平篤行(たいらのあつゆき)
従五位上興我王次男、母□□□、寛平五年補文章生〈春天凄風、字平津、〉、年月秀才〈論侍息用禎祥、〉、昌泰元年二月廿三日任大和大掾、同年任伊勢権少掾、三月対策及第、廿九日判、二年正月十一日任式部少丞、延喜二年二月廿三日転大丞、三年正月七日叙従五位下、同日任参河守、七年得替、八年正月叙従五位上〈給国〉、十二日任加賀守、二月廿三日遷筑前守、九年九月廿九日兼少弐、十年正月卒、 (「古今和歌集目録」庶人の項より)
平安時代において、ある人物の業績を調べようということになると、まず『平安時代史事典』を見ます。掲載されていなければ、もしその方が公卿になっておられれば『公卿補任』を、公卿でなければ『尊卑文脈』を見て、生没年や極官を知る、ということになります。そしてまたそこで得た没年月日から、その日の『大日本史料』の記事を見れば、その某さんの事績に関する記事が一挙に入手できるという可能性もあります(事典に載っていてなおかつ卒日がわかっていれば途中経過が一挙に省けて、しかも卒伝があればずいぶんラクチンだったりする)。
こういった官歴記事というのは、これまでの自分の経験ではさほどじっくり眺めるということはありませんでした。特に彼のように、パッと見、特筆するような業績、逸話もないような中級官人でしたら、ふぅん、と一読して、なんとなくの確認程度で済ませてしまうのが普通でした。が、先日、『政事要略』の研究会にて自分の発表でこの方について触れた際に、いつきのおじいちゃんやKR老師にご指摘いただきまして、きちんと読めば相当におもしろいということをあらためて知りました。
平篤行。冒頭の記事を見る限り、格別どうということもない一官人の事績ですが、この方が数行ではあるものの『平安時代史事典』に掲載されていたのは、彼が百人一首にも載る「忍ぶれど色に出りけり我が恋は」で有名な三十六歌仙の一人・平兼盛のお父さんに当たる方だったからなのですが。
記事冒頭に「興我王次男」とあるように、また篤行自身もかつては「篤行王」であったように、もとは光孝天皇につながる王氏であったようです。王氏が臣籍に降下する際は天皇の直接の子であれば確実に「源」氏を賜姓されましたが、3世以上離れるとほぼ「平」氏であったらしく(岡野友彦『源氏と日本国王』)、篤行は光孝の4世孫であったことから「平」を賜ったと考えられます。
篤行さん、相当優秀な方だったようです。「寛平五年(893)補文章生」、「年月秀才」とありますが、400名近い大学生のうち試験を通過しなおかつ師事した先生から推薦をうけてたった20名の定員で選ばれるのが「文章生」、その中でさらに優秀な2名のみが選ばれるのが「秀才」こと「文章得業生」なんですね。「秀才」になった年月は不明ですが、続く昌泰元年(898)、「三月対策及第、廿九日判」とあります。この間5年。「対策」は朝廷による官吏登用試験の最高ランクのものなんですが、それに一発合格してるというのもなかなかすごいことです。「対策(またの名を方略試)」は1回落とされるのはしばしばで、場合によっては数年後にようやく「合格」をもらえる、などということもままあるわけです。おのれの才覚で身を立てる自信があったのでしょう、「平」の賜姓はおそらくこの間ではないか、ということでした。
対策を受けるまでに「大和大掾(じょう)」、「伊勢権少掾」を歴任しておりますが(国司の「掾」は「守かみ」→「介すけ」→「掾じょう」→「主典さかん」の順で等級に分かれている3番目の官職で、「主典」が起草した文案を審査したりする実務系の人)、中央から程近い地方をまわってちょっと経験を積んで来い、というのは、現在でもキャリア組の方々がよくやらはることですね。
