怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

歩き歩いて四年どす。

2009年05月27日 22時21分25秒 | その他
「怪道をゆく(仮)」がまた一つ年をとりました。3日も過ぎてましたねウッカリシテマシタ。

勘定したらもう4年にもなるんですねぇ。単にオノレの備忘録に過ぎぬものを、人様にご覧いただくというプレッシャーをかけることで整理・鍛練しよぅと書き散らしただけ・・・にも関わらず、あきもせずいつも遊びに来て下さるみなさま、ホントにありがとうございますm(_ _)mペコリ

4周年を期したところで、いい機会なので以前からアレは何だったんダロウと気になっているものについての問い合わせをさせていただきたいと思います。


どなたか、「人間風船」という作品をご存じないですか。


マンガです。それも怖いヤツです。何を隠そう、別水軒のトラウマになってる話です。だけど、作者もどこの出版社かもいつ頃発表されたものかもワカリマセン。ググってみても「空気浣腸で人間風船をつくろう」とかしか出てこないので「人間風船」という題で正しいのかどうかもアヤフヤ。

ストーリーはですね、空気浣腸とかそんなんじゃないんですョ。主人公の住む街に人の顔をした風船が空から突然、フワフワと降りてくるんです。風船の顔が自分の顔だったら最後、そいつが首に巻きついて吊りあげられ殺されちゃうんです。つぎつぎと降ってくる人間風船、そしてついに主人公の顔をした風船が降りてきて--てそれだけの話なんですが。風船がなぜにどこから飛んでくるかなんてことは描かれず。

トラウマ、ゆうても空を見るのが怖いとかその程度なんですけど、子どもゴコロには「その程度」ではすまない深刻さがあったわけでw 風船って、最近はあんまり見なくなりましたけど、昔はよくデパートの売場とかで配られてたのが空に飛んでましたように思いますが。おかげであれがいつもちょっとした恐怖だったりもしました、自分の顔があったらどないしょ、て。…なんだか最近、もう一度読みたくてならんのです。

覚えているのは短編モノばかり入った本の最後に収録されていたことと本が赤っぽかったこと。確か冒頭には「トミエ」とかいう話が入っていたような気がする。字は富江だと思うんだけどホラー映画の富江しか検索にひっかからないので(←コワイ映像はコワイので探せない)わかりません。こっちのトミエは、クラス全員で「トミエ」という子をいじめて殺しちゃう話です。遺体の隠し場所に困ってクラス全員の人数分に切り分けてそれぞれが処分するんですけど、隠し場所に困った一人が食っちまって・・・そしたらその子の体からトミエが生えてくる、ていうキモチワルイ話だった気がするなぁ

そんなわけで、もしご存じの方がおりましたら教えてくださいナノデス。
そして、今後とも、怪道をよろしく

怪道vol.129 実録対馬滞在記その3

2009年05月24日 23時50分43秒 | 怪道
本日は対馬でひろったもろもろの伝承についてお話いたしまマショ。

対馬を代表する妖怪サンと言えば、土地の人からはガァッパと呼ばれている水際の妖怪サンです。海神神社にお邪魔した際、社務所の留守番をされていた氏子さんとまったりトークをしていると、やはりガァッパの話をされておりました。その方にとってのガァッパは相撲をとりたがる性格が一番印象的なようでしたが、他の特徴としては木からモノを投げてくるとか、ボンナミ(盆を過ぎた海が荒れている様子を指す言葉のようです)の時分になるとガァッパが引っ張るから水辺に行ってはいけないとか言われたそうで。「時代が変わってきれいな道もできたら、ガァッパが出るようなとこは通らなくなるでしょう?」なんておっしゃっておられたのがなんだか心にしみる呟きでアリマシタデスョ。

