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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

1990年代の沖縄旅行 摩文仁の平和祈念公園

2020年02月27日 01時26分06秒 | 1990年代の沖縄旅行 いろんな場所編
沖縄観光はもちろんのこと、

修学旅行や平和学習で訪れた方もたくさんおられますでしょうから、

特に説明をするつもりはございません。

現在もそうだろうとは思いますが、

1990年代もひっきりなしに大型バスやレンタカーが出入りしていましたよ。





上記の画像は「平和の礎」が完成して間もなくの頃です。

これで1990年代だという証明にもなります。

なんせ新しい資料館を建設している途中ですからね。

観光バスより工事車両の方が多かったような気がします。

ま、平日しか行ってないからかもしれませんね。




画像右側に旧資料館が写っております。

なんか、一昔前の校舎っていう印象が残っていますね。

展示物はちょっと雑然という風な感じだったかな…

規模も今の資料館よりは小さかったです。


様々な慰霊塔が立ち並ぶ摩文仁なのですが、

自分はその慰霊塔が目的ではなく、

南部戦跡巡りをしながら、

ほとんど休憩がてら立ち寄っていた感じです。

特にレンタカーの時は必ず寄りました。


観光客が途切れないとはいっても、

さすがに広い面積がありますから、

あまり人が集まらない場所を探して、

時にはベンチに座ってボォ~ッとして、

芝生の上に寝転んでボォ~ッとしてしてました。

やっぱり歩いたり運転したりとかは疲れますからね。


それで昼飯時に到着したら、

なくなってしまった「平和園レストラン」だったか、

はたまた「レストラン平和園」だったかで焼肉定食ばかり食べてました。

自分的には旨かったと思いますよ。

それに昭和のドライブインみたいな雰囲気が、

なんとなく好きでした。


若い方にはピンとこないかもしれませんが、

今では当たり前となった「道の駅」ができる前には、

国道沿いにいろんなドライブイン(レストラン)があって、

そこで亡き両親と一緒にいろんなものを食べた記憶があります。

そんな小学生だったころの思い出と平和園とが重なり合って、

何だか懐かしい気持ちにもなりましたね。

この時は20代の頃ですけどね…

今は大型車専用の駐車場になっています。







慰霊塔はあまりにも多すぎて撮影しませんでしたけど、

ミリタリーオタクで飛行機オタクだから、

上記の画像はとりあえず撮っていました。

どちらも「黎明の塔」へ行く途中の、

かなり奥まった場所にあります。

20年ぐらい前の画像ではありますが、

現在の姿と変わっていないでしょうね。




東シナ海も相変わらず壮大な景色ですね。

ほんと、飽きないの一言です。

カップヌードルチャーハン作ってみた

2020年02月25日 19時31分47秒 | いろんなこと日記
Youtubeで前から気になってた、

日清カップヌードルでチャーハンを作る、ってやつです。

見た目も旨そうなので実際に作ってみると、

これはこれは…なかなかの美味でございますな!




ちゃんとレシピ通りに、

ボロボロにした麺に水をひたして、

玉子を炒めてご飯入れてから、

ふやけた麺とネギを投入。


しっかし、

これ考えた人スゲェ~ってな感じです。

よく思いつきますね!

これだったら、

ほかのヤツとかチキンラーメンもいけそうだな…

簡単ですから皆さんもお試しあれ!

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑪

2020年02月24日 00時18分28秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第8回①


 今回から第8回になりますが、早速その要点を箇条書きにしていきたいと思います。

  • 「赤松側の言葉を信用するか、住民側の証言に信頼を置くかの選択が残されるだけ」
  • 「渡嘉敷島に関するほかの戦記もすべて信用できないとする」のはおかしい
  • 曽野氏が参考にした「私製の陣中日誌」は客観的資料として信用できない


 太田氏の主張する「赤松側の言葉か、住民側の証言」云々については特に難解な主張ではありません。ただし、この主張に対する個人的見解は多々ありますので、それは後回しにして先に進みたいと思います。

 次は「他の戦記を信用できないとするのはおかしい」についてです。
「ある神話の背景」によると、「鉄の暴風」のほかに集団自決が掲載された二つの資料があり、それらは日付の間違いや文章そのもの等といった内容が似通っていることから、この二つの資料は「鉄の暴風」を元にした資料であるということです。
 結局「鉄の暴風」は「伝聞証拠」でしかない、というような曽野氏の主張がおかしいとする太田氏からの反論ということになります。

 二つの資料というのは渡嘉敷村遺族会編「慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要」と、渡嘉敷村・座間味村共編「渡嘉敷島における戦争の様相」です。
 「慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要」は昭和28年(1953年)編纂なのですが、「渡嘉敷島における戦争の様相」は編纂年月日が不明だそうです。参考までに自決命令関連を下記に引用いたします。


