怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.133 姫路 異な路 怪な路(下)

2009年06月21日 01時35分34秒 | 怪道
「播州姫路伝説巡覧図絵」てのがあるのをご存知ですか。2年ほど前ぐらいに、姫路商工会議所が発行した播磨地方の伝承をイラストマップに落としたもので、当地方の伝説の大まかな分布がわかるというスグレモノ(ひめぢの観光案内所に行けばわけてもらえますし問い合わせたら送料着払いで送ってくれたりもしマス)。せっかく泊まりがけでひめぢまで行くんだから、マップを利用してヨサゲな所をまわってみようと思い立ち・・・思い立ったはよいですが、地図に落ちているのは60を上回る伝承地の数々←選びきれるものではありません。てなわけで、めぼしいところを事前にピックアップした上で六角振出箱つきおみくじを作成、天のカミサマのご啓示に従うことにしたわけです。↓↓↓


こういう労力は惜しまないヒトなの。

毎度おなじみのメンバでもって侍戦隊なマネゴトをしつつ、天のカミサマが最初に行けと思し召されたのが、姫路市大塩と高砂市牛谷の境にある馬坂峠。馬坂をこえたら牛谷に着きますとか絵本みたいな地名の展開ですネ。ここに伝わるお話は巡覧図絵いわく、「花嫁行列が通ると馬の首が現れたため、行列はこの道を避けるようになった」とのことですから、岡山などで「さがり」と呼ばれたりするお化けっぽい。また、馬坂峠でググると出てくる話では、羽柴ヒデキチの播州征伐で大塩城攻略の時に戦場で死んだ馬をこの坂の辺りに葬ったところ夜な夜な馬の鳴き声が聞こえたとか、通った花嫁行列に白い馬の化け物が現れて花嫁を奪い去ったとかの話もあるようです。

「延喜式」によると古代播磨は諸国の中でも馬皮の最大の産地であることが見えますことからもかつては比較的多くの馬がいたことが推察されますが、中世以降は農耕にせよ運搬にせよ他の瀬戸内地方と同じく牛文化圏となるはずですし(と言っても馬が全くいなかったとはイイマセンヨw)、高砂側の地名・牛谷とあわせて考えてもここで「馬」という地名はなにやら唐突な感があります。そんな場所で馬が地名にもなりうるほどのインパクトを持つことがあるとすればヒデキチ云々の話は十分ありうる話かなと思いますネ(さがりの話としてもまぁその範疇ですょね)。ただし後者の方は、おどかすだけのお化けだった「さがり」がかくなる乱暴狼藉をするとはいかなることでしょぉとちょっと思いマスわけで。

かくして、うねうねと曲がるゆるやかな坂道をのぼりつめた先にたどりついた切り通しが峠の頂。何かの映画のロケ地にでもなってるんじゃないかというほどとびきりに景色のスバラシイ場所でですね。そうか馬のお化けか出たのかとニヤニヤしたい人はもちろんですが、風景を楽しむだけでも行く価値ありデスョ。ところが。風薫る峠でキモチイィーと背伸びをしたそのシリから、ナニコレ珍百景な看板が目に飛び込んできたワケです。それが、

「起き上がり古木」

おきあがりこぼく。・・・(汗)。・・・・・・(滝汗)。実をいうと馬坂峠の上り口から、朽ちかけた「起き上がり古木コチラ」の紙看板がぽつりぽつりと立てかけられているのには気づいてはいたんでが、そのネーミングセンスに・・・リアクションできずにいたというわけで。こうなりゃ俄然気になるその正体。馬のお化けはどこへやら、とりあえず行こうとケゥ&化繊を先発隊に発遣し、年寄り3人後からぞろぞろと着いていきましたらば。

そこにあったのは注連縄のはられた、それ以外は何の変哲もない椎の木。そして足元に落ちておりましたクリアファイルをのぞきこみますと、木の摩訶不思議な来歴が書かれていたわけでありマス。
「この木は2月8日(水)の午後3時30分頃に立ち上がりました。その前は1年半程前から倒れていました。もし倒れていた時の写真をお持ちでしたら公民館までお知らせください。000-XXXX」
写真持ってもいないくせにすぐさま電話かけましたけどね、土曜日だったので応答なしでした。へーほーふーんと半笑いで山道を戻っていた時です。峠に戻る道の傍らの畑から「木ィ見てきたか?」とフフフ笑いする一人のオッチャンが、不意に我らの前に姿を現したわけでありマス。

