空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 後編⑦

「土俵を間違えた人」第3回


 今回は第3回目となりますが、どちらかというと赤松大尉の自決命令そのものの論議ではなく、曽野氏のジャーナリズム批判に対する太田氏の反論、という形態に終始する回となっています。

 まずは太田氏の反論を考察する前に、曽野氏がどのように批判していたかについて、だいぶ長くはなりますが再度「沖縄戦から未来に向かって」の第3回から引用いたします。


 「太田氏のジャーナリズムに対する態度には、想像もできない甘さがある。
 太田氏は連載の第三回目(「沖縄戦に神話はない」第3回─引用者注)で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。
 もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のように思いだせるはずだ。また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったと承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだという、素人のたわごとのようなことを言うべきでない」


 個人的見解としては「想像もできない甘さ」や「素人のたわごと」といった表現があり、人によっては「悪口」ととらえられるような、かなり感情的な部分があると思われます。これに対して太田氏からすれば、自らのジャーナリストとしての根本的な資質を問われ、批判しているようなものになると思われます。
 以下に太田氏の反論を引用いたします。


 「ここでは、「鉄の暴風」が、曽野さんが言うように伝聞証拠で書かれたものか、そうでないかが重要な論争点である。「鉄の暴風」は伝聞証拠ではない、直接体験者から聞いて書いたものだ、と私が言うと、こんどは、「新聞社の集めた直接体験者の証言なるものがあてになるか」と言い出す。子供が駄々をこねるようなことは言わないでほしい。おなじ直接体験者の証言でも、新聞社が集めたもの(「鉄の暴風」)は信用できないが、自分が集めたもの(「ある神話の背景」)は信用できるのだ、と言っているのだろうか。


 太田氏も「子供が駄々をこねるような」といった表現があり、曽野氏と同じく感情的になってしまっていると思われ、引用した部分以外でもそれが散見されます。

 今回の根本的な論点というのは、ここでいう「直接体験者の証言」に決定的な乖離があるということです。すなわち赤松大尉を中心とした軍人側の直接体験者と、渡嘉敷村の村長をはじめとした住民側の直接体験者の証言に相当な食い違いがあるということです。
 直接体験者の食い違いを是正することこそが、この論争の最重要な目的かと思われますが、お互いの感情的なぶつかり合いがおこっていることで、本来の目的がぼやけてしまった状況に陥っているとしか思えません。
 そのようなものの考察自体が無意味でありますから、感情的な言い合いの是非については一切関知いたしません。「鉄の暴風」と「ある神話の背景」の「直接対決」という貴重な場面なのに、個人的にはもっと冷静な論争であってほしかった、という残念な気持ちしかございません。


 次にこの回で着目する点となるのは「毒ガス報道」で、新聞社でも間違いがあるとして曽野氏が挙げた具体例のことです。どういうことが書かれていたかについては、前述の長い引用文を参考になさってください。
 ここでは太田氏の反論を、曽野氏の引用同様にだいぶ長くなってしまいますが、できるだけ理解しやすくなるように引用いたします。


 「朝日の写真を一目見ただけで、それが毒ガスでないことがわかったという「おおかたの戦争体験者」の証言そのものが、怪しい。彼らがすぐ、毒ガスかどうかが分かるということは日本軍がたえず毒ガスを使用していたことを意味する。(中略)
実は、何か月か、私はその「ガス兵」の訓練を受けたことがある。その訓練は相手からガス攻撃を受けたときの防御措置が主なる目的であった。ほとんど忘れてしまったが、ガスの種類とその時の空気の状況によっては、煙状のものが高く立ちのぼることがある。それでも白黒写真ではガスかどうか判定はむずかしいのではないか。また、開闊(かいかつ)地(広く開かれた場所や土地─引用者注)でも使えないことはない。(中略)
味方軍隊が前進攻撃する前方にガス弾を射ち込むはずがないというのは、まったくの無知である。(中略)新聞を批判する側の直接体験者の証言なるものもかならずしもあてにはならない。
朝日新聞がはじめからガス弾でないと分かっていて、例の写真をかかげたのなら、それは「虚偽の報道」ということになる。だが、知らないで、それをガス弾の写真と信じてのせたのであれば、それは「誤報」である。
たとえ、客観的事実とはちがっていても、報道の真実からはずれているとは思えない」