最高ランクの「対策」に合格した翌年からは、いよいよ文筆で身を立てる官人として、中央の官職である「式部少丞」、すなわち式部省の「丞(じょう)」となります。式部省は大学出身の儒者が在籍する官庁で、叙位・任官の名簿を作成するなどの文官の人事一般を職掌とする、いわば風紀委員のようなお仕事をする役所になります(ちなみに「大学」も式部省の管轄)。「じょう」ですから先ほどと同様、実務系の官人ですね。「延喜二年(902)二月廿三日転大丞、三年正月七日叙従五位下」とありますから、そこでじわじわと官位を進めていってらっしゃる様子がわかります。
延喜3年(903)以降、参河守、加賀守(延喜7年)、筑前守(同)、と地方の国司を歴任していらっしゃいますが、この頃はちょうど延喜荘園整理令が行われていた時期にあたり、この任官の様子は篤行さんがその最前線でご活躍されていたことをうかがわせるものとなります。延喜9年、「兼少弐」とあるのは「大宰府」の役人を兼職したことを表します。大宰府はご存知のように現在でいう九州地方の内政を管轄した行政機関で、「少弐」は現地では実務にあたった官人ですから、大宰府が民間商人の対外貿易の管理などもしていたことからけっこううまい汁が吸える役職でもあったわけで、ずいぶんお儲けになったことが察せられるようです。
さて、この篤行さん。実はかの菅原道真の門人であった方でもありました。そのことがわかるのは、『本朝文粋』(平安中期にできた優れた漢詩や散文を載せる文集)などにも掲載される三善清行(847~918。意見封事十二か条を提出し、一条戻り橋で息子の浄蔵さんに生き返らせてもらった逸話などで有名)が、菅原道真左遷直後に時の左大臣・藤原時平へ宛てたお手紙に、篤行は道真の弟子やけども優秀なヤツですから左遷リストには載せんでちょうだい、ということを書いてらっしゃるからです。
道真が左遷された昌泰3年正月25日以降の篤行の事績を見る限り、この時に道真の左遷に連座した事実はないようです。ただし、文章得業生を経て対策に一発合格をしているような優秀な人物であったことを考慮するならば、その後の官歴として、彼は華やかな道を歩いたといえるのかどうか。道真の弟子であったということが彼のその後の人生に与えた影響はどれほどのものだったのか。そしてその彼が、たぐい稀な和歌の才能を持つ息子・兼盛に対し、どのような思いをかけるにいたったのか。「オマエ、宮仕えはやめとけよ」と言うていたやも知れず、その薫陶をえた兼盛が後世に名を残す歌人になったとも想像できるわけです(兼盛のあの歌はオヤジが大宰府で儲けた金で勉強してできた歌や、と思うたらそれはちょっとおもしろいわけですが)。
一見似たような漢字の羅列で丁寧に読むのが疲れがちな官歴記事ですが、一人の人間の人生がそこに垣間見えるのだなぁと、どんな記事であろうとあたらおろそかにしてはならぬと、あらためて感じ入ったのでした。
怪でもなんでもないですけど、ハイ、ちょっと感動したもので、スミマセン。
というわけで、その日にじぃちゃんから東京みやげに「件ちゃん」フィギュアをいただいたり、その後モメちんにさらにもらったりでこんなことになってます。
・『公卿補任』・・・神武天皇から明治元年に至る、「参議と三位以上の非参議」以上の「公卿」の氏名と官歴を年毎に記録した職員録。
・『尊卑文脈』・・・南北朝期に洞院公定によって編纂された諸氏家系図。系図の中ではわりと信頼できるもの。
・『大日本史料』・・・東京大学史料編纂所編の日本史の基本史料集で、六国史の後を受けて仁和3年(887)から年月日順に史料の要項を抽出・掲載する。未刊行・未着手の時代は、多くの研究者が「はよ刊行してくれへんかなぁ・・・」と思っています、ほんまに。大変やろけど、がんばってよ、マジで。