オッチャンいわく、早い話が今から4年ほど前、台風がきた時に倒れたのがあの木。この峠の切通しは山と山の谷間にあるために吹く風もきつく、山の斜面側に根こそぎ倒れた。根が少々道をふさいでいたが動かそうにも動かせずそのままにしていたところ、1年半ばかりしたある日、朝がたは根をさらしていたものが夕方になると立っていたと。オッチャンの解説によると木を倒した時とは反対側の強風がふいて木を起こしたのだろうということでしたけどもネ。この木、地元ではそこそこ有名らしく、1年半も倒れていてもまた起ち上がることがあるのだからコドモ達ョあきらめてはイカンと、地域の幼稚園・小学校の遠足コースになっているらしw

 
これが「起き上がり古木」ダ。

さてこの古老、モチネタはこれだけではありませんでした。食いつきのよい我らに気をよくしたのか、次々とこの辺りのイマムカシを語ってくれたわけです。大塩はその名のとおり古くからの大規模な製塩地帯で、大量に生産される塩を曽根の停車場まで運ぶのに使われていたのがこの馬坂峠。潮が財の源となればなるほど、人々にとっては重要な道となったという。

そういえばこの辺りには馬のお化けが出るそうですねと尋ねましたところ、オッチャンいわく、不逞のやからを寄せ付けぬよう、馬のお化けに襲われる話を作ったんだとおっしゃる。ははぁどおりで襲われるゆえんも襲われた後の話もないと思ったら、遠くない昔に作られたお話だったわけですネ。馬の首が現れたというだけの巡覧図絵に書かれる話の出典が知りたいところですけども、もともと馬の首お化けが出ると言われていた馬坂峠が、塩の運搬が盛んになって富を生むミチとなるとともに、お化けそのものが凶暴化して語られるようになったのかもしれません。

オッチャンによれば、馬のお化けに限らず、この峠道は「霊」の通り道だともいわれていたそうで。それも、馬坂峠の大塩側麓と牛谷側の麓には、ともに焼き場があったというのですね。ハナシの内容からして近代に入ってからのことだと思われますが、馬坂峠は山と山の谷あい、Mの字のような真ん中のくぼんだところを通り抜ける形になっていて、吹く風の向きも気まぐれ。そのために両の麓から上がった煙が峠を行き来するように見えることがしばしばだったのだそうで。煙のモトがモトですからこういった意識が生まれるのはむしろ当然。オッチャンは大塩側の山の麓のため池の辺りで、しゅるしゅると音を立ててとぶ火の玉を目撃したことがあるんだとか。

播磨学研究所のH先生にお会いした時、ここ馬坂を訪れたお話をいたしましたところ、なんでも大塩は郷土愛にあふれる人が大変多いのだそうですョ。・・・なんか、ものすごぅく、納得www ついでに新伝説・起き上がり古木についてもご報告しておきまシタ。気になるオッチャンは峠の頂で畑仕事をされておりますので、運が良ければどなたでも会えますョ。ただし、オリジナル健康酒を勧められますので辛抱強く聞いてあげてくださいw(→コチラ


 
牛谷側からみた馬坂峠の切通し(左)と、大塩側の峠道(右)。こちらは秋になるとノジギクの小道となるらしい。


多分オッチャン製作の立札。オッチャンは「山の神」なんだなぁw ちなみに握り返すヒトの手は化繊くんデス。

その後は引き続き天の啓示を受けながら、神功皇后が神火をかかげたという「火山」こと御着南山公園・・・と言いつつも「公園」との名称には随分だまされ感のある山登りを経てw、その頂上付近の牛岩で一服。ショシャジャンへ向かうもロープウェイに乗らなければ行けないことを誰しもが忘れていて断念したり(時間が遅かったわけデス)、香呂の蛇穴神社でエイ絵馬をみたり蛇穴を探したり。巡覧絵図に掲載されていたポイントのほんのわずかではありますが、それでもヒメジをサイコーに楽しんだのでアリマシタ。

