連休にちょっと遠出しようと思い立ちまして、長崎は五島列島・福江島に行って参りました。本日は、その旅の序章部分のご紹介デス。
五島列島。追儺で陰陽師をやる、もしくはやりたいと思ったことのあるヒト(どの程度いるんでしょねw)は一度はクチにしたことがあるでしょう、「四方の堺、東の方は陸奥、西の方は遠値嘉・・・」の先を疫の鬼の住処と定めたまうという例の祭文。大八洲の西の果て――「遠値嘉」にあてられるのがこの五島列島とされます。長崎の西方数十km沖に浮かぶ大小140もの群島には、縄文時代から人々が生活を営み、そして記紀神話の国生みのクダリに「ちかのしま」として登場するように、朝廷からは「西の堺」として古くから重要視されておりました。遣唐使の最後の寄港地であったというのはこの島の観光のメダマにもなっておりますね。中世には倭寇の拠点となり、また近世を通して五島藩主だった五島氏の前身である宇久氏は平家の落人を祖にするとも言います。
福江島は五島列島最大の島であり、「五島」を代表する5つの島のうちでは最も西に位置する島。広さは小豆島の約2倍ほどで、車で移動すると島の東⇔西、南⇔北ともに端から端まで所要時間約30~40分というスケール。まとまって広がる砂浜は島の南部、富江の辺りのみ。あとは典型的なリアス式海岸で、深くえぐれた入江に細々とある浜は絵にかいたような遠浅の海岸で潮が引けば景色は一変する。一方、内に目を転ずれば、越えられないほどの峻険な山はさほど多くはないという、つまりは島内の移動は海岸周りよりは比較的内陸側に発達している島と言えそうですネ。
福江島。
出発前はお天気が少々心配されたんですが、旅行のお供に別水軒、毎度のことながらヒデリ神の前に怖いものはないわけです。いつもより深い色で広がる青空を、パールUFOの飛来なんかを期待しつつ見上げたりしながら、対流圏を一路長崎へ。そして金はなくとも時間もないので息着く間もなくボンバルディア小型機で福江島へ。所要時間は長崎での乗継待機時間込みで2時間半ですョ・・・地球も狭くなりましたねぇ。
到着後はなにはともあれ島のオヤブンに仁義を通しに、まずは福江のカッパチャンのござっしゃる水天宮へ行って参りました。
九州地方はカッパ伝説の宝庫なわけですが、五島にもカッパ話はそこここに転がっており、土地の人はガッパとかガァタロとか言うんだそうです。福江のガッパで最も有名なのが、水天宮の火消し河童。なんでも江戸時代、江戸の五島藩邸でこの水天宮を勧請し祀っていたところ、隣の大久保家から火が出た。その時五島藩邸から大勢の「消防手」(案内板、ママ)が出てきてまたたくまに消してしまう。その「消防手」が実はこの水天宮のガッパ達だったということがわかり、五島藩はそれにあやかって水天宮のお守りを売り出したところ飛ぶように売れ藩財政を潤すほどだったという、まぁ商売上手のお手本のようなお話。
お宮ってのは空間移動ゲートになるんですネ。とにかく江戸まで出張してお殿様の危機を救ったカッパの大将が棲んでいたというのが、福江川が大きくS字にカーヴした結果できた川の淵。現在はそこに纏や桶をもったガッパの像が置かれております。
ヒッポリトの攻撃を受けた2匹。
ガッパ達の移動ゲート、水天宮(左)と、ガッパの淵(右)。水天宮の右に見えるトタンの屋根は土俵です。
お昼に入った五島うどんのお店のオバチャンをとらまえお話を聞きましたところ、火消しガッパは淵の主なんだそうです。あそこのカッパはいいカッパだけど、わたしら子どもの頃は、悪いことしたらガッパが来るぞゆうてよく怒られたよとのこと。目撃者はおりますかと尋ねると、最近は聞かないねぇということでした・・・なんかいいなぁこの感じ、とニコニコしてると目に入ったのが店にあったディスプレイのこの壺↓↓↓。
コレ、「魚人(ギョジン)」というのだそうです。昔、長助という若者がいて病弱な父親を助けて仲良く暮らしていたが、ある晩、漁師仲間と酒盛りをして明け方まで眠り込んでしまった。父親は長助の帰りを待っていたが、あきらめて一人漁に出ると、運の悪いことに嵐にあい、帰らぬ人に。後悔した長助がその後、ようやく漁に出ることができた日のこと。夢中で魚を追っているうちに明けの明星が消えてしまい、方角を見失ってあわてていると、船の舳先で大きな魚がぴょんぴょんと飛び跳ねる。その顔をよく見ると、なんと死んだ父親にそっくりではナイカ!魚はそのまま長助を無事に港へと導き、話を聞いた村人はその後、人の顔をした魚を「魚人」と呼び、崎守として崇め、網にかかると必ず海に帰したのだそうです。・・・目が3つあるっぽかったり角だの牙だのが生えているって、生前のお父さんはいったいどんなお顔をされていたんデスカな話は、福江ではポピュラなものらしい。カワイイデスネ。
