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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

今更ながら沖縄の戦没者追悼式

2019年07月31日 00時01分11秒 | いろんな歴史いろんなミリタリー
テレビのニュースだと断片的なものしか見れないので、
Youtubeでそれぞれの方が撮影した動画を拝見しました。
アップロードというタイムラグがありますから、
最近になってよく見るようになりました。

しかし、
今年もありましたね、ヤジという名の誹謗中傷、
罵詈讒謗…

多分、いつもの奴がいつものようにって感じだと思うので、
圧倒的少数だと思いますよ。
慰霊を冒涜するような、
あんな非礼な態度をとる連中は。

マスメディアはバカの一つ覚えのように、
そこしか放送しませんけどね。

でも、ある意味「県民の総意」や「オール沖縄」の実態を、
垣間見ることもできるのじゃないかと思います。

たとえ首相であっても、
あのような場所で、
あのような誹謗中傷罵詈讒謗…

自分たちの考えや意見に反対する連中に対しては、
徹底的な排除と敵対行為…

そこには議論も話し合いもありません。
自分たちの「正義」を貫くために、
合法・非合法問わず徹底的に攻撃!

そのような環境からファシズムやファシストが、
右も左も関係なく、
ゴーストのように生まれていることは、
既に歴史が証明しているのですが、
この人たちには通じないようですね…

なんせ、自分たちがやっていることこそ、
「正義」なのですから…

そういう人たちにとっては、
このブログは「ネトウヨ」のブログなんでしょうね…

自分には「県民の総意」や「オール沖縄」を喧伝する人たちを、
そのように見ているのですが、
みなさんはどう思うのでしょうか?

でも一番哀しかったのは、
その誹謗中傷罵詈讒謗の中に、
小学生たちがいたということ。

沖縄は「平和学習」が盛んだと思います。
あの誹謗中傷罵詈讒謗を見せるのも、
もしかして「平和学習」の一環なんですかね?

ちょっとかわいそうでした。


渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」⑮

2019年07月23日 00時06分47秒 | 渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」
 無限に広がる沖タイワールド②

 前回は大田昌秀氏の「沖縄─戦争と平和」(朝日新聞社 1996年)を紹介しましたが、今回はインパクトのある、もう一人の著者として大江健三郎氏の著作を取り上げます。


 ①「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著「沖縄戦史」の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。」

 ②「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民をはじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長(第三戦隊の赤松大尉──引用者注)が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。」

 ③「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪(大きい罪──引用者注)の巨塊(大きな塊?──引用者注)のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられ罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変にちからをつくす。」


 上記の引用は「沖縄ノート」(大江健三郎 岩波書店 1970年)です。

 大江健三郎氏については特に説明するまでもありませんので省略すると同時に、ここは「文芸評論」の場ではないことも明記します。
 
 まず①についてですが、あきらかに「鉄の暴風」とそれを引用した「沖縄戦史」についてのことですから、孫引きということで特に説明するまでもありません。
 ②と③については、簡潔にいえばこの孫引きに対する大江氏個人の「意見」です。ノーベル賞作家とはいえ、あくまで個人的な意見ですから、その中身を第三者がどう吟味しようとも別段問題はありませんし、大江氏の考え方について個人的にも意見を述べようとは思いません。

 ここで指摘しなければならないのは、このようにして「鉄の暴風」が引用され、なおかつ孫引きされていったということが、いまだにあったかどうかわからない赤松大尉の「悪行三昧」を既成事実化し、歴史学の範疇だけではなく一般的な認識まで広範囲に流布されていき、現在も信じられている部分があるということです。

 前回紹介した大田氏や大江氏が、率先してその「悪行三昧」を世間に広めているというわけではありません。仮にそうであったとしても、その行為を糾弾するつもりは全くありません。
 
 たとえ「ある神話の背景」等の反論があったとしても、全ての出発点が「鉄の暴風」であり、しかもそれが脈々として継続しているという現状がここにはあるのです。特に日本や日本軍の戦争責任を追及する立場をとる方々には、大変わかりやすい好材料となってもいます。

