空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 後編④

「土俵を間違えた人」第1回④


 前回の続きです。

 誰がどのように手榴弾を住民へと提供したかについては、各防衛隊員に支給された2個の手榴弾に加えて、それ以外の手榴弾もあったという可能性が高いです。既に「鉄の暴風」でもそのことが示唆され、太田氏はそれが住民のための自決用手榴弾であると主張しております。

 結果的にそのような事態となってしまいました。しかし、ここで問題にすべきことは、手榴弾が自決用だったのか否かということではありません。

 支給された手榴弾以外のものも持ち込めるのかどうか、仮に持ち込めることができるのであれば、それはどのような経緯や入手ルートが可能なのか、という要素が重要であると考えられます。つまり、防衛隊員らが支給されたもの以外の手榴弾を入手することが可能か否か、ということです。

 そこで着目しなければいけないのが、防衛隊を含む第三戦隊が「移動」していることだと思います。
 第三戦隊の各部隊が米軍の上陸後、意図しない舟艇攻撃から地上戦への変更により、本部や各舟艇基地群の陣地から、それぞれ複郭陣地へ移動したことは特に説明するまでもなく、明らかな事実となっております。その中に防衛隊も含まれることも、説明の必要がありません。
 しかも訓練や演習ではなく米軍の攻撃に対処しながらでありますから、戦死者も出しながら移動を実施していたということにもなります。
 このような状況で各部隊が布陣した元々の陣地から、新しい陣地へ動かねばならないという事態になった場合、移動の中には武器弾薬や糧秣等の物資を移動することも含まれるということは、これも特に説明することではないかと思われます。
 問題は誰が武器弾薬を運んだのか、ということになります。

 可能性が一番高いのは防衛隊ではないでしょうか。
 その理由として、まず、沖縄戦における防衛隊員の役割が直接的な戦闘への参加というよりも、陣地構築・建設や武器弾薬の運搬といった、いわゆる後方支援がメインだったことが挙げられます。もっとも、防衛隊員が全く戦闘に参加していなかったというわけではありませんし、戦死者も相当な数になると思われます。
 こういった傾向を渡嘉敷島に当てはめた場合、防衛隊員が武器弾薬を運搬したのは勿論のこと、地元の出身という、更に適した存在だという状況でもあるということがうかがわれます。

 複郭陣地は地図上のみで選定された可能性が高いという仮説を提示しましたが、裏を返せば「場所が不明瞭」あるいは「不慣れな場所」ということにもなるかと思われます。赤松大尉も「ある神話の背景」にて、複郭陣地の「場所が分からなかった」というような主旨の証言がありますから、地図でのみ記された場所へ実際に移動することは意外と難しい、ということにもなるかと思われます。
 しかも米軍の攻撃を受けながらの移動でありますし、昼も夜も関係なく移動することにもなるのですから、より一層困難ではないかと思われます。
 そういった各部隊の置かれた状況を考慮すれば、複郭陣地に選定された未知ともいえる複郭陣地へ移動するため、そのルートや地理に詳しそうな人物に武器弾薬等の物資を運ばせようとする意志や行為は、たとえ戦争中であったとしても、あるいは常識的に考えたとしても特に違和感はないのではないでしょうか。


 「ここは危ない、と私たちは、かねて準備してあった西山盆地の後方、恩納川原の避難小屋めざして出発した」(渡嘉敷村史編集委員会編 「渡嘉敷村史 通史編」 渡嘉敷村 1990年)


 「鉄の暴風」では恩納川原で集団自決が起こったとなっていますが間違いで、実際の場所は別のところであることが判明しております。
 誤認を訂正しないのは問題かもしれませんが、それはともかく、複郭陣地付近にある恩納川原に避難小屋が作られていたという証言は、これ以外にも複数確認されています。また、この避難小屋は軍が建設したのではなく、住民が自主的に作ったものであります。そして地形の構造を把握し理解したうえで、避難小屋の場所を選定した可能性が非常に高いです。