さて、対馬には島内のあちこちで伝承されているというお話があります。それが、「うつぼ舟」の話。日本の海沿いの町でしばしば語られるこの伝承は、海の彼方から漆喰や松脂などで密閉された箱状のモノが流れつき、開けると中に生きた人や遺体が入っているというもの。享和3年(1803)2月に常陸の原やどり浜に漂着した円盤状のうつぼ舟とその中で箱を抱えて笑う異国の女の話はとみに有名でありますネ。対馬は海に囲まれ異国にも近い地域だけに語られることにさほど不思議はないわけです。そしてその対馬には、確認できるだけで6ヶ所ほどの漂着を伝える地があるらしい。今回ワタクシがお邪魔したのは、そのうちの、佐奈豊と三宇田の浜辺。

佐奈豊は対馬の上県町、島で言いますと上島中部の西岸の入江に面してかつて存在した集落です。現在は女連(ウナツラ)と久原をつなぐ「佐奈豊トンネル」にのみその名を留め、ムラの跡地は女連の町はずれの運動公園へと姿を変えております。その谷の奥まったところにポツリと残っているのが、「朝鮮国王姫の墓」なんですね。墓の前に立つ石碑に刻まれた説明によると、秀吉の朝鮮出兵時に某武将が連れて来た朝鮮国王の姫の墓であるという。墓石である五輪塔正面には「李昖〔日へんに公〕王姫」、側面には「慶長十八年(1613)」の銘が刻んであるとあるんですがよくわからず。ちなみに李昖は李氏朝鮮14代目の王さま。



どこがうつぼ舟の話じゃいと言われそうなんでありますが、女連の集落、すなわち佐奈豊とは海岸線沿いにつながる街の人の話では、昔ここに朝鮮王女で不義をした姫さんが流れ着き、お姫さんが自分の国が見えるところに葬ってほしいとの願いからあの場所に墓を作ったとおっしゃるわけですョ。対馬のうつぼ舟伝説は、対馬史の大家・永留久恵センセィによりますとカミの来臨を説く神話の形跡を示すとおっしゃるわけで、まぁうつぼ舟の話というたらだいたいそういうもんなんでありますがw、「不義のために流された貴人が乗せられた舟」という形はうつぼ舟の話としては典型的なもので、対馬にもそのテの情報が流れ込んでいることがわかっておもしろぅございますといったところなんですが。

ところがどっこい。今でこそトンネルで行き来できる女連と久原、この両集落は海側は断崖絶壁で通じていませんのでかつては山越えもしくは海越えで交流していたと思われるのですが、この久原側で聞いた話によりますとですね。浜に流れ着いた朝鮮王族のヒメから財宝を奪って殺した、そのタタリで佐奈豊の村が滅んだ、てな話をおっしゃるのですな。・・・まぁたまたま聞いた人が良かったり悪かったりしただけかとは思うんですが、それにしてもそれぞれなぜにこないに違うのでしょうねぇw

ヒメさんの墓の前には、「佐奈豊村の跡」と題した案内板もあり、ムラについての解説がたんたんとつづってあります。いわく「(前略)藩は貞享4年(1687)、佐奈豊村の農民を世帯数の少ない久原村と御園村に分けて移した。当時の全戸数は七戸と言われている。これにて佐奈豊村は歴史上から消失したのである」。・・・巷間に残る言い伝えの内容が内容だけに、こういう事実のみの羅列は怖い怖いw 墓石の年号が正しければ、この集落は都合約70年、タタリに悩まされ続けたことになります。

コワイのはそれだけではないんですね。佐奈豊の村民が移されたという久原、御園はいずれも隣村である女連ではなく、なぜか山一つこえた集落であるということ(御園は久原のさらに北側にあるムラです)。そう、佐奈豊の村人は、女連ではなく、ムラはタタリで滅んだと話してくれた久原の集落に移されているわけですよw なぜに女連ではなかったのかという辺りも含め、何この超ドラマチックな展開www

 上県町女連、久原周辺地図。トンネル西側出口付近が佐奈豊。

ちなみにこの佐奈豊にあったという佐奈豊神社は、こいつは女連の荒木さんという家で現在もお祀りされているということですョ。オヒメさん付きで祀られてたらなお楽しい感じですがその辺までは不明であります。