 「間もなく兵事主任新城真順をして住民の結集場所連絡せしめたのであるが 赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。何の為に住民を集結命令したのかその意図は全く知らないままに恐怖の一夜を明かすことが出来た。
 昭和二十年同三月二十八日午前十時頃住民は友軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集ったが島を占領した米軍は友軍陣北方の約二、三百米の高地に陣地を構へ完全に包囲態勢を整え 迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の終結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』(1953年)


 「西山の軍陣地へたどりついた住民は兵事主任新城真順をして結集場所を連絡せしめた。赤松隊長は意外にも住民は軍陣地外へ撤退せよとの命令である。
 同三月二十八日午前十時住民は涙を呑んで軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集った。その頃島を占領した米軍は友軍陣地北方百米の高地に陣地を構え完全に包囲体型を整え迫撃砲を以て赤松陣地に迫り遂に住民の退避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事ここに至っては如何ともし難く全住民は皇国の万才と日本の必勝を祈り笑って死なう(原文ママ──引用者注)と悲壮な決意を固めた」渡嘉敷村・座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』


 曽野氏が指摘する通り、二つの資料には文章の一言一句が全く同じという箇所があるのですが、引用した部分にはそれがありません。しかし興味深いことに「慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要」では赤松大尉の自決命令が明記されておりますが、「渡嘉敷島における戦争の様相」にはそれが明記されておりません。

 明記されなかったことについての主張を「ある神話の背景」から引用いたします。


「当時の古波蔵村長、屋比久孟祥防衛隊長は赤松命令を確認しなかったことになる。この記録の中には、他のもっと些細な部分で、かなりはっきりした赤松隊長に対する悪意のこめられた記述の部分もあるので、そのように大切な事柄を、書き落とすとは考えられないのである」


 つまり伝聞で編纂された「鉄の暴風」の引き写しであると同時に、赤松大尉の自決命令に関しては証言が曖昧であるというようなことを、曽野氏は主張しているのではないかと思われます。

 それに対する太田氏の反論も引用いたします。


「文章の類似点があるとはいえ、事実内容については大筋において矛盾することはないのである。それは当然のことで、「鉄の暴風」が伝聞証拠によって書かれたものではないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって「鉄の暴風」の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである」


 つまり、直接体験者の証言なのだから内容が似通ってもおかしくはなく、二つの資料によって「鉄の暴風」は伝聞証拠ではないという証明にもなる、というようなこと主張されているのかと思われます。

 最後に「私製の陣中日誌は信用できない」についてです。主張そのものは難しくないので、これも以下に引用いたします。


「赤松隊の陣中日誌なるものは、戦後まとめられたもので、「私製陣中日誌」であることがわかった。しかも自画自賛と自己弁護の色合いが強いもので、客観的資料として信用しがたいものである」


 赤松隊すなわち第三戦隊の陣中日誌は戦後になって編纂されたものであり、集団自決に関連しているものは改竄している可能性があるので信用できない、ということです。現に第三戦隊の元隊員が編纂し、複製版として防衛省防衛研究所に現在でも所蔵されております。
 第三戦隊の陣中日誌ではどのように集団自決が取り上げられているかについて、参考までに引用いたします。ちなみに赤松大尉が住民に対し、自決命令を発したことはまったく書かれておりません。


「三月二十八日(中略)昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊道案内の現地防衛招集の一部支給したりある手榴弾を以て家族と共に自決す」防衛省防衛研究所所蔵『海上挺身第三戦隊 陣中日誌(複製版)』


 以上が第8回の要点と解説となります。


 次回以降に続きます。

首里城再建にボランティア募集ですか…

2020年02月19日 17時37分38秒 | いろんなこと日記
まずハッキリ言いたいのは、

あの火災は天災ではなく、

防ごうとおもえば防げた人災だということです。

それなのにボランティア募集ですか…


ゆえにどうも釈然としないのが、

人災であるはずの火災を、

まるで不可抗力な自然災害であるかのように、

責任の所在をぼかしたまま、

あの首里城をみているような感じがするところです。


勿論、ボランティア活動を否定する、

あるいはそれを阻止しようとしているわけではありません。


でもね、

寄付金やら助成金やらをしこたま貯めこんでいるのに、

ボランティア活動という「キレイごと」で、

実際の作業には金を出さないというような、

何でも他人任せのような醜さも見え隠れするような気もします。


あの寄付金でアルバイトやパートを雇っても、

全く問題ないと思いますよ。

首里城再建のための善意なのですから…


しかし、

どうでしょう…

あの莫大な募金は、本当に首里城再建だけに使われるのでしょうか?

