怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪日記vol.73 ある官人の一生

2006年07月30日 23時59分22秒 | 怪日記
平篤行(たいらのあつゆき) 
従五位上興我王次男、母□□□、寛平五年補文章生〈春天凄風、字平津、〉、年月秀才〈論侍息用禎祥、〉、昌泰元年二月廿三日任大和大掾、同年任伊勢権少掾、三月対策及第、廿九日判、二年正月十一日任式部少丞、延喜二年二月廿三日転大丞、三年正月七日叙従五位下、同日任参河守、七年得替、八年正月叙従五位上〈給国〉、十二日任加賀守、二月廿三日遷筑前守、九年九月廿九日兼少弐、十年正月卒、 (「古今和歌集目録」庶人の項より)

平安時代において、ある人物の業績を調べようということになると、まず『平安時代史事典』を見ます。掲載されていなければ、もしその方が公卿になっておられれば『公卿補任』を、公卿でなければ『尊卑文脈』を見て、生没年や極官を知る、ということになります。そしてまたそこで得た没年月日から、その日の『大日本史料』の記事を見れば、その某さんの事績に関する記事が一挙に入手できるという可能性もあります(事典に載っていてなおかつ卒日がわかっていれば途中経過が一挙に省けて、しかも卒伝があればずいぶんラクチンだったりする)。

こういった官歴記事というのは、これまでの自分の経験ではさほどじっくり眺めるということはありませんでした。特に彼のように、パッと見、特筆するような業績、逸話もないような中級官人でしたら、ふぅん、と一読して、なんとなくの確認程度で済ませてしまうのが普通でした。が、先日、『政事要略』の研究会にて自分の発表でこの方について触れた際に、いつきのおじいちゃんやKR老師にご指摘いただきまして、きちんと読めば相当におもしろいということをあらためて知りました。

平篤行。冒頭の記事を見る限り、格別どうということもない一官人の事績ですが、この方が数行ではあるものの『平安時代史事典』に掲載されていたのは、彼が百人一首にも載る「忍ぶれど色に出りけり我が恋は」で有名な三十六歌仙の一人・平兼盛のお父さんに当たる方だったからなのですが。

記事冒頭に「興我王次男」とあるように、また篤行自身もかつては「篤行王」であったように、もとは光孝天皇につながる王氏であったようです。王氏が臣籍に降下する際は天皇の直接の子であれば確実に「源」氏を賜姓されましたが、3世以上離れるとほぼ「平」氏であったらしく(岡野友彦『源氏と日本国王』)、篤行は光孝の4世孫であったことから「平」を賜ったと考えられます。

篤行さん、相当優秀な方だったようです。「寛平五年(893)補文章生」、「年月秀才」とありますが、400名近い大学生のうち試験を通過しなおかつ師事した先生から推薦をうけてたった20名の定員で選ばれるのが「文章生」、その中でさらに優秀な2名のみが選ばれるのが「秀才」こと「文章得業生」なんですね。「秀才」になった年月は不明ですが、続く昌泰元年(898)、「三月対策及第、廿九日判」とあります。この間5年。「対策」は朝廷による官吏登用試験の最高ランクのものなんですが、それに一発合格してるというのもなかなかすごいことです。「対策(またの名を方略試)」は1回落とされるのはしばしばで、場合によっては数年後にようやく「合格」をもらえる、などということもままあるわけです。おのれの才覚で身を立てる自信があったのでしょう、「平」の賜姓はおそらくこの間ではないか、ということでした。

対策を受けるまでに「大和大掾(じょう)」、「伊勢権少掾」を歴任しておりますが(国司の「掾」は「守かみ」→「介すけ」→「掾じょう」→「主典さかん」の順で等級に分かれている3番目の官職で、「主典」が起草した文案を審査したりする実務系の人)、中央から程近い地方をまわってちょっと経験を積んで来い、というのは、現在でもキャリア組の方々がよくやらはることですね。

最高ランクの「対策」に合格した翌年からは、いよいよ文筆で身を立てる官人として、中央の官職である「式部少丞」、すなわち式部省の「丞(じょう)」となります。式部省は大学出身の儒者が在籍する官庁で、叙位・任官の名簿を作成するなどの文官の人事一般を職掌とする、いわば風紀委員のようなお仕事をする役所になります(ちなみに「大学」も式部省の管轄)。「じょう」ですから先ほどと同様、実務系の官人ですね。「延喜二年(902)二月廿三日転大丞、三年正月七日叙従五位下」とありますから、そこでじわじわと官位を進めていってらっしゃる様子がわかります。

