怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.97 ぼっけぇ、もんげぇ~上ノ巻

2008年05月31日 23時08分49秒 | 怪道
岡山に行ってきました。

実は岡山、小豆島なら小学2年生の折、大石先生ごっこのために分教所まで自転車で行くとかしたことあるんですが(途中でコケて両足血みどろになったという微笑ましい思い出w)、本土はいつも通過点でしたスイマセン。というわけで、新調したばかりの黒ラパンで中国自動車道を飛ばし向かった先は・・・津山。風が吹き荒れる♪てな具合に楢井俊平ごっこをしようとか、夜啼きの森な事件の村を訪ねようとかそういうのではありません(後者なんて不謹慎すぎてようしません)。猿神サマのいらっしゃる、作州一宮・中山神社をお参りしようというわけです。

中山神社は城下町としてさかえた津山市街地の広がる吉井川沿いから支流である宮川を北上した盆地の奥の、さらに支流の鵜ノ羽川沿いにあります。美作・中参神社の猿神退治の話は『今昔物語集』でよく知られますように、人身御供を要求する猿神を通りすがりの猟師が倒すという、時間と空間をこえてくり返し語られるお話。今昔~では中山神社の祭神はその時たおされた猿神となっておりますものの、社名は「中山」だけに吉備津宮鎮座まします中山なわけで、すなわち美作国が備前国より分立した和銅6年(713)に勧請されたものだろうと(神社境内には明治45年/1912建立の美作創置1200年記念な碑が立っておりました)。そうだとしたら勧請のだいぶ古い例になるわけでス。

「中山」からの神の勧請だとするならば吉備津彦さんかいなというのが素直なところですが、神社の由緒書では鏡作神ということになっております。中国山地は何かと金気のある地域ですから一瞬納得しそうになりますけども、鏡作神といえば奈良は田原本に鎮座する神ですし、唐突になんだろうと思いますネ。ちなみに鳥居前には推定樹齢800年のケヤキがあり、その根元には大国主が祀られるという。そして中山神社の地主神は実はこの大国主で「中山神」にプチ国譲りみたいなことをしたんだそうで。何この「譲るのが属性」みたいな感じw とりあえず、さすがに「祭神は猿神です」てなわけにはいかなかったでしょうが、『延喜式』頭注では大己貴命としていたり、いろいろ錯綜するような事情があったんでしょう。国の分立にしろ勧請にしろ、この辺りの地域にとって大変な出来事だったことをうかがわせますネ。

そんなわけで猿神サマは境内最奥の岩屋の中にひっそりとご鎮座。神社の方にお話をうかがったところ、中山さんのお使いはおサルさんなんだそうです。かつての神は今や新来の神のパシリなんですね、お気の毒。この神社は現在は牛馬の守護神ともなっているとかで、確かに美作牛って聞きますネ。神社脇を流れる鵜ノ羽川の対岸には今も「市場」なる字が残っており、そこではかつて牛の市が立っていたとのこと。岡山とか牛とか言うと俄然聞きたくなるのがクダンの話ですが、聞いたことありませんとつれないお返事でした。


祠の下の小屋には猿守なる赤い布で作ったサルの人形が大量に納められる。


中山神社の狛犬。狛サルに見えますが、と言いますと「否定はしません」とのこと。


分けていただいた猿守。

津山は時間の都合でホンッとに猿神サマだけを見るつもりにしていて、実写版鬼太郎で琵琶牧々やる人だとか花組トップ娘役の桜乃彩音チャンの出身地ぐらいにしか思っていなかったんですが(←ヒドイw)、市街を縦貫していたらカワイイのに出くわしてしまいました。それが、この辺りでは「ごんご」と呼ばれる河童チャンです。津山・鶴山城下を流れる吉井川が湾曲する辺り、現在の作陽高校下付近に「覗き淵」という場所があって、「泳いでる人の足をひっぱるごんごがいる」と言われたんだそうです。