で、妖怪天国ニッポンはどうだったかって?そして黒い人のオハナシはって?
そんなの・・・おもしろかったに決まってるじゃナイデスカw 前者の香川ワールド全開な濃密空間は、モノこそその多くがお馴染みのモノではありますが並べ方次第でかくも目新しくなるものかと大変感心いたしました。黒い人は相変わらずツボをはずさないユカイさでようけ笑わしてもらいました←という辺で勘弁してくださいw

妖怪天国ニッポンは、7月11日から京都国際マンガミュージアムで開催されます。見逃した方は、どうぞそちらへお運びくださいませ。


牛岩にて、国見するうし仙人さま。ヒメジのヒト、この地から「公園」の名を取り去らないと、仙人さまのタタリがありますょ。

怪道vol.132 姫路 異な路 怪な路(上)

2009年06月15日 23時55分56秒 | 怪道
ふた月続けて姫路に行って参りましたョ。なぜにかうも播磨路づいているのかと申しますと、兵庫県立歴史博物館にて特別展「妖怪天国ニッポン」が開催されておりましたからですネ。過去形なのはひとえに会期が昨日14日迄だったからに他ならず・・・えぇ、何の宣伝にもならなくてどうもスミマセン(あ、次は京都のマンガミュージアムでもちょっとやりますョ・汗)。というわけで、一度目は5月の連休末の某黒い方の講演会に合わせて泊りがけで、二度目はカィィ学会の見学会に便乗して、行ってきたでありマス。

姫路といえば、ナニハトモアレひめぢじょう。実は別水軒、その日は朝からお腹の暴風警報発令中でとことん気分がすぐれませなんだために、城内は武士用便所がでけぇ(特別公開中の厠←未使用、しかしあんなデカイ便所甕はお目にかかったことがないデス)とか消火器がでけぇとか以外は記憶が曖昧で、撮影したはずの写真もびっくりするほどブレまくりだったんですけどもw

それはさておきひめぢじょう。この城は播磨国風土記などにも見える「日女道丘(ヒメヂノオカ)」に立つ城郭で、南北朝の頃からすでに城が築かれていたとも言いますが、16世紀後半、羽柴ヒデキチが中国攻めの拠点とした辺りから城および城下町の本格的な整備が進みマス。その後、関ヶ原をへて慶長年間に池田輝政が入城、当時の大改修にて現在の姫路城の外観はほぼできあがり、近世を通じて様々な藩主が入れ替わり立ち替わり城を治めました。明治に入ると廃城令で城自体は競売により個人の所有となりましたものの三の丸(千姫が住んだとこデスナ)は陸軍歩兵第10連隊や39連隊の本営となり・・・面倒なので以下略。

今回2度目訪問の際に播磨学研究所のH先生とお話したところ、ひめぢじょうは軍の許可した空間に限られていたとはいえお城は当時市民に広く開放され、展覧会などの催物会場になることもしばしばだったとか。大正に入ると観光化が進み、その一環で「お菊井戸」や「腹切丸」などが整備されたんだそうです。いやぁ、ずっと謎だったんですよね、城の奥女中でもないドジっ子メイドがなぜに城内の井戸にほおりこまれたてなことにして堂々と観光スポット化してるんかしらと。・・・近代のチカラ技にはかないまへんな。

ちなみにお菊さんといえば姫路城下にはお菊神社と通称されるお神社があることはよく知られます通り。おりしも5月8日はお菊さんの命日であるとしてお菊祭りが行われておりまして、地域の方々を巻き込んだ大変愉快な紙皿絵展覧会なんかもあり、興のあるオマツリでなんでありますが。H先生が教えてくださった話によりますと、このお菊さんの命日、元はというとお菊神社にあった、梅雨の時分になると枯れた様になるという「梅雨松」なる松の木に由来するのだとか。旧暦の梅雨時分といえばちょうど5月頃でありますな。この木がやがてお菊さんが吊るされた木とされ、梅雨時分に枯れるのはこの木に吊るされたお菊さんのタタリと付会されたようデス。さらには6月8日が藩主だかなんかの仏事で1ヶ月ずらしてナンタラという話でしたが細かいことは忘れましたスイマセンw 今度お会いした時にまた聞きますw


