怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪想vol.27 シークレット・シティ・ロンドン

2010年10月12日 02時43分25秒 | 怪想
先月一度も書かなかったことに今気づきましたコンバンワ。えぇ、某報告をご期待くだすってる方もいらっしゃるかとは存じますが、月初のミノオはお邪魔しておりませんのですょスイマセン。そもそもお願いしていたチケットが日本郵政の謀略により届かなかったという悲劇があったりで、入手に手間を取らせた方には申し訳ないことをしたという罠もあったんスけど。何より私事で恐縮ですが、ここひと月ほどジジサマの具合が急激に悪化の途を辿り、深夜に車を飛ばし病院へかけつけることもしばしば。自宅待機を必要としております関係で、平日・休日ともに体があきませんで、ちとばたばたしております。以上近況報告終了。

というわけで、相も変わらずエゲレス語習得に時を殺す別水軒でありマスが、テキストをめくるにもやや食傷気味の今日この頃(ヲイw)。もともと街歩きを趣味にするアテクシはニッポンの怪道を歩くに必要な秩序とメソッドはそれなりに心得ておるつもりであります。が、海を渡ったその先はなんせ欧州、精神風土が違えば街のツクリもその配置に潜む意識もどこまで違うものかは測りがたい。墓地が付随する教会が街の中心にでんと居座るというそもそもの部分からして何をつかみどころに理解すればいいのか、言語中枢を根本から揺すぶられるがごとく途方に暮れてしまうわけでありマス。

折しも「世界一幽霊の多い街」なんてキャッチが裏表紙におどる『シーークレット・シティ・ロンドン』(M.チェンバース、佐藤茂男・訳、北星堂)なるロンドンの歴史とそのミステリアスなスポットについての・・・コンビニ本みたいな本を手にする機会がありまして。それをもとにちっとイギリスの都市についてお勉強してみようと思ってみました!

ロンドンという都市の歴史の詳細については興味のある方はウィキペディア先生にお聞きいただくとして、ローマ人によってつくられたロンディニゥムが「沼地の砦」を意味することからもわかるように、街の中心を東流するテムズ川流域に開けた水気の多い街だったようです。イースト・エンドと呼ばれる「シティ」周辺を中心に開発が始まりますが、12世紀頃にサクソン系の王が立った頃から、現在「ビック・ベン」なる愛称を持つ鐘がある国会議事堂の場所が王と拠点となります。そこを中心にいわゆるウェスト・エンドと呼ばれる地域が形成されるわけです。高級住宅街として知られるメイフェアがあるのはハイドパークの東隣、下町として知られるランベスは、ウェスト・エンドの川向うなんですネ(下地図参照)。

そんな大英帝国の首都の幽霊出没地点についてのガイドマップがこの本でアリマス。まぁそれはそれはいろんな幽霊がいらっしゃるのねぇと感心しちゃう上に、幽霊出没地点というのは水場の近くが多いという傾向があったりするんだそうですYO。なんかどっかで聞いた話ですNE。この本でアテクシがとりわけ興味をそそられたのは、ロンドンの刑場についてなんであります。ロンドン(に限らず、ヨーロッパでは大概そうなんでしょうけど)では死刑は基本的に公開処刑なんだそうですな。反逆者の監獄兼処刑場として有名なロンドン塔は一般市民の立入が固く禁じられていたこともあり、ここでの処刑は非常に特権と考えられていたんだそうですが、貴族でも通常はロンドン塔に隣接するタワー・ヒルで衆人環視のもとズバッとやられたようでアリマス。そんなロンドンには6ヶ所の処刑場があったといいます。位置関係を地図に落としたのが下の通り。


(ベーカー街221Bは地図の「★」印のとこですから、まぁ当然ではありますが、我らがホームズ先生はれっきとしたウェスト・エンドの人)

ニッポンのかつての処刑場と言ったら、街道沿いの町の外というのがお決まりなわけですが、ロンドンの処刑場は・・・ロンドンがわからないからどうみても街中でやってるとしか思えないwwwとしばし頭を抱えそうになったんですが。これにストリートの名前やら旧市街地の範囲やら現在地下に潜った河川なんかを加えると、以下のようになるんですね。


(中央の★印はロンドンの自殺の名所と言われる、「クレオパトラ・ニードル」と呼ばれるモニュメントが建つ所)