そのいたずら好きのごんごにちなみ、市街地一番の目抜き通りは「ごんご通り」と名づけられ、水木ロードさながらにごんごチャンのブロンズ像が数多立ち並ぶだけでなく、防火水桶にもごんごチャンのイラストが!市内を1時間に1本走る循環バスの名前は「ごんごバス」、テレビ津山は「ごんごネット」、8月には納涼ごんご祭り(ごんごコスチュームで身を飾る踊り連が街中を練り歩く総踊りがあるんですってョ)なるものが行われているなど、とにかくごんご尽くし。やぁ、がんばってマスネ、津山市。急遽ごんご探しの探索にでましたものの、結局どこが「覗き淵」なのか、よくわかりませんですた。

次回は岡山市内へ向かいます。



ごんごブロンズ像。


「覗き淵」は・・・この辺りになるんでしょうか。

3周年のアリガトウ。

2008年05月24日 00時29分45秒 | その他
塵も積もればなんとやら・・・ってなんか毎年言うてますがw

チマチマ続けていた「怪道をゆく(仮)」も、本日で4年目に突入することとなりました。これも常々遊びに来てくれる皆様、そしてコメントを残してくれる皆様がいて下さるから。おかげさまで次を書こうというキモチになりますw 本当にありがとうございます。訪れてくる方が1日100人を超えることもめずらしくなくなってきたのは、単に長く続けたせいで検索に引っかかりやすくなった・・・のとあとは『てのひら』効果でしょうかorz 滅多なことは書けないなぁと、戒めつつも根が適当なのはなおりません。

えー、最近のワタシですが。
毎日楽しみにしていた「人生は二度ない、三度ある」なるステキな名乗りをする「うたう大竜宮城」(CS放送)が終わってしまいました。リゾート開発のせいで崩壊した竜宮城を復活させたい乙姫と人間の姿をした魚介類たちが繰り広げるシュールでユルいミュージカルだったんです。そして、肝心の最終回を見逃したワタシ(泣)。柴くん情報では、乙姫のフルートが皆の心をドライクリーニングして最終的には無事に復活したようなのでまぁめでたしめでたし。別水軒はむかしー♪時代劇役者になりたかーったー♪・・・もちろんなりませんでしたが、中学生の頃、冬営うずまき栄華ムラに役者志望の電話をかけたのは本当です。

時間があるかと思えば急になくなったりという、奇妙な生活を送っています。収入がないわけじゃないですけど、定職にはつきたいもんですネ。ヒツマブシに「妄想就職適性検査」(→コチラ)なるものをやってみた結果、ワタクシにぴったりな就職先は「民明書房」の編集員・ライターだそうな。『中国秘拳満漢全席』とか『世界の怪拳・奇拳』とかなら編集してみたいかもしれない。ちなみにもう一回やってみるとBF団の戦闘員もしくはシズマ技術者・ロボット開発者でした・・・我らがビックファイヤーのために。

先日は大阪は平野区にある長宝寺にて、極楽行きの証印とかいう閻魔さんの印鑑をもらってきました。これでとりあえず、現世はともかく死後は安泰です。

というわけで、これからも西へ東へ彼岸へ此岸へ、巡り歩いていきたいと思います。のんびりしたブログではございますが、今後とも、気が向いたら遊びに来てやってください^^


閻魔さんのハンコ。

怪道vol.96 三日月の円くなるまで岩手県~その陸

2008年05月21日 22時32分58秒 | 怪道
さて。本日は長らく続けていた岩手県シリーズの最終回です。岩手の旅も4日目を迎え・・・いかに疲労が蓄積してきているかがわかるなんともいえないダラダラ感がただよってますので期待しないでくださいネw