延喜3年(903)以降、参河守、加賀守(延喜7年)、筑前守(同)、と地方の国司を歴任していらっしゃいますが、この頃はちょうど延喜荘園整理令が行われていた時期にあたり、この任官の様子は篤行さんがその最前線でご活躍されていたことをうかがわせるものとなります。延喜9年、「兼少弐」とあるのは「大宰府」の役人を兼職したことを表します。大宰府はご存知のように現在でいう九州地方の内政を管轄した行政機関で、「少弐」は現地では実務にあたった官人ですから、大宰府が民間商人の対外貿易の管理などもしていたことからけっこううまい汁が吸える役職でもあったわけで、ずいぶんお儲けになったことが察せられるようです。

さて、この篤行さん。実はかの菅原道真の門人であった方でもありました。そのことがわかるのは、『本朝文粋』(平安中期にできた優れた漢詩や散文を載せる文集)などにも掲載される三善清行(847~918。意見封事十二か条を提出し、一条戻り橋で息子の浄蔵さんに生き返らせてもらった逸話などで有名)が、菅原道真左遷直後に時の左大臣・藤原時平へ宛てたお手紙に、篤行は道真の弟子やけども優秀なヤツですから左遷リストには載せんでちょうだい、ということを書いてらっしゃるからです。

道真が左遷された昌泰3年正月25日以降の篤行の事績を見る限り、この時に道真の左遷に連座した事実はないようです。ただし、文章得業生を経て対策に一発合格をしているような優秀な人物であったことを考慮するならば、その後の官歴として、彼は華やかな道を歩いたといえるのかどうか。道真の弟子であったということが彼のその後の人生に与えた影響はどれほどのものだったのか。そしてその彼が、たぐい稀な和歌の才能を持つ息子・兼盛に対し、どのような思いをかけるにいたったのか。「オマエ、宮仕えはやめとけよ」と言うていたやも知れず、その薫陶をえた兼盛が後世に名を残す歌人になったとも想像できるわけです(兼盛のあの歌はオヤジが大宰府で儲けた金で勉強してできた歌や、と思うたらそれはちょっとおもしろいわけですが)。

一見似たような漢字の羅列で丁寧に読むのが疲れがちな官歴記事ですが、一人の人間の人生がそこに垣間見えるのだなぁと、どんな記事であろうとあたらおろそかにしてはならぬと、あらためて感じ入ったのでした。

怪でもなんでもないですけど、ハイ、ちょっと感動したもので、スミマセン。


というわけで、その日にじぃちゃんから東京みやげに「件ちゃん」フィギュアをいただいたり、その後モメちんにさらにもらったりでこんなことになってます。


・『公卿補任』・・・神武天皇から明治元年に至る、「参議と三位以上の非参議」以上の「公卿」の氏名と官歴を年毎に記録した職員録。
・『尊卑文脈』・・・南北朝期に洞院公定によって編纂された諸氏家系図。系図の中ではわりと信頼できるもの。
・『大日本史料』・・・東京大学史料編纂所編の日本史の基本史料集で、六国史の後を受けて仁和3年(887)から年月日順に史料の要項を抽出・掲載する。未刊行・未着手の時代は、多くの研究者が「はよ刊行してくれへんかなぁ・・・」と思っています、ほんまに。大変やろけど、がんばってよ、マジで。

怪道vol.41 吉野へ再びGo!Go!レポート 其の1

2006年07月27日 17時15分36秒 | 怪道
畝傍山口神社(祭神:神功皇后)で行われる夏祭・デンソソ祭の水汲み神事を見学しにケゥちゃんと遠足してきました。一般には非公開の神事であるところを町の教育委員会の方にツテがあったもので、こっそり招待していただけたわけです。水汲み神事については、3月に吉野へ言った際、畝傍山口神社の夏祭りに供える水は吉野の土田(ツッタ)のケヤキの下で水を汲むことを知ったのがはじまりです。

祭を行われる井出さん宅から程近い山手にある妙見宮境内に遷された住吉神社へ、神事に参加する人全員で参拝することからはじまります。この住吉神社、もとはケヤキの木の下に祭られていたものが、近鉄電車の敷設に伴い遷されたもの。妙見宮脇に住吉神社を真ん中にして向かって左に稲荷社、右に弁才天があり、神事では真ん中の住吉神社の祠のみ扉を開けて行われました。山口神社の神職さんによって場が祓われ、祝詞が上げられ、参列者が祓われた後、参列者が一人一人玉串を奉じて終了(『大淀町史』によりますと、7月26日は住吉神社の祭日でもあったようで、昔は区長さんがお参りをし、青年たちによって御輿が出されたようですが、そちらは今はやられていないようでした)。

