怪道をゆく(仮)

酸いも甘いも夢ン中。

怪道vol.123 立つ野 龍野 たつのー2

2009年02月24日 01時35分25秒 | 怪道
某政府系機構で貸金取立屋をやっておりますワタクシですが。新チェァマンが就任とともにナゾのヤル気を発揮して、このたび全地方支部の人員を一斉にお白州業務に投入するという大規模な方針転換がはかられることになりましてねぇ。ここ数年のうちに返済滞納者は一斉にお白州に引きずり出されることになりますョ・・・このご時勢になんたる極悪非道w さすがお上のやることは違います。そのトバッチリというかなんというかで、アテクシ神戸に職場が変わることになりますた。あぁもうどんどん自分の時間がなくなるしw

さてさて、というわけで本日も再びお白州仕事の寄りみち旅。来れたらいいなとゆうてたら、ホントに来る羽目になった龍野でございます。龍野の紹介は前のブログ(→コチラ)もご参照いただくとして。本日はこの龍野の城下町の南端辺りに坐す式内社、粒坐天照神社をお参りしてきました。


龍野橋より旧城下町をのぞむ。

粒坐天照神社。「いいぼにいますあまてらすじんじゃ」とフクザツに訓みますが、地元の人は「リュウザ神社」とサラッと呼んでらっしゃいます。国史での初見はかの貞観元年(859)の諸神同時昇叙の時。天照はアマテラスではなく天火明神です。『播磨国風土記』限定で言いますとオオナムチの子として登場し、だまされたことに激怒してパパナムチを死ぬばかりのメにあわせた例の暴れん坊ムスコなわけです。ところがこの暴れん坊、当社のご由緒書にいわく、推古天皇の頃、この辺りに伊福部連駁田彦なる「長者」wがおり、屋敷裏の杉の社の上に異様に輝くものをみた。これが忽然と童子に姿を変え、「ワタシは火明命の使い。オマエは正直でいいヤツだから」と種稲をさずけた。伊福部長者がそれを蒔くと、一夜にして一粒万倍したために火明命を的場山に祀り、またこれが「イイボ」の郡名になったというものです。うーん、出典おしえてw

このイイボが転じて「揖保」となったというんですけども、一方で『播磨国風土記』における「イイボ」の地名説話は天日槍と競争中な葦原志挙乎(=パパナムチ)のお行儀の悪い食べ方が起源となっているのは有名ですよね(その粒丘に比定される山は同じ揖保川のここよりもう少し下流)。ともにこの辺が播磨の一大穀倉地帯であることをヒシヒシと伝えるお話なんだけれども。

伊福部長者の話、すなわち「土地の有力者が富をもたらした火明命を的場山に祀った」という伝承は『風土記』の頃には多分ない。そこで思い出すのが、『風土記』の「龍野」の地名由来デス。野見宿禰の墓を造るのに多くの人が「立っ」た野だから、たつの。そしてそれ以前の当地は「日下部」なる地名だったことが見えるわけです。つまるところ、龍野は日下部さんのムラだったわけですね。うろ覚えで書いてますけども、日下部も伊福部も但馬の辺りにチラホラ見える氏族。だとすればこの「揖保」に関わる二つの地名由来やそれに割り込む「立野」の謂れは、この辺りから但馬にかけて住んでいた日下部だの伊福部だの、あるいは野見宿禰を奉ずる一族だのが、かくも豊かな土地をめぐってなんだかんだしてたw残香、少なくとも火明命を奉ずる伊福部氏は『播磨国風土記』が成立した8世紀前半以降に龍野に入った、てなところでしょうか。伊福部長者の話が、火明命は種稲を渡すのに童子を仲介している辺りも気になるところです。・・・うーん、放置w

さて、もともとは龍野城下町の三方を囲む山々の最高峰・的場山(標高約400m、中腹に前回お話した野見宿禰の「出雲墓屋」がある)の頂に坐していたこの神社、度重なる兵火により山一つむこうの大神(オガミ)というところに一時遷座(現在「古宮神社」が残ります)、ついで天正9年(1581)に蜂須賀正勝(小六のことですネ)により龍野城主の時に現在地に移されたといいます。

