怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪日記vol.107 またまた1年たちました

2010年05月27日 23時58分56秒 | 怪日記
今年もハッピー・アニバーサリー・怪道の季節がやって参りましたヒプヒプホレー★。なんとまぁついに5年目に突入ですね、アン信じラブル。遊びに来てくださる方も年々増え、200ipを超える日もめずらしくなくなってもうー、いい加減なことをしていてはいけませんなぁと思いつつ・・・相変わらずな別水軒ですスイマセンw

毎年恒例と申しますか、オメデトウ&アリガトウを記念して近況報告をさせていただきましょうー、えー、昨年末以来最もアテクシを忙しくさせていたモノゴトがようやく一段落いたしました。すなわち、うちのジジサマの件であります。脳梗塞で倒れて以来、長らくリハビリ病院に入院しておりましたが、自力で生活するほどの回復には至らずということで、このたび24時間介護付の有料老人施設への入居が決まりまして。それに伴い、ジジサマ宅を処分することになったわけですが、これがもー、大変のなんのってw つもりにつもった90年分のコレクションをどうしてくれようというわけですね。

ジジサマのライフワークであった珪藻研究に関わる標本やら貴重書やらの類は数年前にすでに某国立および県立科学系博物館に寄贈済みであったとはいえ、その他個人的趣味で集めた蔵書はもちろん陶磁器だの土鈴だのカセットテープだのビデオだのがてんこもり。しかも捨てるにしのびないモノがほとんどだからタチが悪いわけでして。蒐集癖がおありの方はあれですよ、ある程度の御年になられましたら、コトがコトだけに家族からは切り出しにくい話ですし、ご自身から進んで整理・引き取り先の選定等はされておくべきでありますよ・・・と自分にも言い聞かせて現在お部屋の片づけ中だったりしますがw そんなこんなで、おかげさまで無事片付けもおわりましてございます。

さて。

若さに特権があるとすれば、それは知力・体力・資力の全てを自身のことのみに集中でき、他の事にはいい意味で「無知」でいられるということ。しかしながら、年齢を重ねるごとに家族は衰え、自分自身がオノレのみのものでないことに、そして自分一人の将来のことだけに集中しているわけには行かないことに、嫌でも気づかされる時はやってきます。それでもなお自己を中心に据え続ければ、それは単に周囲に対する自身の責任を「無視」しているに他なりません。

ジジサマが倒れたことは、アテクシにいろんな意味で家族の将来に目を向けさせることになりました。なんだかんだでうちの家族で丈夫なのはじぃちゃんだけでしたからねぇ、ハハもアニも、近い将来アテクシが背負っていかにゃあならんという現実が、痛いほど目の前をふさぐ様になり。様々な人が励ましてくださったことで研究の道に戻ろうと思った時、一度は周囲を「無視」する覚悟をしたつもりの別水軒ではありましたが、・・・その罪悪感に耐えられんようになってしまいました。今となっては本当に覚悟できていたのかどうかもあやしいもんですけど、中途半端なことをしたせいで、たくさんの方にご迷惑をかけてしまったなぁと日々恥じ入る次第です。伏してお詫びいたします。

別水軒はもうその道には進むまい。そう決めて自身をふり返った時、・・・どっかの殿じゃあありませんが、びっくりするぐらい、自分には・・・なぁんにもないんですよね(笑)。自分がナニモノだったかも忘れるぐらいの、稀に見る喪失感に襲われ。そんなおり、コタツに足をつっこんでみかんを食いながら観ていたのが「プリシラ」という豪映画。かのテレンス・スタンプが中年の口パク・オカマダンサーを演じているというので驚愕したシロモノなんでありますが。奇抜な衣装とメイクで歌い踊るオカマダンサーたちの「愛はかげろうのように」(オリジナルはCharlene→コチラ)を見ているうちに、なんだか妙に心動かされてしもうた。あの曲を聴きながら、ふと、日本を出てみようと、思ったわけです。すると。

フツー逆だろwww

・・・友人一同からの、実に的確な総ツッコミをちょうだいいたしましたwww 聞いてもらえばわかりますけど、あの曲は、そういうバカはや め と けって歌ですからね。自分自身にたどりつけないならせめてパラダイスをみたいという自虐的な思いとともに、"i've never been to me"ではじまったけれども、ラストにそれぞれが"i've been to me"で終わるとってもハッピーな映画だったことにもよるんだと思うのですが。とりあえず、行き先はダブリンとか言うてた頃はスイマセン、まだまだふんいきでしたw でも、リスタートを切ろうと思う人間にとっては、日本ほど生きづらい国はない、と感じていたのもまた事実。

