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空と無と仮と

沖縄・日本史・ミリタリーなど、拙筆ながら思ったことをつれづれと、時には無駄話、時にはアホ話ってなことで…

教科書の集団自決と強制集団死と

2023年03月30日 18時04分27秒 | 渡嘉敷島の集団自決 その他
 小6が使う社会の教科書、沖縄戦「集団自決」の記述に「軍関与」「軍命」言及なし 24年度使用の教科書検定


 文部科学省は28日、2024年度から小学生、高校生が使用する教科書の検定結果を公表した。小学6年生が使用する社会の教科書では、検定に合格した3社3冊で取り上げられた「沖縄戦」の記述の中で、沖縄戦の最中に発生した「集団自決(強制集団死)」について旧日本軍から住民への命令(軍命)などの関与があったことを示す説明記述がなかった。いずれの出版社も、現行教科書での「集団自決」の関連での「軍命」「軍関与」に言及しておらず、従来方針を踏襲した形だ。 

 東京書籍(本社・東京)は「沖縄戦」についての写真説明で、「アメリカ軍の攻撃で追いつめられた住民には、集団で自決するなど、悲惨な事態が生じた」などとした。日本文教出版(文教、同大阪)は、「戦場となった沖縄」と題した章で「アメリカ軍の激しい攻撃」で追いつめられた住民の多くが、「集団自決」に及んだとし、教育出版(教育、同東京)は「沖縄戦」の写真説明で「多くの住民が集団で死に追いこまれるできごとが起こった」と記述。いずれも、「集団自決」について旧日本軍による「軍命」「軍関与」の記述はなく、検定意見は付かなかった。 

 本紙取材に3社は、「発達段階を踏まえた上で、学習内容と照らし合わせて適切なものとなるように編集委員会で検討した」(東京)、「小学生向けということで、事象をより掘り下げるべきかという判断があった」(文教)、「発達段階を踏まえて理解できるように記述する場合は、それなりの紙幅が必要になる。総合的に判断して記述を見送った」(教育)とそれぞれ回答した。 

 文科省は閣議決定などの「政府の統一的な見解」や、「最高裁判所の判例」に基づいた記述をすることなどを求めた検定基準に照らした審議が行われているとし、「申請社において著作編集された図書だ」と回答した。

 「集団自決」の「軍命」「軍関与」については、2011年4月に最高裁で判決が確定した、作家大江健三郎さんの著書「沖縄ノート」での記述を巡り、旧日本兵の親族が出版差し止めなどを求めた訴訟の大阪地裁判決(08年3月)で認められている。同判決は「沖縄県で集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯」したとし、「集団自決については日本軍が深く関わったものと認めるのが相当」と判示している。元沖縄キリスト教短期大学学長で、1945年3月に起きた渡嘉敷島の「集団自決」の生き残りだった金城重明さんら、複数の証言も残っている。(安里洋輔、嘉数陽)

琉球新報デジタル 2023年3月28日 14:55


「軍命」や「軍関与」に関する教科書の記述について、
毎年の恒例行事というかなんというか、
あくまでも「軍命」や「軍関与」にこだわる姿勢を、
今年も崩さない琉球新報です。
これについては沖縄タイムスも同様です。

さてさて、特に目新しい主張でもありませんが、
かといって疑問点がないわけではなく、
いや、それどころか、
あからさまなミスリードをして、
読者を惑わせている箇所がございますので、
その点はキッチリ批判したいと思います。


「「軍命」「軍関与」に言及しておらず」

集団自決は軍によって強制させられた、
というスタンスが在沖マスメディアですから、
軍命にこだわるのは理解できます。
しかし「軍関与」については、
なぜそこまでこだわるのか理解できません。
軍が「関与」する意味が分からないのです。

集団自決が起こった時は戦争中でありますし、
しかも米軍との交戦中でもありました。
誰がどう考えても、
そのような状態で「軍が関与」しないはずがありません。

それなのにことさら「軍の関与」を強調するその意図は、
果たしてどのようなものなのでしょうか。

あくまでも個人的な考察ですが、
「軍命」という前提があってこそ、
この「軍関与」が強調されるのではないでしょうか。

そもそも「関与」という意味自体は、
非常に曖昧なものであります。

例えば「軍命」があったというのは、
「軍の関与」があったということにもなりますが、
同時に軍が「死ぬな」という指示や要請があったとしても、
軍が「関与」したことになることは、
「関与」という観点からすれば、
決して間違いではないと思われます。