お菊まつり出展の紙皿絵。

さてひめぢじょうといえば長壁姫サンです。城主と年に一度お話するとか宮本武蔵が勝手に退治しよってからにそのうえ剣をもらったりとか、近年は仙台の亀姫さんとこにあそびに琵琶湖の水を竜巻にして出かけていったりとかもう話題には事欠かない方でらっしゃいますが。正直、アテクシにはこの方よくわかりません。

そもそも姫路城の天守閣に祀られているのは「長壁神社」であります。H先生によりますと正しくは「刑部神社」であるが神社本庁への登録名が「長壁」なためにかく表記されているそうな。現在天守閣にいるのは、もともと姫山に鎮座していたカミを築城に伴い外に移したところタタリがあったので天守閣最上階に戻したという由緒のある神社で、祭神は「姫路長壁大神」と「播磨富姫神」。なんだかどっちともとってつけたような名前でありますw で、まぁ長壁大神は他戸親王で富姫がその子に当たるといか言われたりもするわけです。

以前もちらと書いたことがありますように(→コチラ)、「刑部親王」がわからないわけですね。彼は国史をどないにひっくり返して探したところで播磨とのつながりは全く見受けられず、さらにこちらの伝説においてもなぜ播磨にいるのかという部分は語られない。ここはかつていつきのシシィさまがおっしゃられたように、御霊(他戸親王)と壁の精(長壁姫)が後世に習合したというところでしょう。少し注意すべき点があるとすれば、いわゆる「長壁姫」として語られる伝説は多いけれども他戸親王のハナシはまるでないとこかなと。祀られる神は二神であるという意識がなければ他戸親王の出番はない→元は「男女一対のカミ」なのかしらんという推測が立つ一方で、そもそも刑部大明神が二神だとする説はいつ頃にさかのぼれるんだろぅかとも思うわけです(知ってるところでいえば「播磨名所巡覧図絵/19世紀初頭」はすでに二神)。・・・フン、ヤッパリワカランw


天守閣の長壁神社。

さて、もともとヒメヤマに祀られていたという刑部神、人々の崇敬厚かった神社が城内にあっては地元の人がお参りできないからという理由で、築城にあたり城外へ移されることになります。分社でも済みそうな話を、つまりはほおりだした感がいなめないのでありまして、犯人は他でもない豊臣のヒデキチ。そしてほおりだされた先というのが実は播磨国総社である射楯兵主神社なんですね。ひめぢじょうの南東に位置するこの神社、境内にはかつてのご縁からか、今も長壁神社が鎮座しております。結局タタリによって神社は天守閣に祀られることとなるわけですが、その時すでにご神体は失われ、例の吉田家に代わりの神札を再発行してもろたんだそうですョ(H先生・談)。

射楯兵主神社といえばもう一つ、忘れてはならないのが、鬼石であります。ひらたく言えば酒呑童子のミシルシの化石。案内板によりますれば頼光さんが童子を退治した後に首をもちかえり「案内八幡宮」の傍らに埋めて標石としたといいます。伝説によっては頼光さんじゃなかったりもしますがね、千年やそこらで斬られた首が化石化するとはさすが酒呑童子ちょうすげぇ。現在は厄除けの祈願所となっておりまして、御幣をば石に乗るようにポィと投げると厄が祓われるというゲーム感覚なお祓いが楽しめたりします。

この石、もとは射楯兵主神社の境内にあったわけではありません。旧地はというと、ひめぢじょうのすぐ近く、兵庫県立歴史博物館の辺り。明治に入ってまもなく、城が陸軍の兵営地となった頃にこれまた総社にほおりこまれたらしい。・・・姫山の刑部神がヒデキチにほおりこまれた時となんか同じニオイを感じませんかw 刑部神の場合、総社が地域の神社を集めたトコロという意味では、その延長としても解釈できるのでしょうが。刑部神の移動とそしてこの近代に入ってからの鬼石の射楯兵主神社内への移動をみていると、移動せざるをえない置き場に困った「フシギなブツ」を回収する場所、のような意識があるような気もします。そうだとするならば、近世から近代を前後する頃の、地域におけるこの神社の位置づけが見えておもしろいかなと。今後各地の総社をまわる時の参考にしようかしら・・・まぁ、考えすぎでしょうねw