佐奈豊の海辺。ここに姫サンを乗せたうつぼ舟が流れついたのでしょうか。


さて、もう一つ訪れたうつぼ舟伝説の地は三宇田の浜。場所は、前回能理刀神社の所在地として紹介しました西泊と、その少し北の泉という集落の間に位置します。日本の渚百景の一つにも選ばれているだけにそれはそれは見栄えのいい砂浜なわけですが、こちらに流れついたのは「ハナミゴゼ(花宮御前)」と通称されるオヒメサン。ここでも、うつぼ舟にのっていたこのヒメさんの財宝を奪いヒメを惨殺した、そのタタリでムラが滅んだという伝説があるんですネ。ヒメサンについては名前が伝わるのみで素性やその他の詳細はわかりません。佐奈豊の例もそうだとは思いますが、とりあえずは鎮めるべき対象がナニモノであるかを明確にするための名づけなのかもしれませんナ。

地元の郷土史家の方が書かれた本によりますと、なんでもこの三宇田に「論地」なる地名があるそうで、言い伝えによると泉と西泊がこの地をめぐって争ったことにちなむというんですな。土地争いは西泊の勝利で決着がつくも、西泊と泉の仲の悪さは昭和まで続いていたらしい。それはともかく、間にあったはずの三宇田はどうしたwと思うわけですが、つまりはムラが滅んだ後に起きた土地争いによるものということになるんですかねぇ。なかなかダークにお盛んな土地柄であります、いかにも中世的な元気良さが実にヨロシイ。佐奈豊よろしく、ムラが消滅した時期がわかるとも少しおもしろくなるんでありますが、その辺は後日に期待しましょう。


渚百景にも選ばれる、三宇田の浜。


三宇田の浜近くにある花宮御前の祠。なんでも物好きな地元の土建屋会長がつくったらしい。


そしてその物好きのシワザ(比田勝の街に入ってすぐのコンクリ防護壁にお名前を刻まれている)。


海に関わるフシギナコトといえばもう1点。少し気になるお話がありました。対馬滞在最終日となった5月5日のこと。昼飯を食おうと厳原に戻るも立ち寄る先々でなかなか食事にありつけず、これも連休中とあきらめていたら、ようやくはいれた料理屋の女将さんいわく。 5月5日の節句は対馬では「ゴリョウの日」と呼び慣わし、各家でご馳走を食べる習慣があるんだとか。そしてそのせいであちこち予約がいっぱいなんだろうと。

「ゴリョウ」の由来は知らないと言われてしまったですがw、なんでしょうね、やはり「御霊」なのかしらんとは思うんだけども・・・下対馬の口承に出てくる海の怪、「リョウゲ(漢字は「霊化」と当てるらしい)」と何か関わるのでしょうか。確か南方熊楠が『南方随筆』に和歌山では5月5日、海にムクリコクリがでるから山へ行くというような話を載せていたような気がしますわけで、ムクリコクリといえば蒙古高句麗なわけです。対馬は元寇の頃ずいぶんひどい目にあっていることや和歌山と長崎は漁師同士の交流があったから一部習俗が似る地域があるとかなんか聞いた気がしますことからも、その辺りが関係するんでしょうかね。

なんだかまとまりがなくてスイマセンですが今日はこの辺でー。


怪評vol.53 厭なショウセツ

2009年05月21日 23時21分56秒 | 怪評
えぇと、対馬は、ちょっと閑話休題w


はじめに言っておきますが。あんまりネタバレするようなことは書きませんョというより書けませんョ、厭すぎてw てなわけで。

突然ですが、新本格ミステリの作家さんで綾辻行人さんという方がいらっしゃいます。ワタクシ、実はあの方の作品をはじめて読んだのは大学に入ってまもなくの頃なんですネ。友人に館シリーズを読めとススメられ、その日たまたま入った本屋にはあいにくと第1作目の「十角館」がなく、何かと順番に読みたいヒトなもんですから何を思ったかその隣に並べられていた「殺人鬼」に手を伸ばし・・・ほら、スプラッタとか大の苦手なんですねワタシ。ならイヤなら最後まで読まなきゃいいじゃないかと思うんですけどもw、それはそれはもう散々なメにあったという、大変「不幸な」出会いをしているのです。