続いて、吉野川の河原へ。川の中に笹を2本立て、その間にシメナワを渡した元に、水汲み用の一升瓶が据えられました(一升瓶には榊と幣が結び付けられてある)。祝詞があげられた後、神職さんが川に直接一升瓶を沈めつつ汲もうとされたんですが、前かがみになるのがおつらそうな上に装束が濡れないように気を使ったりされないといけなくてどうもうまくいかない。で、結局、井出さんが「ワシがやったるワ」ということで、ちゃっちゃと汲んでしまわれました。いいですね、こういう融通の利いたお祭、大好きです(笑)。神事はそれで終わりと言うことで、大量の蚊に食われながら、直会をする井出さん宅にもどりました。

神事が行われたという記録は実はさほど古くはさかのぼれないようです。確実にさかのぼれるのは江戸時代以降のようですね。この場所で水が汲まれることの意味を「吉野川で最も流れが速く水が清らかだったため」とされておりますが(『大和の神々』奈良新聞社編)、この辺りはその昔、「ケヤキウラ」「ケヤキガフチ」などとも呼ばれていたようで、必ずしもそうとは限らず、むしろ「ウラ」などの名が示すように、船着場的なものがあったのではないか、とノラノネコさんはおっしゃいます。木の根元には住吉神社が祭られていたわけですから、それは想像しうることですね。

ケヤキの木は、大和においては王宮や市の傍らに植えられていた(というかケヤキの麓に市や王宮を営んだ)ように古くから聖樹とされていたものではあったようです(辰巳和弘「聖樹と王宮」『大美和』111号)。妙見宮の付近の一帯からは弥生時代から連綿と続く遺跡が出ているそうで、人によってはここを吉野の郡衙があったのではないかと推定される研究者もいるようです。「考古学をやっているものとしては、このケヤキとどうしても結び付けたくなるんだけどね」と、神事に招待してくださったノラノネコさんは苦笑いしておられました(笑)。ちなみに、ケヤキは奈良教育大の方が測定されたところによると樹齢約670年前後なんだとか。

井出さん宅は近鉄電車の線路をはさんだケヤキの麓にあり、表は吉野へぬける街道筋に開いております。昔は旅籠をされていたお宅だそうで、その昔「ハリマサマ」と呼ばれた山口神社からの神職さんをはじめとする水汲みご一向様が泊まったのもこのお宅。水汲みの一向はケヤキを目印にこの地へやってきて、ここで泊まり、ふもとの川原で水を汲んで帰ったのではないかな、というのがノラノネコさんの推定。

現在、こちらに水汲みにやってこられるのは前の神職さんの娘さん。いろいろお話をうかがったところによりますと、汲んで帰った水は「おむねデンソソ」のお祭の祭壇の中央に置かれて祀られるんだそうです。現在は衛生面でいろいろと問題が出てしまったものの、昔は供えた水を神事が終わった後に参列者の皆さんで飲んだとのこと。他の一般的な神社で行われる神事において、ここまで「水」を大事にする神事はおそらくないでしょう、ということで、デンソソ祭りが水を中心にしたお祭であることは間違いないわけですが、その理由はわからないということでした。

畝傍山口神社といえば大阪の住吉神社による「埴取神事」が有名です。祈年祭と新嘗祭の二度にわたって畝傍山山頂にある土をとって、その土をまぜて神事に使う祭器を作るならわしになっている、というものですね。『摂津名所図会』によりますと、その山頂の様子が「土をとる所は山上の神前に玉垣を結いめぐらせり、此傍に神井あり、水きわめて清冷なり、まさしく神代の天の真名井なるべし」と記述されます。畝傍山の山頂は応神天皇が生まれた場所だという伝承(ケゥちんいわく、おそらく近世以降にできたものとのこと)もあるわけですが、この「天の真名井」から派生した伝説のような感じがしますね。

山上から水が出る、というのはやはり稀な現象なんではないか、という印象を受けるわけです。で、今もその井戸はあるのか、とお尋ねしたところ、水は枯れているものの井戸枠がちゃんとのこっている、といいます。さらに、畝傍山には、現在は全て枯れてしまったものの、「七の井戸」とも呼ばれる、7つの井戸がある、とおっしゃるのです。そう考えると、この山と水の関わりというものが俄然クローズアップされてくるわけです。

