでございますなァ・・・ってコラ待てぇw

業平さんがフォーリンラヴな斎宮というたら「斎宮になりける人」こと恬子内親王さんしか思いつかないんでありますが、ナラに逃げたりとかしてたらそれはもう国家の一大事でありますよッ。あまりにも当然のように語られてしまいましたために動揺したワタクシ、斎宮で困った時には一樹さま、であります。アテクシが管見なんでせうか聞いたことありますかこんな話とご注進。さっそく調べてくださいましたらば、田原本町のホムペにそんな話がのっておるんだそうで(→コチラ)。一樹さまによりますと、中世以降、伊勢神道の発展でトヨスキイリヒメが笠縫(←田原本の隣の駅ぐらいにある地域デス)で天照大神を祀った話(←斎宮の濫觴となったて話)がクローズアップされたことだの伊勢物語注釈にみられる業平の女を連れてにげる芥川の段(←二条帝后高子を連れて逃げたら鬼に食べられちゃう話)風味がまざったりだのしたんじゃないかと。なるほど勉強になりますたー(≧ω≦)ノ。

笠縫の近所だということに加えて位置的なことをもう一つ言うならば、確かに法貴寺の集落は大和川にそって三輪までゆけばそこはもう伊勢街道の入口。ついでになんだかここにはもともと業平が吉野へ行く際に休息したと伝わる「最空寺サイクウジ」なる寺があったようですから、いろんな付会がおきたみたいでありますネ。すなかけばばぁを追いかけてきたら、とんでもないものをみつけてしまつた。


斎宮神社。神社になったのはどうも明治以降ぽいです。


三輪山と箸墓古墳。3世紀半ばでこのでかさはやっぱ圧倒されますなぁ。


それから後は、羅山センセィが『本朝神社考』の「大荒明神」の段に書いておられるモモタロもどきが流れてきたというウワサの初瀬川までみてゆくことにします。いわく、大荒明神な秦河勝の誕生のいきさつを「時に大和州に洪水の変あり。初瀬川大いに漲る、大甕ありて流れ来りて三輪明神の広前に止る。土人之を開いて視るに則ち一の男子あり。身体玉の如し」と述べておられるとこですな。確か國男たんでしたかね、これをしてモモタロさんの最古らへんのモチーフとかゆうてたのは。行ったところで川は川なのでふぅんと思って見つめます←なんとか桃太郎オチにするために来たけどたどりついた時には暑さと激チャでへろへろになっていて実は何も考えられなかったりしてw いやぁ、今年は涼しいゆうても残暑はなかなかのもんですよッ。

てなわけで、犬山は、馬鹿につきあってくれるナカマができましたので、来月半ばあたりに突撃する予定。昨年から続く桃太郎シリーズは今しばらく続きますのでお楽しみに。


大神神社付近を流れる初瀬川。

怪道vol.138 桃太郎ツァin田原本(上)

2009年09月10日 01時48分42秒 | 怪道
かれこれひと月ほど前、愛知の犬山のほうへ行って参りまして。別水軒的旅のメイン・スポットはなんといっても桃太郎神社。念願かなって当社にお参りはできたんですが、惜しむらくはスケジュールの関係で個人的に気になっていたポイントまでまわり切れず、とはいえ一度気になるとどうにも行かずにおれないこの性格。リベンジとばかりに再出撃を試み・・・ようとしたところ、予定日翌日に職場のミナサンとの大カラオケ・パーチィが急遽スケジュル入りしまして体力温存の必要にせまられあえなくボツw 猛り立つココロを抑えるために、手近なところで手打ちした先というのが、奈良県は田原本なのであります。

弥生遺跡を代表する唐古・鍵遺跡を有することで考古学を志す者にその名を知らぬ者はいないというマチ・田原本町が実は桃太郎の誕生地を主張しているというウワサは、一部桃太郎愛好家(?)にはひそかに知られた話でありまス。岡山県は吉備の中山を中心とした地域を舞台に桃太郎伝説があることはこれまで怪道でもご紹介してきましたが(→コチラとか)。かの地の桃太郎は記紀神話に見える吉備津彦命の山陽道制圧譚が元ネタになっているのは皆さまもすでにご存じの通り。この吉備津彦命、吉備に居ついたためにかくなるお名前がついておりますが、別名を彦五十狭芹彦命ともおっしゃる。

この彦五十狭芹彦命、お父ちゃんは誰かと申しますと、人皇第7代におわす孝霊天皇でありまして、お住まいは「黒田庵戸宮イオトノミヤ」になります。これが奈良県磯城郡田原本町黒田を比定地とされとるわけで、お父ちゃんの家が庵戸宮だから彦五十狭芹彦命もそこで生まれたのでありますとか、えぇとそうだっけw。吉備津彦命=桃太郎からして微妙な上にミコトがそこで生まれ育ったかどうか定かではないというか違うような気がするけどまぁいいや、な田原本=桃太郎のふるさと説。この辺りは万葉集にも詠まれた桃の産地らしいてなこともあって、田原本では近年、このももたろさんで村おこしまで図っておられるんであります。

