怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪日記vol.96 時の過ぎゆくままに

2007年11月16日 23時52分42秒 | 怪日記
人間、没頭する何かを持っていると、必然的にそれによるヤマイのようなものを併発することがございます。ワタシのように歴史をやっている者の場合、その症状の一つといたしまして、3桁後半から1000番台の数字全般が西暦に見えてしまうということがママあるわけで。ホラそこのアナタ、身に覚えがありますでしょ?

歴史人間の中でも専攻している時代によっては、時間・時代の捉え方が様々に違っております。ワタシなんぞのように比較的古代の辺りを重点的にやっていたものにとっては江戸時代なんて「つい最近」と感じてしまいますが、その江戸時代をやっている人には鎌倉時代でもずいぶん「古い」と感じることでしょう。

発掘調査事務所などにおりますと、文献の人間から見れば相当古い時代をやってらっしゃる方によく出会います。最近でこそ考古学は近世や中世にも地平を開きつつありますが、遺跡や遺物をベースに時代を把握しようとする学問である以上は、古墳~弥生時代以前が花形となるのは当然のことです。さらに考古学には旧石器時代という途方もない過去を扱う領域まである。石器を専門とされる方は「石屋」さんなんて呼ばれ方をするわけですが、彼らは基本的に縄文時代以前を主に扱います。中には、人類ではないモノ達を相手にしてらっしゃる方もいたりする(わがドリフ大のM藤先生なんかはその一人)。

現在職場で仲良くさせていただいているテシモリさんは、この旧石器でマスターを出られた方。そういう方は上記のような時代の古い新しいについてどういった歴史感覚を持ってらっしゃるのかナァとたずねてみたら、「わぁもうお米食べてる~(ほど最近)」という具合になるんだそうで。この方々にとってみたら、近代なんてもう、24時間経ってないぐらい最近、な勢いなんでしょうね。

テシモリさん相手に石器トークをおうかがいするのを楽しみに毎日職場に通っています。石器はその割れ方から過去を復元しようと試みられるわけですから、実験とは縁が深いらしい。つまり、石器に適した石を拾ってきては実際に作ってみることがよくあるそうなのですね。自宅のベランダには石や自家製の石器が転がっている、という石屋さんは大多数にのぼると思っていいようです。また、石ではわかりにくいので板チョコやチーズを使って、力の入る方向と割れ目の関係をみたりもするのだそうで。

石器と言うのは、遺構を伴って発掘される場合ももちろんありますが、狩などで回収されなかった鏃などがそのまま残るのでしょう、山中に突然落ちているなどのこともあるようです。ですから、遺構や遺物の関係から時代を特定していくという手法がとられない・・・というより、旧石器時代となるとそもそも土器がありませんから、石のみで時代を判定していくことになる。また、サヌカイトのように風化していく石器ならば比較的問題はなくても、黒曜石のように数千年ほぼ原形のままという石もある。なので、実験で作った石器の処理も、慎重にならざるを得ないそうで。つまり、現代に実験で作られた石器が数百年後発掘された際に、彼らが時代をよみ誤る可能性がある、と。

遺構を伴う出土遺物を扱っている者にしたら、「撹乱」遺構といって、新しい時代のものが混ざっていると判断しちゃいますけどもね。なるほど、これは石屋さんならではの考え方だなぁと感心しまして、じゃあ、使用済みの実験石器はどんなふうに処理されるんですか?とおうかがいしたら。


・・・ビニール袋に入れて「燃えないゴミ」に出すんだそうでw


それは・・・ただ捨てる場所が変わるだけの話ですね。しかもそんなことしたらゴミ収集車の方がお困りになるじゃないですか。とまぁ、すってーん、と転んでしまったわけですがw、これはテシモリさんのうっすらとした記憶の中にある話ですので、多分もうちょっと違う方法があるのかもしれません。

