怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.101 波をかしこみ淡路島(下)

2008年06月27日 23時56分02秒 | 怪道
最近なかなか上げれなくてどうもスイマセン。なんだかパソの調子が悪くてですね。突然電源が落ちたり、本体は起動していても画面が反応しないとかで使い物にならず。一文書くごとにバックアップをとる始末です・・・そろそろ寿命なのかしら、ヤだなぁお金ないのに(泣)。

というわけで、淡路島です。神話・伝承の旧跡といわれる場所をニヤニヤしながらめぐり歩くのが大スキというワタシが淡路島まで来ていかずにおくはずがない、南あわじ市はおのころ島神社に行って参りました。おのころ島。記紀神話の国生みのクダリで、大地の完成を命じられたイザナギとイザナミが天浮橋にたって天の沼矛で大地をかきまぜる、その時矛から零れ落ちたものが凝ってできた島です。二神は島に降り立ち、そこで国生みをし、我らが大八洲のクニができたわけですね。

おのごろ島だと言われる島は7ヶ所ほどあるようです。有名どころで言うと加太沖の友ヶ島や兵庫県の家島諸島、淡路島の南にある沼島あたりですが、本居宣長なんかは淡路町岩屋の絵島がそうだというし(『古事記伝』)、鳴門海峡の飛島だというのもあります。元禄時代頃活躍した碧湛なる僧は淡路島自体がおのごろ島なる珍説を出す(『淡国通記』)一方、この旧三原郡三原町にある「おのごろ島神社」の場合はその立地からしてなかなかオツ。

神社周辺は、まぁものの見事にペタンとした平地です。そんなところに突然ポコンとあるから当初は古墳かぃなと疑ったんですが、周囲を歩いてみるとそれにしては形がなってないかなぁと思われ、まぁ自然の丘陵だと思います。現在の海岸線は西に4キロほど行った先とはいえ、かつてのこの付近はおそらく海中、そこにぽつんと、幅50m程度、高さも2~30mがいいところな丘がある。浅瀬に浮かぶ小島という観があったことは間違いないわけで、それが淡路島にあったであろう巨大な内湾にすっぽり抱かれる具合にあるわけですから、おのころ島、という発想はなるほどうなずけるところがありますナ。


おのころ島神社。巨大な鳥居はなんでも日本三大鳥居だそうで。

「日本の原点を省みて将来の日本を考える、人々に、とって忘れることのできない尊いお社(読点ママ)」であるそうです。といいつつ、辺見えみりがキム兄との結婚前にここでお守り買ったてことで有名になったせいで、その手のお守り購入希望者にとって忘れることのできない尊いお社になってます。結婚だけに特化するならまぁよろしいでしょうが、イザナギとイザナミ祀ってるとこに後の末永いシアワセまでお願いしてはいけませんてことを見事に証明された感じですネw 摂社の八百萬神社とかもぅ、ナニそのどうしたらいいのw?な名前の神社があったりですね。え、そういう意味では大変楽しめるお神社でございますョ。

また鳥居前の観光地図眺めてたら、駐車場内の無人販売所で買ったタマネギ思わず落としそうなことが書いてあるわけです。

天の浮橋 西へ400m
葦原国  西へ800m

・・・オイw 浮橋ってここは高天原かとか、そもそも葦原国ってナニw とかもうどこからどうツッコんでいいか・・・いや、ツッコむ気力もないし、もういいよねw というわけで、「スイマセン、葦原国はどこですかー?」て聞いてる自分が何かガンダーラとかを目指してるヒトみたいよねなんて思いつつ、それならそこを左にまがって、と説明してくれる親切な土地の方。あぁこれだからやめられないんです伝説めぐり。葦原国は、田んぼのど真ん中で木が数本立ってる下に径2mぐらいの沼っぽい水辺に葦とか植えてあって、その脇に鳥居と石碑が立ってるようなところでしたョ。

といいますのも不届き千万なキモチでシャッターを切っていたせいか、ここから十数枚分、デジカメからデータが消えるという不幸にあいましてorz 帰宅後に大般若経を転読してみたりしましたが(←ウソつけ)願いは聞き届けられず、よって上の二つの様子はおのころ島神社公式ホームページ掲載の写真で我慢してください(→コチラ、うーんと下のほうにありますので)。葦原国、今はこれほど木は茂っておりません。

さてさて、イザナギ・イザナミのお二人が一番シアワセだった頃を過ごされた場所をあとにし、向かうは熟年離婚後のイザナギさんが鬱々とお過ごしになったであろう幽宮・伊弉諾神宮へ。ここがもう・・・なんていうか、どうしてくれようという神社でありましたw

