怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

今年もお世話になりました

2009年12月31日 22時20分30秒 | その他
ご無沙汰しております、別水軒です。

最近うちのアニがバイオリンを習い始めはりまして。音をだすことがまずはじめの難関となるその楽器と格闘し、なんとかかんとか出はじめた音で弾いてくれるのが、「メリーさんの羊」。E線、A線上の計4音で曲が成立する、習いたてのヒトの多くが通る曲なんだそうであります。このメリーさんが、何ともイイのであります。音のへろへろ具合を文字で表現するならば・・・へ~りはんの、ひぃ~つ~ひぃ~♪てなところでしょぉか。まさに、極上の脱力感。我がケータイの着メロにしたい欲望にとりつかれるほどです。今しか聞けないアニのメリーさんに耳を傾ける、そんな年の暮れを過ごしております。



今年も、残すところあと2時間を切ってしまいましたですね。この一年、いろんなことがありましたけども、何より大きかったのはやはり、ウチのジジサマのことでしょうか。

今月12・13日と山口県は下関を旅した3日後、ジジサマが脳梗塞で倒れました。幸い命はとりとめましたが、左半身に大きな麻痺が残ることとなってしまいました。けれども一昨日には無事リハビリ専門病院に転院がかない、一時は言葉もおぼつかなかったのが、今ではずいぶん長い文章も話せるようになりますた。装具をつけながらも歩く練習がはじまり(言うてもまだ独りでは立てないのだけどw)、療法士さん達を驚かせる回復を見せております。退院したら温泉行きたいだの、前からの約束だった八丈島に行きたいだの、気持ちだけはすっかり回復・・・さすがジジサマ、やはりスーパー90歳ですw

とはいえ。これから数ヶ月にわたるリハビリ訓練の日々が待っており、それは生涯つづくことでしょう。これまでのように独り暮らしな生活に戻れるかどうかはわかりません。アテクシも気楽な毎日を過ごしているわけには行かなくなったのもまた事実。別水軒のオベンキョの重要な部分を支えてくださっていたジジサマ。これからは別水軒ひとりでやっていかなくちゃなりません。

今はまだ、進むことも難しいけれど後戻りすることもできない場所で、ぼんやり立ち止まっているような感じですが。そのくせやりたいことだけは湯水のように湧いて出てくるから、我ながら困ったヒトだなぁと思う次第でありますw この辺はしっかりジジサマの孫なのであるなぁw


てなわけで、半月ほどずぅとバタバタしておりましたもんで「播磨・因幡の隠れ里」後編その他、たくさんのことを書き残した一年となってしまいました、どうもスイマセンw 年明けにはかならず書きます、えぇ絶対にw


今年もたくさんの方に、たくさんの気遣いと、支えをいただきました。ほんとにほんとに、ありがとうございました。
来年も、ぼちぼち愉快に生きていけたらよいなぁと。思う次第であります。

よいお年を(^v^)ノシ


*BGM* Bright Side of Life

怪道vol.146 神人に逢わんと欲すれば~其ノ二

2009年12月10日 00時34分26秒 | 怪道
てなわけで。またしても神人に逢わんと欲しました別水軒が参りましたる次な蓬莱仙境はズバリ、丹後半島であります。羽衣伝説や浦嶋子伝説が語られるかの半島は伝説の宝庫とも称される地。そんな丹後の徐福漂着伝説の地とは、舟屋で知られる伊根町をさらに北へ数キロ行った、新井(ニイ)の集落。日本海側をオモテとするかつてのこの国の対外意識から考えると、その最奥の地とも言える新宮とは違い、こちらはまさにオモテの玄関口。その新井の集落から少し離れたミサキ・新井崎にかの方士がたどりつき、やがてムラ長となって人々を導きその死後は新井崎神社に祀られたといいます。

神社のご利益は、病気、特に「はしか」のカミサンとして近在の信仰の集めているようで、直接的な解説はないですけどもなんとなく仙薬を求めた徐福との接点が臭う感はあります。神社前の海岸は徐福が漂着した地であるぞとの事前情報をゲトし、看板に導かれるままにたどりついたそこは、沖にいわゆる冠島と沓島の二島をのぞむ絶景の地。ほほぅこげなところに徐福さんがのぅと海岸を見下ろしたらば。


ざっぱーん。

・・・(°Д°)。えぇ、まともな人間ならばおよそ上陸しようとは考えもせぬであろう岩場&断崖絶壁。写真左奥に屹立する岩がいわゆる「ハコ岩」と呼ばれる徐福上陸の地なんだそうでありますが。新井は古くからの漁村ですからね、経験上ヒトが漂着できるような場所でないことは誰よりもわかっているはず。となればここに降り立ったのはヒトではなくカミであろうと推察されますわけでw 現在確認できている新井の徐福伝承についての最古の記録は『丹哥府志』(宝暦13年/1763~、小林玄章他)であります。それによるとこの新井崎神社はかつて「童男童女宮」と呼ばれ、土地の人々は訛って「トウナンカジョクウ」と称していたといいます。賢明なる皆様は徐福が随行した数千の童男童女を想起されたかと思いますがしばし待たれぃ、ここではまず、新井崎神社の祭神が男女の対のカミさんであろうことを見てをきませふ。

注目すべきは、やはり神社の正面沖に浮かぶ二つの島。現在は冠島と沓島なんてあからさまに尸解仙を意識した名称なんですけども、「丹後風土記」残欠によればこの島、「常世島」と号し、また俗に「男島女島と称」したという。『丹哥府志』の著者は神社が「村より離れて四五丁ばかりも山を下りて新井崎の恐ろしき処」にあり、その立地が尋常でないとの指摘をしてイマス。それは当社が二つの島への信仰に発する社だったからじゃないかと。そしてハコ岩てのは男島・女島のカミが降り立つ場所だったんじゃないかてな気がするのでアリマス。