従五位上興我王次男、母□□□、寛平五年補文章生〈春天凄風、字平津、〉、年月秀才〈論侍息用禎祥、〉、昌泰元年二月廿三日任大和大掾、同年任伊勢権少掾、三月対策及第、廿九日判、二年正月十一日任式部少丞、延喜二年二月廿三日転大丞、三年正月七日叙従五位下、同日任参河守、七年得替、八年正月叙従五位上〈給国〉、十二日任加賀守、二月廿三日遷筑前守、九年九月廿九日兼少弐、十年正月卒、 (「古今和歌集目録」庶人の項より)
平安時代において、ある人物の業績を調べようということになると、まず『平安時代史事典』を見ます。掲載されていなければ、もしその方が公卿になっておられれば『公卿補任』を、公卿でなければ『尊卑文脈』を見て、生没年や極官を知る、ということになります。そしてまたそこで得た没年月日から、その日の『大日本史料』の記事を見れば、その某さんの事績に関する記事が一挙に入手できるという可能性もあります(事典に載っていてなおかつ卒日がわかっていれば途中経過が一挙に省けて、しかも卒伝があればずいぶんラクチンだったりする)。
こういった官歴記事というのは、これまでの自分の経験ではさほどじっくり眺めるということはありませんでした。特に彼のように、パッと見、特筆するような業績、逸話もないような中級官人でしたら、ふぅん、と一読して、なんとなくの確認程度で済ませてしまうのが普通でした。が、先日、『政事要略』の研究会にて自分の発表でこの方について触れた際に、いつきのおじいちゃんやKR老師にご指摘いただきまして、きちんと読めば相当におもしろいということをあらためて知りました。
平篤行。冒頭の記事を見る限り、格別どうということもない一官人の事績ですが、この方が数行ではあるものの『平安時代史事典』に掲載されていたのは、彼が百人一首にも載る「忍ぶれど色に出りけり我が恋は」で有名な三十六歌仙の一人・平兼盛のお父さんに当たる方だったからなのですが。
記事冒頭に「興我王次男」とあるように、また篤行自身もかつては「篤行王」であったように、もとは光孝天皇につながる王氏であったようです。王氏が臣籍に降下する際は天皇の直接の子であれば確実に「源」氏を賜姓されましたが、3世以上離れるとほぼ「平」氏であったらしく(岡野友彦『源氏と日本国王』)、篤行は光孝の4世孫であったことから「平」を賜ったと考えられます。
篤行さん、相当優秀な方だったようです。「寛平五年(893)補文章生」、「年月秀才」とありますが、400名近い大学生のうち試験を通過しなおかつ師事した先生から推薦をうけてたった20名の定員で選ばれるのが「文章生」、その中でさらに優秀な2名のみが選ばれるのが「秀才」こと「文章得業生」なんですね。「秀才」になった年月は不明ですが、続く昌泰元年(898)、「三月対策及第、廿九日判」とあります。この間5年。「対策」は朝廷による官吏登用試験の最高ランクのものなんですが、それに一発合格してるというのもなかなかすごいことです。「対策(またの名を方略試)」は1回落とされるのはしばしばで、場合によっては数年後にようやく「合格」をもらえる、などということもままあるわけです。おのれの才覚で身を立てる自信があったのでしょう、「平」の賜姓はおそらくこの間ではないか、ということでした。
対策を受けるまでに「大和大掾(じょう)」、「伊勢権少掾」を歴任しておりますが(国司の「掾」は「守かみ」→「介すけ」→「掾じょう」→「主典さかん」の順で等級に分かれている3番目の官職で、「主典」が起草した文案を審査したりする実務系の人)、中央から程近い地方をまわってちょっと経験を積んで来い、というのは、現在でもキャリア組の方々がよくやらはることですね。
