怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

今年もお世話になりました

2008年12月30日 23時26分48秒 | その他
ナニコレ珍百景。
↓↓↓

うちのパソの「お気に入り」ブラウザにて(当ブログをやほーで開設した覚えはございません)。


さてさて。
年の瀬も押し迫ってまいりましたが皆様いかがお過ごしでしょーか。

スペシャル番組続きになると季節の変わり目ですなぁと思うわけですが、さっきマルヒXファイルとか見た後に部屋の片づけの続き(とか言うてもほとんど本棚の整理なんですが)をしてたら『第3の選択』とかまたなつかしい本を発掘してしまいましたので、寝正月のお供に決定した次第でス。えぇ、片づけとか全然終わりませんでしたが明日一日やっても終わりそうにないのでもう見なかったことにして自分の中では年越し終了。

ついでの近況報告としましては、ここ2カ月ばかりどうも体調がかんばしくない状態が続いていることもあり、こいつはちっと体力をつけんとあきませんなということで。できることならいつきのシシィ様をみならってジム通いなんかをしてみたいところだったんですが、まずは手軽に、働くおネェさんのひきこもりフィトネス、Wii Fitをついに買うてしまいましたョ。バリバリ鍛えたろかぃ、ゆうのには向いてませんけども、ちょっと体ほぐすぐらいに運動するにはちょうどよい感じです。最近「ながらジョギング」というのができるようになりましてネ(運動時間の貯金がたまると新しい運動が追加されるの)。30分設定にして変形リーゼントな赤い仮面の忍者を1話見る、というを日課にしております。


さて。一年を振り返ってみますに、今年はなんだかとかく遠出ばかりしてましたネ。奄美にはじまり境港、遠野、淡路島、岡山、若狭、有馬、高松、五島etc...。ついでに平野に和泉に龍野に和歌山。旅行のおかげでいろいろやった気になってましたがよく考えると何もしてなかったりで、ちょっとしょんぼりですが。そして訪れる土地のオモシロサのみに頼りがちなものが続いている辺りなんぞは反省しきりでありますが・・・今後とも、いろいろとメモの場にさせていただく所存です。そういえば有馬旅行の後編を書いていなかったことを思い出してしまいましたナ。来年またそのうちに書くと思いますのでw あと、年明けにちょぴっとだけ、カテゴリとかをリニュアルしたりもする予定です。

というわけで、今年も一年、拙いブログにおつきあいくださいましてありがとうございました。いつもコメントを残してくださる皆様には、わけて感謝の意を表したいと存じます。今後とも、気が向いたら、また残してって下さいマシ。

ではでは、よいお年を。



Wiiのオマケにくれたフラワァロック。

怪道vol.120 2008年五島の旅~最終回

2008年12月23日 22時51分47秒 | 怪道
2008年五島の旅、そろそろ飽きも来るでしょぅからこの辺で終わりにしときますw
というわけで、本日は福江の中心部をざっと散歩したものをまとめてみましたー。

本日ご紹介する地点。


当時は「深江」と称されていた福江ですが、ここが宇久氏9代・勝の時にその本拠となったことは以前にも少しふれましたネ。16代囲の時、一族内部の反乱により当地を追われるものの、その子・17代盛定(?~1549)が奪還、彼は江川城を築城、城下町の整備がはじまります。宇久氏が一字名を捨てるのはこの盛定からなんですョ。

盛定という人は宇久氏にとっては中興の祖的存在なのかなと思われます。五島を統一し、江川城をおいた頃は財政面がなかなかキビシかったようで、明人の密貿易商で倭寇の頭目(明人なのに「倭寇」?と思ったヒトはご自分で勉強してみてクダサイネ)だった伝説的商人・王直に、城下を居住地として与え通商を許したといいます。その私邸の跡に建てられたというのが「明人堂」で、界隈には今も唐人町なんて地名が残っております。現在は城下町を北に大きく迂回している福江川ですが、当時は六角井戸のやや南側を流れていたそうですから彼ら明人の住まいしたところは一応町の外になるようですネ。六角井戸は明式の井戸として平戸なんかにもありますけども、福江の六角井戸も明人が作ったといわれております。ちなみに土地の人は「ロッカクガワ」と呼んでらっしゃいますネ。柏崎の「ふぜん河」と同じく、水の湧くところはやはり「カワ」なんですナ。