いずれにせよ、ワタシ共が某貴族邸を発掘調査しておりました際も、後世の人間がここを掘ったら「撹乱」扱いされるのかナァなんて冗談半分で話すことはありますが、数百年後の人々のことなど、こうも真剣に考えることはないわけです。はるか遠い時代を探ろうとされる方々は、彼ら自身が歴史の中に生きておられるのだなぁと思わずにいられませんでした。

ちなみに、石屋さん以上に悠久の時の流れに身をゆだねてらっしゃるナァと感心したのが、地質学を専攻されている方々。ワタシ共の調査現場は鴨川の洪水層を見る必要性もあり、特に地質の方面からの検証を要請するんですが、もう・・・ねw 約束の時間にピッタリにいらっしゃった試しがございません。というか、約束にまず時間をおっしゃいませんw 「お昼ぐらい」とか言うてくれはるだけラッキーな感じなんではないかしらと思ってしまいます。

彼らとお話した後は、・・・つい空を見上げて、フッと微笑んでしまいます。時間の流れがゆったりとするんですよね。・・・あともう1年、ゆったり変わって行こうかナァと、気づけば笑ってる自分がおりました。

どうでもいいことですが、以前考古学を専門にする学生アルバイト達をひきつれてカラオケに行った際、最近話題になっていた「創聖のアクエリオン」のテーマ曲を歌ったヤツがおりましたんですが。「1万年と2千年前から愛してる~♪」で、
「縄文時代か・・・」
と全員がマッタク同じタイミングでつぶやいたのには爆笑しました。

ステキな職場で働かせていただいております。

怪日記vol.95 日々これ精進

2007年11月13日 12時44分48秒 | 怪日記
ワタクシ事ですが、来月12月、京都検定を受けることにしました。無難に3級から受けようかナァと思いつつ、謎のやる気をだして2級を申し込んでしまったワタシ。そんなわけでさっそく公式テキストと問題集を購入し、オベンキョにいそしんでおります。歴史問題は今のところ平安時代と幕末しか出ていない模様。京都が日本の中心だった時期というチョイスなんでしょうが、ここでも室町時代は「全て忘れ去られてしまっ」(byエイジ桜井)ておるようです。どう思われますか、准教授w

それとあわせて年明け早々、奈良検定を受けることにしました。正式名称「奈良まほろばソムリエ検定」。半笑いするしかないタイトルのこのご当地検定、2級からはじまり、なんと最高位は「ソムリエ」。・・・ソムリエだけ受けたいと思いましたが、コチラは2級から順当に行かねばならぬ模様。しかもソムリエの合格基準はまだ「未定」のようです。早く決めてね、奈良商工会議所。

ついでに奈良検定、公式テキストブックの誤植が多すぎです(→コチラ)w 網干義教さんがかろうじて生前に監修されたものなんですが(完成をご覧になれたのはよかったですよね、心よりご冥福をお祈りいたします)、ここまで間違ってると当日の問題文にも誤植があったりしてと楽しみにしてしまいそうじゃないですか(←期待w)。

京都検定は合格すると結構いろんな特典があるようなのですね。楽洛キャンパスとかいう、いろんな講習をやってるところの講座が無料で受けられたり、1級に合格するとななななんと京都産業大学の客員研究員に迎え入れてもらえたりもするそうな。ついでに都タクシー一割引の適用をお願いしたいところです。各土産物店消費税引きとかね。ご検討、よろしくお願いします。

対して奈良検定は・・・「奈良通2級」とか「奈良通1級」とかいう資格名からもわかりますように、ようするに自己満足な感じですね。東大寺に無料で入れます、とかだったらうれしいのになぁ、好きなときに大仏に逢えるじゃないですか!そのうち企画が充実していくことを期待しておきましょう。