灰色のラインがオックスフォード・ストリートと呼ばれる、大阪で言うところの御堂筋、みたいな位置づけの基幹道路になります。処刑場のほとんどがまず、この通りとその周辺に分布していることがわかります。青い点線は現在は地下に潜った河川。オックスフォード・ストリートと呼ばれる部分は赤で示した部分のみで、そこから東はニュー・オックスフォード・ストリートになりますので、河川の存在を考えるとかつてのウェストエンドの境界はこの辺りと考えられます。まぁソーホーが移民街らしいのでその手前のリージェント・ストリートから境界かなという気もします。ちなみにオックスフォード・ストリートの西端もしかり。となると、タイバーン(クロムウェルが処刑されたとこで有名)、セント・ジャイルズ・フィールズ、チャリング・クロスの処刑場は、ウェストエンドの街のクチということになります。またシティを中心に黄色い線で囲った部分がかつてのシティの範囲なわけですが、ウェスト・スミス・フィールズとロンドン塔(タワーヒル)はイーストエンドの町の東西のクチにあった処刑場ということになる。

そもそも「フィールズ」なんて言うぐらいだから野っぱらなわけですけどねw ヒギンズ教授とイライザが出会った劇場街&市場であるコベントリー・ガーデンなんて今はちょう都会だから想像もつきませんが、かつてはイースト・エンドとウェストエンドに野菜を供給していた畑地だったそうで。セント・ジャイルズとあわせてレッド・ライオンズとリンカンズ・イン・フィールズ周辺は、明らかにテムズ川の氾濫域だから、イースト・エンド、ウエスト・エンドにくらべれば開発が遅れた場所だったんだろうなぁと察しはつきます。処刑を街道沿いの街のクチでやるっていうのは、ニッポンもロンドンも同じようですな。余談ですがシェイクスピアのグローブ座もシティの川向う、方や現在の劇場街・コベントリー・ガーデンも川の氾濫域、と思うと、刑場事情にあわせて劇場事情もニッポンとなんとなく似ている気はします。

もっとも各処刑場の成立も、どんな人間をどの程度処刑していたのかも時期によって使用された刑場の場所は違うのかも、今のところわかりません。ただ、周囲が街に飲み込まれていっても処刑場の位置は変わらんかったようです。ちなみに向こうの方々の処刑は一般的には縛り首なんですが、罪の重さは処刑後の遺体に損傷を加えることで示されるようで、死んでから八つ裂きとかにしはるみたいデス。これらの処刑場がすべて幽霊頻出地であることは言うまでもありません。

遺体に損傷を加えると言えば、かつてロンドンでは、自殺者の遺体は、衆人環視のもと胸に杭を打ったまま、最寄りの交差点に穴を掘って埋める、という古くからの習慣があったのだそうです。ただ、それをやるせいで頻繁に交通渋滞を引き起こしたもんだから、1832年、ブチ切れた時の王・ジョージ4世が無理やり禁止したのだとか。古くからの習慣が直ちになくなったとは考えにくいわけですが、公に禁止されると地下に潜らざるをえないですしね。こういう歴史的背景を知ると、その約60年後に世に出たブラム・ストーカーの『ドラキュラ』がロンドンの人々にもたらした恐怖の感覚について、想像をめぐらす幅ができる気がしますNE。

刑場の話が出たのでついでに余談。ニッポンでは柳の下でウラメシヤと両手を下げるのが古典的な幽的の姿ですけども、英国人の幽霊イメージというのは「白いシーツを被って」「手鎖をつけている」、あるいは「首がない」もしくは「自分の首を小脇に抱えている」というのが正しい(?)姿なんだそうデス。例の葬儀屋ジョン君によると、遺体は昔から全身に白いシーツをかけるのが作法だと言いますので、「白いシーツを被って」いるのは「それ」が死んでることを示しているのかなぁと思うわけですが、「手鎖」にしろ「首がない」ことにしろ、それは囚人や刑死した人を表していることが予想されるわけですが。都市が拡大して街中が刑場となってから、多くの「犯罪者の死」を目撃することとなった人々と幽霊のイメージとは、何か関わりがあるのでしょうか。

うーん、なんかとりとめのない感じになりましたので、今日はこのへんでw