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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」④

2019年02月27日 00時12分27秒 | 渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」

 

 個人的に気になる点 その1


 前回は「赤松大尉の自決命令」から「軍の命令」へとシフトした「瞬間」について書きました。

 

 今回は先述した兵事主任の証言について個人的に気になる点、具体的には腑に落ちない点について説明したいと思います。まずはわかりやすいように再び引用します。 

 

 「「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と、近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだっただろうか、と富山さんは回想する。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

 すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどの道へ並んだ少年たちへ、一人一個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに…。富山さんは証言をそうしめくくった」1988年6月16日付『朝日新聞』(夕刊)より引用。

 

 個人的に気になる点は二つあります。

  1. どうして米軍が上陸するのを予知できたのか?
  2. それは「命令」なのか「訓示」なのか「指示」なのか?
 
 どうして米軍が上陸するのを予知できたのか?についてですが、他の文献にも指摘されていることでもあり、基本的にその文献等を支持します。わかりやすく説明すれば、その当時は想定外だった地上戦なのに、なぜ地上戦の準備をしていたのか、というのが骨子であります。
 
 そもそも慶良間諸島に海上挺身戦隊が配備された理由というのは、沖縄本島へ上陸する米軍に対しての攻撃であります。もっとも上陸した地上部隊を攻撃するのではなく、上陸部隊を支援する艦船への攻撃になります。従って米軍が沖縄本島に上陸する、あるいはしようとしているのが前提でありますから、慶良間諸島はその次になるわけです。
 
 渡嘉敷島を含む慶良間諸島からすれば、まず本島への攻撃が始まって、いつかはわからないが、その次に慶良間諸島を攻めるのではないか、という認識が少なくとも現地軍である第三十二軍にはあったのです。むしろあったがゆえの結果として、各海上挺身戦隊は慶良間諸島に配備されたということです。
 
 日本軍の具体的な配備・作戦等は省略いたしますので、ご興味のある方は参考文献等でお調べください。
 
 しかし現実にはそうなりませんでした。米軍は沖縄本島よりも先に慶良間諸島を攻撃します。ちなみに兵事主任の証言では3月20日ごろということですが、24日に米軍の空襲が始まり、27日に上陸作戦が展開されます。
 
 結果的に予想外の展開になった渡嘉敷島ですが、大小さまざまな敵の艦船が集結した後に決行される作戦の性質上、実際に出撃する現地部隊のほうが、その認識度は高かった可能性があります。
 
 従って地上戦闘は二次的なもの、あるいは地上戦の準備は優先順位が低かったともいえる状況でした。それにもかかわらず、なぜ米軍の攻撃を「予知」したような、手榴弾を配布するような行為がなされたか、そしてその後に起こる集団自決を「予知」していたような「自決せよ」という「命令」がなされたのか、という疑問がわくのも当然だと思います。
 
  そういう高い認識度があったならば、この証言には信ぴょう性がないかといえば、必ずしも断定することができないと思います。
 
 例えばあくまでも仮定ではありますが、この集合が「訓練」あるいは「軍事教練」の一環だったらどうなるでしょう。
 
 勿論、兵事主任の証言には訓練や軍事教練といたものが、特に明記されているわけではありません。
 しかしながら、地上戦は想定外、あるいは優先順位が低いといった認識度が高く、かつ兵事主任の証言に間違いがないのであれば、この役場前の集合というものが来るべき地上戦に備えた、軍事教練といった訓練だったのではないかという推測もできるのです。上記の証言時ではありませんが、そういった訓練をしたという証言もあり、渡嘉敷島のみならず沖縄県全体、いや日本全体で行われていたことも考え合わせれば、特に違和感はないと思われます。
 
 そうであるならば、少年たちに手榴弾を配っていることに説得力も追加されるのです。そういう経緯で兵器軍曹が「自決せよ」と言っても整合性がないとは言い切れないという推測も成立するのです。
 
 くどいようですが、兵事主任の証言には訓練だということは一切明記されていません。それでも「地上戦はない」といった認識度が高かったという事象、もっとわかりやすく言えば、高い認識度があるにもかかわらず、ということと、手榴弾を配布したという二つの事実に辻褄を合わせようとした場合、上記の仮説も成立するのではないかということです。
 