旧津名郡一宮町にあるこの神社はその地名からもわかりますように淡路国一宮。イザナギがこの地にカクレたとするのは日本書紀で、古事記の方は近江の多賀としておりますのは皆さまもご存知の通り。カクレノミヤとは絶妙の言い回しで、この神社は郡家港から郡家川沿い(河口に蛭子神社がありましたョ)に遡って山地に入ったすぐの所、山に囲まれた中にあるんですね。まさにカクレてるというかヒキコモッてる感じです。神社の鎮守の森の裏手にはその郡家川が流れてるわけで、ここで毎日カラダ洗ってたんじゃないかしらと邪推したくなっちゃいます。社殿は変形型の神明造かなというところでしたが、現在のこの社殿は明治に入ってからのようですのでその辺はご注意ください。

参道を歩いていると謎の巨大な日時計が・・・と思ったら、「陽の道しるべ」と書かれた、すなわちレイライン信奉者な宮司サンによるオブジェなわけです。イタ車ならぬイタ社。気を取り直して二の鳥居の内側へ入ると、そこはちょっとした現代神話の狂気うずまく地でございましたw まず、ナヤミムヨウのリ○ブ21の碑があるんです。ワクワクしながら案内の碑を見たら、「髪はカミと訓じ、神や上に通ずる語彙です(略)ここに髪に宿る生命の尊さを伝えてきた日本特有の精神文化(えw?)を継承し、(略)頭髪感謝の赤誠を捧げる(原文、旧仮名遣い)」。わははははは。笑ったところで、なぜに他でもないナヤミムヨウが選ばれたのかはよくワカリマセン。

目を転ずれば夫婦大楠と呼ばれる大樹が石築地に囲われてたっており、その根元には小祠が。なんでもこの夫婦大楠、イザナギとイザナミ、そしてなんと小祠に祀られているのはヒルコだとおっしゃる。しかもこの3セットで「夫婦円満、子授け、子育てに霊験あらたかと崇敬」されている・・・っておかしいからソレw ヒルコは最初に産まれたとはいえ「失敗w」て流されたお子さんですね。絶対、子授けにも、子育てにも効きませんから。そしてイザナギとイザナミが夫婦円満とは・・・記紀読破を志せば挫折する前にすぐ、そのスサマジイ別れっぷりに出会えますことウケアイ。イザナギさんは桃の実とか投げて必死こいてヨメから逃げ帰ってくるわけです、別れたヨメの居場所を「いなしこめしこめき穢き国」とかいうしね(←この言い回し好きらしw)。それに関わるんでしょう、神社の絵馬は桃の実。そうまでしてイヤがってるのに、本殿に祀られるはイザナギ・イザナミの二神(ヨメの合祀は昭和7年)。・・・かわいそうだと思わなかったんでしょうかwww

とりあえずお正月には大変多くの方が参拝するにぎやかな神社になるそうです。よかったね、イザナギさん。


淡路のヒトは少々クチは悪いんですが(スイマセンw)、ワタクシがぼんやり立っていると何かと話しかけてきてくださる、とってもフレンドリーで親切な方が多く、あやうくウチの息子のとこにヨメに来てくれなんて勧誘を受けたりするほどで。淡路島、さすが日本発祥の地だけに、タヌキとタマネギだけじゃありませんね。

拍手喝采して帰路についた旅だったのでしたw



陽の道しるべオブジェ。


ナヤミムヨウの「頭髪感謝」碑。


夫婦大楠と大楠大明神・ヒルコ。


あっちいけバカヤロ、な桃絵馬。


伊弉諾神宮、本殿にございます。

怪道vol.100 波をかしこみ淡路島(上)

2008年06月25日 02時28分01秒 | 怪道
見ないで通り過ぎるわけには行かぬ淡路島でございます。

淡路島といえば記紀神話でイザナギ・イザナミ両神が最初に生んだ島として出てくる瀬戸内最大の島。若狭国や伊勢国などのように朝廷へ贄を貢進する御食国で、現在こそ兵庫県に属しておりますものの、古代の行政区分では南海道に属していたり近世には阿波蜂須賀藩の支藩であったりと、四国側に近い位置づけ。百人一首に「淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝覚めぬ 須磨の関守」という有名な歌がありますが、摂津と播磨の境界で詠まれた通う千鳥への想いはさぞかし今とは違うイメージであったことと思われます。そんな淡路島が畿内側へ連なるようになったのは明治に入ってから。幕末→御一新の混乱の中で、淡路島を統治していた藩家老稲田家が密かに進めていた分藩活動に激怒した蜂須賀藩が洲本を襲撃するという、いわゆる「庚午事変」の処罰として、徳島から切り離されたわけです。

『死国』のヒトのように「アワヂ」の訓から「阿波(粟)」国への路を語源と考える人もいるようですが、あまり本気にしないようにとひとまず注意させていただいた上でw(生まれた順番は淡路が先で四国はその次ですからネ)、確かにその立地から四国へ向かう中継地ともなっていたのは違いないでしょう。本州から淡路へ渡る路はいろいろあったようですが、紀州加太から友ヶ島をすぎて洲本に至るものは先年来なじみの深いもの(→コチラ)。友が島から洲本が見えたように、洲本からのぞむ友が島は、「おのごろ島」と言われるとウンとうなずいてしまいそうなほどに、美しい。