午前中は市立博物館に昔話村、城下町資料館に伝承村と展示系を見てまわり・・・もう曲り家にも飽きてきたのでwふるさと村はもうイイヤと、その後はさすらい地蔵、太郎カッパ淵に程洞のコンセイサマ、五百羅漢などを指差し確認的にみてまわったものの、こちらの感度がニブイのか「・・・で?」で終わったので割愛させていただきまス。

遠野盆地のひらけた所で最後にトキメイタのは「サムトの婆」こと、神隠しにあって後に数十年ぶりに戻ってきたお婆さんがあらわれた場所、登戸に立った時でしょうか。土地の人には「ノボトの婆」と呼ばれるこの話は、リアルな怖さが漂う話です(昔話村にて影絵でヴィジュアル化されているのを見て一層怖ろしくなりました)。いつきの某さまにご紹介いただいた菊池照雄『深き遠野の里の物語せよ』(新泉社)によりますと、この神隠しにあった娘さんはお名前までわかっているそうで(どっかのなんとかいうジジみたいですね)、明治初年に行方不明になったのではということらしいです。


遠野市の「サムトの婆」看板近くより集落をのぞむ。背景は高清水山。

最後を飾りますのは、遠野市街地を抜け、猿ヶ石川に沿って西へ下った先にある綾織地区。花巻から遠野に入ると、ここは遠野盆地の入口にあたります。その雅びた地名の由来になったという天人児(テンニンコウ)の織った曼荼羅(拾遺3話)を光明寺さんにて拝見。光明寺さんはこんなものを持ってるだけに曹洞宗なワケですネ。


天女の曼荼羅。

大きさは1m四方程度。全体の撮影を試みましたが、なにぶん額縁に入っているのでガラスに反射したオノレの姿が写り込むw ので一部拡大写真です。曼荼羅というよりペルシャ絨毯のニオイがします。色彩に乏しいのは、この寺が猿ヶ石川の堤防沿いという立地のため洪水で幾度となく流されているうちにこんなふうになってしまったと、お庭の手入れをされていた近くのオバサンが教えてくれました。ちなみに田村将軍の鏃の方は聞くのを忘れておりました(←拾遺10話、よほど疲れていたらしい)。

ここから盛岡の方へぬける遠野街道に沿って少し北へ上がったところに、続石やら泣石といった、弁慶伝説にまつわる石が登場・・・安部だの義経だのが話題になって弁慶がいないはずはないわけで。岩手へ来た初日にも思いましたけれど、この辺りは本当に「石塔の多きこと諸国その比を知らず」、路傍の石塔だけでなく、コンセイサマのようなものもあちこちにある。この巨岩群を見ていると、これら石の文化はやはり、山々にこうして巨岩が転がっているからこそなんだろうなぁと思います。そういえば「婆羅陀魏山神」(北上川上流のとある村な設定)も石碑に刻まれてたっけなぁ同じ文化圏かなぁと謎の思いにふけりつつ、バーバーバラダギバラダギと歌いながら下山。


続石も今や「名勝」。

最後にたどり着いた「千葉家」には、心臓破りの坂というワナが待ち構えていました。続石までの登山を終えた後に(←結構キツイのデスョ)、階段にしてもよいぐらいの急斜面ですョ。えぇ、今さら言いますけどこの旅は最近ますます旅好きパワー全開なもうじき89歳のジジサマと行ったんですけど、さすがのジジサマも絶句な坂に、車椅子にご登場願ったわけです。が。こーんなすさまじい場所に手元ブレーキすらついていない旧式の車椅子しかないしw 旅も最終日の夕暮れ時に、ジジサマのためならエーンヤコーラと登りつめた時には、400mダッシュした後ぐらい酸欠&メマイ&息切れw