 ただし、訓練ではないかという「発見」を自慢する気はまったくございません。二つの事象を検証してみると、別の仮説や推測が成立するということを強調します、ということを是非ご理解頂きたいだけです。
 
 
 推測の文字ばかり並んでしまった感もありますが、再三指摘したとおり兵事主任の証言を相互参照・相互補完できる資料が一切ありませんので、これ以上の考察は無理と判断いたしました。
 
 
 どっちつかずの状態だという疑問、あるいは腑に落ちない点を掲示しましたが、皆さんはどう思われるでしょうか。
 
 
 
次回以降に続きます。
 

参考文献
 
防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社 1968年) 
 
八原博通『沖縄決戦』(読売新聞社 1972年)
 
秦郁彦『現代史の虚実』(文藝春秋 2008年)

沖縄の県民投票に思うこと

2019年02月26日 00時09分53秒 | いろんなこと日記

 

有権者数 1,153,591人

投票率 52.48%



反対      434,273

賛成      114,933

どちらでもない 604,385



反対者の割合       37.65%

賛成者の割合       9.96%

どちらでもないの割合  52.39%



結果が出ましたね。


投票率が53%ですか…

意外と関心が低いんですね。


意外というのは地元のマスメディアも辺野古反対を

ある意味扇動していましたから、ということです。


地元マスメディアの事前調査では、

9割以上が投票し、その7割が反対表明をしてるのに、

実際は5割程度の投票率、つまりは4割弱の反対。

という事実もあります。

見たくないものしか見てないんでしょうね…


「どちらでもない」というのは、

まぁ…こんなもんですかね。

投票に行かなかった人も含めてですから、

一番多いのは妥当ではないかと思います。


今回は県民投票でしたが、

地方自治体の選挙なんてこんなもんですよね。

地元の町長選なんか50%を下回ってるし…

 

でも反対者の割合が38%っていうのは、

いくらなんでも、ちょっと低いんじゃないかなぁ…

マスメディアは取り上げそうにないですね、この数字。

 

こういったデータを見てしまうと、

もうそろそろ「オール沖縄」とか「県民の総意」とかは、

引っ込めたほうがいいかもしれませんね。

この方々と現実が乖離してしまってるので…

 

誇大広告になってしまったら、

結果的に誰からも信用されなくなります。

結局、反対派は「声が大きいだけ」の少数派、

ということになってしまいますから。

少数派を、いかにも「沖縄の声」と喧伝するようなものです。

いや、しているということです。


ま、何を言っても無駄でしょうね…

 

自分の意見以外を排除するような、

自分たちの意見以外を叩き潰すような、

そんなファシストにだけはならないでくださいね。

 

以上、部外者からの余計な一言、二言三言でした…

 


沖縄の県民投票直前に思うこと

2019年02月24日 18時06分12秒 | いろんなこと日記

すったもんだのゴタゴタがありましたが、

ようやく県民投票の期限が迫ってまいりました。

このブログを書いているのは午後6時。

あと数時間の期限ですね。

 

「賛成」「反対」は皆さんも気になるところでございましょうが、

自分は「どちらでもない」という項目に注目しております。

 

なぜかといえば、

「どちらでもない」ということは、

すなわち「どうでもいい」ことになると思います。

 

その「どうでもいい」ことをわざわざ投票所にまで行って

わざわざ投票する人って、

一体どのくらいの数になるのでしょうか?