近鉄・田原本駅前の観光ステーションでレンタサイクルが利用できるというのでさっそくお邪魔しましたところ、これが1時間200円・5時間以上一律1000円という誰をターゲットにしたいのかイマイチ不明な金額設定。余計なお世話ですが広く利用者を募るならばせめて半額にしたほうがよいかと思われますと穏やかならざる気持ちであったものの、困っちゃうぐらい親切に街や道のご案内をしてくださる協会の人に免じて今日だけ許し、いざ町へ。

 
観光ステーション「磯城の里」にあった、初代桃太郎(左)と最近新たに制作された「ももたん」(右)。ももたんはうわさのせんとくんと近々コラボ企画があるそうな。

田原本町は奈良盆地のほぼ中央に位置し、東から順に大和川、寺川、飛鳥川と北流する幾筋もの川が流れております。この中心に宮をおいたという孝霊天皇はいわゆる欠史八代に数えられる天皇さんの一人でありますが、教科書的に申しますと、大和盆地の平野部の中心にはじめて居所を置き且つその御陵が王寺という大和の西のクチをおさえることから、後の大和政権の河内への進出や四道将軍による列島制圧譚へのつながりが考えられる天皇。吉備津彦のパパにはピッタリの人デスネ。

孝霊天皇の居所・黒田庵戸宮の場所は諸説ありますものの、現在、田原本町黒田の集落の西端に位置する法楽寺付近が事実上の比定地。行ってみますと、生駒・葛城山系や三輪山系を遠く見晴るかせる、見事なまでのど真ん中。なんといいますか、田原本ってのは100%ママチャリな自転車でコキコキ行っても何の苦痛もないほど平坦な土地なんですネ。そんなところに幾筋もの川の流れがあるとなると、氾濫や洪水と常に隣り合わせだったはず。本気でここに宮を作ったというなら、大和を手中にした者の自信がうかがえなくはないものの、同時に平安京は藤原良房の染殿(→コチラ)に通ずるような、ヤケクソ感ただよう立地な気がしないでもないw

通りすがりの地元の方にこの辺は洪水とかは大丈夫デスカとおうかがいしたところ、20年ほど前に一度大きな被害に見舞われたこともあるそうで。お話の中の桃太郎は鬼退治を終えたらじじばばの住む村へご帰還されますけれども、・・・吉備津彦はヤマトへは帰ってけぇへんかったしねw 住み心地イマイチなふるさとには帰りたくなかったんでしょーか。ちなみに発掘調査等ではいまのところ庵戸宮と証するような遺構は見つかっておらんようです。

さてさて、法楽寺。何をかくそうあのオヤジことコーボーダイシが止宿したともいうトラップ寺院なんでありますが、江戸時代に描かれたと思しき当寺の板絵を見ると、かつて境内には「孝霊神社」が境内社としてあったことが見えます。黒田の集落が庵戸宮の跡地だという意識は少なくとも江戸時代にはさかのぼれると思ってもよいんでしょう。で、この孝霊神社、明治の神仏分離で集落内の別の場所へ移動します。庵戸宮比定地なんだったらまともに考えると神社が残って寺が破棄されるのが一般的な気がするんだけども、寺の方を残すとは何があったのかしらな集落です。ちなみに神社の跡地はきれいに駐車場になっておりました。

 
法楽寺境内にあった、桃太郎ののぼり(左)。(右)は神社跡地の駐車場。


黒田の集落内にあった、「将軍桃太郎」運輸。なんかかっけー。

さてさて、かくして孝霊神社はというと、集落の南端へと移動しております。神社の前を南北に走る道はなんでも太子道らしい。神社の拝殿にかけられた絵馬は、明治期に掘削された神社の南隣りの溜め池掘削の様子を描いたものがあるだけで、桃太郎とかカケラもありませんw 題材としてはあってもいい類のもんだと思うんだけど、まぁ近代の黒田の集落のヒトにはモモタンはまるで意識されてないことがわかりますね、あたりまえだけどw

当たり前というのも、観光ステーションのおじさんいわく、田原本=モモタン誕生説はほんの十数年前から言い始めたことなんだそうで。誕生地であることのみしか主張しないのはよく言えば現代人の真面目さ慎ましさ。ベタ好きのアテクシといたしましては、昭和の初年、高松と犬山でほぼ同じ時期に発生・形成された、桃の流れる川から鬼が島までの全要素をオラが村につめこんでしまうような、とことん極めるバイタリティをぜひにも見習ってほしかったりしなくもないですが。

というわけで、次回はついでにまわった田原本のおもしろスポットをご紹介しますョ。


集落の鎮守、孝霊神社。