別水軒というヒトは、おもしろくない状況にはすぐに飽きちゃうてことは皆様もよくご存じのはずw、身辺整理をするべぇとのそのそと部屋を片付けたりなんかしてみますとね。かつて修士論文を書き終えた後にコンチクショウユと放りだした時の3倍以上のゴミが出ました。あの頃よりは多少マジメに勉強してたみたいだなぁとニヤニヤする一方で、これだけは捨てれんと残したモノ共の集合を見たとき、やはりワタシはワタシであるのだなと、これまたニヤニヤしてしまったわけです←恥ずかしいぐらいよくあるパターンwww 道は何も一つではないのデス。別水軒は別水軒のまま、やはり別水軒の怪道をゆくのであると、落ち着きどころがすこぅし、見えて参りました。

オカマダンサーに導かれた思いつきではありますが、しばしの間、日本を離れようという気持ちに変わりはありません。そしてより明確に、生きる道と稼ぐ道を足して割って熟考を重ねた結果、そのココロはゴースト大国・イングランドに向かうこととなりました。コトバの壁が一番低そうってちょう現実的な判断もござぃあすけどもねw、あの国は歴史的になかなかおもしろそうなひずみがようけあるようですきに。そういうスキマには・・・まちがいなく、外道衆がうょうょ湧いちゅうはずですろぅ←先週の龍馬伝みたばっかり。


てなわけで、しばし離れる故郷でのよい思い出を、たくさんつくる一年にしようと思います。おつきあいいただければ、別水軒、この上ない幸せにございます。今後とも、怪道をヨロシク。


見て見て見てwww となりどうし★

このうえなくよい思い出ではなくってwww?・・・単にあいうえお順にならんだ写真提供者の名前なだけですが、「べっ水軒」でよかったと思った瞬間でした(笑)
(今年2月に発売されたコンビニ本『世界と日本の怪人物FILE』/学研パブリッシングより。多分もう店頭では手に入らない・・・頃にこっそりいうのがアテクシのよいところw)

怪評vol.57 名探偵の冒険

2010年05月03日 02時08分23秒 | 怪評
ご無沙汰しております。
なんだかんだでいろいろ忙しゅうしておりまして、どうもスミマセン。かくも長期に渡ってお休みをいただきましたのは、まぁいろんな事情が重なりましてとしか言いようがないわけでありますが。さすがに当怪道ブログへ遊びに来てくださる方も少なくなっておるであろうと久しぶりに見てみたら・・・なんも書いてないのに毎日100人以上のアクセスがあるとかどういうこと(゜ロ゜)。なんかもう、ありがたいやらナニやらで、仰天のあまりパソに向かいました次第であります(汗だく)。

てなわけで、お久しぶりのブログなので本日はかれこれひと月ほど前に拝見してきた映画バナシで軽めのウォームアップといきましょう。お題の「名探偵」とはほかでもない、心霊主義の聖パウロことコナン・ドイルの探偵小説に登場する、元祖・名探偵ホームズさんのことであります。元々ルパン好きだったアテクシがホームジアン(あえてシャーロキアンと言わないのはアテクシが英国びいきだからですw)になりましたのは、グラナダTV版ブレット・ホームズにノックアウツされたからに他なりませんが、「はじめて見るホームズ」とかいうキャッチについ踊らされてしまいまして。3月半ば頃に公開されましたのでやってる映画館はもうほとんどないと思われマス。上映期間が終了したところでこっそり言うのがアテクシのよいところ。