洲本より友が島を望む。

そんなわけで一日目は、阿波蜂須賀藩洲本城の城下町として、また四国への中継で宿場町として栄えた洲本の町のタヌキさんに会ってきました。

明石海峡大橋を渡ると淡路のサービスエリアで謎に観覧車に乗ったりしつつ、一路洲本は三熊山の山頂にある洲本城へ。ここには日本三大狸の一匹、芝右衛門狸がおわすわけです(残り2匹は二ツ岩の団三郎と屋島の禿)。芝右衛門狸についてはかつてこのブログで道頓堀の芝右衛門を訪ねた話(→コチラ)を参照していただくとして。道頓堀の中座で祀られていた芝右衛門が藤山寛美さんらの手により里帰りしたのが、この三熊山山頂の芝右衛門大明神。それより以前は、約10mほど離れたところにある木の根元に祀られていた・・・ということですが、なんせ場所は天守閣跡のど真ん中ですからね。芝右衛門を祀ったのは少なくとも洲本城廃城以降のことなんではないかなと思うわけです。



ちなみにこの木には現在「出世観音」と呼ばれる十一面観音が置かれています。なんでも一つだけ願いを叶えてくれるという仏さんで、土日の人出がある時にしか外に出されていないらしく、ワタシがお邪魔した時は前の売店の中においてあったのを店のオバチャンがわざわざ木のウロへ置いてくださったのが上の写真。十一面観音ですから稲荷の本地仏なわけで、タヌキを稲荷として祀る風は四国から関西圏に広くあるものです。木自体はそれなりの巨木ですから江戸の頃からすでにあったと思うんですが・・・洲本城時代になんらかの曰くがあったこの木の根元に、やがて芝右衛門狸が習合していったのでしょうか。それとももっと単純に稲田家は、そういうオハナシにつきあってあげる大らかな藩主だったんでしょうか。一緒に置いてあった古そうな五輪塔が気になりますネ。イヤ、結局なにもわからなかったんですがw


洲本城天守閣跡にある芝右衛門大明神。暖簾に藤山寛美の名が入る。

さて、洲本の町は目下この芝右衛門狸で町おこし中です。平成14年~15年にかけて芝右衛門狸をお父さん、お増をおかぁさん、子どものお松・柴助に、武左衛門・宅左衛門・桝右衛門に川太郎という仲間とあわせて8匹を洲本八狸として、街々の角に像が置かれ、ウォーキングラリーができるよう整備されたようです。歩いてもよかったんですが、最近急に足が悪くなったジジさまを連れにしておりましたもので車でのラリー。こうやって町をうろつかせていただくと、川沿いの寺町に歓楽街に弁天さんに、と町の典型的な城下町っぷりがよくわかり非常に楽しいものです。工事中で宅左衛門が場所を移動しているということで方々を聞いてまわったのに結局見当たらず・・・化けて遊びに出てるんだと思うことにしました。

とはいえ洲本市はこの八狸を昔からある話、とされてるんですが・・・大変失礼ながらワタクシ存じませんで。芝右衛門やその妻・お増の話はそれなりに古くからあったのは知ってますけども、昔っていつごろの昔からの話なんでしょう、ご存知の方は教えてくださいませんw?という思いが確信に変わったのは、大浜公園にいたこいつの存在。


「洲本市のマスコット ポン太」↑↑チンチンかいてるんじゃなくて小便小僧ティストなのネ。

「ぼく、洲本市のマスコットのポン太です。ぼくのお父さんは、江戸時代、洲本の三熊山に住んでいた芝右衛門タヌキです。(中略)今年は洲本市制50周年です。市民の皆さんのおかげで、ぼくポン太が誕生しました。皆に可愛がってもらえるよう、がんばりま~す」(平成2年、像の隣の案内板より)。「洲本八狸」では芝右衛門の子は柴助とお松。てことはナニ、ポン太は妾腹とかですかw 誕生してわずか12年足らずで設定変更とは、ちとこのコがかわいそうではないですかね、洲本市サンョw

なんだかモヤモヤしてその辺にいたオジィチャンに洲本の狸の話をご存じないですか、とおたずねしてみたところ。三熊山にはようけ狸が住んどってな、時々町へ降りてきては遊びよったんや。昔やから葉っぱで一円札とか十円札をやな、作るンヤナ。中には女中さんの格好に化けて手伝いしよるんもおってんで、とのこと。一円札・・・とかいうと、時代はわりと最近なんですネ、というか最近まで遊びにきてたんですねw とまぁうれしい話で。そういえば女中さんに化けて遊んどったタヌキの像が観光センターに飾ってあるョ、と教えられ、それはオモシロイです行ってみまス、と飛んでいったところ。これは・・・