しかしながら「軍命」が前提にあるということは、
集団自決が「軍命」によって強制させられたということであり、
「軍の関与」がそれを補完する意味合いを持つことになる、
というようなことに繋がるということになるでしょうから、
ひたすら「関与」を強調するのではないでしょうか。

ある意味、「軍命」へのイメージ操作の補完的な役割を、
陰に陽にしているのではないかと思われます。

「作家大江健三郎さんの著書」「大阪地裁判決」

ことさら言及するまでもありませんが、
歴史の事実認定はノーベル賞作家が決めるものではなく、
裁判所が決めるものではありません。
これもイメージ操作ですね。

ちなみにこの裁判について、
個人的に裁判所の判決は「妥当」だと思っています。
あくまでも「名誉棄損」だけについてですけどね。
ていうか、なぜ大江健三郎氏を訴えたのか未だに疑問ですし、
もし万が一自分が訴えるのであれば「鉄の暴風」と、
その出版元である沖縄タイムス社にしますけどね…

「金城重明さんら、複数の証言も残っている」

記者がどの程度の調査や考察、
あるいは理解しているのかは知りませんが、
「軍命」を証言したのは複数ではなく、
実はたった一人の証言なのです。

しかも金城重明氏ではありません。
当事者である金城氏は「軍命」を聞いていません。
そのことは既に20年以上前から自ら証言なさっています。

これはどういうことかというと、
極々簡単にわかりやすくいえば、
金城氏は集団自決の前に「軍命」を聞いたのではなく、
戦後数十年たってから「軍命があった」と聞いただけであり、
実際には聞いていないということになります。
繰り返しになりますが当のご本人が証言なさっております。
どうやら電話でその話を聞いたみたいですね。

しかし、どういうわけか金城氏が当時「軍命」を聞いたことになり、
それがどういうわけが既成事実となって、
現在に至っているというわけです。

結果的に「軍命」を聞いた当事者は、
元兵事主任の一人しかいないのです。
たった一人の当事者と、
たった一つの証言しかないのです。

それなのに「複数の証言も残っている」と、
明らかなミスリードをおこなっているこの記者の態度…

歴史の改竄はこうやって生まれてくるものだと、
甚だ遺憾で忸怩たる思いしかありません。

この件につきましては当ブログで再三考察しておりますので、
興味がある方は一読をお願い申し上げます。


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沖縄戦「集団自決」の語り部、金城重明さん死去

2022年07月25日 15時11分10秒 | 渡嘉敷島の集団自決 その他
沖縄戦「集団自決」の語り部、金城重明さん死去 93歳

 77年前の沖縄戦で、沖縄本島の西に位置する渡嘉敷島で起きた「集団自決」を生き残り、戦後はその体験を証言してきた金城重明さん=那覇市=が19日午前、急性心不全のため那覇市内の病院で死去した。93歳だった。葬儀は23日、近親者らで営まれた。喪主は妻恵美子さん。   
 1945年3月、米軍が渡嘉敷島に上陸した際、「皇民化」教育や旧日本軍の教えなどを背景に、住民は「集団自決」に追い詰められ、300人以上が亡くなった。軍から渡された手投げ弾の多くは不発で、石やこん棒を家族に振り下ろす大人たちとともに、16歳だった金城さんも、9歳の妹と6歳の弟、母親を手にかけた。  
 自身は沖縄戦を生き延びたが、家族の命を奪ったことに苦しんだ。キリスト教に出会い、沖縄キリスト教短期大学の学長を75~79年に務めた。戦後20数年経ってから、自身の体験を語り始め、95年には著書「『集団自決』を心に刻んで」で体験を記した。語り部としても活動してきた。
  国の教科書検定の違憲性が問われた「家永教科書訴訟」では、自身の体験を法廷で伝えた。「集団自決」を旧日本軍が命じたと記述した大江健三郎さんの著作「沖縄ノート」をめぐる訴訟では、「軍の命令なしに起こりえなかった」と証言し、「軍の関与」を認定した判決に影響を与えた。(山中由睦) 