なんでも県下最大の曲り家だそうです。敷地800坪。高台にあるために写真で観るより相当えげつないデカさです。そしてそれだけの坂をのぼった先だけに見晴らしは絶景です。が。江戸時代後期、豪農・千葉家が飢饉に貧した村を救うための公共事業として作った家と聞いたら、なんだか興ざめしましてねぇ。なんせこの自己顕示欲満タンコな立地・・・オレサマぶぃぶぃに造りましたと言うてくれたほうが気持ちいいですよね。「遠野物語」54話に出てくる、淵に住む娘の話があるでしょう。自分がここにいることはどうか言わないでくれと頼む娘と、対して「家の主人は何と思ひしにや、その淵に何荷とも無く熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効も無かりしとのことなり」な最後のトドメがもぅたまらなくイイ話(゜∀゜)。ここにいると、その長者を無性に思い出させました。・・・まだ住んでる人がいらっしゃるのであんまり言うのはやめておきますがw


千葉家住宅。映画・ドラマのロケ地にもなってます(←それで行ったらしい)。

終着地は高清水山の頂上です。最後に遠野の町を一望しておこうと、ドライヴしてきました。見れば見るほど何の変哲もない町ですが、この町で語られたというだけで意味を持った物語がどれほどあったことか。しかしそれらムカシムカシという物語は、かつて日本のどこでも持っていたものだった。そのことを忘れさせずにいてくれる、遠野とはそういう町なのでしょう。

えー、菊池照雄さんには及びもつきませんものの、「柳田の『遠野物語』」を、ワタクシなりにワタクシの歩いた遠野という実在の町にひきずりおろそうと格闘してみた後半3回でした。3泊4日の岩手県滞在。三日月が円くなるほどいたわけではございませんが、ココロは十分に円くなったということで。

どんとはれ。


高清水山より、遠野盆地を見下ろす。

怪道vol.95 三日月の円くなるまで岩手県~その伍

2008年05月18日 03時14分39秒 | 怪道
さて、カッパ淵です。
赤いお顔のカッパちゃンを求めて、行って参りましたカッパ淵へ。すごいですョ、カッパ淵はいまや「名勝」なんですって。



【名勝 めいしょう】
1.景色の良い土地のこと。名勝地ともいう。
2.日本における文化財の種類のひとつで、芸術上または観賞上価値が高い土地について、日本国および地方公共団体が指定を行ったもの。(Wikiより)

文化財保護法109条によれば「記念物のうち重要なものを史跡、名勝又は天然記念物に指定すること」ができるんですが、おそらくカッパ淵は「山岳その他の名勝地で我が国にとって芸術上又は観賞上価値の高いもの並びに動物(生息地、繁殖地及び渡来地を含む)」(同法第2条)が「記念物」として該当するとみなされたと。そう思うと楽しいのでそういうことにしておきましょう。

遠野でのカッパ伝説は豊富で、この地域のカッパの特徴はその顔が赤いことが挙げられますが、大塚英志の『くまはち』などでもとりあげられた松崎村のもの(「遠野物語」55話)や、小烏瀬川姥子淵のカッパ駒引き話のような全国的に分布の見られるもの(58話)を始め様々です。上記の「名勝」として指定されているカッパ淵は土淵町土淵の、常堅寺裏を流れる蓮池川にあります。

そう、「名勝 カッパ淵」は蓮池川のカッパ淵なんスよッ。このカッパ淵、ガイドブックだの旅行記事だのに決まって「遠野物語の舞台となったカッパ淵」とありますが、この蓮池川のカッパの話は遠野物語には出てきませんし、ましてや58話の小烏瀬川姥子淵でもありません・・・というのも、はずかしながらこのアテクシも、来るまではここが姥子淵なんだと思ってましたからw 小烏瀬川は猿ヶ石川の支流でこの蓮池川が流れ込む川。ここからもう少し北西を流れており、姥子淵はそのさらに上流の方にあるようで。ひどいなァと苦笑いです。ちなみに泊まってたホテルで語り部さんがカッパの話をしてくれたんですが、58話の姥子淵カッパ淵は「名勝カッパ淵」の話ということになってました。こうして昔話は書き換えられるんですナァ。