明人堂。中国の職人によって建てられたらしい。

この川の上流にあるのが、第1日目に仁義を切りにいった火消しガッパのいる水神社になります。明人堂近くで出会ったオジィチャンと立話をした際にうかがったところ、あそこの淵のガッパは福江川に棲むガッパの大将なんだそうですナ。人に悪さをせんように橋の下に子分を見張りに立たせたりなんかもしておったらしい。そういった意識が持たれたのも、大将カッパの住む淵の前にある大円寺という寺が関わっていそうです。

大円寺は盛定が再興した寺で、代々の五島藩主の墓がある菩提寺なんですョ。寺に至る川沿いの道は「藩主でさえも下馬歩行が決ま」っていたんだそうで、「礼儀作法が守れなければ入れない聖域」とか「わきまえた人のみ正門をくぐれます」とかいう門の注意書きにケッと思ったので行かなかった(←ウソですよ、なんか法事中で忙しそうだったのw)んですけど、河童が作ったとかいう版木だったかハンコだったかなんか忘れましたがそんなのも持ってるらしい。とくれば薄々感ずかれた方もいらっしゃるでしょうがこの寺、ハイ、曹洞宗です。・・・そんな寺の前の淵に大将ガッパとか、なんかできすぎですねw 曹洞宗だけに商売上手で、寺周辺の山一面は墓地。五島の墓は遠近感が狂ってしまいそうなほど一基一基がどでかいんですが・・・明星院とは大違いですネw


大円寺境内、荒れ放題になっている歴代藩主の墓。

さてさて、やがて関ヶ原や大坂の陣に参じた22代・盛利の頃になると、「福江直り」と呼ばれる家臣団の城下町への移住が進められ、町は深江から「福江」と改称されます。近世への過渡期だっただけに盛利の頃は実にイベントが盛りだくさんなんですが、福江という街にとっての一大事件といえばひとえに慶長19年(1614)の江川城炎上であろうと思われます。これ以降、幕末は文久2年(1863)の石田城(福江城)築城まで、福江藩には城がなかったそうで。しかもこの石田城、「日本一新しい城」なんて言われながらも10年も経たないうちに解体されちゃうわけで、少々お気の毒です。お気の毒ではあるんですが、今でこそ埋め立てにより当時の面影はないとはいえ、異国船打破を視野に設計された海に面する威風堂々の「海城」でありました。

この城の石垣は滋賀の石工達を呼び寄せて作らせたそうでしてネ。彦根城の石垣を作った石工と多分一緒なんでしょうかね、石垣とか全然わからないですけど、ラインがとってもシャープでございますね(←テケトーw)。ついでに観光協会の方が宣伝されるので武家屋敷通りをちょっくら散歩してみますと、城の石垣と似た感じの塀がそこここに・・・築城ついでに直していってもらったんでしょうか。ちなみにこの武家ストリートは壁と門だけを保存していて、中は普通のアパートとかが建っていたりで少々愉快です。ついでに福江城、現在は県立五島高校になっているというお決まりのタパーン。


武家屋敷街の石垣。右側の分が城のと似てますネ。

さて、福江には実は、皿屋敷伝説があります。皿屋敷のお話といったら、井戸端で一枚二枚と皿を数える女の幽霊の話、なワケですが、福江の皿屋敷は井戸端ではなく風呂場なんですね・・・ナニこのムダにオシィとか思っちゃう感じw 概略は、家中の某屋敷で祝宴中、大切な皿が一枚なくなった。主人はそれを一人の女中の仕業として風呂場で折檻、ついに殺害に及ぶ。以後、夜な夜な風呂場から女中が皿を数える声が聞こえるようになったので、風呂場を釘打ちにして使わないようになったという・・・。