左:観光協会にあった像、右:淡路文化史料館前のお登勢像

・・・お登勢さんですネw お登勢さんというのは先にお話しました淡路島が兵庫県に属するきっかけとなった庚午事変を描く船山馨の小説『お登勢』に登場する主人公(架空の人物。読んだことないけど)。そうか、お登勢サンはタヌキだったのか!女中に化けるタヌキの話と、女中姿をしたお登勢像、がおじぃちゃんの中で一つになり生まれた勘違いというワナw 聞き歩きをしていると、時々あるんですょ、こゆことは。

伝承とは、多くが付会や勘違いから派生するものでもあるわけデス。いずれ二ケタ三ケタ単位の年数がたったら、お登勢は三熊山のタヌキであって船山馨はそれを人として描いた、なんて解説がつく日がくるやもしれませぬ。

なかなか楽しい経験をいたしましたというお話でした^^


怪評vol.46 艶歌仕事人

2008年06月10日 23時56分45秒 | 怪評
先日は友人の結婚式に参列してきました。いやー、近年まれにみるよいお式で^^。お二人ともどうぞ末永くお幸せに。そしてその勢いで「新婚さんイラッシャイ」とかに出てくれること希望(なんせおヨメさんがバツグンのキャラだから)。そしてワタクシも、いつかわ!そのためにも・・・演歌の似合うイイ女になるどー。

演歌というわけで、中条きよしサンのBestアルバム、「艶歌仕事人」が出ました(今月4日)。なんせここ最近のワタシを支えるものといったら、某歌劇団と時代劇、そしてこの中条きよし。年を重ねるごとにゆっくりした曲が好きになってくる今日この頃、純粋に演歌一色、なアルバムを購入したのは実は初めてデスw

必殺シリーズでも三味線屋の師匠として小唄を披露してくださることしばしばなだけにその声のよさはバツグンなわけですが、一曲一曲、哀愁を帯びたメロディにのって流れていくことばがまたしんみりとよいのですね。この齢にもなれば身に覚えのあることも一つや二つではありませんしw 昔から演歌は嫌いじゃなかったけれども、歌詞も含めて気持ちよく身を任せられるのは、ワタシが適当を気取っていても一面では根っからの義理と人情なヒトだからなんだなぁと思ってしまいマス。

必殺仕切人の主題歌「櫻の花のように」もニューヴァージョンで入ってます。必殺の勇次から入っただけにこの曲への思い入れはかなりのもの、そしてまた仕切人本編のノリ(←シリーズ屈指に大好きw)にしてはこれ・・・名曲でございましょw 「一度だけ生きて そして死んでゆく」のところがまたイイ。切ない時に指を噛んでくれる人はいないとはいえ、恋におぼれて散るつもりもないワタシですがw、ここんところは好きでこの曲が好きです。さすらって戻っても、あの時の春はない。「さすらう」ことも、そして「あの時の春」の意味も少しわかるようになったワタシとしては、それが一度だけ生き、一度だけ死ぬということだと思うのです。・・・そして、これ聴いてから「哀しみと空き缶」*(「うたう大竜宮城」挿入歌)歌うのが・・・たまらなく好きw

ワタシの「なんとなく演歌好き」な人生は、やはり必殺シリーズをはじめとする時代劇の影響が強いと思いますネ。そんなワタシの時代劇人生は人並みに水戸黄門からはじまっていて、小学校はじまる前・・・多分3つか4つぐらいだったと思うんですが、映画村での撮影現場抽選でご招待!な企画に親にせがんで応募してもらい、観にいってしかも当時の黄門様・東野英治郎にだっこしてもらった・・・と自分では思ってるんです(写真が残ってない&まさかそんなことありえる?!な気がするだけになんとなく黄門様な衣装を来たソックリさん疑惑が抜けないw)。

とはいえ物心60%ぐらいな時期ですカラネ。明確にワタシは時代劇が好きだァと思った最初の記憶は、柳生十兵衛シリーズ。そう、あのサニー千葉(普通に千葉真一ってゆぇょw)が渾身の思いを込めて制作にのぞみ、長らくの隻眼での撮影の末に片眼(つぶってた左眼かあけてた右眼かは忘れた)の視力障害まで起こしたという作品。小学校の低学年当時、学校から帰ると、おそらく再放送とおぼしきものをよく見ていましてネ、千葉真一は人生最初のアコガレの人でしたw「柳生十兵衛」役のパイオニアとなると近衛十四郎(松方弘樹のお父さんですネ)とかになるのかなぁと思いますが、後年の村上弘明なんかに引き継がれた、あの通常の浪人者よりも一段高いところで結わえボッサリと広がる十兵衛ヅラはサニー千葉以降なんではないかと思ったりもシマス。