 彼らにとって「鉄の暴風」において訂正も何もないということは、ノンフィクションという体裁である以上、赤松大尉の「悪行三昧」は史実であり事実だということなり、自らの主張を肯定することができる資料として、極論すれば好都合な存在なのです。その中には「鉄の暴風」の出版元である沖縄タイムス社も含まれると思われます。

 これらは文献や書籍においての流布に限りません。
このブログを読んでくださる方の中に、学校での「平和学習」を経験なさったことはあるでしょうか。
 とりわけ1990年代から顕著になってきた学校での「平和学習」。広島や長崎と同じように沖縄も「平和学習」の場として、あるいは修学旅行地として実際に現地へ赴いた経験もあるかと思います。

 そういった場面でも「鉄の暴風」をはじめ、それを引用・孫引きした文献を教材にして「学習」してきた、あるいはさせたことかと思われます。
 特に日教組等の日本や日本軍の戦争責任を追及する立場から、必要以上に「学習」してきたのだろうと思われます。そういう人たちにとって日本軍は渡嘉敷島に限らず、沖縄戦全体の日本軍は「悪人」であると、沖縄戦に興味がない人でもなんとなく思っていることでしょう。

 そのようにして2019年の現在に至るまで、渡嘉敷島の集団自決は一般的常識といっても過言ではないくらいに流布され、しかも現在進行形であるということも言えるのです。

 すべての始まり、全ての出発点は「鉄の暴風」なのです。

 その「鉄の暴風」は、執拗なまでの繰り返しになりますが事実とは違う点があるのです。

 次回以降に続きます。

 なお、大江健三郎氏と「沖縄ノート」に関して、慶良間諸島の元戦隊長や遺族が訴えた名誉棄損裁判がありましたが、名誉棄損か否かについては個人的見解として、渡嘉敷島の集団自決における実像解明とは関係が薄いと判断しましたので、ここでは省略いたします。
 一つだけ私見を述べるならば、判決は妥当だと思っております。「沖縄ノート」の内容はその当時信じられてきたことに対する「意見」なのですから、その当時信じられていたことの原点、すなわち「鉄の暴風」に焦点を当てるべきだと思っております。

渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」⑭

2019年07月15日 00時05分30秒 | 渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」
無限に広がる沖タイワールド①


 「「鉄の暴風」
沖縄タイムス社が1950年8月に朝日新聞社から出版した沖縄戦記録。50年代当時の沖縄戦記は、日本軍兵士の手によるものが主流。沖縄住民による初めての記録だった。沖縄タイムス社記者の牧港篤三、太田良博が執筆した。再版以降は沖縄タイムス社刊となり、これまで10版を重ねるロングセラーとして、沖縄戦記録の代表作となっている。」

 上記の引用は2008年出版の「挑まれる沖縄戦 「集団自決」・教科書検定問題報道総集」に掲載された脚注です。ちなみに「挑まれる沖縄戦」も沖縄タイムス社から出版されています。

 「鉄の暴風」における渡嘉敷島の描写に事実ではない可能性がある個所があり、そういった意味で自画自賛には何か引っかかるものがありますが、「沖縄戦記録の代表作」ということについては間違いないと思われます。
 渡嘉敷島の集団自決に関しては代表作であると同時に、全ての出発点でもあるという側面も併せもっているともいえるのではないでしょうか。

 そういうことでありますから、「鉄の暴風」以降に考察された沖縄戦、特に渡嘉敷島の集団自決を取り扱った様々な文献には「既成事実」として引用・孫引きされております。ほぼ全てに引用されていると断言しても、必ずしも過言ではないと思います。