その後の家人は日々外湯ですかと心配して終わる話かと思いきや、この後の方がなんかスゴイことになってまして。持ち主が何度変わっても風呂場跡で延々と怪事が続くんですネ。厠が自動ドア状態とか女中の気がフレるとか風呂場を家の中に作ると必ず炎上するとか。御一新後も、養蚕組合の市場だったのが全焼、以来数十年サラ地だったのを、昭和24年に農協が建てられる。しかしやはり妖事はおさまらず、皆が宿直を恐れる始末だったそうで。そんな皿屋敷も昭和37年、福江大火…でも焼けたんでしょうかネここは。その辺はわかりませんが、以後、善教寺というお寺が買い取ってから、ようやく終息を見たのだそうです。周囲を見渡してもさして悪い土地にも見えないように思いますし、養蚕組合が焼けた→サラ地、の辺りが言い出しの発端なニオイもしますが、ちゃんと資料を繰ったわけではないので信じてあげてくださいw


これが現在の皿屋敷跡地ですョ。

ふふ、全6回続けてきて、ワタシの言いたいことは実に単純。
福江島は、島ではあるけれども隔絶した孤島ではないんですよね。見聞きするものすべてが、この島がいかにヒトとモノの交流が盛んであったかを物語っておるようで。考えてみれば、遣唐使がきて空海が訪れて、平家の落人(の伝説)が流れてきて、明人や倭寇が拠点にして、宣教師が来てまたキリシタンも逃れてきて、滋賀の石工やサラにはお菊さんまでもがやってきた。国の果てであり入口でもある場所には、ほんに多くのものが流れつくものでありますナ。

2泊3日、まるまるいればゆっくり見れると思ったら大きな間違いで、ぜーんぜん時間が足りませんでしたョw 五島列島・・・あい・しゃる・りたーん


市街地を見下ろす鬼岳より、町と島なみをのぞむ。


福江のシンボル・鬼岳とはこんな山です。

怪道vol.119 2008年五島の旅~Epi:5

2008年12月22日 20時56分25秒 | 怪道
どうもお久しぶりでございマス。いやはや、流行りのインフルエンザなんかにかかっちゃったりしてましたんですよマッタクモー。仕事の行き帰りはウィルス対策マスクで防備、職場着時&帰宅時は手洗いうがいを欠かさなかったというに・・・罹る罹らないはもぅ多分運ですネ。

というわけで、お久しぶりの五島列島、本日は隠れキリシタン編でございます。

まずは五島のキリシタンについての概略を。
五島が公式にキリスト教と出会ったのは1562年、18代目当主・宇久純定の病気治療にトルレス・ディエゴがやってきた時のこと。純定とその子・純尭(19代)は熱心なキリシタン大名だったようですが、宇久氏から五島氏と名を変え秀吉に臣従した純玄(20代)が一転してキリシタン弾圧に乗り出し、五島のキリシタンの受難の日々がはじまります。強烈だった20代・22代の他は、それなりの禁教令を布いていたとはいえ一時は黙認状態だった時期もあったりとか対岸の長崎本土(大村藩など)では相当キッツいことをしていたせいもあったりで、近世を通じ3,000人を超えるキリシタンが新天地を求めて五島へ移住したとか。

幕末から御一新の頃、海の向こうから再び宣教師がやってくると、長崎周辺で潜伏していた信徒達が大浦天守堂で名乗りをあげます。ですが、キッチリ近代化されてなかった明治政府にとってはフライング気味に映ったようで、それをキッカケに五島では明治2年、「五島崩れ」と呼ばれる大弾圧が起きてしまいマス。これがまた相当にムゴイことをしたらしく、ついには諸外国から外交問題にされ、明治6年に禁教令は廃止。やがて五島入りした宣教師たちによって次々と五島のカクレ信徒達が発見され、信仰が復活していったそうな。五島のキリスト教信者は現在も人口の約1割を占めており、集落毎に教会があるといっても過言ではありません。



