空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編③

沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第3回と第4回


 第3回と第4回は前回の続きと言えるべきもので、曽野氏の「伝聞証拠」説への反論として、より具体的な証言者への取材をしていたとして曽野氏に反論しています。
 以下、箇条書きにて列記・引用いたします。

  • 証言者の名前を憶えていなかったことについては、「『鉄の暴風』は、証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしていたため、証言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかった」
  • 証言者は自分たちが集めたのではなく、沖縄タイムス社が「お膳立て」をしてくれた
  • 証言者の名前を記録しておかなかった理由は、「一つの事件に対する複数の立体的証言を」信用していたから
  • 取材時には当時の渡嘉敷村村長や国民学校校長も同席
  • 非体験者の「伝聞証拠」などは採用していない

 「伝聞証拠」と批判された「鉄の暴風」はこのようにして、直接的に体験してきた人たちからの証言を得たうえで完成されたものである、ということを主張しています。そして「記述改訂必要なし」として締めくくり、逆に「ある神話の背景」への反論を試みています。
 その主旨を前段と同様、箇条書きにて列記・引用します。

  • 「赤松の言葉を信ずるか、渡嘉敷島の住民の言葉を信じるかという問題」が残る
  • 「私は赤松の言葉を信用しない」→すなわち「ある神話の背景」は信用しない
  • 住民処刑を含めて「『ある神話の背景』は赤松弁護の意図で書かれている」

 以上が第3回と第4回の主旨です。前回同様、誰と誰に取材をしたかについては、もはや当事者のみしかわからないという現状でありますから、その点について特に論ずることはありません。
 
 ただし、「伝聞証拠」に対する取材方法に関することよりも、より気がかりなことがありました。それは「赤松の言葉を信ずるか、渡嘉敷島の住民の言葉を信じるかという問題」と、「私は赤松の言葉を信用しない」という文言です。
 その点についてさらにわかりやすくするように、長いですが「沖縄戦に“神話”はない」第4回から以下に引用いたします。
 

 「私は赤松の言葉を信用しない。したがって、赤松証言に重きをおいて書かれた『ある神話の背景』を信ずるわけにはいかない。(中略)赤松はたしかな証拠もなく住民を処刑しているが、彼の言葉を信用して彼のために全面弁護を試みている『ある神話の背景』よりも、戦争の被害者である渡嘉敷島の住民のなまなましい体験をもとに書いた『鉄の暴風』のなかの“渡嘉敷敗戦記”が信ずるに足るのである。同戦記は証言による記録として書かれたが、『ある神話の背景』は赤松弁護の意図で書かれている。」


 つまりは、集団自決で住民たちに「死ね」と命令を下し、集団自決後に住民をスパイ容疑で否応なく処刑した「悪人」である赤松氏の証言は信用しないということであって、なおかつ「ある神話の背景」は赤松氏を弁護するために書かれたものだと、太田氏は糾弾しているということです。

 「悪人」を糾弾すること自体に異論はありません。しかし、悪人だから信用しないという点については、個人的には疑問を感じざるをえません。あるいはこの場合、被害者である住民の証言は信用するが、加害者とされる日本軍・軍人は信用しないというスタンスであるといったほうがしっくりくると思いますが、軍人は信用しないと断言してしまうのには問題があるのではないでしょうか。
 こういった考え方は結局、特定のものだけを信用し、特定のものだけは信用しないという恣意的な考え方を具現化したものであり、極言すれば「いわれなき差別」であるということにもつながりかねません。

 歴史学といった学術研究において当事者の証言というのは、一次資料として最重要であることは特に説明するまでもありません。しかしながらその証言を「事実か否か」ということを無視して「信用するか否か」を前面に押し出すその姿勢は、学術研究だけにとどまらずジャーナリズムという観点からみても、はたして健全なものなのでしょうか。

 沖縄の集団自決をはじめ、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」といった、いわゆる歴史認識問題の特徴として、上記のような「事実か否か」を完全に無視し、証言者を「信用するか否か」のみでそれぞれ考察していることが、当然のようにたびたび見受けられます。
 渡嘉敷島の集団自決に関しても同様で、しかもこの論争は1985年でありますから、既に30年以上前から特定のものだけを信用し、特定のものを信用しないといった恣意的な姿勢が、少なくとも沖縄タイムスをはじめとするジャーナリズムの間で、改善されないまま常態化していたものと考えられます。それが2019年の現在も継続しているような気がしてなりません。
 そういった事態は憂慮されるべきことであり、あらためて考察すべき事柄であるとは思いますが、ここでこれ以上の考察は趣旨から外れることになりますので省略いたします。

 ただ、恣意的な証言の採用とその影響に関しては、当ブログ「言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」」で自分なりの考察をしておりますので、興味のある方は御一読をお願いいたします。


次回以降に続きます。

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