さてさて。ドイル生誕150周年の関係でリバイバルされたとおぼしきこのホームズさん映画。ベースにしているのはいわゆる「正典」ではなく、ライオネル・ウィグラムとかいう方によるコミックなので、アイリーン・アドラーがすげぇ怪盗だったりワトスン君のヨメになる四つの署名のヒトとホームズが初対面だったりとちょこちょこ設定が違います。物語のさわりを簡単にご紹介しますと、1891年、ロンドンで女性ばかりを狙う連続殺人事件が起こる。ホームズとワトスン君の活躍により、ブラックウッド卿が逮捕され絞首刑の判決がくだされるも、卿は自分は必ず復活し世界を闇に包むのだぁと予言。執行後、検死官としてしてその死を確認したワトスン君だったが、3日後、墓から甦るブラックウッド卿が目撃されたのを端緒に、次々と怪事件が勃発。人々の恐怖がロンドンを覆う中、名探偵がついに捜査を開始する・・・てなとこでしょうか。

ホームズを演じられるのはロバート・ダウニーJr.という方。ワトスン君より小柄なホームズのあたりがまず「はじめて」でありましょう。そして当のワトスン君はグラナダTV版ホームズの「ショスコム荘」の回で初々しい女装姿を披露していたジュード・ロウですね、とかいったらグラナダTV版じゃ軽くネタバレですねゴメンナサイ。映画ではワトスン君のが目立ってたという方もおられるようですけども、多分ホームズがちびこいせいじゃないかなぁとか思ったりします。正典等でホームズがワトスン君を紹介する時に「colleague=同僚」という言葉を好んで使っておりますように、あのぐらい見せ場があってもアテクシ的には違和感はありませんでしたョ。

監督のガイ・リッチーは映像畑ご出身だけに絵はとてもよい出来です。ベーカー街へと誘うカメラワークがグラナダTV版OPへのオマージュとなっててグッときますし、ホームズがタワー・ブリッジと同時代というなるほどな知見も得られました。そして何より・・・かの名探偵を主役に据えてただのアクション映画になってるwとゆう半笑い感まで楽しめるんですからもうー、なかなかのもんデス。ブラックウッド卿の陰謀てのが一見大掛かりなように見えてペラいペラい。お話としてはおもしろいんだけどその世界の中で現実性をもって機能しておりませんで、つまりはワルさが仮面ライダーとかのワルモン級なのです。コメディタッチならまだ笑ってあげれるのにあんなにシリアスに描写されちゃあチト哀れですなぁ。おかげでホームズってそういえばドラキュラとかとも対決させられてたことを思い出しましたw

アクション映画化しているのは、他ならならぬホームズとワトスン君が超・体育会系探偵として描かれていることにもよるでしょう。正典のホームズさんも確かにバリツ(正しくはバーティス)なる武術を体得していたり動けることは動ける人ですが、正真正銘頭脳で対決するタイプの方なわけで、痩身で顔色の悪い不健康なコカイン愛好者てのがよく知られたホームズ像のはず。岸田森とかお大師とか病的な感じのするインテリに弱いアテクシがホームズに転んだのもまさにそこだったんだけども・・・余談ですがシリーズ化が予定されているダウニー・ホームズ、モリアーティにブラッド・ピットのキャスティングが噂されているそうで、監督ガイ・リッチーは本気でハッソマッソーなホームズ・シリーズを作る気ですね。ここまで来ると果たしてホームズ映画である必要があるのかと言いたくなるわけですがw

まぁ、そんなホームズだっだだけに「紳士じゃない」という意見がよく聞かれるようです。この「紳士」はおそらく「上品で礼儀正しく教養の高いりっぱな人:『大辞泉』」の意味での紳士なんでしょうが、確かにダウニー・ホームズは小汚いナリをしていたり、さほど品もよろしくありません。ただ正典ホームズの服装に関していえばあの時代のあのぐらいのステイタスの人はだいたいあんな格好をしてますからだまされてはいけないわけで、別水軒的にはダウニー・ホームズもまぁ解釈次第ではありかなぁと思ったりするわけです。思うにホームズという人はグラナダTV版ブレット・ホームズで体現されたように、黙ってジッとしてれば「紳士」なのに、というどっかの薔薇十字探偵と似たところがありますからね(注:生き方は根本的なとこで違いますが)。

しかしホームズは「紳士」とは言い難いけれども「ジェントルマン」ではあるわけです。ジェントルマンという言葉は、ひろく男性を意味する言葉であると同時に元々は一定の社会階級をあらわす言葉であることは、世界史の産業革命の辺りで皆さんもご記憶された覚えがあるでしょう。語源となる「ジェントリ」はかつてのイギリス社会において土地所有に由来する不労所得階級だけれども爵位を持たない人々、をさす言葉ですね。ホームズという人は富裕な大土地所有層出身のオックスフォート卒という設定らしいですから(そしてサーの称号を断ってる辺り貴族でもない)、そういう意味では社会的地位としてはジェントルマンであることはまず間違いないですね。