この十兵衛シリーズのうちの「柳生十兵衛あばれ旅」が、現在CS時代劇チャンネルで放映されており、懐かしく拝見しております(→コチラ、但し縫ノ介は娘ではなく妹だと思われる) 先日、別水軒はむかし~時代劇役者になりたか~ッた~♪と歌いましたけども、ワタシがなりたかったのはあのシリーズでの縫之助こと茜(志穂美悦子)サンだったんですナ。お姫サンのように座っている人でもなければくの一でもない、剣での男チャンバラをされる姿が新鮮で、かっこよかったんだナァ。ただ、ワタシの記憶に非常に鮮烈に残っている、十兵衛の滝つぼでの戦い――短剣が片眼につきささって天を仰いでる姿、多分シリーズの冒頭シーンだと思うんですが、これは「あばれ旅」ではないようです。一体どのシリーズだったんだろうw

そういえば「あばれ旅」。3代将軍家光をしてる人が最近よく見てる顔なんだけど誰だっけ・・・と思ったら、レオの鬼コーチではないですかw(ウルトラマンレオも只今CSで絶賛放映中)。ウルトラセブンから入った方にはあのモロボシ・ダンが許せないとのことですが、ウルトラマンを鍛えられるウルトラマンは誰かと考えたら、人間体があるヤツの中ではマンかセブン。とはいえハヤタな黒部サンは他番組で悪役キャラが多かったというし、となるとセブンしかいないじゃないかと思うんですがいかがでしょう←レオでのダンは、ワタシにとっての理想の上司として5本の指に入りまして、ハイ、大好きなんですスイマセンw

ちなみにレオ。特訓編時代は、鍛えて強くなるウルトラマンです。あの弱さ、スペクトルマン級w そしてあのアツ苦しさ、抱腹絶倒w てゆーか、きりもみキックにしろカネドラス対策にしろ、指導員まで務めてるスポーツクラブで練習してて正体バレないのかと不思議でしょうがないんデスケドネ。おゝとりゲン、先月マッハ全開ゴーオンレッドの元上司で出てましたネw


えーと、何の話をしていたんだっけw

そうそう、というわけで、3度目の歌手デビュでレコード大賞をとられた「うそ」から昨年12月に出された新曲「いろいろごめん」まで14曲、中条きよしの34年がミッシリつまっております。その歌声、まさに、艶歌仕事人。皆さまもぜひ一度お手にとってみてください。ご本人にかわり、どうぞよろしくお願いシマス。ルン♪



*・・・コロムビアミュージックエンターテイメント「特撮ヒロイン&ファンタジー主題歌・挿入歌大全集」のDISC 3に入ってマスのでよろしかったらどうぞ。

怪道vol.99 ぼっけぇ、もんげぇ~下ノ巻

2008年06月06日 08時53分25秒 | 怪道
本日はウラのお話。鬼ベースのキャラな辺は似てますが同じウラでも釣られてみる?とかいうヒトとは出が違いますョ。

ワタシがウラという存在を知ったのは小学校の高学年頃。その頃ハヤリだった藤川桂介の『宇宙皇子』で、皇子が修行で日本各地を旅する中、戦った相手として登場したオニでした。飛騨の両面宿禰とは意気投合してたのに温羅とはなんで戦ってたのかはもう忘れましたがw(立場的には仲良くできるはずなのにね、て皆さん知りませんヨネw)、この時の皇子の軌跡はすべて吉備津彦のそれだったと知ったのはもう少し後になりましょうか。その戦いの発端も結末も忘れたくせに温羅という鬼の存在だけは長らくワタシの記憶の底を流れ続け・・・すなわち、約20年越しの夢かなって、ようやくこの地に立てたわけです。


吉備津彦神社(ウラ死なずの神社)で販売されてた絵本。

前回もお話しましたように、吉備津彦命と温羅の話はあくまで「吉備津宮縁起」に代表される神社側の文献にのみ載る伝承で、当然ながら記紀神話ではありません。物語として整理される以前に語り継がれていたコトは無論あったでしょうけども、文献で確実に遡れるのは16世紀後半まで。桃太郎伝説の元ネタなんてことが言われるわけですが、よう考えたらそれだけ見ると御伽草紙と似たような時期に成立してることになってしまうほどなんですね。

さて、物語を、ミコトが「楯築」に布陣した辺りから少し見てみましょう。温羅の勢いすさまじく、ミコトが射かけた矢は不思議なことに温羅の矢と空中に噛み合っていずれも落ちてしまう(矢喰宮)。そこでミコトは同時に二矢を放つと、一矢は前のように落ちたがもう一矢は温羅の左眼に当たり、その血が川のように流れ出た(血吸川)。温羅がかなわじと雉となって山中にかくれたのをミコトは鷹となってこれを追い、鯉となって川に逃げるもミコトは鵜となってこれを喰いあげた(鯉喰神社)。温羅はついに「吉備冠者」の名をミコトに献上、ミコトは温羅の首をはねた・・・云々。これら伝説の地を地図に落としてみると以下のようになります。