 

「どうでもいい」ということは、

すなわち「無関心」ということにもなりますので、

その「無関心」さをアピールするようなものですからね。

 

そもそもなぜ「どちらでもない」というような、

誰も何の得にもならない項目を追加したのかわかりません。

 

いや、無関心を責めるつもりはございません。

「無関心」という意思表示でもあるのですから、

個人の考え方そのものを批判するようなことはいたしません。

 

自分の意見が「絶対正しい」といって、

それを押し付けるようなヤツは大嫌いです。

ということを理解していただきたいです。

 

「オール沖縄」勢の行く末を占うような県民投票でもありますが、

今後が楽しみです…


渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」③

2019年02月24日 00時07分41秒 | 渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」

「自決命令」から「軍の命令」へシフトした瞬間

 

 前回まで「自決命令」→「軍の命令」→「軍の強制」というシフトがなされてきたということを延々と書きました。それが集団自決の実像解明の弊害あるいは阻害しているのではないか、ということも指摘しました。詳しくは当ブログ「言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」」①と②をお読みいただければありがたいです。

 

 では一体どのような感じでシフトしていったのかということを、具体的な例を挙げて考えてみたいと思います。今回は「赤松大尉の自決命令」から「軍の命令」へとシフトしたといえる「瞬間」です。

 

 この場合、シフトしたということは変わったということにもなりますから、それを示すエポック的なものや象徴的なものが必ず存在するはずです。自分なりにいろいろ探してみた結果、とある有名な証言がそれに該当することと判断いたしました。

 有名とはいいましても、渡嘉敷島の集団自決を研究する人や、集団自決に興味がある方なら誰もが知っている証言という意味です。また、この証言がその後の渡嘉敷島集団自決における、「軍の命令説」に対する決定的な証拠として数々の文献に取り上げられていますので、そういった意味での有名ということでもあります。

 

 その証言とは「兵事主任の証言」です。ご存知の方もおられるでしょうが、ご存知ない方のために引用いたします。

 

 それでは1988年6月16日付の『朝日新聞』(夕刊)から。

 「「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか。青年たちをすぐ集めろ、と、近くの国民学校にいた軍から命令が来た」。自転車も通れない山道を四㌔の阿波連(あはれん)には伝えようがない。役場の手回しサイレンで渡嘉敷だけに呼集をかけた。青年、とはいっても十七歳以上は根こそぎ防衛隊へ取られて、残っているのは十五歳から十七歳未満までの少年だけ。数人の役場職員も加えて二十余人が、定め通り役場門前に集まる。午前十時ごろだっただろうか、と富山さんは回想する。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」

 すでにない旧役場の見取り図を描きながら、富山さんは話す。確か雨は降っていなかった。門前の幅二㍍ほどの道へ並んだ少年たちへ、一人一個ずつ手榴弾を配ってから兵器軍曹は命令した。「いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残る一個で自決せよ」。一兵たりとも捕虜になってはならない、と軍曹はいった。少年たちは民間の非戦闘員だったのに…。富山さんは証言をそうしめくくった」

 

  一般的常識で考えれば、この記事を読んだら「軍の自決命令」があったのではないか、と考えるのではないかと思われます。「兵器軍曹」が部下に命じて手榴弾を用意し、役場職員と少年たちを集めて「自決せよ」と「命令」しているのですから、軍からの命令はあってもおかしくはない、というような印象を持つことができるのではないでしょうか。

 

 では早速、シフトしたという観点から考察してみます。

 一読していただければわかると思いますが、この証言には兵器軍曹が命令したということだけで、「鉄の暴風」に掲載された「赤松大尉の自決命令」については言及されていません。

 

 軍隊というのはご存知の通り「上意下達」が基本中の基本ですし、特に日本陸軍の場合は敵の米軍よりもシビアな上意下達、究極的なものといっても過言ではないほど厳しかったです。「上官の命令はすなわち天皇の命令」なんて典型的な例だと思います。これは厳密にいうと必ずしも正しいとは言えない例なのですが、その雰囲気を感じ取ってくれるだけでよろしいかと思います。

 上意下達を順々と辿っていけば、当然のごとく赤松大尉に到達することは明白であります。そういうことであるならば、この兵事主任の証言に出てくる自決命令は、赤松大尉が発したものと断定することが可能です。

 

 「渡嘉敷島の隊長さん」は赤松大尉なのですが、ある時期までは隊長が二人いました。海上挺身第三戦隊の赤松大尉と、海上挺身基地第三大隊の隊長です。一見すると似たような名称ですが全くの別部隊で、戦闘序列は同列でした。わかりやすく言うと二人の上司は同じなのですが、組織としては主従関係でも上下関係でもないということです。現在の会社組織と同じです。