その数日後ですね。何たるタイミングか、我がドリフ大に綾辻行人が講演にくるという立看があったわけです。えぇもう、読了まもなくで怒り心頭(←?w)なワタシは、どれが綾辻行人じゃあてな勢いで、行ったんですね、わざわざ遠く離れた都会の方のキャンパスまで。そしたらまぁ・・・絵にかいたようないい方でしょう、綾辻さんて(いや個人的に話したことなんてないしホントのところなんて存じませんけども)。それでコロリとやられてしまってw、すっかり大フアンになっちゃったという思い出とともに、作家と作品はある程度切り離して見なければなりませんということをしみじみ知った最初だったわけですが。・・・ていうかそれまでどういうモノの見方をしていたのかと今書いてて大変ハズカシィ思いをしているワケですがwww

まぁ、なんでこんな話をするのかといいますと、だから、こんな厭なことを厭になるほど書かれるからといって、作者の方が、人が厭だと思うことを常日頃から研鑽を重ねてどうかしてやろうと思ってる人とかそういうわけでは決してないと・・・思うんですよw 多分www

というわけで、なんらかの出版物を発売日当日に買ったのとか人生で数えるほどしか経験ないクセに、買っちゃいました、『厭な小説』。しかもただいま入院中の別水軒ハハ君がオペ中にふらっと散歩に出た先で。・・・このシチュエーションからして少々厭な感じですかねw 厭なしょうせつというならとことん厭なタイミングで読んでみるのもよかろうと、まぁそんなノリだったのです。

ご存じのように、「知りませんからね、読んで後悔しても」てのが帯のキャッチなわけですね。これがまたイイんですね。素直に忠告に従うような人はたぶん一生手にとることはありません。間違えて読んでしまった人は多分1話目ぐらいでギヴするでしょう。逆にこの本を読みたがるような人にはもってこいのツリです。そしてそういうノリにツラれて読んだ人はきっと大喜びしちゃうような内容です。えぇ、そのぐらい不快さ君は1000%。ナメテると間違いなくヒドイ目にあいます。自分の現在のキャパがどの程度かということがはかれるという意味では大変実用的かつ啓蒙的である・・・かもしれない。

この作品の作者さんの書かれたものは、その多くの作品において、自身の持っている「常識」をゆさぶられる楽しさがあり、そういったユルユルになった状態でいつもとは違う定点をみせてもらえるのが大変愉快でならないんですけども。「常識」が作中の語り手とシンクロしてぶるぶると曖昧になっているところに、・・・たたみかけるような性的・生理的・精神的・物理的その他もろもろの「厭なもの」に責めたてられますからw もちろんのこと、それで何だったんだよ、てトコも語ってくれませんから落ち着きませんw このワタシの顔の似顔絵デフォルメにしたら、ちょっと斜めにかしげた感じで目鼻口、ぜんぶ直線で表現できると思う(もちろん眉根に要縦線)。

ところがね。

最後の一文まで読んだ時、にわかにワハハハハと爽快なまでに高笑いする自分がいるのですね。人間の平衡感覚がすごいのか、いや、つまりはそこが、「どんびき」と銘打たれつつもあくまで「エンターテイメント」として描かれ、そう機能している証拠であるのか・・・むにょむにょむにょ。最後の最後まで全部厭な思いで読み終えるには一日一話ペースで読むのが最適かもシレマセン。あ、そしたらちょうど一週間まるまる厭な気分で過ごせる勘定ですね。



そんなわけで。


ぜひとも読んで後悔してくださいw

怪道vol.128 実録対馬滞在記その2

2009年05月18日 23時37分28秒 | 怪道
さてさて、対馬と言えば亀卜です。というわけで、皆さまお待ちかね(?)の亀卜特集といきましょう。

そもそも亀卜とは何ぞやと申しますと、読んで字のごとく、亀で卜うわけであります。亀で何をうらなうかと申しますと、今と比べて昔は世の中で起こる様々な事象、特に自然現象について、わからないことが多かったわけです。それが自分達にとってよいことなのか悪いことなのか、それを知ることで未来を予測し、そのためのうらないの術が、つまりは「亀卜」だったのであります。わけのわからないことについて語り、説明することは、かつては支配者のみに許されたことでありました。よって亀卜の技は、権力と密接につながるモノだったわけであります。