赤丸は今回ワタシが訪れた場所。黒丸は近くの主な遺跡。

ミコトが頂いた「吉備津」の名にあるとおり、この辺りは昔、吉備穴海と呼ばれた内海が接近する地でした。海岸線をどこに引くか少々悩むところなんですが、ひとまず総社市教育委員会さんの示す地図に従ってます。気になるのは縁起でミコトと温羅の放った矢が、くいあって「海中」に落ちたという記述で、そうすると矢喰神社付近まで海岸線がせまっていたことになり、だとすれば「鯉喰」のクダリはどうするのょてなことに。この二つの出来事は時間差でもあるんでしょうかネw ミコトはやがて中山の麓に宮を作って住まい(吉備津神社)、281歳の大往生をとげるわけです(記紀的には、そういう事実はナイ)。

岡山の前期古墳って、中山茶臼山にしろ尾上車山にしろ、うろ覚えですが吉備中山より西へはいかない・・・んじゃないでしょうか。中~後期に入ると、その中心が血吸川を西へ越える。つまりは中山より東は山間部で、そこから西が一気に広大な平野部になるわけです。吉備文化圏にとってこの地域がもつ境界的な様相がなんとなく見えてくるわけで、さらに物語がその血吸川を中心に繰り広げられているということが、なんだかとても象徴的に見えてくるように思います。・・・思っただけです、スイマセンw

で、鯉喰神社。御崎宮とも呼ばれており、ミサキではなくオンザキと読むそうです。ご存知のように吉備津神社本殿の外陣四隅は御崎なる祠が守護しており、その御崎、特に艮御崎を分祀したものが備中国内には多いらしい。鯉喰神社もその一つになってるんですネ。ちなみに『梁塵秘抄』(1180年前後成立)の吉備津宮のクダリ、神殿や神門につづき、「艮みさきは恐ろしや」とあるのはよく知られております。これがよく温羅にあてられます。とはいえ元は、世の中が鬼門鬼門と騒ぐようになって以降、四隅の御崎の特に艮にあった御崎が注目されたのがはじまりかと思われます。それがやがて強力な力をもった鬼・温羅をあてる(艮→鬼門→鬼→温羅)ようになったとかいうところでしょうか。鯉喰の社名については、この辺りにいた地主神が鵜で鯉をとってミコトに神饌として献上したことにちなむとの異伝があったりしますが・・・ちょっと後付けポイですかネ。

矢喰神社は公園としてかなり整備されていました。ミコトと温羅が互いに放った矢が喰いあったという伝承の地のはずが、ミコトの矢に対し温羅が投げた石なる巨岩がごろごろと。鯉喰神社にしろ矢喰神社にしろ、近世は社僧が管理していたらしく、境内にはこじんまりした鐘楼及び鐘がしっかり残っていたのはオツ。


ウラが投げた石、全部で5コ。鬼ノ城山まで直線距離にして約6km。すげぇぞ温羅。

では、今回の岡山行きのメイン・スポットである鬼ノ城へ突入していきましょうー。おどろおどろしい名前ですが、ぶっちゃけ、古代の山城です。イチから説明していたら日付が変わりそうなので知りたい方はすみませんが各自お勉強してくださいということにして。古代山城としての鬼ノ城が本格的に発見されたのは今から30年ほど前のことで、調査が進められているのもそれ以降のことです。現在はビジターセンターなる施設ができたり(無料)、所々で往時の建物の復元もなされているなど、思っていた以上に整備がすすんでましタ(オリジナルてぬぐい&パンフ買ったらおつりがなくて往生したという罠)。ちなみに、岡山県吉備文化財センターの鬼ノ城キャラ、うら坊一家はだいぶイイ感じです。グッズ化希望(→コチラ)。


鬼ノ城より、伝説の舞台を見はるかす。

こんな山上にあって水なんかどうしたんだろうと思っていたけど、遺跡には全5ヶ所の水門が見つかっているように驚くほど豊か。なんでも高地湿地帯の希少種(植物)が生息しているとかで、遺跡整備の折には随分検討されたほどだそうな。延べ数万人が建設に当たったという城なわけですが、かくなる高地に見事なまでに敷きつめられた石畳を歩いていると、延べ数千人が死ぬかもしれんと思い、延べ数百人が本気で死ぬ目にあったことだろうなと思われます。たくさん亡くなったんじゃないでしょうかね、まさに「鬼」の城。屏風折れの石垣が見事な突出部、一番遠いところにありますけど、そこから見下ろす血吸川源流域は絶景ですから、行かれる方は是非がんばってクダサイ。