次回は、ついでに巡った姫路周辺のおもしろスポットをご紹介します。


射楯兵主神社境内の鬼石。大江山モノの絵巻なんかで頼光さんにかぶりついている童子の首とほぼ同じぐらいのスケールですし、知ってるヒトが見立てたんでしょうかねw


射楯兵主神社境内の長壁神社、・・・と撮影隊。

怪道vol.131 実録対馬滞在記その5

2009年06月09日 02時08分34秒 | 怪道
対馬シリーズも今日が最終回となりまする。最終回だけに、毎度おなじみグダグダですw
遠野とかと一緒で、このテのメジャーというかすでに一定の評価のある地域でなおかつ自分が先学の後追い以上のナニモノか(←とかゆーてもアテクシ大概モノを知りませんからアレなんですけども)を特に得られていないところというのは、楽しかったわりには書きづらかったりするんですょねw なので早め・・・でもないですけどここぃらで終わっときマス、スイマセン。

というわけで。対馬といえば神の島みたいな言われ方をすることがままあります。それもヤマトの神々の元ネタがあったり延喜式神名帳記載そのままの神社がやたらとあったり、古俗を伝える神社や祭祀が多いからだったりするわけですが、これまでもちょろちょろと小出しにしてきたように、いずれも往古よりこのかたカミマツリ以外聞いたこともゴザイマセンなんて場所はないわけで、対馬といえども神サンがいるところには仏サンも修験のニオイもいろんなものが普通に同居しております。

雷命神社というお社が、対馬の下島西岸、阿連(アレ)の集落にあります。参道の手前に伝教大師帰着の碑があり、あの枯れナスビはここを経由して帰ったのかなんて場所だったりするんだけれども。雷命神社は元のご神体はケヤキの木だったとか太祝詞神社同様に雷大臣の家跡であるとかいわれます。民俗学等にお詳しい方は、オヒデリサマの元山送りで有名な神社といえばそれと知れるところですね。神無月が終わり出雲から帰って来たイカズチサマ(←こっちが雷命神社の神サン)と七日間同居されたあとに山奥のご自宅にお帰りになるオヒデリサマを送るというアレです。余談ですが昭和のはじめの頃、この辺りで「氏神」さん(多分イカヅチサマ)の維持費を捻出するためにオヒデリサマの山の木を切った男がそのタタリで亡くなったという話があるとかで、その時、カミサン(多分オヒデリサマ)がそこいらに住んでた和尚に乗り移ってタタリを告げたと言いマスから、この地域がもっていた信仰的気分というものがおのずと知れようもの。

むかし何かのグラビアで水際の草々鬱蒼とする淵縁とその脇に続く石鳥居の列、のような当神社の写真を見たような覚えがあるんだけども、それがアナタ今やこの有り様デスョ¥w 龍神サマのお宅も最近はデザイナーズハウス化しとりますなぁと思う次第なんでありますが↓↓↓。



この神社、参道には稲荷さながら・・・というても10あるかないかですが、石鳥居がざっとゲートのように並んでおります。こういう鳥居の並びをみると蛇系の体の長い神サンの通り道な感じがしてしまう←のは初日にあんとく様に会ったせいだと思います。これらの鳥居、それぞれの銘を見ると作られた時代順に列んでいるわけではないので、改修を繰り返した結果なんでしょう。なのでこの形は神社の元々のスタイルなんだと思うんだけども、その鳥居にかかる扁額を見ると、昭和13年以前の銘をもつ鳥居の扁額は「八大竜王」とあるところ、昭和15年以降になると全部「雷命神社」に変わるんですな。