まーこれは「神社と神社を結んだら直線になった」ようなお話ですから話半分に聞いていただければよろしいわけですが、『万葉集』巻一にある「藤原宮の御井の歌」に「畝火の この瑞山(ミズヤマ)は」とあるのを思い出すわけです。もちろんこれは「瑞祥」の「瑞」でおめでたい山、というような意味もあるんでしょうが、反正天皇の「瑞歯別」(『古事記』では「水歯別」)という名前なんかも、生まれてすぐに「瑞井」で体を洗ったことに由来するんじゃなかったかしらなんてこともチラっと思い出しつつ、「瑞山」は「水山」にもつながるのではないかと思うわけですねぇ。

なんにせよ、山上から水が出るというのは、その山の性格を特徴付けるものになると思うのです。水の山、畝傍山の神事に使う水は、さらに吉野川より汲んでくるということは・・・ヤマトにおける吉野川という川が持つ意味を鑑みるにもっともであるような印象をうけますが・・・どうなんでしょうね、結論付けるにはまだまだたくさんのことを調べなきゃならんでしょう。

ちなみに山口神社は神宮皇后のみならず、住吉神も祀られております。ケゥちゃんによりますと、大阪の住吉神社と畝傍山口神社の関係はどうも近世以降のものであるらしい。そして山口神社の水汲み神事は近世以降にしか確認できないらしい。水を汲む場所に住吉神社があることも、水汲み前に住吉神社に「お断り」をいれてらっしゃる辺りもおもしろいですね。また、先ほど申し上げた住吉神社の「埴取神事」ですが、大和の祭祀権に関わる重要な山ということでもとは天香具山の土を取るものであったものが、いつの頃からか畝傍山になった(真弓常忠「埴使考」『神道史研究』17巻1号)というこれまたつつきはじめたらキリがないいろんな問題をはらんでいる神事でもあります。

・・・すべての謎を解く鍵は、やはり「神功皇后説話」とその近世的発展にあるのか。というわけで、続きはケゥちゃんの研究におまかせいたしましょう(笑)。


水汲み神事の様子。シメナワの元には水汲み用の一升瓶。後ろでカメラを構えるのは、地元のケーブルテレビの人。


前かがみになるのがつらそうな神職さんに代わって、井出サンが水を汲む。


土田のケヤキ。3月に行った時は立ち枯れしているのかと見まがうほどでしたが、見事に葉がおいしげっておりました。

怪日記vol.72 ムズムズ・・・ぶつぶつ

2006年07月22日 20時55分58秒 | 怪日記
むずむずしてました、えぇ、一日ずっと。

ケチのつきはじめはガメラりゅっくでした。斬鬼サンのブログでお見かけして以来ずっと、かぁーいぃ、ほしーぃほしーぃと思いつつ、先延ばしにしていたところ、久しぶりに松竹のHPを訪れてみればなんと!在庫が残り6コになっとるやないけ!・・・こいつァ急がねばマズイ、とばかりにあわてて注文、今度からお出かけには背負って行くンだぁ、とウキウキ到着を待っていたら、なんと。

大っきいお友達用ではなかったんですね。イヤ、背負えないことはないんですよ、ただ、おっちゃんがランドセルしょってるぐらいに、ちんちくりんなんですよぅ(泣)。ぬいぐるみとしてかわいがるにはタスキ部分が邪魔だし、かわいいのに、かわいいのに・・・どぅしてくれようぐむむむむ。とりあえずニラメッコしながらぬいぐるみ的に遊んでおります。ぷ。これが、3日前。

ついで、「秩父鬼女伝説」です。何かというたら、『怪』の携帯サイトにあるゲェムですな。「恐怖アドベンチャーゲーム 妖怪パラレルレポート」というカテゴリにありまして、全国にある「妖怪が出没するという報告のある場所に調査員を送って」、基本的にはそこから毎日送られてくるレポートを読んで楽しむというもの。その調査員に対してこちらが指示を出すことでストーリーが展開して行くんですが、その指示いかんでは調査は失敗もすれば成功もする、というものでして。なぜか第2話の「妖怪図書館」から始めて、そいつは初めてのわりには実にスムーズに調査は大成功に終わったのです。