 それだけ「鉄の暴風」が信用され、信頼されていたということの証明にもなります。

 具体的にどのように引用されているかについては、正に枚挙にいとまがありませんので、いろいろな意味でインパクトがある著者の文献だけを紹介します。


 「米軍の砲撃でおびえ切っていた住民は、この指示を受けて、「友軍」の特攻隊(第三戦隊──引用者注)が自分たちを保護してくれるのだと思い、大喜びで指示された場所に集まりました。しかし、そこに待ち受けていたものは、友軍の保護どころか、次のような軍命令でした。
「部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないために、また、食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ。(後略)」
 「手投弾が不発で死を逃れた住民が、軍の壕へ近づくと赤松隊長は入口にたちはだかり、軍の壕に入るな、すみやかに立ち去れ、と住民をにらみつけた」


 上記の引用は大田昌秀氏の「沖縄─戦争と平和」(朝日新聞社)で、1982年に日本社会党中央本部機関紙局から単行本として発行され、1996年に朝日文庫として再版されたものです。
 大田昌秀氏は鉄血勤皇隊の生き残りであり、やがては沖縄県知事や国会議員にもなった方で、沖縄戦に関する文献も数多く執筆しておりますから、名前だけは聞いたことがある人も多いでしょう。鉄血勤皇隊等、大田氏に興味がおありならインターネット等で検索してみてください。簡単に見つかるはずです。

 引用文を読めばすぐに気がつくとは思いますが、内容はほぼ「鉄の暴風」と同じです。現に章末では「鉄の暴風」と「沖縄戦史」(上地一史 時事通信社 1959年)からの引用と明記されています。
 上地氏の「沖縄戦史」は発行が1959年です。内容としては「鉄の暴風」の引用ですから、結果的に孫引きの部分もあるということになります。

 「鉄の暴風」と内容がほぼ同じですが、少しだけ違う点も見られます。それは事実関係が相違するということではなく、読む側の印象が若干変化してくるということです。
 上記の引用文だけを読んだら、まるで赤松大尉が住民を前にして演説しているような「印象」が強くなっています。
 「住民をにらみつけた」という部分も同様です。しかもそれらが住民によって語られているというような「印象」も、薄いとは思いますが残るような気がします。

 確認のために同じことを指摘しますが、2019年現在、上記の文言を聞いたという人は全くいません。地下壕もなかった可能性が非常に高いです。

 執筆した当人に意図的なものがあるかどうかはわかりません。
 しかしながら、噂が噂を呼び、あるいはデマがデマを呼ぶといったような行為が、上記のような引用や孫引きによって広がっていき、やがては赤松大尉が非道の大悪人になっていく、というような経緯が見える気がしてなりません。


次回以降に続きます。

渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」⑬

2019年07月10日 00時15分40秒 | 渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」
 地下壕陣地はあったのですが…


 実のところ地下壕陣地はありました。

 渡嘉敷村の指定戦争遺跡として、集団自決跡地や特攻艇秘匿壕等とともに、「赤松隊陣地跡」という名称で整備され、2019年現在は詳細な案内図や遊歩道が設置されていますので、比較的簡単に訪れることができると思われます。
 その場所には複数の「地下壕陣地」という名称にふさわしい人工的なトンネルがあり、人間が何人も入れるような規模のものが現存しております。このブログをお読みになっていただいている方の中には、実際に現地を訪れているのかもしれませんが、いかがでしょうか。

 しかし再三指摘しておりますが、住民と元軍人の証言や第三戦隊と第三大隊がおかれた状況を総合的に考察すると、集団自決の前に完成されていたとは思われません。
 つまり、現存する「地下壕陣地」は集団自決以後に構築され完成したものなのです。

 第三戦隊や第三大隊が「造りたくても造れなかった地下壕陣地」を、集団自決後には造ることができたということになりますが、ではその原因は一体何なのでしょうか。

 その筆頭に挙げられるのは、米軍の行動であると思われます。
 米軍が渡嘉敷島攻略について、具体的にどのような行動をとっていたかというのは、様々な文献で取り上げられています。興味がある方はそういった文献でお調べください。ここで詳細を説明することは、若干趣旨が違ってくることになりますので省きます。