うどん屋を後にし、カッパつながりで「勘次ヶ城」なる石塁へ。島の南部、富江湾の西側にのびる半島の先端に位置するこの石塁には、江戸時代末期に勘次という船大工が河童と一緒に作ったというお話が伝わります。勘次がここを住みかとしたのは、彼の父親が沈んだ難破船の幽霊を祀る代わりに積み荷を手に入れた過去があったにも関わらず、父の死後祭祀をしなくなったためにタタラレ、ある日突然気がフレて行方不明になった。村中で探した結果ここで発見されたといういきさつがあるんだそうで、その後も村人が食べ物を持っていってやるとどこからともなく飲み水をわけてくれたといいます。
それはさておきこの石塁。現在は中世にこの島を拠点としていたいわゆる「倭寇」の城館だったのではないかとされています。「倭寇」と聞くとあまりよいイメージで認識されないことも多い言葉なわけですが、五島での倭寇に対するとらえ方は、明が鎖国をしていたことから密貿易に携わったもの全部が「倭寇」と呼ばれたにすぎないというなかなかに好意的なもの。勘次ヶ城の前の溶岩海岸には倭寇の像とかいうタイトルの巨大なものが立ってるんですけどもね。案内板いわく「男たちは鍛えられた強靭な肉体を持ち、集団生活では大きな力となって一つの目的に敢然と立ち向かっていた」と。「一つの目的」のために、たまに手段を選ばないヒト達もいましたからねw ものは言いようですねw
(左)山崎石塁の一部。まさに草莽に埋もれる感じ。(右)倭寇像。「団結・忍耐・実行」を表現したものなんだそうです。
こういう像をみると俄然テンションが上がってしまうワタクシですから、よじのぼって倭寇の仲間入りをしたりいろいろ遊んでたんですが、よく見たら「ふれないで」って書いてありました。五島の皆様、スミマセン。
次回以降は、遣唐使編、平家落人伝説編、隠れキリシタン編にわけて、お話をすすめていきたいと思います~。
五島列島。追儺で陰陽師をやる、もしくはやりたいと思ったことのあるヒト(どの程度いるんでしょねw)は一度はクチにしたことがあるでしょう、「四方の堺、東の方は陸奥、西の方は遠値嘉・・・」の先を疫の鬼の住処と定めたまうという例の祭文。大八洲の西の果て――「遠値嘉」にあてられるのがこの五島列島とされます。長崎の西方数十km沖に浮かぶ大小140もの群島には、縄文時代から人々が生活を営み、そして記紀神話の国生みのクダリに「ちかのしま」として登場するように、朝廷からは「西の堺」として古くから重要視されておりました。遣唐使の最後の寄港地であったというのはこの島の観光のメダマにもなっておりますね。中世には倭寇の拠点となり、また近世を通して五島藩主だった五島氏の前身である宇久氏は平家の落人を祖にするとも言います。
福江島は五島列島最大の島であり、「五島」を代表する5つの島のうちでは最も西に位置する島。広さは小豆島の約2倍ほどで、車で移動すると島の東⇔西、南⇔北ともに端から端まで所要時間約30~40分というスケール。まとまって広がる砂浜は島の南部、富江の辺りのみ。あとは典型的なリアス式海岸で、深くえぐれた入江に細々とある浜は絵にかいたような遠浅の海岸で潮が引けば景色は一変する。一方、内に目を転ずれば、越えられないほどの峻険な山はさほど多くはないという、つまりは島内の移動は海岸周りよりは比較的内陸側に発達している島と言えそうですネ。
福江島。
出発前はお天気が少々心配されたんですが、旅行のお供に別水軒、毎度のことながらヒデリ神の前に怖いものはないわけです。いつもより深い色で広がる青空を、パールUFOの飛来なんかを期待しつつ見上げたりしながら、対流圏を一路長崎へ。そして金はなくとも時間もないので息着く間もなくボンバルディア小型機で福江島へ。所要時間は長崎での乗継待機時間込みで2時間半ですョ・・・地球も狭くなりましたねぇ。
到着後はなにはともあれ島のオヤブンに仁義を通しに、まずは福江のカッパチャンのござっしゃる水天宮へ行って参りました。