朝日新聞デジタル 7/24(日) 12:51

 
93才ですか…
本来なら大往生だと思うのですが、
経験が経験だけにそうでもないのかもしれません。
ただただ合掌、それのみでございます。

しかしながら、当事者である故金城氏というよりも、
この記事を書いた朝日新聞に関しては、
多少なりとも疑問がある所存でございます。

「「軍の関与」を認定した判決に影響」っていわれても、
本来は軍命令の「有無」が争点であったはず。

ただ「軍の関与」っていう非常に曖昧模糊な表現ってさ、
戦争中なのに実際に戦場になっているのに、
「軍の関与」もクソもないのではないでしょうか。
むしろ「軍が関与」しないほうがおかしいのでは?

要は軍の命令が「あった」という証拠が非常に乏しいけど、
何としても軍の「強制」であった、「あったに違いない」とか、
あるいは「絶対にあったかもしれない」ことにしたいので、
「軍が関与した」という曖昧だが紛れもない事実を上乗せして、
いわゆる「印象操作」「イメージ操作」でそのように思わせている…
そんな感じがするのです。
ちなみに「そのように」とは「軍の強制」ということです。

つまり「強制したと思わせてるだけ」で、
事実か否かは関係ありません。
歴史学の範疇であるにもかかわらずね…

この流れってさ、
朝日新聞が「強制だ!」と大嘘かました「従軍慰安婦問題」と、
全く同じ流れだよね…ま、これ以上は控えます。


繰り返しになりますが、ただただ合掌でございます。
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渡嘉敷島の集団自決 どうしてこのテーマを選んだのか?

2021年06月08日 17時21分49秒 | 渡嘉敷島の集団自決 その他

       

※上記画像は自ら撮ったものです。建立して間もない頃ですね。

 

 


 自分は歴史オタク軍事オタク飛行機オタクなもんで、沖縄戦についても現地に行ったりしながら、コツコツと自分なりにいろいろと調べています。

 そういった一個人的見解を、今までのブログだけでなくこれからのブログにも、順次ダラダラ載せようかなと勝手に思っております。

 

 なかでも「渡嘉敷島の集団自決」については、ちょっとした思い入れがございます。

 

 自分は放送大学を10年ほど前に、教養学部・人間の探究専攻を6年間で卒業しました。ちなみに大卒を目的としており、全科履修生として在籍しておりましたから、栃木学習センターに所属していました。栃木県の学習センターは宇都宮大学の図書館に併設されています。

 

 あ、放送大学は正規の大学ですよ!と、とりあえず書いておきます。


 履歴書なんかの最終学歴に、高校卒業と書いてしまうと詐称になってしまいますね。 

 いやはや、そうまで言わないと、テレビとかの放送局に就職するための学校って勘違いされちゃうんですよね!真面目な話。

 また、ヒマなじーさんばーさんが通う市民講座なんて思っていた人もいるぐらいですから、じーさんばーさんにも失礼ですね、まったく…

 それに今は亡き母親に「なんでその年になって大学なんか行くんだ?」なんて言われてムカついたのが懐かしく思い出されます。

 

 ま、それはそれとして、その時の卒業研究、いわゆる卒業論文のテーマに「渡嘉敷島の集団自決」を選び、それなりに学術論文を完成させたのでした。ま、学術ってほどではないような…一応学術論文の体にはなってるかな…

 

 放送大学の卒業研究(卒論)は選択制なので、必ずしも論文を書かなければいけない、ということではありません。

 卒業研究の単位は6単位なので、その6単位を別の放送授業や面接授業で取得すればいいわけです。それでも「通信制とはいえ一応は大学なのだから」と、卒業研究の単位を取得するにいたりました。

 

 そういう経緯で完成させた論文をたたき台にして、「渡嘉敷島の集団自決」の個人的な考察をしていきたいなと思います。

 

 そのまま論文をコピペして掲載すれば手っ取り早んですが、それじゃ文章を書く練習にならないんですよね。ブログを書く本来の意味が失われてしまいます。それに卒論では書けなかったことや、新たな視点でもう一度考察してみたいという思いも多々あります。

 ま、いつまで続くかわかりませんが、自分自身への挑戦として気長にやっていこうかな…と思っている所存でございます。

 

 渡嘉敷島の集団自決に戻りますが、当ブログにて様々な視点やテーマで自分なりの意見や問題点を、是非や正誤はともかくも粛々と訥々とまとめておるつもりでございます。興味がある方は各カテゴリーを順次読んでくださるとありがたいです。

 

追伸

コピペといえば、コピペ論文はやめましょう!