 ただ、米軍がとった行動をわかりやすく説明すると、日本軍を武力によって殲滅させるというより、降参するように投降を呼びかけていたということになります。
 散発的な銃撃戦といった小競り合いはあったようなのですが、本格的な武力衝突はありませんでした。
 その分、第三戦隊は地下壕陣地を造る余裕があったのだと思われます。

 ただし、造る余裕があったのだといっても、平時の土木作業ではありません。住民も含めてそれなりの苦労があったのだろうといった状況だったことも、元軍人や住民からの証言でその一端を垣間見ることができます。

 いつ頃に完成させたかといったものは、集団自決前ではなく以後であるということが判明した以上、あまり意味を持ちませんので省略いたします。
 また、集団自決後に起こった「住民のスパイ視」や「住民処刑」も、当ブログは赤松大尉や日本軍を糾弾するようなプロパガンダではありませんし、集団自決とはまた別の事案だと認識しておりますので、ここでは一切取り上げません。

 「地下壕陣地」の有無についてのことに戻りますが、この現存する地下壕陣地の存在によって、集団自決の前に地下壕陣地があったという誤認が生まれた、最大の要因ではないのでしょうか。

 つまり「現に地下壕があるのだから、集団自決の前に完成していたにちがいない」あるいは「完成していてもおかしくはない」といったことが信じられ、集団自決という記憶の中の共通認識として流布し、やがては「鉄の暴風」という形で具現化されたのではないかと思われます。

 そして「造りたくても造れなかった」地下壕陣地で将校会議がおこなわれ、そこで住民に自決させて死に追いやることを決定し、それでも生き残った住民を「造りたくても造れなかった」地下壕陣地の前で、無情にも赤松大尉らしき悪人指揮官が追い払った、というような幻想が立ち現れたのではないでしょうか。

 誰がその幻想を最初に作り上げたのかはわかりません。確実なことはノンフィクションのはずだった「鉄の暴風」に描写されているのは事実ではない、ということだけです。


次回以降に続きます。

渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」⑫

2019年07月07日 00時49分51秒 | 渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」
予定通りだった?持久戦と集団自決


 前回の続きで、船舶団長の渡嘉敷島来島を説明することによって、「鉄の暴風」から垣間見える「持久戦や集団自決も軍によって予め決められていたのではないか」というような誤認を誘発した原因を解説したいと思います。

 3月23日から米軍の空襲が始まり、25日には艦艇による艦砲射撃も加わって本格的な攻撃が続いておりました。そのような状況の中、25日の夜に第十一船舶団の団長と随行員が渡嘉敷島に到着しました。
 これは第三戦隊を含む慶良間諸島の配置された、各戦隊を指揮下に置く第十一船舶団による慶良間諸島の視察なのですが、タイミングとしては最悪の状態でした。

 船舶団長はすなわち、第三戦隊戦隊長である赤松大尉の直属上官です。このような関係によって舟艇攻撃をするかしないかの混乱が起こり、結果的に舟艇攻撃を中止して地上戦へと転換したという経緯があります。しかしここではあまり関係ないことなので、具体的な内容は省略いたします。興味がある方は他の文献で確認してみてください。

 船舶団長の来島で一番興味を惹かれるのは、複数いる随行員の中に、実は元第三大隊の大隊長である鈴木少佐が含まれていたということです。

 ただし、なぜ鈴木少佐が随行していたかは不明です。前述の通り第三戦隊は第十一船舶団の指揮下にありますので、最悪なタイミングとはいえ、船舶団長が視察するのは極々普通なのですが、第三戦隊の「陣中日誌」によりますと、鈴木少佐は独立混成第四十四旅団へ転属になっております。
 文字通り第十一船舶団と第四十四旅団は全く違う部隊です。しかしながら、どういった経緯でそうなったのかはわかりませんが、鈴木少佐も船舶団長とともに渡嘉敷島に到着したのです。
 これは赤松大尉が鈴木少佐と会話したという証言や、再会を喜びあったというような住民の証言で確かめることができますので、元第三大隊の鈴木少佐であることは紛れのない事実です。