列島の主要部を支配下に置いたヤマトの政権がその体制を整備するにあたって、当時最新鋭の舶来技術であった「亀卜」――亀の甲羅を焼いてそのひび割れ具合で吉凶を判断する技、を取り入れた時、やがて亀卜は、その年の天皇さんのスコヤカなるをうらなう「御体御卜」や国政上の大事を陰陽寮の式占といっせぇのぅで、でうらなう「軒廊御卜」などの儀式で用いられることになりました。そしてこの技術を専業としていたのが、令制下の神祇官・卜部であり、彼らの出身地がこの壱岐や対馬といった地域なんであります。

東アジア怪異学会では長らくこの亀卜について取り組んできました・・・オマケにコノシロまで焼いてしかも食べました(←かのサカナは亀卜と一切関係ありませんw また食ったのもごくいちぶの人だけですから念のため)。具体的に亀の甲羅をどないに焼くのかと申しますとですね。伴信友の「正卜考」等に見える方法によれば、よーく乾燥させたウミガメさんの背甲を何等分かにして五角形に整形→1.5㎝四方ぐらいのマチを掘って→そこに焼けたハハカ木をジュッと押しあてますと→熱でもってピキとヒビがいく、というわけですネ。この、ジュとやってすぐにピキとゆくト骨にする技術がいかにめんどくさいか、そして強烈なクササとの戦いであるか・・・「軒廊御卜」とかコジャレていいますけどアナタ、あれは廊下でかつ風通しのいいとこでないと耐えられん臭さですョほんとに。

対馬の亀卜といったら豆酘なんでありますが、そちらへ向かう前に厳原歴史民俗資料館にて亀卜の資料を軽く拝見。残念ながら撮影許可がおりませんでしたのでお見せすることはできないんでありますが、展示してあったのは3~4片の卜骨で、大きいもので15cm×10cm程度に1cm×1cmの小ぶりのマチがミッシリ。見覚えのあるモノとなんか違うなぁと思ったら、いずれにもハハカ木を押し当てた焼け跡がないんですな。この卜骨がどういう形で伝来したのか、例えば発掘調査で見つかったものなのか個人宅に保管されていたのかはわからないということですけども、卜骨作りは手間がかかりますからやはり何らかの形でストックして置いてたということなんでしょうか。

さて、厳原を後にして向かいましたのが、亀卜神事を今に伝える、豆酘の雷神社であります。豆酘は対馬の西南端に位置する島屈指の大集落で、同じ集落内には天童信仰で著名な多久頭魂神社なんかがあることからも古くから特別な地域であったことがわかります。雷神社は豆酘湾にそそぐ小川を集落のはずれ辺りまでさかのぼった渓流沿いにある小さな社。この神社にて毎年正月3日(旧暦)に行われるのが、亀卜神事を核としたサンゾーロ祭なのでありマス。

祭の名前はその祝詞に「さん候」との文言が多いことに由来します。ホーヘシ(奉幣使、阿比留氏が世襲)と呼ばれる役職が御幣をうけ、ジューシ(多久頭魂神社の住持、当社は近世以前は観音堂と別称される神仏習合寺院)とニイドン・サンメ以下の供僧が居並ぶ中、神官であり卜部の末である岩佐氏により執り行われます。この岩佐氏がまたこの上ないナイスキャラでw 心眼ならぬ心耳で聴いた卜骨のヒビ割れ音でもって、農作物の収穫や天下国家からその年流行するファッションまでをうらない尽くすその姿が、かつて東アジア怪異学会が國學院と共同開催しました亀卜シンポジウムにて、「対馬の亀卜オジサン」と愛称されるほどの大人気ぶりだったことはご記憶の方も多いのではないでしょうか。ちなみにサンゾーロ祭が天下国家を語るのは、当祭が対馬藩の公の行事だった名残デス。