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渡嘉敷島の集団自決 海上挺身第三戦隊と海上挺身基地第三大隊の概要②

2019年05月08日 00時02分19秒 | 渡嘉敷島の集団自決 その他
海上挺身基地第三大隊


 渡嘉敷島には赤松大尉の指揮する海上挺身第三戦隊のほかに、海上挺身基地第三大隊という、もう一つの部隊が配備していました。
 結果的には海上挺身第三戦隊に編入された海上挺身基地第三大隊なのですが、ここでは海上挺身基地第三大隊についての概要を、できるだけわかりやすく説明します。
 なお便宜上、海上挺身第三戦隊を「第三戦隊」、海上挺身基地第三大隊を「第三大隊」と統一いたします。

 まず第三大隊の規模についてですが、大隊長以下900名からなり、大隊本部と3つの作業中隊がありました。1つの中隊には中隊指揮班と3つの作業小隊で構成され、人数は約180名でした。
そのほかに整備中隊、重機関銃小隊、通信隊、医務室、経理班が付属しています。

 第三大隊の任務は大きく分けて2つありました。1つは第三戦隊の支援と、もう1つは第三戦隊出撃後の防衛です。

 第三戦隊への支援についてですが、マルレ(高速艇)の秘匿基地設営と、マルレの整備に加え、出撃の際には泛水作業(マルレを海へ繰り出す作業)や、第三戦隊の管理支援といった、いわば第三戦隊をサポートすることが主任務でした。

 第三戦隊の出撃後はそのまま渡嘉敷島に残り、通常の歩兵部隊として防衛任務をすることになっていました。
 そのため、重機関銃や軽機関銃、擲弾筒といった重火器や、下士官や歩兵には小銃等といった陸上戦闘用の装備が支給されています。
 ただし、通常の歩兵部隊といっても現役兵ではなく、補充兵や予備役兵が多かったようです。

 基地設営とはいえ工兵専門でもなく、歩兵部隊とはいえ現役兵がいないというのは、戦局の悪化や特攻攻撃という非常な戦術といったものが、その編成に影響しているのかもしれません。

 当初の予定では赤松大尉が率いる第三戦隊が出撃し、第三大隊の大隊長が渡嘉敷島の防衛を担当することになるのですが、現実にはそうなりませんでした。
 1945年2月下旬に第三大隊は沖縄本島の部隊に編入され、兵器を含むその大部分が渡嘉敷島を去りました。一部の残地部隊が第三戦隊へ編入され、渡嘉敷島には第三戦隊のみが配備されたということになります。


 そういう経緯がありますから、第三戦隊の出撃後は赤松大尉ではなく、編入された第三大隊の将校が渡嘉敷島の防衛を指揮する予定でした。つまりマルレで出撃しない元々の戦隊員と、第三大隊から編入された部隊です。
 しかし、これも実際には第三戦隊そのものが出撃しませんでしたので、史実の通り赤松大尉が渡嘉敷島の指揮官になったということです。



参考文献

前掲『特別攻撃隊』
前掲『沖縄決戦』
前掲『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』
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渡嘉敷島の集団自決 海上挺身第三戦隊と海上挺身基地第三大隊の概要①

2019年05月04日 00時07分34秒 | 渡嘉敷島の集団自決 その他
海上挺身第三戦隊


 渡嘉敷島集団自決の実像解明において、現地住民の行動は無論のこと、現地に駐屯した軍の存在も、絶対に無視できないものだということに異論がないと思います。
 ではそもそも、渡嘉敷島に配備された海上挺身第三戦隊と海上挺身基地第三大隊とは何なのかということを、ここではできるだけわかりやすく説明したいと思います。

 海上挺身戦隊についてですが、トラック用エンジンを流用したベニヤ製の、現代でいうところのモーターボートのような高速艇が主な兵器です。正式名称は「四式肉薄攻撃艇」といい、別名㋹(マルレ)とも呼ばれていました。基本的には一人用ですが、指揮官用では二人乗りとなり、後部には250㎏の爆雷(爆弾)が一個装備されていました。