そんなわけでまずは復活の拠点だったという堂崎天主堂へ行ってきました。上の地図をご覧になってもわかりますように場所は複雑に入り組んだリアス式海岸のミサキの突端。カーナビが間違えて海上タクシー使えと指示するような場所でしたから、それだけにかつては藩主の目も届きづらい隠れキリシタン達の集落だったのかなぁと、まぁそんな立地でありマス。

天主堂とは言いつつも、内部は五島のキリシタン文化に関する資料館へとモデルテェンジしておりまして、天草四郎愛用の鉄扇にへーほーふーんと思ったり、青銅鏡に彫られたマリア観音とか神カミ仏習合みたいなのに感心したり、枕元に神棚をおいて病で苦しんでるマゲのオヤジを描いた絵に「悪人の末路」て題がついてたり、キリシタン遺物としてはよくあるモノといったところ。

おもしろかったのは、五島の隠れキリシタン組織のお話です。彼らは「クルワ」と呼ばれる組織をつくり、200年以上、聖書もない閉ざされた空間で信仰を守っておりました。教えを説く者がいない場では暦(=キリスト教の祭日)を識るものが一番エライヒト(「帳方」という)だったらしく、たどたどしい字で「三た○や(サンタマリア)」の日、とか書かれた素朴な日繰帳はなかなかオツ。いつしか独自の信仰を形成するにいたっていた彼らが、再び宣教師たちに出会った時、自分達の信仰が本来のローマカトリックとは相当にかけ離れたものになっていることがわかる。その時、クルワか、ローマカトリックか、信仰の選択を迫られることになったといいます。

多くはカトリックを選んだけれど、クルワ組織にこだわり続けた人もそれなりにいた。そのクルワでのオマツリの写真なんかが掲示されてましてね、何の場面かはよくワカラナイんですが向かい合って並んだ人たちが一つの箱膳をやりとりしてるんですよ、神人共食かなんかなのかしら。北の果てではなにゃどらや~とやっとられたりもするし、閉鎖されていればいるほどモノゴトはオモシロクなるものデス。
 
拝観後は天主堂のモギリのヒトと切符売場の小窓を介してしばし歓談。上品そうなそのオバサマいわく、隠れキリシタンのクルワ組織というのが福江では1つだけになってしまったものの未だに残っているというからオドロキです・・・五島ってスゲェ。ちなみに今やすっかり展示物とガラスケースでいっぱいのお堂だけれども、月に一度はまだここで礼拝をやってるんだそうです。その度に展示ケースをだして、椅子をならべて大変そうだなぁと一瞬思いましたが、堂崎天主堂の古い写真を見ると地べたにひざまずいて礼拝してるんですよね。今もそうなのかぁ。


堂崎天主堂(キリスト教資料館)の外観。


さて、五島で訪れた教会はもう一ヶ所あります。それが、堂崎とは島の対角線上にある井持浦教会。ここは「五島ルルド」の発祥地なんだそうで。何のことかと思うデショ、五島列島には、あの「ルルドの泉の水を運び入れて井戸を掘って作った」という、「・・・何てw?」な泉が各地にあるんですよ。そしてその発祥というのが玉之浦のこれまた入り組んだ海岸沿いの集落にある、井持浦教会なのです。

五島のキリスト教復興に尽力した宣教師にペルーさんて人がおりまして、島では大変尊敬されていた方だったんだそうです。早い話この人がフランス人だったわけで、ルルドもどきはこのペルーさんが言いだしッペとなり作り始められたらしい。フランスはルルドにてベルナベッタの前にマリア様がご降臨されました奇跡が起こったのはご存じの通り1858年。井持浦の教会にルルドもどきが完成したのが1899年ですから、ほんの40年足らずの時期にルルドの奇跡は日本に上陸していたわけですナ。教会脇に溶岩石でつくられた人造の泉がありまして、すぐわきでコックをひねるとその水が飲めます。やたらと鉄臭いのは土壌のせいだと思っておいた方が幸せな感じデス。