神体という「神石」についてはよくわかりませんデスタけども、この立杭のセンスは絶対に亀卜オジサンのものだと思う。


宴の不始末・・・?祠の裏には祭の際に使われたと思しき矢来の束?が無造作に立てかけてありました。


亀卜をやっている、もしくはやっていましたという神社を幾つか回ったんですけども、こういうものはやはり実際に神事をやってるとこを見ない限りは、場所についての感慨ぐらいしかないのが残念なところなんでありますが、上対馬をまわっている時にひとつ面白い神社がありました。対馬の北の玄関口・比田勝の東隣に西泊という集落がありまして(島で言うと北東端ですネ)、集落の北に権現山なる甘奈備型の山が覆いかぶさり、その山腹に坐すのがくだんの社、能理刀神社であります。

この神社、対馬卜部の聖地だったという伝承をもつ一方で、神社のある山の名からもうかがえますように、熊野権現が入っておるんですね。神社の由緒書きを見てみますと、①この地はもともと神功皇后三韓征伐の折に戦勝祈願をした行宮の地で、②その昔、老夫婦が小舟に乗せて三社権現を運んできて浜に社を作り祀っていたがその後現在地へ社殿を遷して行方知れずとなった、③ある時この神が最初に流れついた浜に村人が朝日の出る前訪れると60歳ぐらいの冠をかぶった官人姿の貴人が座っておりその姿をみて村に帰ったところ不幸があったために、以来朝方にその浜を訪れるものはいない、④文永11年蒙古襲来の時、この神社より神石が三つ飛んできて異国船を打ち払った、と。①はさておき、④は熊野としてはありがち。②や③はよくわからないけどオモシロイ。対馬に来ると熊野も微妙に海神ぽくなるデスネ。

そしてもう一つ、この神社の案内板には、この神社は「亀卜所(占祈祷)の神霊神を祀る古社で権現山は古神道の霊神山であって中世に熊野系の修験道山伏が入って修練した亀卜所」であるという。亀卜が「うらない」であると同時に「祈祷」であり、そこに修験が入っているというんですネ。

豆酘の雷神社でもちょっと思ったんですが。豆酘で土地の人に神社のことを尋ねても、一般に知られた名である「雷神社」ではまず通じません。首をかしげて多久頭魂神社を教えられたり、「亀卜神事」の神社と話してようやくわかっていただけたほどで、地元での通称は「嶽(タケ)の大明神」なんです。えぇ、ネチコマネチコマ、いうて踊り祭るかのタケマジン様が思わず脳裏をかすめるんですけども(ほら、亀卜オジサンってあの映画に出てても違和感ないしw)。それはさておき、この社名に見える「嶽」の辺りが気になったわけです。

対馬で「嶽神」というと雷神信仰と関わるらしく、よって「雷神社」との称とも相通ずるものであります。が、対馬をドライブしつつ「嶽」とついた山々を眺めるに、いずれも修験者がほおっておくはずのない姿をしてるんですネ。白嶽なんぞはもう、湯殿山を彷彿とさせるような見事なナニ。また事実、仁位の「大嶽」や安神の「嶽之神」などにそれぞれ残る霜月の祭礼はあきらか修験の影響を強く受けたものであるらしい。そして豆酘の雷神社は中世、「嶽之神」と称されていたわけで。

豆酘と西泊では島の端と端ですし、そもそも対馬の亀卜関係の文献をマジで読んだわけでもございませんので、何の根拠もないことではあります。しかしながらかの地の亀卜が現代まで伝承されるにあたって、途中に修験的な何かが混入したということは・・・なきにしもあらずではないかと。対馬における亀卜と修験の関係は、少し考えてみてもオモシロイのではないかと、ほのかに思った次第でありマス。


能理刀神社へ続く階段。ちなみに参道入口は集落のメインストリートからは完全に民家でふさがれており、社は見えどもたどり着けず、な感じデス。また石段途中に「西福寺」なる寺院がありマス。


権現山からかつてとんできた神石「三ツ石」を祀る祠(西泊)。神石はどうも一部はまだ地中に埋まっているらしく、傷つけたり上を歩いたりすると災禍があるのだそうで・・・上記③にもあったように、随分ナーバスな神サンのようです。