 具体的な攻撃方法は敵の艦船へと突進していき、衝突する直前になって反転Uターンします。そのUターンで生じた遠心力によって爆雷を投下して、そのまま退避するというものです。ちなみに爆雷は5秒後に爆発するといった時限式でした。

 海軍にもマルレと同じような「震洋」という名称の高速艇がありました。しかし海軍の震洋は特攻といった、体当たり自爆を前提としているのに対し、マルレは体当たり自爆をしない運用方法となっていました。「四式肉薄攻撃艇」の「肉薄」というのは、必ずしも自爆を前提としないという意味にもなっています。

 しかしながら、敵の艦船にギリギリまで接近することと、爆雷が5秒後に爆発することといった攻撃の性質上、限りなく体当たりに等しいものとなります。実際の部隊、海上挺身第三戦隊も例にもれず、訓練としては体当たり自爆を想定していたようです。

 次に基本的な戦隊の編成ですが、戦隊長以下104名となり、マルレは100隻保有していました。
 戦隊内の具体的な内訳は、戦隊長以下11名の戦隊本部、中隊長以下31名の3個中隊となり、その中隊も中隊長以下4名の中隊本部と各9名からなる3個群となっています。実際の作戦行動になった場合、マルレ9隻が最小グループということになります。

 海上挺身戦隊の特徴として、現地の最高司令官が直轄して運用することになっていることがあげられます。
 これを渡嘉敷島の海上挺身第三戦隊に当てはめると、現地の最高司令官は沖縄本島に布陣する第三十二軍の牛島満中将ですから、その牛島中将が命令しない限り、出撃することは許されませんでした。

 もう一つの特徴として、徹底的な秘匿がなされたということです。
 これは渡嘉敷島に限らず、慶良間諸島全体に配備された全ての海上挺身戦隊に当てはまるのですが、攻撃の性質上、できるだけギリギリまで隠しておかないと、任務完遂の見込みがなくなるということになるからです。
 なぜそうなるかといえば、慶良間諸島に配備された海上挺身戦隊は、将来沖縄本島へ上陸してくるであろう、米軍の艦船群を攻撃することが主目的であるからです。

 慶良間諸島に海上挺身戦隊が配備される前から、すでに沖縄本島の第三十二軍は、米軍がどこに上陸してくるかを予想していました。場所の選定は複数あり、そのうちの一つが的中しています。つまり、実際に上陸作戦が行われた読谷村の渡久地海岸と北谷海岸一帯です。
 渡久地海岸と北谷海岸の海域に米軍の艦船が集結した場合、慶良間諸島の位置は米軍艦船群の背後ということになります。米軍の攻撃対象が本島の陸地でありますから、目の届きにくい背中を攻撃するといったようなものですので、そういった意味では比較的防備が薄くなります。その隙を狙って突進していくということでした。

 ただし、マルレ自体の設置された武器は爆雷のみですから、防御するという観点からすれば非常に貧弱です。仮にたった一隻で攻撃したとしても、あるいは少数のマルレを逐次投入していった場合でも、失敗することは誰から見ても明らかなのです。
 従って、作戦行動が見えにくい夜間のうちに、慶良間諸島全体のマルレが一斉に出発し、一斉に攻撃を仕掛けるというのが当初の計画でした。そういったわけですから、慶良間諸島にマルレの基地があること自体を隠しておきたかったのです。

 米軍は沖縄本島から先に上陸して、慶良間諸島のような島嶼部は二次的に後から攻撃される、というような第三十二軍の予想に反して、慶良間諸島のほうが先に攻撃、上陸してきたという事実になりましたから、海上挺身戦隊は全ての部隊が作戦を遂行することができませんでした。
 こういった事実が集団自決になってしまった遠因でもありますが、ここでは割愛します。

 海上挺身基地第三大隊については次回以降に続きます。



参考文献

特攻隊慰霊顕彰会編『特別攻撃隊』(特攻隊慰霊顕彰会 1990年)
八原博通『沖縄決戦』(読売新聞社 1972年)
防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社 1968年)
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