雷命神社の鳥居の列。

西泊で能理刀(ノリト)神社を探していた時のことです。集落の氏神さんのような小社の前で、70半ば~80歳ぐらいのおばぁちゃんにここがそうですか、と尋ねたところ、「これは神サンやから違う」という。じゃあこの神サンは何ですのんと聞きますと、「神サンは神サンョ」とにこにこしておられたんですネ。これは神サンで神サンは神サンだというお答えのされ方がなんとも楽しかった一方で、ノリトなんていう神サンは知らんとおっしゃるわけです。ところが10歩ほど歩いた先で出会った50代ぐらいのオッチャンに聞くと、この神社は「古津麻」という神社でノリトならあっち、とスラスラ出てくる。ノリト神社についてはコチラをご参照のごとく、実は「三社権現」てのが近代化する前の古い呼び名。また海神神社でも、70代くらいの方にとある近在の神社について所在をたずねた時、神サンはおるやろから神社もあるでしょうがそんな名前は知らんとおっしゃる。

以上わずかな例ですからほとんどわからんのと同じなんですがw、70歳以上ぐらいの人には、いわゆる神名帳的な名前の社名が通じづらい傾向があり、また全島的に昭和以前の銘をもつ鳥居の扁額は両部神道的な名が多く、昭和を前後する頃のもの以降は神名帳的になると。つまるところ対馬の神社は昭和の初年から太平洋戦争前夜を前後する頃に「近代化」した、すなわち復古神道的な名称に塗り替えられたんでしょうねぇ。

ご存じの通り、対馬といえば天童法師、というぐらい有名な信仰がこの地域にはあって、そのセンターとなっているのが上県郡・下県郡両方に所在する多久頭魂神社。モノが大きすぎてとてもじゃないがワタクシなんぞの手におえるものではなく、ははぁと口をあけて帰ってきただけなんですけども、下県郡は豆酘の多久頭魂神社は、天童法師を祀るための「寺田」があり、境内には梵鐘があって、さらに本殿はどこからみても観音堂↓↓↓。

 
多久頭魂神社本殿(左)とその内部(右)。

それでもこれは「神社」であるという。神仏分離令がこの地域にどういった形で流入したかはわかりませんが、けれどもぺろりとラベルを貼りかえただけでこれは神社ですと言ってのける対馬の人々のココロには、やはり名前は名前で「神サンは神サンョ」という、信仰と呼ぶにはもっと素朴な何モノかが根を張っているような気がいたします。そして、神サンの名前を必要とするのはしょせん媒介者だったり支配者だったり、そして我ら共同体外部から訪れた人間に過ぎんのじゃのう、なんてことを、実感として思ったりしたわけです。そう、神サンは、神サンなんデス。


対馬は国境の島です。そのせいか、この島の近代的な神道はまた何らかのきな臭さが伴う・・・気がする。都市や地方を問わず全国各地どこへ行っても必ず見かける共産党のポスターを結局一枚も目にすることがなかったことが妙に印象に残っておりますが(や、ワタクシはノンポリでありますけどもネ)、常に境界を目前にする環境が、そういった考えを受け入れないほどの緊張を強いているのかと少し心配にもなります。

その緊張のタネというのも、対馬は今、どこぞの県が竹島の日とかいうアホなモノを制定したそのシカエシかなんか知りませんけどね、大韓民国の領土であるてな返還運動なんてものがアチラさんでは起こっているそうで。その運動の一環か、島を訪れる韓国人旅行客の数が激増し、対馬島民との間に妙な軋轢が生まれております。アテクシは近場で海外気分を味わおうってんで来てくれるんだろうなんて呑気に思ってたりして、淡路島行っただけで海外行ってきたでとか吹聴するぐらいなアテクシですから、アンタ達カワイイ的仲間意識を持ってたんだけども。

クニとクニの間に横たわる感情の溝が、今もかの地を近くて遠い国にしているその現実を目前にせざるをえない、対馬。けれども、クニは単なる名前に過ぎず、アナタ達はアナタ達ョと笑える日が、いつかくればいいですネ


神功皇后が三韓征伐の際に渡航地とした「和珥津」こと、鰐浦。ヒトツバタコ群生地として知られたこの地の沖に浮かぶ海栗島は、航空自衛隊の基地となっている。海栗島のさらに沖に島影っぽく見えているのは韓国…と言いたいところですが、ただの雲デスw