 以上のことを考慮すれば、第三戦隊が複郭陣地と選定した場所の地理に詳しいのは、当然の帰結かもしれませんが、防衛隊員を含む渡嘉敷島の住民ではないでしょうか。そこに到達する最短ルートも、ある程度は把握していたのではないでしょうか。
 しかし、全員が詳しいというわけではありません。複郭陣地に一番遠い場所に位置する阿波連地区で生活していた住民は、その確率が相対的に低くなるのではないかと思われます。

 想定外だった舟艇攻撃から地上戦への変換による混乱に加え、正に陸海空から米軍の攻撃を受け続けながら、命令された複郭陣地への移動をしなければならない第三戦隊の各部隊にとって、武器弾薬や食料といった物資の運搬も重要な任務です。
 その運搬の任務を受け持ったのは防衛隊員である可能性が非常に高く、地理や地形に不慣れな指揮官ないし部隊のため、現地に詳しい防衛隊員はその道案内も担っていたかもしれません。
 そして武器弾薬の中には、当然のごとく手榴弾も含まれます。

 具体的にどのような運搬ルートだったのかは不明です。ただ、「鉄の暴風」で描写された「20個の手榴弾」が事実であると仮定すれば、手榴弾が20個収納された木箱、現代風にいえばロットごとを二人一組で運んでいた可能性が浮かんでくるのです。

 さて、沖縄戦では防衛隊員が部隊や戦線から、命令に背いて自主的に離脱した数多くの例が厳然としてあり、渡嘉敷島も例外ではないことを前述しました。
 このような事実を総合的に考慮した場合、支給されたもの以外の手榴弾を持っていた防衛隊員が、太田氏の主張に反し自主的に部隊や戦線を離れ、自分の家族や親類縁者がいるかもしれない住民の集合場所へ赴くということは、絶対にあり得ないことなのでしょうか。手榴弾を所定の陣地へ運べと「命令された」としても、それを防衛隊員たちは忠実に守ったと断言できるのでしょうか。
 ただし、ここで命令の忠実さに対する是非・賛否は一切問いません。

 住民がどこに向かっているのか、防衛隊員は把握していた可能性が高いです。少なくとも軍と住民は時期や方法はバラバラでも同じ方向へ移動しており、実際に移動するルートも限定されるのではないかと思われますので、誰かしら出会うことが可能となるでしょう。
 そういった状況の中、渡嘉敷島という比較的小さなコミュニティでありますから、手榴弾をはじめ武器弾薬を運搬する途中で、知人友人や、運が良ければ家族や親類縁者と出会う確率が高くなると思われます。あるいはそのような住民たちから、自らの家族を含め住民がどこに集合しているのかといったような情報も、ある程度正確に把握することができたのではないでしょうか。

 以上の総合的な状況によって、防衛隊員は支給された以外の手榴弾を所持した状態で、自主的に集団自決をする前の住民たちと、それぞれに合流していった可能性が浮上してくるのです。
 すなわち、手榴弾を持ち込める状況があっただろうという仮説が成立するのです。
 勿論全員が全員というわけではなく、その中の一部の防衛隊員ではないかということになります。

 あくまでも仮説の域を出ることはできませんし、「鉄の暴風」の描写が事実であるという前提でもありますが、防衛隊員が所定の陣地へ運搬している途中だった複数の手榴弾が、太田氏が着目したと思われる「追加された手榴弾」の正体ではないのでしょうか。
 また、仮に複郭陣地に武器庫のような「厳重に管理された」施設が存在していたとしても、命令された各陣地への運搬途中であり未到達なわけなのですから、そもそも意味がありません。

 なお、防衛隊員のほかに徴用された朝鮮人労務者も、武器弾薬を含む物資の運搬をしていた可能性が残るのですが、地元出身ではないので除外しております。

 これで太田氏が主張する「厳重に管理された手榴弾」が、精神的・物理的ともに否定できる仮説を提示することが可能になるのです。防衛隊員が自らの意思によって複数の手榴弾を持ち込める可能性がある以上、太田氏が断言することに反して、手榴弾は厳重に管理されていないともいえるのです。


次回以降に続きます。

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