 ちなみに海上挺身基地第三大隊の任務は、海上挺身第三戦隊用の基地設営・構築・船舶の整備で、海上挺身第三戦隊が出撃等により渡嘉敷島から出てった後は、渡嘉敷島を防衛をすることになっていました。現実にはそうならないで、海上挺身第三戦隊が渡嘉敷島に残ったということになります。

 

 隊長が二人いた場合、兵器軍曹の所属先によっては、赤松大尉の部下ではないということになります。しかし「島がやられる二、三日前だったから、恐らく三月二十日ごろだったか」という証言に誤認がないのであるならば、二月中旬に海上挺身基地第三大隊は海上挺身第三戦隊に編入された事実がありますので、この兵器軍曹は赤松大尉の部下ということになります。

 

 しかし、あくまでも理論上という領域の枠から抜け出すことができません。特に説明するまでもありませんが、上意下達というものは複数の人が介在しておりますゆえに、「独断専行」等といった何らかの理由により、いくら厳しい上意下達といっても、赤松大尉以外の人物が自決命令を出したという可能性が存在するからです。つまり少なくとも上記の証言だけでは、「赤松大尉が発した自決命令とは断言できない」ということです。極言すれば兵器軍曹が勝手に出した命令という可能性も、この証言からは否定できないのです。

 

 そうなると、次は兵器軍曹の存在が重要になってくるのは当然の帰結になるでしょう。特定することができるのであれば、この証言を補完できるものであることは言うまでもなく、自決命令がどのようなものだったかという実像の解明が、全てではないにしろできるということになります。

 

 そもそも兵器軍曹とは何か、ということになりますけど、上記の証言だけでは特定できません。それでもある程度の推測は可能だと思います。

 「兵器軍曹」という、いわゆる役職といったものはありませんが、中隊レベルの組織になると「兵器掛」というものが存在し、通常は軍曹といった下士官レベルが担当します。「中隊にいる、俗に兵器軍曹と呼ばれる下士官。その人が兵隊二人に手榴(しゅりゅう)弾の木箱を一つずつ担がせて役場へ来たさ」という証言と突き合わせてみると「兵器掛」だった可能性があります。また手榴弾が入った木箱を二つ、部下に運ばせている場面もあります。これは船舶と爆雷がメイン兵器の海上挺身第三戦隊より、のちに編入された歩兵部隊でもある海上挺身基地第三大隊のほうが、常識的に考えれば大量の手榴弾を所有している可能性が高いので、元は第三大隊所属だったのではないかという推測も可能です。

 ただし、あくまでも推測の域を出ないことを付言します。

 

 次にくるのが「兵器軍曹は誰なのか」ということになります。

 軍曹というからには元軍人の証言といった資料や「陣中日誌」「戦闘概要」「戦闘詳報」等、といったもので特定することが可能になるかもしれません。しかしながら元軍人の証言でさえありませんでした。ちなみに海上挺身第三戦隊の陣中日誌は戦後になって加筆・訂正されたそうです。要はオリジナルではないということです。

 

  従って、どこの所属だか2019年の時点でも不明なのです。誰も誰だか知らないということです。他に補完するような資料、具体的には証言というものがないんです。要はこの兵事主任の証言だけなのです。それゆえ資料を突き合わせて考察すること自体が、2019年現在でも不可能になっているということです。 

  

 それどころか、上記の資料自体を相互参照・相互補完できる資料自体がないのです。インターネットでの検索も同様です。

 個人的な見解ではございますが、このブログを書くにおいて土台にした自らの卒業論文(放送大学に提出)を製作中だった2007年頃から、不思議だなと思い続けていました。しかもインターネット上では、同じような考えをお持ちになられた方もおられるようですが、ここでは参考程度で受け止めていただきたいです。

 

 証言の内容を一読していただければ、登場人物が多いことに気付くはずです。役場職員たち、少年たち、そして軍人たち合わせて数十人程度ですね。それなのに資料が出てこないのです。しかもこの集合に参加した人たちはもちろんのこと、集合している光景を見たという証言もないし、聞いたという証言もなく、軍人も同様な状況なのです。 似たようなもの、関連性がありそうなものでさえ見当たりません。