来年は、奈良検定をカワギリに3月には「検定・お伊勢さん」なるものを受ける予定です(中級700円、上級1000円とリーズナブル)。その他、第一回を迎える大阪検定と、酒呑童子鬼検定(当日開催の「鬼祭」のおにぎり券付で検定料なんと1000円!)、明石・タコ検定でも受けようかな。お墓ディレクター検定というアキコさん(山村美紗「赤い霊柩車」シリーズより)もびっくりな検定もあるようですが、検定料が30,000円と見事なお値段なので生涯見送ります。

京都検定も奈良検定も、公式テキストブックはコンパクトにそれぞれの土地の歴史や文化遺産や特産品がまとめられているので、手元に一冊あると便利かなという感じ。余裕のある方はゼヒどうぞ。


どちらも2000円也。出費がイタイので奈良検定の方は、同僚のテシモリさんよりレンタル中。

怪想vol.23 神の川・カモの川

2007年11月10日 23時26分22秒 | 怪想
発掘調査は、出土した遺物の整理に入っております。本調査地点の目玉が近世公家屋敷に関わる遺跡なもんですから、今後の作業にあたって参照されるのは、1997年頃から京都御苑内にて行われた迎賓館建設に伴う緊急調査の成果となります(迎賓館地点は京都御苑の北東付近で、場所柄近世公家街の内側ということもあって、これまでで最もまとまった近世の公家遺跡と遺物が出たために非常に注目されたわけです)。

そんなわけでこの報告書をしばしばひっくり返す日々なわけですが、ここ数日は嵐の前の静けさ的にややゆっくりする時間を持てたので、近世公家街成立以前の部分に目を通しておりました。...どうもこの場所、ちょっとおもしろそうだったので、思いついたことを書き留めておこうかしらと。

平安京で言えば左京北辺四坊五町から八町、一条大路と東京極大路の交わる南西角という、最も北東の隅に当たる地点。京極大路から一本西の富小路と、一条大路から一本南の正親町小路の交差する場所が、調査地点にかかっております。当時少し話題になったように、9世紀初頭~中頃のこの場所、なんと富小路の道路上から井戸が見つかっています。つまり、この付近は平安京の条坊が計画通り施工されていなかったことを示唆するんですね。それとあわせてこの辺りには、なんと幅6m・深さ1.5mに及ぶ、北東方向から南西方向への自然流路が、9世紀半ば頃まであったことがわかっています。

平安京の東には、いわゆる四神相応の青龍にあてられる鴨川が流れております。京阪出町柳駅の辺りで東上流からくる高野川と西上流から来る賀茂川が合流し、鴨川となって南流していくわけですが、この合流地点というのはもっとも洪水を起こしやすい場所でもありました。そして平安京の北東角というこの場所は、その際あふれた水が直撃する場所だったわけです。幅6mに及ぶ自然流路はまさにそれを示しており、考古学的見地からは、ここが整備され始めるのは、おそらく上述の9世紀半ば以降のこととされております。

・・・察しのいい方はそろそろお気づきですね。整備され始めたこの頃、ここに構えられた邸宅は。

そう、藤原良房の「染殿」になるわけです。染殿の初見は貞観3年(861)2月18日(『三代実録』)の、「皇太后(=良房の娘・文徳天皇女御の明子、すなわちかの「染殿后」)、太政大臣(=良房)東京染殿第に臨御す云々」。前述の富小路上にあった井戸は9世紀半ばに埋没しておりますから、おそらく染殿建設に伴って整理された可能性が大。とはいえ同じく上述の「自然流路」は、染殿成立後もしばらくは「窪地を埋めるような作業が依然として続けられていた可能性は高い」と考えられています。貞観8年閏3月1日条に見える邸内にあったという「大池」なんてのは、これらを利用して作ったのかもしれません。