ホンモノのルルドの泉水が今でも定期的に混ぜられてるのかどうかは知りませんが、そのルルドもどきに水を提供している井戸というのが、教会の建物の祭壇側の真裏にあるんですョネ。それを見てるとこの教会がなんだか井戸を祀るための拝殿みたいに見えて、なんだかジャパネスクでした。

  
左:井持浦教会のルルドもどき。真ん中:マリア様は見て・・・くれてない(´∀`)。右:教会裏の井戸。


集落の真ん中に立つ井持浦教会。


帰り道に「立谷」という今は人影もほとんどない集落へ立ち寄ってきました。この立谷には、少し前までは教会が立っていたんだそうです。井持浦教会とは違い、弾圧の時代からずっと隠れキリシタン達が人目を忍んで集まり、そして文字通りひそかに祈りを捧げた礼拝の場だったのでしょう。その跡地は、キリシタン墓の脇をぬけて奥へ奥へといった林と藪のまた奥に、こじんまりとした露天の礼拝施設として残っていました。20年ほど前に自然倒壊してしまった教会跡には、いまも「無原罪のマリア像」がひっそりとたたずんでおります。

というわけで、五島の旅も次回ようやく、最終回なのです~。



立谷にあった、明治~大正の頃のキリシタン墓。

怪道vol.118 2008年五島の旅~Epi:4

2008年12月07日 22時56分12秒 | 怪道
本日は皆さんお待ちかねの(?)平家落人伝説編です。

近世を通じて五島藩主であった宇久氏(五島氏)は鎌倉時代にさかのぼる一族で、五島列島の最北にある宇久島(現・佐世保市)を最初の拠点としました。その宇久氏が自らの祖と系図に示すのが、平家盛。壇ノ浦で敗れた彼が宇久まで逃れて後に宇久次郎家盛を名乗ったと言う・・・辺りですでにまァちょっとそこへ座れと言いたくなりますネ。平家盛といったらご存じの通り清盛の弟で、源平合戦とかいうはるか以前にすでに亡霊になってらっしゃる方なワケ(池禅尼が頼朝の助命をする時に、死んだあのコに面影が似ているワと言った当の「あのコ」が家盛サン)。百歩譲って壇ノ浦云々を聞かなかったことにしても、鳥羽法皇と連れだっての熊野行で迷子にでもなって五島まで行ったとかいうワケ、ナニその良牙なみの方向オンチっぷりw。

ちなみに宇久氏にはもういっちょ、源氏系の末裔を名乗る系図もあったりするそうなんですネ。ぐーぐるのお世話になったところによりますと、その場合は清和源氏武田氏流らしいですが、家盛の子という扇、福江島に勢力をのばした八代・覚(14世紀後半)、現・福江を拠点とした覚の子・勝、応仁の頃に朝鮮半島と交易したという儀、など中世の宇久氏はずっと一字名な辺りを見ると、明らかに松浦党(綱にはじまる摂津渡辺党の支流といいますね)と関係が深いような気がするんですけどw

さてさて家盛さんが佐世保の宇久島に流れついて宇久氏の祖となったとするならば、福江島にはそれにも劣らぬ平家のVIPがいらっしゃってます。その名は平教経。悲壮感漂うあの頃の平家の中で一人血の気の多いというかなんというかで壇ノ浦では知盛さんにオマエ無駄に殺しスギ、ゆうて怒られてた人ですナ。義経に八艘飛びで逃げられたヒト、のほうがわかりやすいでしょか。海御前はこのヒトのヨメ(もしくはオカン)、てのはどう?