 参加した人や見た人聞いた人が、戦争中や戦後に亡くなられてしまった可能性も十分ありますし、結局残ったのは元兵事主任だけということかもしれませんが、とにかく不明であることだけは確かです。

 

 ないものを延々と説明することは脇に置いといて、「自決命令」→「軍の命令」へシフトしたという瞬間に戻ります。

 

 そういった観点に立ち戻れば、この証言によって「軍の命令」があった可能性が高いということもできるのです。別の言い方をすれば「赤松大尉の自決命令はなかったかもしれないが、軍の命令はあったはずだ」ということになります。

 

 ここが「赤松大尉の自決命令」→「軍の命令」、すなわち具体的なものから抽象的なものへシフトした「瞬間」だということが言えるのです。そして同時に適用範囲の拡大も行われた結果「鉄の暴風」に描写された「赤松大尉の自決命令」は、自動的ともいえるような形で無視または排除されたわけです。

 

 さらにいえば「赤松大尉の自決命令」がなくても「軍の命令」として、軍や日本に対する集団自決の責任追及を難なく継続できることが可能になったのです。

 なぜ継続できるのか、継続させるのか、ということについては当ブログの①と②を読んでいただければありがたいです。

 

 ここではシフトしたことに中心に書きましたが、皆さんはどう思われるでしょうか。

 

 

次回以降に続きます。

 

追伸 

「兵事主任の証言」を参照・補完できる資料がないと書きましたが、もし何かあることをご存知な方は、遠慮なさらずコメント欄でご教授をお願いします。自分は完璧な人間ではございませんので、どこかに見落としがあるかもしれません。


渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」②

2019年02月21日 00時13分23秒 | 渡嘉敷島の集団自決 言い出しっぺがほったらかし~で読む「挑まれる沖縄戦」

「日本軍は悪いことをした」という「信念」の弊害

 

 日本の戦争責任を追及する人たち、あるいは組織団体が「具体的なものから抽象的なものへシフト」させ、その「適用範囲を拡大」させているということを説明しました。そしてそれが弊害を生んでいるということも指摘しました。

 では一体、どのような弊害を生んでいるのでしょうか。

 戦争責任追及の根本にあるものをわかりやすくいえば、「日本軍は悪いことをした」ということになると思います。悪いことをしたからその責任を追及するんですよね。そういった「信念」を持っているのは間違いないと思います。

 日本の反戦団体や平和団体で活動している人たちとお話になったことはありませんか。仮に日本軍についての質問やその人たちの考えを聞いたら、必ず日本と日本軍の批判や非難を繰り返しますし、自分もそういう経験をしてきたことがあります。

  これは「信念」ですから絶対に揺るがないことでしょう。ただし、信念を貫くこと自体を批判する気はございませんので、そこは誤解をなさらないようにお願いします。

 しかしながら、その揺るがない信念を貫き通すはずが、何らかの作用によってその信念とは真逆の、あるいはその信念を否定するような事態がおこった場合、その人たちはどういった行動をとるのでしょうか。つまり「日本軍は悪いことをした」という信念あるいは考え方を、真っ向から否定されるようなことです。

  渡嘉敷島の集団自決において「赤松大尉の自決命令」→「軍の命令」→「軍の強制」とシフトしていったことを前述しました。仮に赤松大尉の自決命令が、誰もが納得できるようなゆるぎない事実であったなら、「軍の命令」→「軍の強制」という流れは絶対になかったでしょう。「日本軍は悪いことをした」という信念を完全に完璧に肯定し補完するものですから、そこで流れが止まるのです。

  しかし現実には当事者の発言を否定する証言と、当事者の「誰も聞いていない」といった証言や事実しかありません。「赤松大尉の自決命令」がなかったと主張されても、常識的に考えれば間違いであることを否定できません。つまり「日本軍は悪いことをした」という自らの信念が否定されてしまうわけです。

