怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.111 金の湯・銀の湯・有間の湯(上)

2008年10月25日 01時06分58秒 | 怪道
オマエの落ちたのは金の湯デスカ、それとも銀の湯デスカー?
というわけで有馬温泉に行ってきました。いつ行ったかはヒミツです、またワルモノとか言われそうだし・・・て言わはる方がいつ行ったかご存じなんでもういいんですけどw 今年の6月頃から別水ハハ手術→別水ジジさま手術→別水ハハ再手術、と続きましたのがようやく落ち着き、家族そろって全快祝いの湯治(?)というヤツですネ。別水軒はベビィの頃に一度来たらしいですがベビィすぎて全く覚えておらんので、はじめて来たようなものなのです。

政令指定都市にある高級リゾート地。それが有馬です。関西圏のショミンには、近くにあるんだけどなんか遠いイメージがありますョね、なんせ値段も場所もお高いからw 古くは「有間」と表記されたアリマは温泉好きの舒明天皇(在位629~641)の頃にはすでに知られていた日本三古泉の一つということで、文献上に残る温泉の中でも随一の古い歴史を持っております。ソーダ水の発祥地(明治40年代頃)でもありますが、聞くところによると炭酸煎餅作ったのはフモトの宝塚温泉の方が先らしい。

北摂地域から武庫川沿いに生瀬まで行き、そこからいわゆる有馬街道を、座頭谷から船坂をへて有馬へ。瀬戸内からみると六甲山の裏手から入っていった感じですね。三方を山に囲まれ、なんてことが言われますけども山の中にあるんだからそのぐらい囲まれていても当たり前っちゃあ当たり前です。山中の盆地のようなところを想像していたんですが、山と山の谷あいを縫うように、蒸気でけぶる泉源が点在する、そういう場所でアリマした。なんつてw・・・ゲフンゲフン。

温泉街は街を見下ろす射場山の麓と東西の谷あいに広がり、東の谷を流れる六甲川と西の谷を流れる滝川が、山の北西の麓あたりでV字に合流して有馬川となって、三田方面へと下流していきます。この二つの川が成すV字の内側、温泉街の中心地にあるのが愛宕山で、周囲の高い峰にうもれて小高い丘のような雰囲気を呈しております。愛宕山は聖徳太子開基の極楽寺とか行基がつくった温泉寺などを足もとに置き、山腹には温泉神社があるー、と思ったら湯泉神社だったというワナ。祭神は大国主と少彦名で、神社の縁起によりますと、三羽のカラスが二神に泉源を教えたことになってます。

その「愛宕山」の周囲をぐるりとサンポするに、その名にしては愛宕神社とかはナイノネな感じが不思議だったんですが、湯泉神社脇から山頂に登ると、「愛宕大神」との石碑のある磐座がありました。見ぃつけたwてとこですネ。天気がいいと山々の谷間から京都の愛宕山が見えるらしくそれがこの峰の名の由来なのでしょうか。またこの磐座、別名を「天狗岩」というらしい。具体的な伝承はわからなかったんですけども、太郎坊の出張所みたいなもんでしょうかねぇ。


愛宕大神こと、天狗岩。

六甲川と滝川を腹に抱き、温泉街を見下ろす射場山にあったのが有馬稲荷神社。有馬稲荷が現在の射場山中腹に再建されたのは明治に入ってからだそうで、もともとは近くの「杉ヶ谷」なる場所にあったんだそうな(わからんかったけど多分もう旅館とか建ってるでしょぅ)。案内板によりますとですね、なんと舒明が勧請したらしいです。稲荷を!舒明が!勧請!!・・・へー、ほー、ふーん。えー、射場山はこのときの行宮を作るのに木をたくさん供給したので「巧地山」と呼ばれたそうなんですが、なんでもその行宮の守護神だったらしいですね、この稲荷w さらに境内の案内板いわく、「昨年7月に800年の眠りからさめた竜神さまが出現した(後鳥羽が奉納した欄間がみつかった、てことらしいです)」し「竜神さまを通して宇宙のエネルギーをいただき」ましょうとかおっしゃってマシタ。


これが眠りからさめた竜神サマ。


さてさて、稲荷境内から周囲を遠望するに、・・・驚きました。これがまた、広大な三田の地を一望にみはるかせるんですナ。そして三方を山に囲まれた有間の、残り一方とは、これなのかと。


有馬稲荷境内より眺望ス。

この景色はおそらく、林立するホテル群がなければ、愛宕山の上からでも望めるのでしょうね。見ていると、そういえばこの地の名を冠した皇子がいたねぇと、フと思い出したわけです。そう、有間皇子ですネ。

孝徳天皇が有馬を訪れた時に授かった子だから、有間。――なんていつの時代のネーミングじゃい、ないわれがマコトシヤかに言われておりますがw、当時の慣わしにしたがえば母方である阿倍氏の支配する土地と当然関係します。阿部氏は広くこの辺やら現在でいう三田やら一帯を支配していた名門一族。阿倍氏が支配していた三田一帯、そしてそこを一望にできるのが、この有馬。そこからしても、阿倍氏がこの皇子に期待していたものがうかがいしれますナ。そのわりには脇息が折れただけでビビっちゃうような小心者だったのは残念でした。

有間サンは古代国家が中央集権を形成する過程における一政治事件(有間皇子の変)の渦中の人として歴史に刻まれたお方で、コト露見し捕えられた皇子が「なぜ謀反した」との中大兄の問に対し、「天と赤兄と知る。吾全ら解(シラ)ず」と放つ言葉は実に劇的かつ印象的ですヨネ。折口でんでぃ以来、有間サンは『書紀』成立期にはすでに伝説化されてたんとちがうかと言われてるわけですが、彼はこの時、「天」を語っていたりするんですよね。彼のいう「天」は天人相関説の「天」かと思われるんですが(『書紀』の訓はアメですけど)。だとすればそれはやはり当時の先進知識であるわけで、うん、やはり阿部氏の影響なんですかね。いずれにせよ、『書紀』編纂時、彼はあの場面でそんなことを言うても違和感のない人間だと思われていたてことですネェ・・・そのわりには脇(以下略)。

現在の有馬には、パンフレットにも案内板にも有間皇子のことは見えません。まぁ元からどっちかいうたらマイナーな人かもしれませんけどもw、表向きには一応朝廷に謀叛した人ですから、明治、大正、昭和という右傾化した時代をへて、いつしか語られなくなってしまったのでしょうか。ただ、1559年(永禄2年)、現在の神戸の辺りにいた伊助という人が考案したとされる有馬の名産品・人形筆(筆を持つと持ち手部分の上端から人形が顔を出す)に、かつてこの地でかの皇子が語られていた、かすかな名残りを見ることができます。この筆、なんでも子のなかった孝徳が有間で湯につかったことで有間サンを授かったという伝説にちなみ作られたとのこと。少なくとも近世には有間皇子は有馬でキャラ立ちしていたことの証左でありましょう。

まだまだうろうろし足りなかったですが、せっかくの有馬ですから湯につかりませんとね。というわけで、ワタシが落ちたのは、実は「鉄の湯」な茶色くにごる「金の湯」だったのでした。ちなみに「銀の湯」は透明な温泉をいいます・・・や、有馬ではほんとに金泉、銀泉、てゆうんですョw ・・・金の泉は、やけにしょっぱいお湯でした。


有馬サイダー てっぽう水。「曾て杉ヶ谷に湧出し毒水と恐れられし炭酸水が日本のサイダーの原点なり」とある。