ところがどっこい。第1話の「秩父鬼女伝説」をはじめてみると終わらない。送り狼だとか鬼女だとかが複雑(でもないか)に調査にからみあってくるんですが、1回目は1ヶ月ぐらいかかったのに大失敗だったようでラストに水木大先生に「あんた、間違えて回線に入り込んだんですな」のようなことを言われたわけです(「妖怪ラボ」というところの「非常回線」を通じてこちらの指示が調査員に行くことになっているので)。2回目もまた1ヶ月弱かかって、そしたら京極さんに「よかったら調査開始6日目に戻しましょうか」って言われたわけです。なんでや、なにがあかんのや・・・と再チャレンジして、以前にもましてコトの真相がわかったわけです、せやのに水木大先生にまたしても!「今度来たら調査開始6日目に戻しておきますょ」。

・・・くっそう、終わらねぇ。これが、2日前(ちなみに『怪』サイト、「怪ブックス紹介」にNewが点滅してるわりには『怪』vol.19が最新号になっとります)。

そして昨日。妖・怪談義にね、行きたかったんです、でも諸般の事情がありましたしちなみに言うとKR老師も行かないって聞いてたからおもしろさもちょっと減るしまぁいいや、ていうのはあった・・・のに直前になっていつきのおじぃちゃんが話すことになって・・・泣く泣くあきらめたわけです。けど代わりに真夏の夜の京都を徘徊してやろうってんで、野郎共と約束していたわけです。ところがどっこい「夜から明け方にかけて豪雨の恐れあり」ということで・・・中止になったんですねぇクッソゥ。まぁでも、お天気のことですから仕方ないんですけどね。

のわりにはちぃとも雨なんぞ降らへんやんけ。チッ、と思いながら朝を迎えましたけども、今日は朝からウルトラファイト(CSファミリー劇場)のウルトラマン編が一挙放送だぜ(≧∀≦)/!と大喜びで見てたわけです。ですが。冒頭で「ウルトラマンA体操」なるものが放映されたんですね。その、体操がですねぇ・・・まぁ、OPとは違う新しい曲ではあるんですが、「ウルトラマンエース♪ぼくらのエース♪」の「ぼくらのエース♪」のメロディが気に入らない。「エェスー」はさがるんじゃないッ、上がるんだッ!てのがやたらと気になるわけですッ。おんなじ歌詞使うんやったらその辺の気を使え、と思うわけです。

だいたいこういうナントカ体操だとかナントカダンスだとかを見せられると、習得したくなるわけです。ボウケンジャーでエンディングダンスがないのをホッしたやらさみしいやらで見ていたワタシとしては、これは覚えねばと思うわけです。それなのにそんなメロディでいかれるとホントに困るんですよねぇマッタク・・・。

さらに!お昼の3時半から「妖星ゴラス」をやっていたわけです(CS日本映画チャンネル)。そりゃもう大喜びで録画していたわけです。が!開始から1時間、さぁいよいよ佳境だって時に!普段より1時間早くはじまったウルトラマンメビウスの予約録画がはじまりやがって・・・(←自分でも予約していたのをすっかり忘れていたんですね)せっかくの録画がプッツリ切れたわけです。そしてワタシもプッツリ切れたわけです。

んのやろぉぉぉぉぉぉぉ( ̄ロ ̄;)!!!

よりにもよってメビウスに・・・1回見たらまぁおもしろかった、で終わるメビウスに・・・妖星ゴラスを持っていかれるなんて・・・く、くやしぃッ!ガバッ!おーぃおぃおぃ(泣)。



そーゆーわけで、ぐちぐちとしょぼくれていたワタシの相手をしてくださった皆さん、どもありがと。・・・しょぼん。


松竹さん、大きいお友達用のを作ってください(対比のため、手前に小粋のハコを配置)。

怪日記vol.71 終わりました

2006年07月16日 01時43分06秒 | 怪日記
こっそり愛読させていただいております恠異学会・S女史のブログ叡茶山房blog版「終わらない」にかけさせていただきました。ワタシは、終わりましたぞっ。

何が?と申しますと、以前ちらっとお伝えしておりました、ワタシの抱えていた論文(まがい)です。思えば4月半ばに一端脱肛(ひつこい)したものの、いろんな方々に出しちゃあ朱入れ、出しちゃあ朱入れ、で一体何回書き直したんだろう、なぐらいにつき返され続けたわけですが(笑)、ようやく最終提出して参りました。元はといえば独力でまともな文をかけない自分が悪いんですけども、「いい加減飽きているし、他のことをやりたい欲求もたまっているのに、締め切りを破っているが故にこの仕事しかやれない辛さ」・・・お気持ち、すっげぇわかります、と涙しながら読んだものです。いやぁ、終わった終わった、わはははは。・・・あぁ、疲れた。