そうすると、良房はなぜにこうも、常に洪水の危険と隣り合わせの場所に大邸宅を構えたのだろう、と思ってしまうわけです。



そもそもカモの地名は鴨建津之身命すなわち八咫烏を祖にもつ「鴨氏」といった固有名詞から説く説が長らく言われてきましたが、近年井出至氏により地名起源説が出てきております(詳しくは「カモの神の性格」『古事記年報』41号参照)。簡単に申しますと、人々に信仰される山につながる土地には「尾」がつくことが多い、よって「カモ」は神山の尾、神の尾→カムオ→カモの転訛であると(で、カモ神というのは本来境界神なんだという話)。そういうシンプルな話好きョってな具合で結構気に入ってる説なんですが。確かに賀茂川の源流である志明院の辺りには、歌舞伎「鳴滝」が成立するような土壌があったりするんだろうなと(但し、鴨川が神聖視されたがゆえにさかのぼって源流に発生した伝説、という考え方もありますナ)。カモが「神尾」として、神の山から流れてくる川というのはやはり神の川なわけです。

神尾カモ説とは切り離してみても、カモ川は嵯峨→淳和→仁明の頃を画期として、川の平安京にとっての役割が明確になってきます。嵯峨天皇の頃、天長元年(824)にカモ川の堤防を修理する「防鴨川使(ぼうかし)」が置かれ(同じ時に葛野川=桂川にも置かれてます)、淳和天皇の頃から伊勢斎王はこれまでの葛野川ではなくカモ川で禊するようになり、仁明天皇は大嘗会の禊をカモ川でした・・・はずですね。神の川~とか言わんでも、単に水があってそれが近所なんだから、キヨメの場になるのは当たり前でしょ、なんてツッコまれそうですがw

カモ川という川は、場所によっては普段は歩いてでも渡河できそうなほどの浅い流れです。鴨川には「唐橋」以外に橋がなかった・・・ことから、それをして即、この川は当時も浅かった、というのはセッカチですが、鴨東のその後の発展他を見ますと、そう考えるのは決して間違いではないと思うわけです。が、その一方で、一旦雨が降ると途端にあわや洪水か、というほど激しく増水する、不安定な川でもある。天長元年においた防鴨河使とて、さほど効をなさなかったのは、30年ほどたっても、平安京の北東隅の宅地化が進んでいない辺りからもなんとなくうかがわれるわけです。

そこでもう一度藤原良房に戻りますが。貞観3年(861)にはすでに成立を見ていた良房の染殿邸。いつ頃に遡れるかは不明ですが、当時良房サマは848年右大臣、857年には太政大臣、858年には人身初の摂政につきます。前述したように富小路上の井戸が埋没するのが9世紀半ばですから、染殿は良房サマが飛ぶ鳥を落とす勢いのちょうどこの頃にできたことが察せられます。

この地を選んだ理由として、平安京に巨大な邸宅を築くための空閑地がなかったために、宅地利用の進んでいなかったここへ来た、というのが・・・まぁ妥当なところなのかなと思いますが、良房サマ、この時期はだいぶ行け行けどんどんなわけです。そんなしぶちんな理由かしらんと思ってしまうわけですね。しかもこの染殿、「染殿花亭」なんて呼ばれるほど、相当豪奢。こんな辺、なんだか良房サマの、オレはカモ川の洪水なんて怖かねぇぜ、という自信のようなものさえ感じてしまう。神の川・カモ川なんざオレ様が御してやらぁ、と。想像豊かすぎかしらw

平安京の大内裏は、現在の京都市街地から見ても、かなり標高の高い位置にあります。京都市内を自転車で走り回ったことがおありの方はご存知のように南北方向で言えば千本通りというのは自転車で北上するするにはもっとも適さないと言われるほど高低さが激しく、また東西方向で言えば千本今出川から堀川今出川までって、ペダルこがなくても下って行けますからね。貴族さん達が屋敷を構えた左京の二条以北って、右京に比べて左京は高いというけれども、内裏から比べたらかなり土地が低いことは、当時の貴族には現在のワタシ達以上に実感としてあったと思うんです。ここに建てようっていうのは、ちょっと勇気がいるんじゃないかしらと。