さて、この「名勝 カッパ淵」のカッパ淵は通称「阿倍屋敷のカッパ淵」とか言われているもので、その辺にいたオッチャンに聞いたところ大筋は姥子淵の話と同様なんですが、祠をたてて祀ってやるからもういたずらはするな、と約束をして放した、という終わり方なんだそうです。遠野物語には掲載がないにもかかわらずこのカッパ淵が遠野を代表するものとなったのは・・・立地の良さと、やはり、カッパじぃちゃんこと阿部与市サンの息の長い目撃話で有名になったことによるものなんでしょうか。

ちなみにカッパ淵をはさんで常堅寺の対岸に「阿部屋敷跡」と言われる場所があります。字は違えど「阿倍」とは前回にお話した安倍貞任のアベで、マァその一族が住んでたらしいッス。屋敷と名の付く家に住みかつ馬の世話をする人間を別に雇うような家ですから、土地柄そんな家が「阿部」を名乗るのはありえる話です。そしてさらにありがちにも義経が逃亡中に寄ったらしいデス←お話好きの土地がほっておくわけがないネタw カッパ淵にたたずむカッパの祠より一段高いところに稲荷社があったんですが、さしずめ阿部屋敷の屋敷神だったのかな、というところ。去年の10月頃から講談社が出してる「日本妖怪大百科」創刊号の見開き1ページ目を飾った謎のオブジェ群があるのも、この阿部屋敷の裏手デス。


「阿部屋敷のカッパ淵」とカッパ祠。中にカッパじいちゃんの写真が飾ってあった(4年前にお亡くなりになったそうで)。


「当分の間水路工事のためカッパ淵には水が少ししか流れていません」・・・カッパも大変ですナァ。

国道340号線を市街地に戻る途中、八幡山(遠野盆地の東側にぴょこんと張り出している山)の麓に「キツネの関所」なる看板を見つけ、立ち寄ることに。この「キツネの関所」は遠野では町外れによくあると言われるもので、遠野物語にもキツネにだまされた村人の微笑ましいエピソードがいくつか残っております。町はずれということはすぐ近くに集落があったと言うことデスヨネ~とウロウロしていると、国道から山の北麓に入っていく道に「倭文神社」の案内板を発見。なんでも慶長年間以降、修験道の寺院として修行道場となっていたが、明治に「倭文神社」と改めた云々とある。それはオモシロそうだワ、とフラフラと集落に入っていくと。

この集落、「五日市」だったんです。で、どうやらこの現・倭文神社、「遠野物語」110話に出てくる、「新張のゴンゲサマ」と争って耳をとった「五日市のゴンゲサマ」らしい。そしてこのゴンゲサマに負けた「新張の八幡社の神楽組のゴンゲサマ」というのが、八幡山の南麓にある遠野郷八幡宮のゴンゲサマ。つまり340号線沿いのキツネの関所は、五日市と新張のちょうど村境に位置するというわけですね。なぁるほど・・・ってなにがwな感じですが、妙に納得してしまったワタシ。

修験の道場だった頃は文殊菩薩を本尊としていたようで、拝殿には今も「文殊社」の額がかかっています・・・「堂」じゃなくて「社」なところがまたイイですね。ご一新で倭文神社に改められたのはもちろん神仏分離の嵐がここにも吹き荒れたからでしょうが、社名のチョイスはオシラサマが語られるような養蚕文化地帯ならではと思っていいのかしら。ただし倭文神社といいつつ祭神は建葉槌命ではなく天照皇大神・瀬織津姫命・下照姫命。これはググってみたところ早池峰神社系の神サンなんだとか。名前だけ持ってきたのかナァ。