  そこで次に出てくるのが「軍の命令」です。赤松大尉の発した自決命令はないかもしれないが、複数の証言には軍からの命令があったのは事実だから、集団自決も「軍の命令」だった。つまり「日本軍は悪いことをした」という信念を肯定することができます。

  しかし、複数ある証言のなかに軍の命令があったのですが、「移動しろ」「集合しろ」というものばかり。肝心の自決命令を聞いた人の証言には、それが自決しろという命令かどうかもわからず、命令がどこから来たのかさえ当事者には不明だったという事実もあります。これについては当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」②」に詳しく書きましたので、興味がおありになったのなら読んでいただくとありがたいです。

 これも「赤松大尉の自決命令」と同様、誰が言って誰が聞いたのか特定できない「軍の命令」なのですから、それがあったとは言い切れない状況です。命令はなかったと主張されても、それを覆すことができません。すなわち「日本軍は悪いことをした」という信念が崩されてしまうのです。

 そして最後に出てくるのが「軍の強制」になるわけです。誰かから誰かへという明確なラインがある命令と違って、強制であったならばそんな明確なものは必要ありません。軍が集団自決を強制させるような行為、あるいは彷彿とさせるような行為、またはそれを匂わせるような行為であれば、その全てが「強制」の範疇内になるわけですから、そういった行為をどんどん出していけばいいわけです。箱が大きければ大きいほど、物がいっぱい入ると同じ論理です。そう考えれば「強制」なんていくらでもありますよね。

 また「強制」というのは、つまり「自らの意思に反する」ということでもあります。裏を返せば「自らの意思に反する」行為なら、全てが「強制」にすることが可能となるわけです。
 例えば「徴兵制」というものがありますが、これも人によっては「自らの意思に反する」ものでしょう。そうでありますから、徴兵も「強制」であるといえることが可能になるわけであります。
 日常生活の中でもそれが「自らの意思に反する」ものであれば、たとえ「出勤」や「勉強」といった当たり前のようなことまでも、何の違和感もなく「強制」と位置付けることが可能となっていくのです。「やりたくないこと」を「やらされれば」、それは全て「強制」されたといえるのです。
 要は何でも「強制と言い換えられる」ことが、それこそ無限に現出してくるというわけです。

 これで「日本軍は悪いことをした」という自らのゆるぎない信念は、誰からも否定されなくなるわけではありませんが、されにくくなるということになります。もし否定されそうになったら、数ある「強制」という証拠を逐次投入すればいいだけです。

 「強制」を基準点にするならば個人的には同意できませんが、彼らの「日本軍は悪いことをした」という主張(信念)は決して間違いではないのです。

  これで具体的なものから抽象的なものにシフトさせ適用範囲を拡大する行為が、どういった内容なのかがお分かりいただけたでしょうか。

  次は上記の行為がもたらす影響はどういうものなのでしょうか。

  原因には必ず結果があります。厳密にいえば原因と結果の間には過程(プロセス)もあり、これに関していえば特に議論の余地はないと思います。

 原因→過程・プロセス→結果といった一連の流れを「集団自決の考察」に当てはめてみますと、集団自決の発生(原因)→実像解明(過程)→結果となります。当然、実像解明という過程によって結果は変わってくるものでありますから、解明されていない場合は結果を決定することができません。

  しかし仮に結果が最初に固定された場合、言い換えれば、結果が先に決まっていたらどうなるでしょうか。原因があって過程があって初めて結果へと到達できるのに、最初から結果が決まっていたらどうなるでしょうか。本来ならありえないことなのですが、実は集団自決の考察において、残念ながら起きていることなのです。

  その結果とは戦争責任の追及、つまり「日本軍は悪いことをした」ということです。この場合、結果というより前述した信念と言い換えたほうがわかりやすいかもしれません。あるいは「日本軍は悪いことをした」という前提条件がある、ともいえるのではないでしょうか。

  集団自決の発生(原因)→実像解明(過程)→「日本軍は悪いことをした」(結果)ということになります。

 結果が最初から決まっているのであれば、当然のごとく過程も決まっていなければなりません。そうしないと結果へ到達できませんから。この場合は「日本軍が悪いことをした」という結果に合致するような過程、つまり悪いことをしたという証拠を提示することです。