基本コンセプトは、発掘調査した「近衛家桜御所」について、文献方面からどの程度のことが言えるか、というのが元々の依頼でした。考古学と文献のコラボレーションちゅうやつですね。調査の成果自体はどちらかというと江戸時代以降の「桜御所」の敷地範囲や周辺の町屋の様相などのほうが明確だったので、そちらのほうを書くべきなんだろうなぁとは思いつつ、中世ならともかく近世まで行くともう一層自分の能力からしても手に負えません。ので「桜御所」の前身邸(とされる)である「御霊殿」の方を中心にすえて、その草創や「桜御所」にいたる沿革、そしてそこに住んだ「斎女」とされる御霊殿の系譜を簡単にまとめただけのもの、になりました(・・・だからね、研究ノートだと思うのですよ)。

ゆうても中心になる記録が摂関家の方の日記ですからね。中原家みたいな局務家が残してくれるようなもんとは違って、ゆうたら内容がおおらかなんですよ(笑)。しかも近衛家のウチに関わるようなモノなわけで、他の文献になんて出てきゃしません。それでもまだ、『雑事要録』みたいな実に詳細な出納帳をつけるような政家さんの『後法興院記』がメインだったからまだわりと史料が残ったんじゃないかと思うのですが、それでも言えることなんて限られてきます。詳細は不明である、ばっかりです(笑)。

とりあえず高群逸枝にえぇ加減なことばっかりゆぅな、と言いたかった、ちゅーのが一番という論稿ですからそのように読んでいただければ幸いです(なんでもD大出の美術史・K本女史も高群さんにはぶぅぶぅ言うたはるようで、ちょっとおもしろかったです)。いずれもうちょっとちゃんとした位置づけをしてやりたいので(そのためには相当ひっくり返さなきゃならん気がします)、あぁ疲れた、ていうのがちょっと抜けたら、またにらめっこしようかなと思います。

自分の文章が印刷物として公に出されることはこれまでもなかったわけではないんですが、多分、今までで一番キンチョーしました、そしてあんだけ苦労した割りには、なぜだか一番自信がない(苦笑)。図はどの辺りに入れてほしいんだ、とか、最終学歴はなんだとか、肩書きはどうする、校正はいつごろに送るから、などの軽い打ち合わせをして原稿が本当に手元を離れた時のあの心もとなさ。やっぱり、返して・・・ってもうちょっとで泣き入りそうでした。

肩書きは結局「元発掘調査補佐員」ということになりました。かつて院の先輩が単位取得退学される際に、論文出す時には必要だからということで懇意にしている某資料館に肩書きだけを貸してもらえた、とうれしそうに語っておられた意味がようやくわかった気がします。うぅむ、確かに、医療法人某病院医局秘書、ってわけにはいきません。これから在野でがんばっていくにしても、何かと必要になるんでしょうねぇ・・・東アジア恠異学会会員とかはアリなんだろうか。

ゆうても総頁数が50頁をこえるかこえないか程の、年に一度しか出ない資料館の館報です。それに原稿用紙40枚分ぐらい書いちゃいましたから、なんでも今回のメイン論文になるんだそうです。恐縮です。というより、書けば書くほど論文というより研究ノートだな、と一人納得していたようなシロモノですから、総身汗みずくです。・・・まぁ、何でも出したもん勝ちで、間違うてたら批判してもろたらええんですけどね。何はともあれ一番恐ろしいのは無視られることなわけですが。

次は何をがんばろうかしら。やっぱり園韓神社かなぁ・・・数年がかりになりそうです。

さて、少し話は変わりますが、十日ほど前に榎村寛之先生にお会いした際に、島根県出雲市の青木遺跡についての抜刷りをいただきました(「律令祭祀の地域的展開と地方支配-島根県青木遺跡の史的展開-」『祭祀研究』第4号)。青木遺跡は木製の神像や大量の墨書土器が出たことで近年話題になった8世紀頃の祭祀遺跡です。