壇ノ浦で二人の男を道連れにザンブと飛び込んだのち、泳ぎに泳いで(イヤ普通に船だろうけどw)福江までたどりついた教経さんが上陸したとされる所は、福江から2kmほど北にいった、六方(ムカタ)と呼ばれる集落とされております。後世、平家崎とも呼ばれることになる入江にたどりついたのは、教経サン以下7名の落人。六方の地名は、この地に六軒の家しかないことに由来すると言います。なぜに六軒かと言うと、とある文献によればかつてこの六方に身を隠すようにたどりついた7人の落人が、我らがここに来たこと他言無用と固く口止めした、すると村人の一人が入江に入った船を源氏の追手と戯れに欺いた。最期を悟った7人は平家崎にて自刃、しかしそのタタリによって6軒以上の人が住むことのない集落となってしまったというもの。うーむ、教経ならヤリソウ、と思ってしまうのはワタシだけではないでしょう。

一面に葦の生えた湿原を横に見つつ、細い道をトコトコいった先でここがそうなのかしらと途方に暮れていると、白い軽バンとワンコを連れたご夫婦が現れ、ここに平家の落人伝説があると聞いたのですがとつかまえましたところ、ちょっと待ってな、と裏の畑から老夫婦二人を呼んできて下さいました。その老夫婦は、六方の六軒の家の方だったんですよ超ラッキー。オバァチャンがおっしゃるお話は文献で仕入れた話とは少々違っておりまして、彼ら落人たちに6軒以上の家を増やせばムラを滅ぼすと脅されたため、それを守って6軒以上増やさずにいたのだといいます。そんなムラも現在は多くの家が移住してしまい、いまや2軒しか残っておりません。

この六方には七人の落人を祀る塚があるというわけで、連れて行ってもらいました、オジィチャンと草刈り鎌を手にしたその息子サンに。これがまたすごいとこにすごい状態であったトですョ。それが以下です。ジャンジャジャーン↓↓↓。



つ、つぶれてるしw

小高い丘というか「崎」という感じの頂上あたり。・・・せっかくなんだから連れて行ってあげたらというおばぁちゃんの逡巡するような言葉はウソではなかった。ヤァもう道なんてありゃしませんw 藪をかき分けたどり着いたところでこの有様w なんでもオジィチャンのオジさんの代まではまだ祭を守っていたけれど、祀り手が少なくなってからはすっかり手が入れられなくなったらしい。祭日は毎月17日だったそうで、オジィチャンいわく多分この7人が死んだ日とのこと。祭が近づくと祈祷師がやってきて、何日かこの堂にこもっていたそうです。くずれた屋根の下敷きになって一体何基の祠があるのか判別しかねましたけども、見える部分のそれには明治や大正の年号が刻まれておりました。

集落の別の場所には7人が水を飲んだという水呑み場もあるんだそうで、行きたい気持ちはヤマヤマだったんですけどもこれ以上ツレであるうちのじぃちゃんを車で待たせておくのも忍びないw、という状況により今回はあきらめました。が、昭和の頃、カツオ漁のために四国辺りから来た漁師がその水を飲んでコレラに罹って亡くなったために、ホウソウ塚に祀ってあるんだとか、この山には誰のもんかわからん塚がようけあってだとか、実に楽しい話をたくさん聞かせていただいたのでした。


つぶれた堂の下敷きになっていた祠の一つで、「平家崎大神」とある(別の祠には「平家崎神社六人〔木+家〕」)。福江で見かけた祠の多くはこのような家形で中に供え物を置く、という形。

六方のある伝説では教経さん一行は平家崎で自刃したことになっておりますが、死に場所とされているのがもう一ヶ所あります。それが島の中部西寄りにそびえる七ツ岳で、麓には七嶽神社と呼ばれる彼ら七人を祭った神社があるのです・・・が、実はこの神社も、北周りに島を巡っていた日の最後に見学を予定していたために時間切れで行けなかった所(涙)。七ツ岳とは、七つの頂をもつという非常に特徴的な形をした山らしく、島で2番目に高い(432m)のだそうです。信仰の対象となりうるものですし、七人の落人伝説は言うまでもなくこの山の形と無関係ではないでしょう。

六方で上陸し、七ツ岳で自刃。五海をわたって四神に護られ三途の川を引き返したとかいう話はなさそうです。それはさておき、伝説上とはいえ、落ち伸びてきた教経一行は航路をとらず、内陸部を行ったでしょう。壇ノ浦から福江島にたどり着いた時点でヤレヤレとならないんですね。東の入江にたどりついた落人一行は西側まで移動している、つまり島の内でさらに「落ち」ていく状況が演出されている辺りが、実にオモシロイなぁと思いまス。