染殿は平安京のピッタシ北東隅、というわけではございません。その辺がなんだかモヤモヤするところでもあるんですが、ちょっぴりセコイ良房サマ、そこまで引っかぶるのはヤだったんでしょうか。神の川かどうかはおいておいても、何はともあれ平安京においてカモ川の洪水は建設当初からの脅威だったでしょうし、そこにおいて、良房サマがこの場所に自邸を据えた、というのは、平安京という都市にとってもわりと大きな意味があったんではないか、と思うんですが、いかがでしょう。

・・・なんだか、当たり前すぎる話ですね。

なんにしても染殿后の憂鬱は、こんなハラハラドキドキな家を出たほうがスッキリしてたんじゃないかしら、なーんて思ったりして。

おそまつさまでした。

怪道vol.81 *大連*帝都物語・第陸番~最終回

2007年11月05日 23時03分47秒 | 怪道
最終回です。

ちょっと間を挟みましたのは、中国から写真が送られてくるのを待っていたりしたからです。何の写真かといいますと、実は旅順へ向かう道すがら、かつて地方法院であったという現在の裁判所前を通ったのですョ。おぉぉ、きっとタッキーこと滝川政次郎*もここに来たに違いない・・・と撮影したいから止まってくれとお願いしたわけです。ところが隣が人民政府ということもあって駐停車禁止区域につき停車不能と言う。そこで、現地添乗員のお姉さんが後日撮ってメールで送ってやろうと約束してくださったわけですね。

で、送っていただけたかと申しますと。残念でしたー♪な感じですね、まぁあのお姉さんの雰囲気から、期待してなかったけどw

場所はこのあたりになります↓↓。


ちなみにこの裁判所の南向かいは現在、大連医科大学付属第一医院となっておりますが、元は日赤病院があったところらしいです。初日に星海公園をうろうろしていた時にこの大連医科大学の前を通ったのですが、なぜか校地に隣接する病院はは付属「第二」医院。「第一」はどこにあるんだろうと思っていたら、まぁ離れたところにあるのね、という感じ(上の地図の南端に沿う点線すなわち「山」を二つほど超えた海側に校舎及び第二医院がある)。日赤病院跡を大学病院としたいものの校地が確保できず郊外の星の浦に建設した(もしくは敷地拡張の要請により校地を移転した)→その後、利便性を兼ねて隣に第二医院を建設した、というような流れでしょうか。日赤は大連医科大の付属病院となりましたが、満鉄病院の方は現在は大連大学の付属病院となったそうです。


さて、出発の朝です。飛行機が昼過ぎの便だったので、ぶらぶらと大連港まで散歩してきました。

現在、大連港には4つの埠頭があり、東の第1埠頭がロシア人によって、残りの3つの埠頭は日本人によって作られました。そのうちの第2埠頭が旅客船用埠頭として有名なところで、日本から大連へ降り立つ玄関口だったのも、日本への引き上げ船が出たのもこの第2埠頭。


↑現在の第2埠頭と、かつての第2埠頭↓。


見下ろす角度が同じなのは、当時と同じ「埠頭ビル」(上からみるとカタカナの「ワ」の字形をしてるんですョ)の屋上から撮影したためです。屋上は現在観光用に解放されておりまして、青銅製の二匹の麒麟に守られたこれまた青銅製の達磨像が謎にすえられ、風雨に晒されていたりします。なぜにこんなものを?と案内小姐に聞いたら、「日本人コウイウノ好キデショ」って・・・それは誤解だと思う。上に載せた大連の地図(日本の観光地なら無料配布レベルのものですよ)は、ここで8元も払って購入したもの。