 第三者的な立場からすると、曽野氏は「新聞報道にも間違いがある」というその具体例として、朝日新聞の「毒ガス報道」における顛末を掲げたことに対して、太田氏は毒ガスに関する自らの経験談を持ち出しながら、「毒ガス報道そのもの」を否定するような論調であると思われます。
 特に太田氏は力説と表現できるほど、「毒ガス報道そのもの」に個人的な軍隊経験をはじめとして、事細かな反論へと発展・拡大していることがうかがえます。
 自らの主張を理解しやすいようにしたのかどうかは不明ですが、曽野氏が具体的な例を掲げたのに対して、太田氏は具体例そのものを否定するのでありますから、両者の言い分は全くかみ合っておりません。

 個人的見解ですが、なぜそうまでして「毒ガス報道そのもの」の否定にこだわるのか、多少なりとも疑問が生じるのであります。
 ただ、曽野氏の感情的と思われる文脈を読む限り、それに呼応して太田氏がさらにヒートアップしてしまった、という推測をすることが可能ではないかと思われます。
 その典型的な例として「新聞は間違えないものだという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない」といった曽野氏の一連の主張は、太田氏としては繰り返しになりますが、新聞記者、あるいは新聞社といったジャーナリストとしての資質を、完全に否定されたようなものです。そういったものへの反撃として「毒ガス報道そのもの」を書いたのではないかと思われます。

 感情的な文脈を削ぎ落して曽野氏の主張を整理し、わかりやすくするならば「新聞社や記者もその報道内容は間違うときもあるが、沖縄タイムスや太田氏はどうか?」ということなると思われます。
 その問いに対し、太田氏の個人的経験から得た一面的な私見を削ぎ落してその主張を整理するならば、そもそも「おおかたの戦争体験者」の証言そのものが、怪しい」として、「新聞を批判する側の直接体験者の証言なるものもかならずしもあてにはならない」と結論づけて、曽野氏が掲示した「毒ガス報道そのもの」を否定する構図になると思われます。

 また、あくまで個人的見解ですが、「たとえ、客観的事実とはちがっていても、報道の真実からはずれているとは思えない」という主張は、何に対してのものか、曽野氏の何に対する反論なのか、残念ながら判断がつきかねます。
 
 虚偽と誤報は太田氏の主張通り根本的に違いがあります。しかし、曽野氏の今回だけでなく、むしろ原則的ともいえる主張をわかりやすくすれば、繰り返しになりますが「ある神話の背景」を通じて「鉄の暴風」や太田氏の主張に「間違いはないのか?」と、問題提起を掲示しているかと思われます。ただし曽野氏の主張が「事実か否か」ということに関しては、全くの別問題であることを付言します。
 それに対し太田氏の「客観的事実とはちがっていても、報道の真実からはずれているとは思えない」といった主張は、つまり「事実」と「真実」は違うといった意味になるのでしょうか。少なくとも、個人的には曽野氏の主張への反論とは言い難い内容だと思われます。

 以上のような「直接体験者」同士の乖離に加えて、曽野氏と太田氏の主張まで乖離した状態にあるということは、第三者的立場からすれば、結果的に混乱しか残らないのではないかと思われます。「集団自決の実像」解明という観点からすれば、収穫を得るものが少ないのではないかと思われますので、これ以上の考察はいたしません。
 なお、太田氏の掲示した毒ガスに関する個人的経験に基づいた私見についても、軍事学的観点からすれば不可解な点がありますが、それを考察することは主旨から完全に外れてしまいますので、ここでは一切取り上げません。


次回以降に続きます。


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