彼ら七人の菩提を弔ったという宇久氏の姫の伝説が、島の内陸部には残っておりました。八代・覚が島の北部は岐(鬼)宿より福江に勢力を拡大し、その子九代・勝の時、現在の福江島の中心である福江に拠点を移します。その際に、西の守りとして二本楠の郷に残されたのが、勝の姫・茶々子であったと言われております。彼女が治めていた二本楠は、上の地図の黄色い道路がちょうど十字に交差する、見るからに内陸交通の要衝。彼女はここで七人の落人を弔う碑をたて、その傍らに草庵をむすんで冥福を祈ったとのこと。その茶々子の命日が奇しくも二月の十七日。十七日と言えば、六方の平家塚の祭礼と同じ日ですネ(関係あるかどうかはワカリマセンが)。

島の地図を眺めてみると、福江・富江(東・東南部)と二本楠・岐宿・荒川(西・西北部)の間にはどうも水系の断絶があり、島の東⇔西の内陸移動は、意外に困難だったのかもしれません。六方から七ツ岳へと人眼を忍んで「落ち」ていった平家の落人の伝説は、何らかの形でそれを伝えるものなのかもしれず、またそうすると勝に命じられて二本楠を守った茶々子は、想像以上に勝の厚い信頼とそれに応えるほどのすぐれた統治者だったのかもしれないと、フと思いめぐらせてみたのでした。


二本楠に残る茶々子の墓。この茅葺屋根は年交替で前と後、片方ずつ葺きかえるというしきたりが今も続いているのだそうです。


茶々子の墓のすぐ前にあった、七人の落人を供養する地蔵。なんぼ数えても六体しかないんだけどw

怪道vol.117 2008年五島の旅~Epi:3

2008年12月05日 01時20分36秒 | 怪道
最初に言っておく。今日は・・・オマケだ!

五島列島を紹介する広告に多いのは、青い海に青い空、そしてレンガ造のレトロな教会といったところでしょうか。本土の長崎がそうであるように、五島の異国情緒あふれる教会群はこの島が長く隠れキリシタンの住まう土地であったことに由来し、これらを世界遺産へ登録しようという動きが地域をあげて行われているようなんでありますが。

その一方で静かに忍び寄る我らがオダイシの影。そう、五島でいま秘かなブームとなっている・・・らしいのが、五島八十八ヶ所霊場巡拝。四国の約56分の1しかない土地で、あるんですよ、八十八ヶ所もの霊場が。これを五島空母化計画と呼ばずになんと呼ぼう。仮面ライダーDAISHIっていうより、オダイシの方がゴニョゴニョゴニョ。この五島八十八ヶ所霊場、別に昨今のお四国ブームに乗っかって俄かに作られたというようなものではないんですョ。意外にもその歴史は古く、明治19年の「明星院文書」なるものにすでに選定されているといいます。明治19年とかよく考えたらいい感じの時期なんですよね、ワタクシが四国でオヘンロしてた頃に見かけた道標の年号って、だいたい明治10年代後半以降からぼつぼつ増えてきますもんね。

食堂でたまたま出会った霊場巡拝中のオッチャンに聞いたところによると、四国のように島を一周するようになってはおらず、寺もあるけどその多くが集落に点在するお堂なんだとか。本尊は地蔵菩薩が圧倒的に多いんだそうで、地元の老人会や婦人会の人々によって大切に守られているとのことです。なんせ八十八もあるわけですから、さほど広くもない島です、巡っていると「○番札所」とかの立札がそえられた辻堂みたいなのにたまに出会うんですネ。あれは確か6番てついてたと思うんですが、鳥居が据えられた奥に「鎮守堂」てな扁額がかかってるというムリクリなものに出くわした時には思わず吹き出しますた(画像を見つけましたのでどうぞ→コチラ)。