古代の自然神を祭るヤシロは開発に関わる神であって、開発地と山地の境界に立地することが多い中で、青木遺跡はそうではなく、「自然発生的な神社」とは考えにくいとされた上で、特徴的な調査区における遺構の様相、遺物、特に墨書土器や木簡などを考察され、青木遺跡は古代、全国的に行われた墾田開発の中で「国府主導型、または寺院主導国府補佐などによる『初期荘園』開発拠点」の中に「勧請された分社のごとき」祭祀施設として類推され、自然神から一歩進んだ神社祭祀のあり方を立証する「きわめて貴重な遺跡」ではないか、とされております。

・・・むちゃくちゃおもしろかったわけです。一読して、こういうのを本当の文献と考古のコラボ、というのだろうな、と唸りました。ワタシもこういう、社会的位置づけのようなところまで持って行けたらいいなぁ、と、目標にしようと思いましたです。はい、これが言いたかったわけです。

抜刷りには図面や地図などが載ってない・・・というよりなかなか載せられないでしょうから、この遺跡についてはワタシが論文を提出しにいった辰巳和弘先生も一言おっしゃっておられる(水に関わる祭祀遺構がでたことで注目されているわけです)ので、墨書土器の点数的に報告書はさすがに無理でも概報ぐらいはあるだろ、てなわけで、論文出すついでに見せてもらいに行ったわけで。さすが辰巳先生、青木遺跡に関わるシンポでちょと前にしゃべりにいったのョ、ということで、いろいろと史料をお持ちのようでした。そんなわけで一切合財自宅に持ち帰ってしまったそうで、今度まとめて一通りの資料を送っていただけることになりました、ラッキー。

また何かご報告できることがあったら、お話したいと思います。ちゅーわけで、ハイ、疲れましたのでとにかく寝ます。

怪道vol.40 京都北奔南走 (下)

2006年07月15日 23時49分51秒 | 怪道
新耳袋を読んで(ってまだ全部読んじゃいませんが)思ったのは、この世は奇妙でオトロシィことばかりだうわぁぁん、ではなく、そんなことはめったに起こらないわけで、やっぱり世の中ってのは合理的かつ清明なものなのだナァということでした。結局世界はますますありのままの世界でしかないということです。・・・とか言いながら、やっぱり小心者なワタシが小心に、いわゆる○○スポット、と言われる場所に行ってきました(○○なんて言葉は大ッ嫌いですから書きませんので察してください)。

そこで生活をされている方もいるでしょうし、本来ならば物見遊山で行くような場所ではありません。地元の方々にとっては迷惑極まりない行為ですから、どことも申しません(わかる人にはわかっちゃうと思いますケド)。でもなんだかおかしなところらしい、と言われりゃ気になるじゃなぃっすか、ということで、こっそりお邪魔してきたわけです。

厳重に封鎖された林道。そしてその横に伸びる、赤錆びた鉄橋。この鉄橋もまた、入口が封鎖されていました。ここでいったい何があったんだろう、と首を傾げるばかりですが、ようとして知れません。そんなものがすぐ脇を走っていたりするような場所だったわけです。そこでは昔、建物を全焼するほどの火事があったともいいます。確かに、近在(とはいえだいぶ距離はある)には十数戸ほどの集落しかありませんでしたから、火の手が上がればひとたまりもなかったことでしょう。ですが、一見すれば何事もなかったかのように、ある程度の人数の方々が生活できるほどの中規模の白い建物が、山間のどんづまりにありました。

個人的にはあまりいい気持ちがしません、こういう、道のつきあたりにある建物、というのはね。隔世するというよりは隅においやられたような場所。なんだかそんな感じもします。全焼した後ここまで再建されたわけですから、住もうという意志はおありなんでしょう。建物によっては微妙に所々破れた観のあるものもありましたが、こざっぱりと掃除も行き届いておりましたし、使われなければすぐに朽ちてしまう煙突なんかもきれいに磨かれていたわけです。間違いなくここで生活されている方がいる、というのはわかりました。

が。
気配が全くしない。人が動く気配がない。建物の規模からすれば、少なくとも2、30人はいてもいい空間です。ここでもし2、3人の方々で生活しているとすれば・・・これはちょっと、気のちっちゃいワタシならシャイニングの世界になっちゃいそうだ、と思いました(苦笑)。ただそんなわずかな人々が暮らしているわりには・・・たどりつく7.3キロ手前から、道の分岐点ごとにこの建物をしめす指示板が点々とあったりもしたわけです。