というわけで、遠野1日目はこんなふうに過ごしましたとサ。



倭文神社。


倭文神社の狛犬。ラヴリー


五日市と八幡の境にあるキツネの関所。


ようやく見つけた赤い河童。郷土人形・附母牛人形のカッパチャンは赤かった。

怪道vol.94 八雲立つ出雲八重垣 人ごみに

2008年05月16日 22時59分54秒 | 怪道
遠野のお散歩記はもうちょっと続きますが、ひとまず1回お休みして、本日は先だって無謀にも日帰りで行ってきた島根県は出雲大社の、緊急レポを先にしておくことにしマシタ。

出雲大社がただいま59年ぶりに本殿を特別公開されています。平成25年(2013)完成予定のいわゆる「平成の大遷宮」、すなわち本殿が改築されるにあたって、その間、普段は拝殿として使用中の建物(あの巨大なシメナワがかかっているトコです)に神サンがお移りアソバしてるために空家になりますから解体する前にドウゾというわけです。某家族の夏合宿を兼ねて見学に行きますかーとの話が上がってから、下見に行くには少々遠いしどうするかな、と逡巡していましたところ、ナイスタイミングに知人が車で行くというのを小耳に挟み、便乗させていただいてきました。出雲まで片道約5時間。ギリギリ日帰りできない距離でもないんですナ。

昼前には無事出雲市に入り、ひとまず拝観前に軽くお勉強しておこうと昨年オープンしたばかりの古代出雲歴史博物館へ到着すると。驚いたことに駐車場が満車・・・その上駐車場にたどりつく前に数百メートルの車の列。今日は平日ではなかったかしら、といぶかしむほどの人人人。まさか、これ全部出雲大社に行く人なのか?と生唾を飲むほどで。結局ずいぶん離れた「みせん広場」なるところに(ここも満車だったんですけど)なんとかムリヤリ駐車。

で、出雲博物館ですが。平成12年の出雲大社八足門前で発掘調査時に出た宝治2年(1248)造営時のものと考えられる宇豆柱が、いきなり入口ホールにでぇんとおいてあるのにはちょっとビックリw そしてまたもっとオドロイタことにですね。稲吉角田遺跡から出た船とか高床建物の線刻がある土器があるぅ、とか青木遺跡の神像だぁとかウキウキ見ていたらですね。なんと。


加門七海サンに遭遇ー。


ドッヒャー@∀@;;といろんな意味で←な顔になりましたが、ご観覧中に声をかけては失礼だしな、しかし声をかけてどうするんだろう、がんばってくださいもナイしな。と冷静になるうちにマァいいやと思った頃には姿が見えなくなってました。こんな折ですからいらっしゃっていても何の不思議もありませんしね。うぅん、この日イチバンのサプライズだったゼ。

何はともあれ、敷地面積のわりにおそろしいほどの内容の密度の高さ・史料の膨大さに、これはのんびり見ていては日が暮れてしまうと判断し、途中からナガシ見学に切り替え、特別展はパスして本日メインの本殿拝観へ向かうと。

・・・博物館拝観前のイヤな予感が的中。どこの遊園地のアトラクション待ちやネン(゜ロ゜)と絶叫したくなるほどの、これまた人、人、人の長蛇の列。出雲大社萌えなヒトが世の中にこんなにいたとは、イヤハヤ全く思いもよりませんですた。結局、1時過ぎぐらいに並び始めて、八足門前の拝観受付にたどりついたのが3時過ぎというありえない待ち時間。某家族の皆サン、これはアタマに入れておいてくださいね。
↓↓↓受付までの道、図解。


鳥居前辺りで振り返り撮影。最後尾が見えない。

2時間ひたすら並んでいても、見れるとは限らないんですよ。それが、「失礼のない服装で拝観下さい(襟・袖付シャツ、長ズボン、スカート、和装、靴等)※Tシャツ、ジーンズ、ジャージ、短パン、短いスカート、作業着、サンダル、ミュール等は不可」なる、服装検査です。