怪道vol.130 実録対馬滞在記その4

2009年06月03日 23時23分55秒 | 怪道
本日は、対馬のヒトは墓が好きーのコーナーでありマス。すでに対馬にはあんとく様のお墓のあることを紹介しましたが、名の知れた人・モノのお墓はこれだけではないのでありマス。

まずは雷大臣の墓からご紹介しましょう。雷大臣の訓みはカミナリダイジンではなく「いかつおぉおみ」が正解で、「書紀」では中臣烏賊津連とかの名で登場してる方。かのオキナガタラシヒメこと神功コーゴー陛下の、難しい言葉でいいますと審神者の一人、すなわち神託とかを受けるヒトであり、亀を焼きます卜部氏の祖でもあります。墓があるのは一説には雷大臣のお家跡ともいう太祝詞神社の境内。対馬の太祝詞神社といえばかつては亀卜を行っていた神社の一つであり、『式内社調査報告』の京中編でアラこんなところにと見かけた人もいらっしゃるでしょう。その雷大臣の墓がコレ↓↓↓。



えぇ、まごうことなき宝筐印塔のアタマの部分なんであります。これがいつ頃からイカツオオオミの墓と言われているのかはわかりませんが、とりあえず神社しかないとこに唐突にこんな塔が転がっていることはまずありませんので、ご近所もしくは当地には神社と仲良くお寺が並んでいたはずであります。その割に付近は社殿以外はつるっとしておりますので、潰しよったか作り替えはったんでしょうな。ちなみにこの神社、修験者テンションあがりまくりな山容を呈する白嶽から流れ出ているであろう渓流脇に位置し、集落からは1kmほど離れ、扁額には「加志大明神」とあります。かつてはカミマツリや修験、仏法のごった煮な信仰スペースだったのでありましょう。

続きましての対馬ナゼナニ・グレイヴはこちら、島左近の墓ー。ご存知のように石田みつにゃんに乞われて召し抱えられた島さこにゃんでありますが、『関ヶ原軍記大全』(成立年不明、江戸時代)に関ヶ原で囲みをやぶったあと「只一人本国対馬へ下」ったと見えることから、ここ対馬は島山出身という説があるんだそうですネ(現在は大和出身説が有力視されているとのこと)。さこにゃんの墓は、下から読んでも島山島、の山中を半ば朽ちて埋もれた看板をたどり草をかきわけた先にひっそりというかこっそりというか、佇んでおりました。そいつがコレ↓↓↓。



五輪塔の笠の上に一石五輪塔を乗せるという・・・さこにゃんならきっと草葉の陰で頭を抱えてそうなお墓であります。しかも立地が、上記のごとく軽く死ぬ思いをしてたどり着いたようなとこで、おおっぴらに供養するのはマズイかったのねという雰囲気がヒシヒシと伝わって参りマス。宗氏は関ヶ原ではみつにゃん・さこにゃん同様西軍だったところを家康サンから本領を安堵してもらったおうちですから、気持ちもわかならなくはないということで。←ということは、この墓の成立は少なくとも幕府の目をはばかる必要のある頃まではさかのぼれるんでしょうかね。

ナゼナニ・グレイブはまだ続きます。墓があるのは、かの和多都美神社であります。その鳥居が海中から本殿へ点々と続く姿がニッポン人のココロのナニモノかをくすぐるのでしょう、今や対馬を代表する風景となっておりますこの神社についての詳細は・・・本でもネト上でもいっぱいありますからどうぞお調べくださいませということで、ザックリ言いますと記紀神話におけるヤマサチとトヨタマヒメのお話の元ネタになったところで、そのヤマサチこと彦火火出見尊がトヨタマヒメと住んでた海宮がココ、てなわけです。で、あるんですよ、お墓が。誰のってアナタ、トヨタマヒメさんの、なんですよ。そのお墓というのがコレですね↓↓↓。



見づらくてスミマセンですが、胸の高さぐらいある結構立派な石に金字で「豊玉姫之墳墓」とあります。「墳墓」とかえらそうに言いつつも言葉の使い方間違ってますョ、な感じは近代以降の産でしょうかねw 見ルナ、ゆうてんのにウガヤフキアエズ出産中をのぞき見したヒコホホデミノミコトさんにキレて海(と書いて実家とよむ)に帰ったトヨタマヒメさんでらっしゃいますが、・・・お亡くなりになっていたとわ存じ上げませんでしたナムナムチーン。残念ながら発見には至らなかったものの、ここにはどうもオクサマに逃げられたヒコホホデミノミコトさんの墓もあるらしい。