鬼ノ城遺跡の石畳。歩けますが、もう少し実物と復元箇所を明示したほうが親切かと。

製鉄にかかる遺跡のそばには鬼伝説がつきものといわれますし、現に鬼ノ城山麓、鳴釜神事の釜や阿曾女を出したという阿曾村――現在はゴルフ場になっておりますが、それに伴う発掘調査では製鉄遺跡が出ています。古代、城は「キ」と読みましたから、(同じく古代の山城がある地名に、香川県にはキヤマ/城山、兵庫県龍野市にはキノヤマ/城山があり、いずれも「城山城」と呼ばれる)、その辺がいろいろあって、「キ」の音が「鬼」に付会されたんじゃないかなぁと思ったりシマス。ちなみに地名としての「鬼ノ城」の初見は16世紀以降ぐらいだったはず。

飽きない程度にスポットが点在するのでわァきゃァ言うてる間に1周してしまって、大変だョと言われたわりには少々物足りなかったですがw、最後に岩屋集落まで足をのばして、温羅の居所だったという鬼の差し上げ石を見てきました。どえらい巨岩の重なりで、大阪は交野の獅子窟寺の岩屋を倍にしたぐらいでしょうか。中世、真言密教の岩屋寺が栄えていたらしく、もし近くに温羅の伝説などがなければ、獅子窟寺のように単に行基やお大師が修行した場所、で終わっていたかもしれません。伝説が伝説を生み、それをまた大きな伝説が飲み込んでいく。そんな有様を、垣間見たような気がしました。

いやー、岡山。ぼっけぇ奥深く、もんげぇとりつかれそぅな、危険な国でしたゾ。今回は上澄みを見ただけで終わった観がありますので、次回はもそッと濃ゆぃめに行こうと、心に誓ったのでありました。


鬼の差し上げ石。大きさ比較のため、別水軒大のAを配置。


ウラの気持ちで、岩屋に寝そべり撮影。

怪道vol.98 ぼっけぇ、もんげぇ~中ノ巻

2008年06月03日 23時17分05秒 | 怪道
さて、岡山市内です。
岡山市内とはいえ市街地は全くスルーです。岡山すなわち吉備地方を訪れて行かねばならぬのはまずは吉備の中山でありましょう。ということで、行って参りました、ウワサの吉備津神社と吉備津彦神社に。

吉備はかなり古くから独自の文化圏を形成、非常に大きなな勢力を保っていた地域です。神話上は五十狭芹彦(7代孝霊天皇の子で三輪山神話で知られる倭迹迹日百襲媛命の弟にあたる)がこの地を平定した功をもって大吉備津彦と呼ばれるにいたったことが見えておりますものの、対ヤマトとの争乱はその後も幾度かくり返し、長らく中央を脅かしつづけた、古代国家形成の過程で見過ごすことのできない巨大な存在。

そんな吉備を備前・備中・備後の三国に分割したのは支配する側からすれば当然のことで、その時期はだいたい壬申の乱(672年)直後の頃であろうと考えられております。備前・備中の境界などは、大吉備津彦かどうかはさておきおそらく吉備地方の初期首長を被葬したとおぼしき墳墓を抱く神南備・中山を分断する形での線引きで、どちらに転んでも意図的なものを感じるわけですが、これが、山に眠るとされる吉備津彦を東西の麓から祭祀するキビツ神社とキビツヒコ神社の哀しくもユカイな混乱のはじまりでもありました。


吉備中山を流れる細谷川が備前・備中の国境線。

キビツ神社とキビツヒコ神社。よく似ておりますし実際よく混同されます。前者が備中一宮で、後者が備前一宮。古くは両社共に吉備津宮とも呼ばれ、社名の前につく国名で違いをはかることもありました。曾我兄弟の仇討ちでとばっちりをくった気の毒な吉備津宮の宮司がおりましたけども、あれはキビツヒコ神社(以下ヒコ神社とします)の方ですね。皆さまをより混乱させてあげるために申しますと、『延喜式』神名帳では現・キビツ神社はキビツヒコ神社と掲載されております。しかし同じ『延喜式』をもって二社を分別いたしますと、ヒコ神社は神名帳に記載がない、すなわち式内社ではありません。式内社はキビツ神社だけです。それがまず大きな違いでしょうネ。

この二つの神社の対決で最も楽しいのが、神社創建の由来である吉備津彦と温羅の物語に関わるものでしょう。曰く、百済の王子・温羅が吉備に飛来、新山に城をつくり、ムラの人々に悪さをしたり献上品を奪ったりする。かく窮状を訴えるので、朝廷は吉備津彦命を派遣、ミコトは家来とともに温羅を倒し、吉備は平和になったのでした云々。記紀神話には確かに五十狭芹彦が四道将軍として山陽道に派遣されたことは見えますが、それ以上の記述はなく、温羅という名前やミコトとの合戦にまつわる豊かな描写が現在知られるような形で成立したのは中世以降と考えられています。さて、キビツ神社とヒコ神社の両社が現在に伝える縁起にも明らかな違いがございます。それが、降伏した温羅の処分です。