最高ランクの「対策」に合格した翌年からは、いよいよ文筆で身を立てる官人として、中央の官職である「式部少丞」、すなわち式部省の「丞(じょう)」となります。式部省は大学出身の儒者が在籍する官庁で、叙位・任官の名簿を作成するなどの文官の人事一般を職掌とする、いわば風紀委員のようなお仕事をする役所になります(ちなみに「大学」も式部省の管轄)。「じょう」ですから先ほどと同様、実務系の官人ですね。「延喜二年(902)二月廿三日転大丞、三年正月七日叙従五位下」とありますから、そこでじわじわと官位を進めていってらっしゃる様子がわかります。
延喜3年(903)以降、参河守、加賀守(延喜7年)、筑前守(同)、と地方の国司を歴任していらっしゃいますが、この頃はちょうど延喜荘園整理令が行われていた時期にあたり、この任官の様子は篤行さんがその最前線でご活躍されていたことをうかがわせるものとなります。延喜9年、「兼少弐」とあるのは「大宰府」の役人を兼職したことを表します。大宰府はご存知のように現在でいう九州地方の内政を管轄した行政機関で、「少弐」は現地では実務にあたった官人ですから、大宰府が民間商人の対外貿易の管理などもしていたことからけっこううまい汁が吸える役職でもあったわけで、ずいぶんお儲けになったことが察せられるようです。
さて、この篤行さん。実はかの菅原道真の門人であった方でもありました。そのことがわかるのは、『本朝文粋』(平安中期にできた優れた漢詩や散文を載せる文集)などにも掲載される三善清行(847~918。意見封事十二か条を提出し、一条戻り橋で息子の浄蔵さんに生き返らせてもらった逸話などで有名)が、菅原道真左遷直後に時の左大臣・藤原時平へ宛てたお手紙に、篤行は道真の弟子やけども優秀なヤツですから左遷リストには載せんでちょうだい、ということを書いてらっしゃるからです。
道真が左遷された昌泰3年正月25日以降の篤行の事績を見る限り、この時に道真の左遷に連座した事実はないようです。ただし、文章得業生を経て対策に一発合格をしているような優秀な人物であったことを考慮するならば、その後の官歴として、彼は華やかな道を歩いたといえるのかどうか。道真の弟子であったということが彼のその後の人生に与えた影響はどれほどのものだったのか。そしてその彼が、たぐい稀な和歌の才能を持つ息子・兼盛に対し、どのような思いをかけるにいたったのか。「オマエ、宮仕えはやめとけよ」と言うていたやも知れず、その薫陶をえた兼盛が後世に名を残す歌人になったとも想像できるわけです(兼盛のあの歌はオヤジが大宰府で儲けた金で勉強してできた歌や、と思うたらそれはちょっとおもしろいわけですが)。
一見似たような漢字の羅列で丁寧に読むのが疲れがちな官歴記事ですが、一人の人間の人生がそこに垣間見えるのだなぁと、どんな記事であろうとあたらおろそかにしてはならぬと、あらためて感じ入ったのでした。
怪でもなんでもないですけど、ハイ、ちょっと感動したもので、スミマセン。
というわけで、その日にじぃちゃんから東京みやげに「件ちゃん」フィギュアをいただいたり、その後モメちんにさらにもらったりでこんなことになってます。
・『公卿補任』・・・神武天皇から明治元年に至る、「参議と三位以上の非参議」以上の「公卿」の氏名と官歴を年毎に記録した職員録。
・『尊卑文脈』・・・南北朝期に洞院公定によって編纂された諸氏家系図。系図の中ではわりと信頼できるもの。
・『大日本史料』・・・東京大学史料編纂所編の日本史の基本史料集で、六国史の後を受けて仁和3年(887)から年月日順に史料の要項を抽出・掲載する。未刊行・未着手の時代は、多くの研究者が「はよ刊行してくれへんかなぁ・・・」と思っています、ほんまに。大変やろけど、がんばってよ、マジで。