なんか信用できないんですよね、あの知事だと…

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑩

2020年02月13日 00時08分43秒 | 渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い
沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第7回③


  • 西山A高地に住民が集合したのは軍の意思によるもの
  • 将校会議は証言をそのまま記録しただけ


 前回は軍に対するものでしたが、今回は「将校会議は証言をそのまま記録しただけ」に対しての、直接的なことともいえる証言について考察いたします。


 「住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏は、全くの虚構としてしりぞけている。(中略)
あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない。将校会議はなかったことを証明するために、それをおこなう場所さえなかったと曽野氏は説明する。将校会議などやろうとおもえばどこでもできる。陣地の設備など問題ではない。」


 以上は第7回からの引用です。

 将校会議はあくまでも付帯的なものだから、あってもなくても関係がないというような主張だと思われます。たしかに「ある神話の背景」を読む限り、主体は「赤松大尉が発した自決命令」の有無であり、将校会議や似たようなミーティングがあったかどうかは二の次ではあります。もっとわかりやすくいえば、赤松大尉の「自決命令は出していない」を補完するうえでの状況証拠となりうるものが、「自決命令を発した場所である将校会議もなかった」という元軍人側の主張だということです。そういう意味では付帯的なものかもしれません。
 しかし、将校会議のなかで自決命令が発せられたという「鉄の暴風」の記述がある以上は、自決命令の虚実を把握するという点において非常に重要であり、どこで何がおこなわれたかが解明できるとなると、それこそ集団自決の実像が鮮明になるというものです。
 しかも「生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」という太田氏の主張を信ずるのであれば、住民の方々が将校会議や自決命令を「見て聞いて」いるということになるのですから、集団自決のキーポイントである日本軍の、更なる細かい動向を知る手段となる手掛かりにもなることでしょう。従って、将校会議がおこなわれたという事実の確認を看過することはできません。

 ただし、「生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」という太田氏の主張に関し、この1985年の時点において非常に不可解な現象がおきていて、それが2020年現在も継続している状態であるということが、将校会議が付帯的か否かにまったく関係なく存在するのです。

 それを単刀直入にいえば、太田氏は「生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」と主張しているのにもかかわらず、それを「見て聞いて」いた住民がいないという現象です。
 繰り返しになるかもしれませんが、「鉄の暴風」を構成するものは実際に体験してきた住民たちの証言でありますし、「鉄の暴風」にもそれが明記されております。
 証言を記録したのであるならば、当然のように「鉄の暴風」以外でも記録が残っているはずなのですが、赤松大尉の自決命令や将校会議の件についての証言は、なぜか「鉄の暴風」を除くと全くないのです。

 「鉄の暴風」は1950年発行、「ある神話の背景」は1973年発行で、太田氏と曽野氏の論争は1985年です。
 この間にも様々なメディアや媒体で集団自決が取り上げられ、その都度様々な方々が証言をなさっておりますが、どういうわけか「鉄の暴風」と同じことを証言する住民や元防衛隊員は皆無なのです。
 35年前の1985年なら高齢化が進んだ2020年現在に比べ、まだまだ生存なさっている方々が多数いたことは間違いありません。それにもかかわらず、赤松大尉の自決命令や将校会議を見たり聞いたりした住民や元防衛隊員がいないのです。この現象をどう解釈すればいいのでしょうか。

 太田氏はこの論争にて「住民の証言をそのまま記録」したと同時に、「赤松を信用しない」と明言しております。赤松大尉どころか、元軍人やその資料あるいは日本軍自体を信用していない傾向もみられます。
 信用するかしないかの是非はともかく、仮に太田氏と同じように元軍人の証言を一切排除し、住民の証言だけを信用する姿勢で赤松大尉の自決命令を考察した場合、非常に不可思議な矛盾が成立してしまいます。

 それは「住民の証言によって赤松大尉の自決命令が明らかになったのだが、同時に住民の証言によって自決命令が打ち消されている現象がおこっている」ということです。あるいは自決命令や将校会議を「聞いた」「見た」住民がいるはずなのに、なぜかその住民がいないという現象である、というふうに言い換えることができるのです。

 将校会議云々については軍事行動ですから、非戦闘員である住民が関与しなくても納得できるものであります。しかし現地の住民を徴兵したはずの防衛隊員からも、軍と行動を共にしているにもかかわらず、将校会議を見たり聞いたりしたという証言がありません。

 それどころか、赤松大尉の自決命令を聞いた住民自体が、「鉄の暴風」を除けば皆無なのです。

 非常に興味深い例として、渡嘉敷村の元村長が残した証言があります。
 太田氏によると「鉄の暴風」を編集した際、集まった元住民の中に元村長が含まれているということなのですが、「ある神話の背景」にも元村長の証言が掲載されています。
 ただ「ある神話の背景」では自決命令を聞いたことがないと証言し、また「軍から命令を受けることはない」とも証言しております。

 このような現象が1985年はおろか、2020年現在までも継続しているのであります。残念ながら困惑するというようなことしか表現できない事態です。

 なお、「自決命令を聞いた人はいない」ということについては、当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる鉄の暴風」にて詳しく考察しております。興味がある方は一読をお願い申し上げます。


次回以降に続きます。