なんとか生活痕を探しましたが、洗濯物も干していないですし、窓のカーテンはすべて閉じられている。外側こそはきれいでも、中は真っ黒にこげたままだったりして、と想像した途端、ゾッとしました。あまり長くいても失礼だろう、というよりなんだかいてはいけないような雰囲気でしたので、そそくさとUターンして帰ろうとした途端、来た時には閉まっていたはずの建物の扉が開いているのが見え、総身に水を浴びた気分でした。・・・あ、人がいるんだ、とその瞬間は思えなかったわけです(笑)。そういうことなのにね。やっぱり小心者。

その後2、3の場所を巡って、南へ南へ。ここはですねぇ・・・現在は廃墟になっている、某病院ですね。ちなみに人から聞くまで、大きな神社のあるお山の中腹にこんなところがあるとは知りませんでした。山自体が神体的なもんだと思ってたぐらいですから、そんなお山に病院を作ることになったそのいきさつがちょっと知りたい、というぐらい、ちょっと不思議な感じがしました。

高架をくぐった先に細い階段がありまして、そこをのぼって行くとある・・・ようです。ようです、というのは、たどりつけんかったからです(笑)。確かに、こんなところに階段がある!という具合に苔むした階段が延々と上へ上へ続いていたのですが、まぁたどりつく先は廃墟ですから当然なんですけども、草莽に埋もれておるわけですね。ついでにものすごい虫です。皮膚の弱いカワツカヤさんは途中でお戻りになったぐらいです。

ただ、のぼればのぼるほど、階段がきれいになっていくのですよ。とちゅうは狭くて急なんですけどもね。なんだかそれだけで厭な感じです。また階段の上りがけには民家が1軒あったんですが、階段側に向かってなんだかよくわからない妙な祠が立ててあったりもして、ちょっといやァな感じだったりするんです。

全く使用されていないにもかかわらず、この先には間違いなく何らかの建物がある。日も暮れかかってます。行く手にあるのは薄暗い階段が延々と。しかもツレは途中で帰りましたから、一人ぼっちなわけですね。ちょっと、逡巡するわけです。まぁでも、せっかく来たんだし、やっぱり行こう、と足を踏み出したその時です。

ぷぅぅぅん

蚊、です、蚊!しかもすごい量の!うわぁっ、てぱちん、と腕をたたいたら、手のひらに3匹の蚊が退治されてる!ってそんな大量の蚊に襲われたのははじめてだったわけです。あっというまに十数匹の蚊が、腕に点々ととまっているわけですっ。ヒィィィ!というわけで、一目散に階段を駆け下りました。あろうことかボウケンにはふさわしくないノースリーブに近い服装な上に虫除けスプレーなんぞは装備していなかったわけで、全くの不手際でした、ハイ。大失敗です。近々準備を整えた上で、再挑戦してまいる所存でございます、すみません。

その後も1ヶ所うろうろして、首なしライダーで有名な宇治川ラインでも行くか?と盛り上がったんですが、時間もすでに8時を過ぎ、さすがにやめときます、ということで、長い一日が終わりました。

終わろうとしたんですけどもね。

家にたどり着く少し手前で、いつもあぜ道を通るんです。そのあぜ道には柿の木があって、木の下は深さが腰の高さほどある農業用の溝があるんです。腰の高さほど、とはいえ、水量は底の方を少し流れる程度のものなんです。

いつも通り、そのあぜ道にさしかかった時でした。その溝に、人が立ってるんですよ。空中に、じゃありません、底に立ってるんですよ(笑)、ですから、腰から上だけが電灯に照らされて黒い人影になって柿の根元に動いてるのが見える、という状況です。何か溝にでも落としたんかしら?と一瞬思ったんですが、どうも動きがあやしい。横にフラフラゆれながら、行ったりきたりしとるんです。

異様に気持ち悪いわけですね。いや、人でないモノ、とかじゃないです、明らかに人なんです、だってワタシを追い越していった自転車の少年が、そのオッサン(多分)の横を走りすぎるとき、ギョッとしたような顔で振り返っておりましたから、ワタシだけに見えた妙なモノ、というわけでもないんです。おそらく、ハヤリの変質者というやつではないでしょうか、最近家の近所で出没してるらしいですから。

少年よろしく自転車でなら通りすがれるでしょうが、さすがに徒歩では無理、と、来た道を引き返して家族に迎えに来てもらいました。あぁ怖かった(笑)。

何はともあれ、生きている人間が一番怖い、ということですね。チャンチャン。


手前の、草ぼうぼうの階段が病院にいたるもの。


どこまでいっても階段が続く・・・蚊の来襲にあいながらも、写真だけは撮らねば!と撮影した地点。