地位や高い教養はあるけれども貴族じゃないヒト=ジェントルマン、てのがアテクシのそもそもの認識だったですが。某歌劇団でしばしば上演される「Me & My Girl」というイギリス産のミュージカル(1937初演)がありましてね。ロンドンの下町・ランベスで育ったビルという青年が、ある日突然イギリスの名門ヘアフォード伯爵家の跡取となったことで引き起こされるドタバタを描く、男性版マイ・フェア・レディと呼ばれる作品なんです。その中で、伯爵家へ来たばかりのビルを揶揄する使用人たちが「どうみてもわからない 貴族のタマじゃない とんでもない呆れたイングリッシュ・ゼントルマン」(訳詞:岩谷 時子)と歌うシーンがあります。これからは、こいつは到底貴族とは呼べねぇ、所詮ゼントルマンだよな、ともとれませんか?←アテクシはそう聞いてたんですw ところが、今年に入って英語版「Me & My Girl」のCDを手に入れて聞いてみると、同じ部分が「He'll never make the noble rake, that constitutes a gentleman, an English gentleman(別水軒の拙訳:彼は上流階級にはなれない、ジェントルマンで構成された上流の人にはね)」つまり貴族を含む上流階級とゼントルマンはほぼ同じ意味を持ってることがわかり、・・・えらく困ってしもうたわけです。

ただ、よく考えてみればイギリスの貴族と日本の貴族は多分ちょっと違っていて、ざっと例えるならノルマン・コンクェストをやったウィリアム1世は鎌倉幕府を開いた源頼朝の立場に似ていなくもないわけで、そうすると英国貴族てのは「守護」に置き換えられるのかなと思ったりするわけです←ツッコミどころ満載なぐらいに大まかに言うてマスヨ。そう位置づけるとすると、ジェントリってのは元々は在地の有力者だった連中が封建制に組み込まれていく過程で生まれた階層ですから感覚的には日本でいうところの地頭とかの感じにあたるのかなぁと。ただ、日本では「キミってばちょう地頭」なんてぇのは残念ながら今も昔もホメ言葉にはならないですね。

思うにイギリス人にとってのジェントルマンという言葉は、日本で言うところの「サムライ」に近いのかもしれません。元は社会的階層としてはけして高くはなかったはずの人々をさす言葉が、時代の流れとともに男性のあるべき姿としてある種 美化・形容詞化していった言葉という意味では、両者は非常に似ておるかと思われます。そして日本の貴族の末裔の方々は「サムライ」と称されてもうれしかないでしょうが、イギリス貴族は頼朝公とその家来の末裔にあたるわけだから、征夷大将軍にとっては武士・サムライは賞賛の言葉になりうるわけですねぇ、そう思えば理解デキマス。ただしジェントルマンの方はサムライほど観念的ではなくもっと経済的実力に基づいた敬称ですけどね。


・・・スイマセンでした、ダウニー・ホームズでしたね。
自身のメソッドを貫くためには物事にとらわれず自由に振舞う異色のジェントルマン・ホームズは、いわゆる産業革命の担い手としてジェントルマンと呼ばれる人々が急激に増加した19世紀のイギリス社会に現れるべくして現れたキャラだろうなと思います。当時の識字層の多くがそんなジェントルマン階級の人々だったでしょうが、このダウニー・ホームズは、服装や振る舞いを現代のアテクシ達に近づけることによって、19世紀末当時の読者達が抱いていたホームズ像に近いイメージのホームズを楽しめるのではないかと。そう考えれば非常におもしろいホームズ映画だと思うのでアリマス。かの探偵を19世紀の日本人に例えれば、御一新後に事業に成功した元下級武士の家の次男坊が慶應出てから高等遊民としてふらついてるような感じでしょうけど、・・・ダウニー・ホームズのイケナイところは、早稲田卒なホームズになってる辺りでしょうかねw

まぁ、これだけいろいろ思うキッカケをくれたんだから、とりあえずオモシロイ映画ですよということでw
定期的なアップはお約束でけませんが、今後とも怪道をよろしく。

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