えぇ、さらっと読んでしまいがちな神社の沿革ですけども。まず標高400mの頂で度重なる兵火にあうってどうなのょと思ってしまいますヨネ。中世以降の龍野に築かれた山城は主に鶏籠山(標高218m)の方。こっちは200mですが、それでもそんなところにほぼウシとか人だけでオヤカタを作ろうってんですから中世人はほんとにナメたらあきません。さらにはそこに城があるナラバ攻めてやるぜというその心意気!まっとうな現代人なら戦国自衛隊レヴェルの装備でも躊躇しますね。中世人、とにかくイキがよすぎ。

それはともかく、これまで見て来たように龍野の町にとっての的場山は万の稲穂をもたらした天火明命が降臨し、また伝説的ヒーロー・野見宿禰の眠る霊峰なわけです。しかしながら現在その山麓に鎮座するのは、江戸時代に代々龍野藩主となった脇坂氏の祖を祀る龍野神社。的場山に降臨した火明命ならばここにいてもおかしくないのに、その現在地は的場山の南は白鷺山の麓、城下町の南限である樋山口門の外。さらには天正13年(1585)、小六の後に龍野へ入った福島正則によって社殿が造営されたはいいですが、本殿に祀られたのは「三社権現」。ナニ浅草w?と思いましたら、熊野と八幡と春日を合祀したからなんだそうです。この時、お気の毒にも肝心の粒坐神社は境内末社にされてしまい、結局日の目を見たのは神仏分離後の明治7年。・・・お疲れ様でしたw

現在の粒坐神社は、雑多な境内末社が所狭しとならぶ、ありふれた景観をたもっております。鬼門に瑜伽神社が鎮座してたりするのもおもしろかったですが、絵馬堂がなかなかに立派でして、龍野の人々の文化的水準の高さを匂わせます。

今度はできれば仕事以外でやってきて、白鷺山頂の国民宿舎赤とんぼ荘とかに泊まって歩きたいと思う別水軒なのでした。


瑜伽神社より境内を見下ろす。


立派な絵馬堂。


絵馬堂にいた・・・渡辺くんか大森くん(拡大図は→コチラ)。

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5 コメント

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絵馬 (つんた)
2009-02-24 19:29:12
なんでしょうねぇ?左手が切れてるように見えなくもないですが…あと考えられるのは紅葉狩か鈴鹿御前…いずれにしても馬が謎ですね。絵馬だから馬は絶対入れなきゃっていう絵師のこだわりだったりして。
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たぶん (主催者)
2009-02-24 22:18:38
紋が三ツ星一文字なので渡辺の紋なんですよね。だからおそらく渡辺くんでいいとは思うんだけど・・・。
・・・綱さんが戻り橋で鬼斬った時、馬に乗せてあげてませんでしたっけ?イヤ、ワタシ絵本のイメージで話してるかもしれないんだけどw
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Unknown (KR)
2009-02-25 00:45:54
『平家物語』剣巻をみますと

…一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、…「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。…

とありまして、馬に乗せてますね。でよく見ますと鬼が髻をつかんでるように見えますので、この場面を絵画化したものではないかと思います。
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>KRさま (主催者)
2009-02-25 01:10:08
またもや探す手間をはぶいていただき、ありがとうございますw
スッキリしましたーo(^-^)ノ
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伊勢と出雲 (御歳の子)
2012-05-05 00:12:25
初めまして 先週、播磨国風土記の伊勢都比古と伊和大神に関係していそうな式内社・地名を巡る旅をして参りました者です。
伊福部氏は所謂 尾張氏・丹波国造氏族で、伊勢の度会氏と同族といいます(古代氏族系譜集成による)。伊福部氏の
系図には、大穴持命の子に彦火明命に当たる神を載せています。
播磨国風土記・揖保郡林田里の伊勢野の条に見える伊和の大神の子の伊勢都比古
に由縁がある土地に、粒坐天照神社の論社がありました。梛神社と多賀八幡神社で
なんと、内宮と外宮に当たる祭神になっています。多賀八幡神社は明治以前は、湯屋谷という場所に、単独で多賀神社としてあったようです。伊勢の多賀の神は外宮の荒魂を祀り、倭姫命世記(伊勢神道)では気吹戸主と言います。梛神社は天照大御神。私には、こちらの方がしっくり来るのですが、、、いかがでしょうか。
皇祖神と習合した姿が、内宮と外宮の神で
あって、習合する以前の神は、伊勢都比古と伊勢都比売であるような・・・
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