入口で何も言われなかったので、乗客のフリをして手荷物検査を受け潜入。埠頭の一番先っぽまで行ってきました。朝早かったので人の姿もまばら。


待合室から降りてくると見えてくるのがこの風景。左のビルが旧・埠頭ビル。当時の人々の目には、これで背景にビル群のない光景が映っていたはず。

現在の立体野球ベースのような待合室は老朽化により十年ほど前に立て直された姿。かつての半円形の待合室から埠頭へのびる青い屋根は往時のままだそうで、引揚者の方々が再訪されては涙されることも多いのだとか。・・・みんなここからやってきて、そして帰っていったのですね。言うなれば、あの狂騒の時代、ゴールドの出ないゴールド・ラッシュ・・・みたいなあの時代は、ここで幕を開け、ここで閉じていったのだなァ。朝もやに煙る大連港は、ガラにもなくワタシを神妙なキモチにさせたのでした(疲れと眠気ではしゃぐ気になれなかったというウワサ)。


ちょっと早めに空港について、レストランにて中国での最後の昼ごはん。「わかめうどん」とあったので、わくわくして注文したら、チャーシューとメンマののったうどんが出てきました(一瞬そのおかしさに気づかなかったぐらしです)。

・・・最後まで、やってくれるぜ中国w




*瀧川政次郎・・・1887~1992。歴史をやっている者でその名を知らぬものは実は歴史をやっていないヤツだ、とさえ言える、歴史界の巨人。戦前に大化の改新をめぐる研究により当局の糾弾を受け、学職追放。満州で満州国司法部法学校及び建国大学で教鞭をとる。新京で終戦を迎え、ソ連の捕虜になった過去を持つ。なお、東京帝国大学卒業後まもなく南満州鉄道会社に勤務するが、「希望する調査部に配属されない不満」により、4ヶ月で退職している。

怪道vol.80 *大連*帝都物語・第伍番~金州編

2007年11月01日 23時12分44秒 | 怪道
3日目。金州まで行ってきました。金州は大連郊外にある開発区なんですが、郊外の大黒山はどうも道教寺院が点在する宗教ゾーンで、加えて高句麗時代の山城があったりするらしいとの事前情報を入手したためです。ところがどっこい、金州は金州でもリゾート地やショッピング街のある金石灘の辺りの情報はゴマンとあふれているのに、「金州」の情報が日本ではまるで得られなかったのですね。

・・・まァ、いつものように行けばなんとかなるかぁという気軽な気分で、大連駅から火車(=汽車)に乗っていきました。ところがどっこい、そうそううまくは行ってくれなかった。というわけで、今回は基本的に失敗譚ばかりでさほど収穫はありませんw



中国の火車の駅には自動券売機のような便利なものはございませんから、窓口に並んでとにかく短気で早口で外国人だろーがオカマイナシな駅員さんから直接買わねばなりません。久しぶりだったので少々ドキドキいたしましたがなんとか無事購入。満鉄の頃と変わらぬ線路を30分ほど楽しんだところで金州に到着。強烈な臭いと超カオスな駅と駅前の有様にかなりビビりながらバス停までなんとか逃れ、ひとまず市街地の金州博物館に向かう路線をたずねて乗車。降りる駅が終点らしいと安心していると、しばらく行ったところで「オマエは一体どこまで行きたいんだ」と車掌な小姐に怒られw 「向応広場ですョ」と言ったら乗客全員に「ここだよw!」とツッコまれました(汗。どうやら巡回バスだったようです。

そんなこんなでようやくたどりついた博物館。かつて城壁都市だったという金州の姿をジオラマ展示してあるという話だったんですが、旧金州民務会の建物を利用しているらしいという事前情報をたよりに行くと、なんと改装工事中で入れず・・・( ̄ロ ̄;)。ここでいろいろ聞いてから探索開始しようと思ってたのにさてどうしたものか、と抗日戦争の英雄(という説明があった)関向応の像の前でしばらく呆然。・・・が、いつものようにまぁいっかー、と気を取り直して大黒山に行ってみることにしました。その辺のオネィチャンに聞くと、バスがあるけどあんまり来ないしタクシーで行けば?と言うことでしたので、おっしゃる通りに。