この伝承がいかに徐福伝説と接点を持ったかまでは今のところ確かなことはわかりません。ですが、『丹哥府志』で「童男童女宮」と呼ばれていたことから、元は徐福自身ではなく、まずは徐福が率いていたという「童男童女」が漂着したという伝説と付会したと思うております。この手の徐福伝説は実は八丈島等にもありますからねぇ。なんせ「童男童女」は数千人も船出しておりますもの、そのうちの二人が来たんでぃとはなんて語りやすいお話カシラ。 

 
海に向かって立つ新井崎神社(左)と、神社の正面沖に浮かぶ二島。右が冠、左が沓デス。

世の中というもの、元の形もさることながら変化の仕方にオモチロサがあるものですけども、その後の新井崎大明神の伝説の展開がなかなか興味深いのデス。新井崎神社の周辺をうろついておりましたところ、丹後徐福会会長の蓬莱庵さん宅を発見、ずぅずぅしくも上がりこんでお話を聞いて参りやしたんでアリマスョ。

お見せいただいたのは新井崎神社に伝わる「新大明神口碑記」なる文書。集落にある玉林寺(曹洞宗)の僧が安政6年(1859)、土地に伝わる口碑を書きとめたものらしい。これがまた実に奇妙というかユカイな史料なのであります。そのあらすじは、①「澄江里」の新大明神は秦始皇の奉侍の童男童女である。②竜宮城と同所という澄江里にて仙薬を採ってこいとの勅命を受け海を渡ってきた「童男寡女」が漂着、③たどり着いた男女はここは竜宮ではない、仙薬がなければ秦には帰れないと嘆くも④自らの漂着地に蓬莱を見、燕居する。・・・ここら辺からはアテクシにはイマイチ解読しきらんのですけどもw、⑤二人は竜宮に行ったかしてその有り様を一通り語ったところで、⑥俄かに我らは祇園内神であるスサノヲを生んだイザナギ・イザナミなるぞ、というて終わるのですな。うぅむ、意味がわからん。

「澄江里」と言えば浦嶋子伝説で登場する地名で、丹後の浦島伝説で有名な宇良神社は新井から直線距離にして6キロと離れていないご近所さん。この地名が持ち出されたのは、なんでも蓬莱庵さんによりますと、言い伝えを書き取ったという玉林寺僧は『浦嶋子伝』の写本を書いている人物らしく、その辺りに答えがありそうです。こやつはなかなかに漢籍の知識が豊富で、史記から論語から抱朴子からいろんな引用をしておる。結果、バカに漢籍の知識マミレの複雑な漢文体になってをり、当然ながらに口碑そのままであるはずもなく、コヤツが伝承を相当にいじくった可能性は否めません。徐福の名が出てこないのは、彼ほどの知識人となればおそらく他地域における徐福漂着伝説を知っていたんじゃないですかね。

面白いのは冒頭で新大明神は始皇帝奉侍の童男童女と言っておきながら、祇園内神・スサノヲを産んだイザナギ・イザナミであるとの語りであります。こんなカタリは当然『丹哥府志』の頃には見られません。このスサノヲとの関わりを示す部分は、新井崎神社は「はしか」平癒に利益がある神社とされることに関わるものだと思うのですね。なんでもちょうど江戸末期、この口碑記が書かれる少し前に、新井で46名にのぼる死者をだすほどの疫病が流行したらしい。蓬莱庵さん曰く、新井崎神社は長徳4年(998)の創建と伝わるようですが、長徳年間と言ったら疫病が猛威を振るった時期ではなかったかなぁと思うわけで。神社創建期もこの江戸末期の記憶から遡及して創作された可能性もなきにしもあらず。

さらにもう一つ、この新井崎神社にはトンデモな祭神が語られていたことがあったのですよw。蓬莱庵さんにご教授いただいた神社の縁起に見えるもので、この縁起、途中で失われているために残念ながら年代は不明です。それによると、秦始皇帝の命を受けて徐福が新井に漂着、そこで九節の菖蒲と蓬を手に入れたがそこで餓死←をいw そこで徐福が懐に抱いていた秦始皇帝とその妃の像を神として祀ったと。だから新井大明神の祭神は秦始皇帝とその妃なんだそうですわはははは。新井は日本海側に面する地域です、実際のところ遭難した唐人が漂着することがままあったのでしょうが、ここまで来るともう、常世の島はどこへやら、デアリマス(但しこの文書、当社に共に一尺前後の男女の座神像が祀られることを記すのは貴重)。

蓬莱庵さんが子どもの頃(多分昭和初年)、新井崎大明神はすでに徐福さんの神社と呼ばれていたそうです。イザナギだの始皇帝だのと言われても、それでもなお徐福へと帰着したのは、浦嶋子伝説に見られるようなこの地域に根強くある常世の国への憧れに、江戸末期に猛威をふるった疫病の嵐が加わって、その信仰が不老不死の仙薬を求めた徐福というキャラと見事に一体化したのかもしれませんな。

てなわけで。蓬莱庵さんとこでのんびりしているうちにえらく時間が経ってしまい、肝心の浦嶋神社にいけなかったのはヒミツですw 貴重なお話をしてくださったあげく、お土産まで持たせてくださった蓬莱庵サマには、感謝感激アメアラレなのでありました。

 
「蓬莱の里」コチラ、の看板(左)。右は新井崎神社から海側へ少し降りたところにたつ「徐福漂着の地」碑。