そもそもワタシは、デカイ神社であればあるほどコッソリおちょくりたくなるという不遜な人間であることは、身近にいらっしゃる方はご存知のとおり。しかし服装というのは便利なもので、そんなことを思っていようが表向きは整えておくとフリーパスなんです。が、逆に人並みに神サンを大事にしていても、デニムのニオイを漂わせただけで2時間並んでも「お帰り下さい」なワケですよ・・・出雲大社テラヒドスw 辺鄙な立地にも関わらずわざわざ来てるだけでもそれなりの思いがあるわけでしょうし、たまたま知らなかっただけかもしれない。神サンはマツられてナンボ、よってマツル際の作法に口うるさくなるのは仕方ありませんけども・・・もうちょっと融通利かせてあげたところでバチはあたらんのではないですかナァ、なんせ祭神はマツってくれさえしたら国をも譲っちゃうそこそこ寛容な方・・・あ、だからマツリ方にウルサイのかw

というわけで某家族の皆さん。当日はデニム禁止です。でもデニムでさえなければどんなハデハデな柄パンでもいいみたいなのでw、ここはイッちょ限界に挑戦してみるのもおもしろいかもしれませんウフフ。それから男性陣は襟の着いた服が必要(女性は襟なしでもなぜかパス)。Tシャツでも見えないように上から襟付きを羽織ったらOKみたいです(丸クビシャツで止められた男性が、隣にいたオバチャンに急遽女物襟付きヨレヨレシャツを借りてクリアしてた)。あとは2時間待ちというのが最大のネックですが、受付は9時開始で8時半頃から鳥居の辺りまで列ができているとのこと。8月ですから、気温を考慮して早朝狙いで行くしかないでしょう。

で、本殿はどうだったかと言うと。現在の本殿は延享元年(1744)建立。かつて16丈(48m)あったという本殿は、それでも今は約24mあるんですが、あの3本組の宇豆柱を見たあとではちょっくら貧弱に見えました。15段の木階をヨィコラセとのぼり、縁をぐるりと一周してから、ようやく内部見学。本殿の正面は中央の宇豆柱をはさんで右側が御扉、左側が蔀戸になっており、その前面が開放されて中をのぞかせてクダサイマス。広さは60畳、板の間ではなく、畳敷き。


平面図(「特別拝観のしおり」より)。

内部公開の最大のウリはやはり鏡天井にある「御本殿天井八雲之図」←八雲といいながら実は七雲、という謎の絵。造営遷宮時に描かれているわけですから延享当時のものなわけで、実に鮮やかな色彩でした。マァ光が当たらなかったら色はもちますからネ。とはいえすすけた外側とは大違いで、内側はポッカリと違う空気が漂っている感じです。それにしても神官さんがあまりにダイコクさまダイコクさまと解説するので、御神座には福々しぃ耳で布袋をかついだアレがちょーんと座っているかのような妄想を抱いたですョ。

境内をブラついていると紋入りの白ハカマな初老の方が杖を片手に悠々と歩いてらしゃるのを見かけました。紋入り白ハカマなんて最高位の神官だけが身につけることを許されたものデス、広い日本にも数えるほどしかいないワケで、この人がかの千家国造の末裔か!!と(出雲大社の宮司・千家家は当代で84代を数え、天皇家に次ぐ血統の長さを誇ると言われてます)。テンション上がりました←とりあえずミーハー。

本殿以外にも確認したい場所は十の指には納まらぬとこではありましたが、立場上マニァなわがままは言えない&なんだかんだで朝5時にパン1枚食ったきりで昼飯食いっぱぐれたまま2時間待ちの本殿拝観を経て心身ともにもうヘロヘロで。

やはり、日帰りで行くにはもったいなさすぎる・・・としみじみ思った一日でした。


大社本殿と、背後の八雲山。この高さまであったっていうんだからやはりスゴイですヨネ。


DoCoMoのヒト、出雲では快適に使用できます。


ヤマタイカッ(伯耆富士・大山)・・・の下見まではさすがムリでした。