大黒山はいかにも霊峰然とした山でした。大連市の最高峰(663m)で日本統治時代は「和尚山」とも呼ばれ、行軍の目印になっていたと言いますが、その日は天気はいいけど空気が悪いせいで相当近づくまでその威容が見えませんでした。大黒山のどこに行きたいの?と言われ、そういえば考えてなかったナァと思いつつ(←ヲイ)かろうじて記憶にあった「朝陽寺」に行ってもらいました。朝陽寺はモノによっては仏教寺院と言われたり道教寺院と言われたりする、明清の頃の寺。



まぁ・・・仏教寺院なんでしょうな、という感じ。門をくぐると金ピカのメカンノンが鎮座。そして本殿に続く階段脇には四天王がひかえております。ところが本殿隣の建物の中には目目娘娘や耳耳娘娘みたいなあからさまに現世利益な神さんもいる。薬王殿なる建物(シャンデリアがつってあった)に入ると、どうみても道教チックな賢者が5人、ずらーり。建物の裏にまわると淡島神社状態に道仏相まざった連中がこれまたずらーり。お寺の軒丸瓦は全て閻魔さん。しかし建物の脇には「禅」の文字がデーンと。・・・仙仏習合寺院なのカナ、と思うことにしました。


メカンノン。身長ぐらいある線香がすごい。というか線香の燃やしすぎで境内煙たすぎ。


四天王。持国天が琵琶を持ってます。


寺の裏は淡島神社状態。


閻魔さんの軒丸瓦がキュート。


地獄絵。中国の地獄にはメカキングギドラがいるらしい。

寺を出て、さてどうしたものかと周辺をぶらついているとうまい具合にタクシが来たので再び乗車。かつて唐軍が高句麗を攻める際にその水軍が金州をめざしたというので、大黒山の上から金州湾でも望みに行くかというわけで、李世民の像があったり高句麗時代の山城がこの辺にあるらしいんだけど知ってる?と筆談交じりで聞いてみると、山の方は軍の基地があるから一般人は入れないよ危ないよ、とおっしゃる。というかかろうじて聞き取れたのがそれぐらいで、なんだか方言がキツイのか何を言ってるのか焦るほどわからなかった・・・orz ので、「算了、算了(あきらめまス★の意)で、大連に戻ることにしました。

案内板を見る限りでは、大黒山を中心にその山ろくは朝陽寺をはじめとし「天然石仏」や「石鼓寺」、「観音閣」やら「响水観」といった宗教施設が点在しておりましたので、統治時代の「和尚山」の称はこの辺に由来するのでしょうか。山頂付近には「卑沙城」や「関門塞」があるらしく、ゆっくり探検したら相当おもしろそうだったんですけどもねw

ここからがまた悲惨でしてw
カオスな金州駅で火車を待っていたんですが、瀋陽方面行きのは次々やってくるのに大連行きがいつまでたっても来ず。駅員さんに聞いてもまだだよとおっしゃる。立ちっ放しの寿司ヅメな駅で1時間半ほど待ち、もう一度聞いてみたら、今度はそんなのとっくに行ったよ、・・・て!次は5時半ぐらいだからチケットを買い直して来れば?とまた本気でハートレスに言ってくるので、頭にきてw窓口へ戻り、もうタクシーで帰るからいらねぇよ、と退券。タクシー乗り場で「大連までいくらぐらいかかる?」と聞いたら「65元だ」ということで早速乗車。たどりつくと料金メーターはまだ61元ぐらいだったのでラッキーと払ったら、「65元って約束だったろ」な勢いで怒鳴られ(泣。目安を聞いたつもりだったのに、そういう契約ということになっていたんですねぇ。皆さんも気をつけてくださいね。

というわけで、まったくもぅー、おもしろかったけど散々でしたわw
外国では、事前にチェックは大切ですね、と反省しきりの一日だったのでした。