九州地方はカッパ伝説の宝庫なわけですが、五島にもカッパ話はそこここに転がっており、土地の人はガッパとかガァタロとか言うんだそうです。福江のガッパで最も有名なのが、水天宮の火消し河童。なんでも江戸時代、江戸の五島藩邸でこの水天宮を勧請し祀っていたところ、隣の大久保家から火が出た。その時五島藩邸から大勢の「消防手」(案内板、ママ)が出てきてまたたくまに消してしまう。その「消防手」が実はこの水天宮のガッパ達だったということがわかり、五島藩はそれにあやかって水天宮のお守りを売り出したところ飛ぶように売れ藩財政を潤すほどだったという、まぁ商売上手のお手本のようなお話。
お宮ってのは空間移動ゲートになるんですネ。とにかく江戸まで出張してお殿様の危機を救ったカッパの大将が棲んでいたというのが、福江川が大きくS字にカーヴした結果できた川の淵。現在はそこに纏や桶をもったガッパの像が置かれております。
ヒッポリトの攻撃を受けた2匹。
ガッパ達の移動ゲート、水天宮(左)と、ガッパの淵(右)。水天宮の右に見えるトタンの屋根は土俵です。
お昼に入った五島うどんのお店のオバチャンをとらまえお話を聞きましたところ、火消しガッパは淵の主なんだそうです。あそこのカッパはいいカッパだけど、わたしら子どもの頃は、悪いことしたらガッパが来るぞゆうてよく怒られたよとのこと。目撃者はおりますかと尋ねると、最近は聞かないねぇということでした・・・なんかいいなぁこの感じ、とニコニコしてると目に入ったのが店にあったディスプレイのこの壺↓↓↓。
コレ、「魚人(ギョジン)」というのだそうです。昔、長助という若者がいて病弱な父親を助けて仲良く暮らしていたが、ある晩、漁師仲間と酒盛りをして明け方まで眠り込んでしまった。父親は長助の帰りを待っていたが、あきらめて一人漁に出ると、運の悪いことに嵐にあい、帰らぬ人に。後悔した長助がその後、ようやく漁に出ることができた日のこと。夢中で魚を追っているうちに明けの明星が消えてしまい、方角を見失ってあわてていると、船の舳先で大きな魚がぴょんぴょんと飛び跳ねる。その顔をよく見ると、なんと死んだ父親にそっくりではナイカ!魚はそのまま長助を無事に港へと導き、話を聞いた村人はその後、人の顔をした魚を「魚人」と呼び、崎守として崇め、網にかかると必ず海に帰したのだそうです。・・・目が3つあるっぽかったり角だの牙だのが生えているって、生前のお父さんはいったいどんなお顔をされていたんデスカな話は、福江ではポピュラなものらしい。カワイイデスネ。
うどん屋を後にし、カッパつながりで「勘次ヶ城」なる石塁へ。島の南部、富江湾の西側にのびる半島の先端に位置するこの石塁には、江戸時代末期に勘次という船大工が河童と一緒に作ったというお話が伝わります。勘次がここを住みかとしたのは、彼の父親が沈んだ難破船の幽霊を祀る代わりに積み荷を手に入れた過去があったにも関わらず、父の死後祭祀をしなくなったためにタタラレ、ある日突然気がフレて行方不明になった。村中で探した結果ここで発見されたといういきさつがあるんだそうで、その後も村人が食べ物を持っていってやるとどこからともなく飲み水をわけてくれたといいます。
それはさておきこの石塁。現在は中世にこの島を拠点としていたいわゆる「倭寇」の城館だったのではないかとされています。「倭寇」と聞くとあまりよいイメージで認識されないことも多い言葉なわけですが、五島での倭寇に対するとらえ方は、明が鎖国をしていたことから密貿易に携わったもの全部が「倭寇」と呼ばれたにすぎないというなかなかに好意的なもの。勘次ヶ城の前の溶岩海岸には倭寇の像とかいうタイトルの巨大なものが立ってるんですけどもね。案内板いわく「男たちは鍛えられた強靭な肉体を持ち、集団生活では大きな力となって一つの目的に敢然と立ち向かっていた」と。「一つの目的」のために、たまに手段を選ばないヒト達もいましたからねw ものは言いようですねw
(左)山崎石塁の一部。まさに草莽に埋もれる感じ。(右)倭寇像。「団結・忍耐・実行」を表現したものなんだそうです。
こういう像をみると俄然テンションが上がってしまうワタクシですから、よじのぼって倭寇の仲間入りをしたりいろいろ遊んでたんですが、よく見たら「ふれないで」って書いてありました。五島の皆様、スミマセン。
次回以降は、遣唐使編、平家落人伝説編、隠れキリシタン編にわけて、お話をすすめていきたいと思います~。