余談ですが、ヒメさんの墓をばへーほーふーんwと眺めておりましたら、妙なミラクルに遭遇w 何だか輪袈裟をかけた「センセイ」と呼ばれる人(♂)を中心に10名前後の女性の団体さんがぞろぞろといらっしゃいましてネ。この方々がまた絵に描いたような不幸のオーラをまとってらっしゃる。何が始まるかのかとワクワクして見物していたところ、センセィなる人がおもむろに、「ここがトヨタマヒメ様のお墓です。供養いたしましょう」。・・・く、供養w?トヨタマヒメさんをw?吹き出しそうになるのをこらえつつ眺めておりますれば、なにやらウニョウニョと皆さんで唱え始めたかと思うと、ついには般若心経の大合唱。その中で「センセィ」、剣のような法具をとりだし、エイヤエイヤと一人一人祓いはじめます。時おり弾指などの動作もされておりましたしおそらく真言系の作法を取り入れたナニな方々なんでしょうなぁ・・・供養をせにゃならんほどトヨタマヒメさんに何をされましたのやらw それとも日本全国ヤオヨロズの神々を供養してまわってらっしゃるのかしらw

十数分にわたり「供養」をした後は、信者さんのお一人が「センセィ写真とってもいいですか?」「えぇ、大丈夫ですよワタシも撮ろう」あげくミナサンでパシャパシャとヒメサンの墓の記念撮影が始まります。世の中いろんな人がいるんだナァとニヤニヤしていたら、帰りの福岡→大阪の飛行機で再会したという罠w 関西圏の団体なんですかね、知ってどうするわけでもないですが、単なる興味です、ご存知の方はよろしければ教えてくださいw。


さて、ナゼナニ・グレイヴも次が最終章。こちらはここまで紹介してきたものとは一味違う種類のものなんですけども、墓というものを考えるならば少しおもしろいのでご紹介いたします。そいつがあるのは梅林寺。このお寺、小船越という対馬のちょうど中央、リアス式海岸の激しい辺りにありまして、仏教伝来の折、半島から運ばれてきた貌キラキラシな仏像がヤマトへの道途で仮置きされたとの由緒をもつ「日本最古の寺」なんだそうであります。現在は曹洞宗に属するお寺で、現在の御当主は29代目であらせられるらしい。

29代目とかなぜにそんなことがわかるかと申しますとね、そのワケが、つまりは墓なんですよ。境内の大変目立つ一角に、「開祖」から「二世」「三世」・・・と、28代目までのお墓が、こんなふうにあるわけですw↓↓↓。

    

なんかスゴイと思いませんw?開山から26世ぐらいまでがこの石コロに数字を刻んだだけのもの、でそれに並んで最近の2つぐらいは坊さんぽい立派なお墓なんですけどね。一般的には系図なんかで第何代目に法統を継いでおりますぐらいですむものを、これだけいたんです、と物量でせまってくる感じなんですネ。しかも石に刻まれた字が全部一緒ですから、いつ頃かは不明だけれどもそう遠くない昔にまとめて作ったのがバレバレなんですw これを見た時、改めていうのも恥ずかしゅうおすけど、お墓というのはなんと言うか「実在の証」として作るんだなぁなんてことをしみじみと感じたワケです。

それを念頭に上記さまざまなお墓たちをみますとね。実在・非実在は問わず、かくも多様な有名人(或いはカミさん)の墓がこしらえられている地域、てのはワタクシ、ちょっと知らないわけで。あんとく様やさこにゃんはまだしも、まともに考えたら雷大臣もトヨタマヒメも開山→20世ぐらいまでとかも、墓まで作らんでもええんとチガウ?てな類のもんでしょ。こんなお墓をツラツラとながめるに、対馬という地域が持つこだわりとは一体どういった類のものなんだろうと考え込んでしまうほど、なんだか強い意志を感じた次第でありまス。