えぇ、オダイシを見かけるとほぉっておけない性分なもので、この八十八ヶ所の一番と八十八番に行ってきたわけです。一番は福江郊外、久木山の麓に立地する明星院。そして八十八番はオダイシが唐より帰りついた時に上陸したという島の南西、大宝の入江に面する大宝寺。

明星院は寺伝によると大同元年(806年)、帰国の途にあるダイシが参籠し、自らが唐で得て来た虚空蔵の修法がはたして日本国を平安に導くことができるかどうかをうらなうため、同法を修したところその結願の朝。朝焼けに輝く明けの明星を目にしたオダイシがこれぞ吉兆と寺の名を「明星院」としたという・・・あのオヤジが日本国の平安とか真面目な顔してゆうたとかプーwww(←ゆがんたオダイシ愛を持っておりますので怒らないでクダサイネ)。

14世紀末に後の五島藩主の家系となる宇久氏が再興、近世を通して祈願寺とし、大正に入るまでは藩主と住職以外は本堂に入れなかったというたかぁい格式をお持ちだったために、長らく檀家のない寺でした。現在はわずかにゲットした数少ない檀家サンと細々やってますとは住職奥さまの談。ちなみに19世紀頃からこの寺は、福江領内の真言寺院のみならず神社までをもすべて管轄していたとのこと。「鎮守堂」の謎はこの辺で解けるのかなァ。


明星院遠景。ちなみに護摩堂が2番札所なので一つ所で2回納経ができちゃいます。


境内の八十八ヶ所巡りは、なんと全てがオダイシ像。

続きましては、一気に85番分をワープして、到着しましたのは大宝なんでありマス。前回の地図は微妙に場所を間違えておりまして、大宝は以下の場所なんでありマス。



大宝は大きくなだらかに湾曲した入江を持つ漁村で、遣唐使の頃はもちろんのこと、中世を通してながく大陸への渡海地として栄えたところ。集落の名前の由来ともなっているのが八十八番札所である大宝寺です。お寺の案内板によりますと持統の勅願てことなので元号寺院なんでしょうね、それを我らがオダイシが唐より帰国の際に「珠浦大宝」の浜に上陸後、真言宗にあらためたんだそうです。現在は「西の高野山」なんて呼ばれているそうですが、高野山より西にある真言寺院はママそないに名乗るもんですので、ハイ。

境内には「砂打」なんて国の民俗無形文化財に指定されている例祭をするんで有名な言代主神社があったり、ここにもあるぜ左甚五郎の三猿像、だったりするんですが、この寺の前身となった寺院がですね。なんでもインドのマガダ国から飛来した不須仙人がひらいた観音院だというんです。不須仙人が何者であるのか、ワタクシちょっと不勉強で存じ上げないんですけども、その墓というのが寺の裏山にあるわけで。


不須仙人の墓。

ずいぶん立派でしょw このお墓、なぜか「へそ神様」と呼ばれていて、五島で生まれたヒト達はみんなへその緒をこの塔の穴にいれるんですョ、とはお寺の人の談。入れても入れてもあふれないのが不思議なのです、とおっしゃっていたオバサマのへその緒も、この塔に納められているのだそうです。

とにかくオダイシ色の強い島なわけですが、最澄サンの方の伝説がないわけでもありません。島の西端、玉之浦の白鳥神社は、最澄が航海の安全を祈願し、帰国後に無事を謝して十一面観音を自作、奉納したと伝わっており、その十一面観音は現在大宝寺に移されております。

白鳥神社はおそらく当時は船で行ったのだろうと思います。上の地図で言いますと、大宝から先が「E」がナナメになったみたいな半島がありますネ、その中棒の先っちょにあたるんですが、当時だったら陸からはとてもじゃないけど行けたものじゃないというぐらいに不便な場所です。なぜにそんな場所を選んだという伝承が残ったのか、それを確かめたかったんですけどもね。冬は寒いのもイヤなんだけど陽の出ている時間が短いのがなんとも不便でねぇー、というのも島の南周りを順に巡っていた終点辺りの立地のせいであえなく時間切れw

まぁ、・・・アイツのワナやろな。


大宝の入江をのぞむ。