 船舶団長ではなく、鈴木少佐の渡嘉敷島来島が興味深い出来事ということになりますが、なぜそれが興味深いのかを説明する前に、再び赤松大尉が置かれていた状況を説明したいと思います。

 集団自決が起こる2日前に、舟艇攻撃から地上戦の転換が決定されました。赤松大尉はこの瞬間から米軍への対処と同時に、いわゆる住民対策も考慮しなければなりませんでした。
 それ以前は地上戦や、それにともなう住民対策も考慮する必要がありませんでした。それは生死を問わず、渡嘉敷島を出撃した後は戻ってこないということが、早い段階で決まっていたからです。
 第三大隊が配備されていた頃は、その大隊長が地上戦を担当することになりますので考える必要がありません。仮に地上戦に関する命令は勿論のこと、指示や要請といったものを赤松大尉がしていたら、指揮系統や命令系統上において大問題になっていたと思われます。
 第三大隊が第三戦隊に吸収された後も、地上戦や住民対策を考慮する必要はありませんでした。繰り返しになりますが、生死を問わず渡嘉敷島に戻ってこない状況は変わりませんから、残置する戦隊、具体的には元第三大隊の大尉が指揮を執ることになっていましたので、その大尉に全てを一任しても問題がありません。

 それにもかかわらず3月26日の夜、赤松大尉は地上戦と住民対策をしなければならない立場になりました。

「複郭陣地の場所が分からなかった」
「住民のことは考えていなかった」

 個人的には赤松大尉による上記の証言は嘘だとは思われません。赤松大尉の置かれた状況がそれを補佐しています。
 しかし、そんな状況は26日の夜で終了し、以降は複郭陣地のことを誰よりも一番把握しなければならず、住民対策も同時に行われなければならない立場になりました。
 今まで考えたことがないから、あるいは分からないからと、腰を据えて熟考する時間は全くありません。米軍の攻撃がそれを許すはずがありません。

 それでも指揮官の責務として、的確な指令や指揮を早急に出さなければならない時、その傍らには偶然にも鈴木少佐がいたのです。
 当ブログで掲示した仮説が正しいのであれば、最初に渡嘉敷島の地上戦における対処を計画立案したのは、紛れもなく鈴木少佐その人だと思われます。

 どうしていいのかわからない赤松大尉に対して、鈴木少佐ほど的確なアドバイザーはいないのではないでしょうか。

 アドバイザーといえば元第三大隊の大尉もおりますし、鈴木少佐からの引継ぎも行われていたと思われます。しかしながら、幸運にも計画立案の張本人が目の前にいるのですから、その人から色々なことを存分に聞くということは、日常生活の中でも当たり前の行為ですから特に不審な行動ではありません。

 舟艇攻撃から地上戦へのスムーズな転換は、赤松大尉の手腕ではなく鈴木少佐のアドバイスによるものではないか、という仮説が成立することを掲示します。

 ただし、赤松大尉と鈴木少佐が会ったという事実がありますが、具体的にどのような会話を交わしたのか、地上戦に関するアドバイスを受けたかどうかの資料や証言は、現在のところ存在しないということも付言します。

 鈴木少佐側から証言等の資料も存在しません。船舶団長と一緒に渡嘉敷島を脱出し、沖縄本島へ向かっていたのですが、結果的に到着することができず、船舶団長とともに行方不明となってしまいました。


 複郭陣地があったから「地下壕陣地」もあったのではないか、という誤認を誘発したそもそもの原因が、複郭陣地が早い段階で選定されていたことではないかということを前回は掲示しました。

 今回は持久戦や集団自決も軍によって予め決められていたのではないか、という誤認を誘発した原因が、舟艇攻撃から地上戦へのスムーズな転換であり、実際は予定通りでは決してなく、偶然の産物だったのではないかという仮説を提示しました。
 これは「地下壕陣地」の存在とは直接関係ないかもしれませんが、その延長として理解していただくとありがたいです。

 次回以降に続きます。