《参考文献》
『亀卜』東アジア怪異学会・編 臨川書店
『海童と天童』永留久恵 大和書房

怪道vol.127 実録対馬滞在記その1

2009年05月12日 23時42分11秒 | 怪道
対馬から帰ってきました。帰ってきてまたすぐ姫路とか行ってまして、もぅ5月に入ってから濃密すぎて消化が追いつかない状態であります。ここはひとつひとつ反芻し栄養を摂取していかないと…めざせあやかしメタボ。というわけで、これよりしばしの間、別水軒の対馬滞在記におつきあいいただきたく存じまするー、チョチョンチョンチョン。

まずは対馬の概略から。対馬は玄界灘北部に位置し、主島である上島・中島・下島をはじめ大小100に及ぶ島々で構成された群島です。記紀神話では大八洲の第6番目に生まれた島として記述されていたり、またかの地の遺跡からはヤマトの影響を強く受けた遺物がかなり古い段階より出土していることからも、往古より朝廷に重視された土地でありました。それもそのはず、対馬は九州本土より朝鮮半島に近い国境の島。そのため両地域の交流の窓口として栄えた反面、日本側からは神功皇后の三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵に代表される半島進出の、また大陸側からは文永・弘仁の役に代表される日本進出の、それぞれ前線になったという数々の動乱を乗り越えてきた地域でもあります。

えぇもう対馬の歴史はとかく朝鮮半島抜きには語れません。阿比留氏という在地勢力に加え12世紀頃に後の対馬宗氏の祖となる惟宗氏が島に入りチャンチャンバラの辺りは適当にググってくださいということにして、中世以降、対馬のヒトビトは宗氏を筆頭に朝鮮の被官となって断絶と交流を繰り返しながらも貿易を拡大。関ヶ原で西軍についたにも関わらず徳川幕府から重用されたのは、クニとクニのはざまで立ち回ってきたそのしたたかさに加えその長きにわたる朝鮮半島との通商における経験を買われたことが大きいわけです。山がちな地形で耕地面積はわずかであるわりに10万石との破格の格付は、ひとえに半島との通商によるもので、その豊かな財力によって雨森芳洲などの本土の文化人が招聘されたのはよく知られた話。

毎度おなじみ、来月90歳になるジジサマ連れで伊丹から福岡経由で飛行機を乗り継ぎ、いかにも山が沈みました、なリアス式海岸を見下ろしながら対馬入り。まずは対馬宗氏が代々その拠点を起きました下島東岸の厳原へと向かいます。・・・皆さんご存知でしたか、対馬のレンタカーのナンバーは、総数のたぶん半分ぐらいがレンタカーの「れ」←普通は「わ」なんです、念のため。

厳原は有明山と清水山、そして厳原湾に挟まれたコンパクトな町。城下町の残香ただよう街中にてはじめにお邪魔しましたのは、かつて秀吉が朝鮮出兵の際に築いたという清水城があった清水山の、その麓に坐す「厳原八幡宮神社」なる神社であります。ちょっとモノを知ってる方なら誤植か何かの冗談かと思いがちなクドい名前でありますが、全国的に見ると時々あるんですよハチマングウジンジャ。こちらのハチマングウジンジャは明治に入ってすぐの頃に一時ワタツミ神社を標榜し、「対馬一宮」を称したこともあるんだそうです。

ワタツミ神社や対馬一宮については後稿にあらためることにいたしまして、えー、当社のご由緒はハチマングウだけに神代ニッポン屈指の萌キャラ・神功皇后ことオキナガタラシヒメさまにちなみます。なんでもヒメさま三韓征伐凱旋のみぎり当地に行啓アラセラレタ際、この山は神霊のとどまる地であるとて神籬磐境を定められたのがそのはじまり、天武天皇白鳳4年の勅によりて同6年宮殿をつくらしめ、「八幡宮神社」と称せられたそうで。出ました元号「白鳳」、そして「ハチマングウジンジャ」は天武のシワザかハハハハてなことだそうです、どんとはれ。