 そういうことであるならば、一番都合のいい証拠というのは「赤松大尉の自決命令」なのですが、再三指摘しているように自決命令は疑わしい証拠ですし、なかったという可能性が限りなく高いです。従って自らが決定した結果を否定するものですから、「過程」に組み込むことができないのです。

  「赤松大尉の自決命令」では結果(日本軍は悪いことをした)に合致する過程(自決命令があった)がないので、「個人」という具体的なものから、「軍」という抽象的なものへとシフトさせました。個人がダメなら軍ならどうだ、みたいな感じですね。

  「軍の命令」も「赤松大尉の自決命令」とほぼ同じ理由で組み込めみそうにありません。 

 「軍の命令」でも結果(日本軍は悪いことをした)に合致する過程(軍の命令があった)がないので、先ほどと同じように「命令」という具体的なものから、「強制」という抽象的なものへとシフトさせていきます。命令がダメなら強制ならどうだ、みたいな感じですね。

 そして最後に組み込んだのが「軍の強制」ということになります。これならば「日本軍は悪いことをした」という結果へ、何の違和感もなくつなげることができるのです。

  また、この一連の作業をよくよくみてみますと、ある一定の法則が見え隠れします。

 それは最初から決まっている結果のために、恣意的に証拠を取捨選択しているということです。もっと具体的にいうならば、自らが決めた結果のため、都合のいい証拠だけを集めて採用しているということです。

 あるいは「日本軍は悪いことをした」のだから、「悪いことをしていなければならない」とでもいいましょうか。

 その「悪いことをしていなければならない」証拠を見つけるための手段が、具体的なものから抽象的なものへシフトさせ、適用範囲の拡大という行為をおこなうということです。そこまでしなければ主張の正当性を維持できない、ともいえますね。

  自らの主張・考え方を正当化するための具体的な行為・手法がシフトと適用範囲の拡大というわけですが、その作業をした結果、同時進行で恣意的に証拠の取捨選択を行っているのです。

 つまり赤松大尉の自決命令という資料は捨てられ、「強制」を補完するような資料を選ぶ、ということです。その根底には「自決命令はないが、日本軍は悪いことをしたのだから、何か他の証拠が絶対にあるはずだ」というものもあるのではないでしょうか。

  赤松大尉の自決命令は無視されいると先述しましたが、これは彼らにとって都合の悪い証拠だと理解していただけたかと思います。それゆえに自らが決めた結果にそぐわないから現在も無視され、そして排除され続けているのです。 

 

 したがって、資料の恣意的な取捨選択こそが弊害だと指摘いたします。

 

 自らの主張(信念)する結果に合致するような証拠がないから、恣意的に具体的なものから抽象的なものへとシフトさせ、適用範囲を拡大させて合致させるように導いておいてから、自ら設定した「日本軍は悪いことをした」という結果を正当化しているとしか思えないのです。

 「日本軍は悪いことをした」という信念があると前述しました。こうしてみると、その信念を貫きたいがために、意図的だったらもちろんのこと、信念がゆえに無意識で資料の恣意的な選択をしているのではないかと、そう思えてならないのです。

  ただし、信念を貫くことを批判しているのではありません。その頑な思いが、時には弊害になってしまうということを強調したいのです。

 理由はどうあれ自らの考えの正当性を主張したいがために、その主張に都合のいいような資料ばかり集めている行為は、誰が考えても不適切だとは思いませんか。

 無益な論争に終始するのではないでしょうか。本来なら固定されるべき的を好き勝手に、時にはずらし時には大きくしているようなものですから。

  自分の個人的な意見を長々と書きましたが、皆さんはどうお考えになるでしょうか?

  

追伸

 「日本軍は悪いことをした」ということを批判の対象にしましたが、かといって「日本軍は素晴らしかった」などという、安直な訴えをするアホみたいな考えはございません。戦争のない平和な現在においても普通に人殺しがいるのに、人殺しが合法的に行われている戦争で悪い奴がいなかったなんて絶対にありえませんから…という個人的見解を付記しておきます。

 

 

次回以降へ続きます。