皆さんよくご存知のように、キビツ神社縁起では、温羅は首を落とされるも死なず、その首は犬に喰われ御釜殿の八尺地中深く埋められてもなお13年間唸り続けることが描かれます。ところがある夜、温羅がミコトの夢に現れ、妻・阿曽媛に神饌を炊かしめ自分を祀れ、さすれば国事の吉凶をつげんと伝えた、それが今なお人々をしてその魂と想像力をかきたる、キビツ神社・鳴釜神事の由来なわけです(毎週金曜日はお釜はお休みされてますので皆さん気をつけてください←見れませんでしたから・泣)。ところがヒコ神社の縁起では、なんと温羅は死なないんですね。ミコトに吉備冠者の位を譲った後、一緒に統治をしちゃいます。これはふぅんで終わる話じゃありません。すなわち、キビツ神社最大のウリである鳴釜神事をヒコ神社は全否定してるわけですナw ・・・これでもう一つ、カマがあるのがキビツ神社、と覚えられましたね。

この対決は今も桃太郎伝説元祖・本家騒動としてユカイに発展中です。キビツヒコと温羅にまつわるお話が桃太郎の原話であるとのササヤキは近世初期からすでにあり、キビツ神社vsヒコ神社のみならず、県をあげて香川県と張り合ってらっしゃる観があるんだけれども、どうせなら仲良くされてはドウデスカーとも思います。しかしながらキビツ神社はそれほどイチバーンを主張したいのか、境内はとんでもないことになってます。


かけまくもかしこき桃太郎おみくじタワー。


そして絵馬を結わいつける祈願トンネル。トンネル内はモモタロサンの海。

偉い神社(式内、名神大社、一品、国史上の初見は承和4年/847)なのにパンチの効いたフランクな装い。「岡山でテッペンとらんと気がすまんのジャ」という心意気だけはなんとなくつたわってきますネ。さすが独立国家・岡山。比翼の破風美しき国宝は泣いておりますわョ多分w ・・・という方がキビツ神社です。ヒコ神社は絵本やグッズの販売はしてますが境内は大人しいもんです。これで違いはカンペキですネ。どっかの神社もこのぐらい世俗にまみれてくれたら大好きになるのになぁと思います。もんげぇ神社です、キビツ神社。


鳴釜神事、順番待ちのヒト用椅子。


門前では鬼がソフトクリームを売ってるゾ☆(キビツ神社)


さて、吉備の中山でもう一つ、忘れてならないのが福田海本部。岡山の偉大なウルトラ遺跡、「鼻ぐり塚」であります。

福田海は明治後半頃に中山通幽なる人がはじめた新興宗教。ご本名は多田サンとおっしゃるようで、中山の姓はやはり吉備中山にちなむのでしょうか。聖徳太子と行基と役ノ行者の法統を継いだ教えとおっしゃるんですが、どうも先祖供養・無縁供養などに力を入れてるらしい・・・もうちょっと聖・念仏ティストの人を法統にしてみてはいかがでしょうかと余計なお世話をいいつつ。鼻ぐり塚(牛やブタの鼻ぐりを積み上げた塚←和気の田倉牛神社の備前焼ウシ山とノリは同じですよねぇ)がここにあるのも畜生であろうと供養することが功徳=福田につながると、そういうことに発するようです。

なんせウルトラマンエース、30年前の段階であれだけの山だったんだからさぞかし巨大化してるに違いない、とわくわくしていると。カラフルなプラスチック製の鼻ぐりが山と積まれた、けれども大きさ的にはほとんど変わりのない塚でした。木製の鼻ぐりもなかったし、何年か周期で処分してるのでしょうね。鼻ぐりの間からは横穴石室らしきものもうかがえ、あぁ古墳なんだ、ということは岡山の文人・化野燐サンの『件獣』に出てくる牛骨の古墳の元ネタはさてはコレデスネ?

入口で100円払うとチケット代わりに護摩木をもらえます。もらっただけに、塚の前には願意を書いて奉納するハコがしつらえてあります。畜生の供養塔に何を願えというんだ、とヤプールに聞かれたら超獣にされそうなことを思いつつ、先人の遺物を一枚盗み見ると、「良縁祈願」。・・・畜生の供養塔に願ってどうする、とやや儚い思いにとらわれ、先例にあたるのはあきらめました。おいしゅうございました、と書くのも直球すぎるし、かといって何も思いつかないので、諸願成就とお茶をにごしてそッと置いてきたのでした。


鼻ぐり塚。この山全部鼻ぐりです。塚の前には祈祷した後と思しき焼け焦げた護摩壇の木組みがありました。


吉備津神社参道。タカイくんはどの木に車をぶつけたんだろう。ちなみに参道隣に道路が新設されてます(右)。