かれこれ名前のクドサに惹かれただけで訪れた神社だったのでありますが、一つおもしろいものを発見いたしまして。境内社に天神神社、というのがあり、この天神神社に祀られているのが、なんと安徳天皇。かの天皇については皆様すっかりご存知のように、たった8歳で海の底の都へ旅立たれた平家栄枯盛衰の象徴であり、その哀れな生涯が伝説と化して、ついには全国津々浦々に流れ着いた伝説をおもちでらっしゃる少年天皇。

案内板によりますと、「安徳天皇文治の乱を避け都を出させ給ひてしばらく筑紫に潜ませ給ひ筑紫の吉井より当州に下り給ひて久根村大内山皇家の地に遷居し給ふ(略)帝終に対馬に崩ず因って八幡宮神社境内に神祠を作り祭りて天神神社と称す、貞治元年菅原道真公の霊を加へ祭る」。うむ、こちらにこられたあんとく様は都から筑紫へ直行されているようです。まぁ確かに、小さいサンだし屋島とか壇ノ浦とか出張ったら危ないですもんね。「対馬で亡くなったから天神社に祭った」という辺りのリクツはようわかりませんが、なんともまぁ、カミナリ親父と同居させられたあんとく様がひぃひぃ泣きながらオベンキョしてそうな神社です。

下島西岸の久根田舎(クネイナカ)なる集落にはあんとく様の陵墓なるものがあるらしいということだったので、あんとく様のお参りに行くことにしまして。そこは久根浜にそそぐ川を1km弱ほどさかのぼった山間にあり、なんでも対馬で最初に銀の採掘が行われたという少々いわくつきの土地らしいです。

土地の人のささやかな口承を基にしたへへへな陵墓とたかをくくっておりましたら、・・・なんと宮内庁公認であったという罠w 厳原八幡宮神社境内の天神神社案内板に見えた「大内山皇家」や住まいであった「信御所」等の位置はちょっとわかりませんでしたけれども、こちらの案内板によりますれば、あんとく様の陵墓がある山(補陀落山というらしい)の向いの山に「御殿」があったようですネ。土地が伝える所によりますと、あんとく様は九州に逃れ潜んで暮らす中、島津の姫と結婚して二子をもうけ、その長男・重尚(←対馬宗氏初代当主)が対馬地頭代となったために対馬にわたり、74歳でこの地に没したと言いますからもうー、それはそれはお幸せそうで何より。これじゃあ海竜祭で祀られることもお迎えにきて島をホロボスこともなさそうですネ。

宮内庁をして「参考地」といわしめたその背景には、いかなパワーバランスがあったのかしらんなんて、帰ってきてからあらためて調べましたところ、全国津々浦々のあんとくさまのお墓(山口県西市、鳥取県岡益、高知県越知など)は今も全部宮内庁が管理してるうようですなぁw ・・・明治の天皇陵墓治定運動ってすげぃのネ。かの時代の「天皇」という存在に対するしぅねんが感じられる次第であります。

対馬歴史民俗資料館でお聞きしたところによりますと、この陵墓は明治初年より島の人々により陵墓確認運動が展開され、明治16年(1883)に御陵墓御見込地となり、明治40年に御陵墓伝説地と改称、昭和2年に御陵墓参考地となって現在にいたるのだそうで。同じ頃、第34代当主であった宗義達(1847~1902、維新後は重正)が対馬宗氏は安徳天皇の末ナリと大真面目に吹聴していたといいますから何をかいわんや(なんか家記を書いてるらしいです)。宗氏は明治17年、元5万石以上の大名家ということで順当に伯爵をもらってるんだけども、その後この重正さんは侯爵位をヨコセてな運動してらっしゃることはこのことと何か関係があるのでしょうかw そしてこう見てくると、ハチマングウジンジャの天神神社の元のヌシはやはりカミナリ親父で、あんとく様は後から越してきたのであろうことがワカリマスネw

対馬入りして間もないうちに、この島のしたたかさの片鱗を見た思いがしたのであります。


厳原八幡宮神社境内の天神神社。


久根田舎の佐須陵墓参考地。お邪魔しましたところ小石の敷き詰めた上に石板がぺろっとのっているだけのお墓です。